だから私は手伝わない

暴れゴリラ

思い出ご飯

「ただいま」


 いつぶりに言った言葉かわからないが、私は久しぶりに実家に帰ってきた。

 迎えてくれた両親はかなり老いている。毎日見ていると気付かないが、長く会っていないと、確実な両親の老いを感じる。


「ご飯は?」


「なんでもいいよ」


 問いかける母親になんでもいいと返す。なんでもいいが1番困ると言うのは知っているのだが、本当になんでもいいのだ。それが私にとっての『おふくろの味』ならば。


 私は今年38歳になる。それなりに一人暮らしもして来たし、居酒屋の厨房の経験も少しあるので料理は出来る。酒のつまみの味付けについては友人達から好評価がもらえる位には出来る。しかし私は手伝わない。


 18歳で家を出てからは、引っ越しの間や、親の病気など、なんらかの理由で実家に留まることはあった。その時はむしろ積極的に手伝いをしていた。

 私が手伝いを辞めたのは、25歳位だった気がする。


 その時は実家に住んでいなく、私は寮に住んでいた。そこで母親の作るスパゲティミートソースが食べたくなり。近距離に実家のなかった私は再現を試みた。


 自慢では無いが舌はなかなかなものだと自負している。味覚を感じることは10人並みだが、味の記憶力については自信がある。暖簾分けを知らずに入った店の煮物の味で、〇〇の店の味と似てると失礼な事を言ったところ、師匠店だったなんて事もある。それにスパゲティミートソースについては昔こんなやりとりがあった。


「なんか足り無いんだよね? あんた味見してみて」


「黒胡椒は?」


「入れた」


「追加のケチャップは?」


「入れたけど、なんか一味足りないよね」


「なんだろ? バターは入れたよね? もう少し入れてみれば?」


 全ては覚えてないが、私が提案するものと全く同じものをは母も入れていたのだ。私の舌は母の料理を覚えていたのだ。その日は結局バターの追加で納得の『おふくろの味』になったわけだが。


 何が言いたいかと言うと、一度母と作ったことがある料理なのだ。さらに味の調整に提案したものも全て同じだった。そんな事を思い返しながら私はスパゲティを作り上げた。


 たしかに美味かった。寮にいる人にも振る舞ったが。みんな絶賛してくれた。しかし、何か違う。

 悶々としながら私は美味しいのスパゲティを完食した。


 程なくして実家に帰る機会があり、ミートスパゲティを食べると、全てのピースが合致した私の食べたいスパゲティを食べる事が出来た。その時は秘訣を覚えたくて、手伝っていたが、調理工程は私が作るのとなんら変わらない。しかし食べてみると足りないピースが埋まり、ピッタリとした味に感じるのだ。


 そこで私は気づいたのだ。母が作り実家で食べる。そのシチュエーションも味の一部なのだと。

その日から私は手伝う事をやめた。もちろん、重いものを持ったりはするが、調理に関することを手伝うのをやめた。


 例えば、テーブルクロスにフォークとナイフが置いてある店で


「ここのラーメン美味いんだよ」と言われてもしっくり来ないものがある。逆もまた然りだ。調理から始まり、果てはシチュエーションまで大切なのだ。


 それから何度か実家にお世話になるタイミングはあったが、全て作ってもらった。

 

「あんた自分で作れるでしょ」


 そう言われても、あなたの料理はあなたが死ぬまでしか食べれないからと、お願いした。


 さてなんでもいいと言った今に戻ろう。今日食べる料理もスパゲティ同様に、再現出来なかった料理だ。これは我が家以外では見た事ないので意外と珍しい組み合わせの料理かもしれない。



 とびっ子に鮭、きゅうり、紫蘇(大葉)にご飯というシンプルな材料だ。


 鮭は他の魚に代用してもいい。細かくほぐせる鯖や、アジなど混ぜご飯にポピュラーな魚なら多少癖があっても、紫蘇の葉が癖を消してくれるので問題ない。


 きゅうりは細かく一口サイズに、紫蘇の葉も細かく切る。それにとびっ子とほぐした魚を用意し、ご飯に混ぜ合わせるだけだ。この時1番大切なのは酢飯! 酢飯にする事である。 作者が無類の寿司好きであることから、この料理は我が家の食卓で活躍するようになったのだが、作者が子供の頃は今のように美味しくて安い回転寿司の店も無かったので、寿司というのは本当に贅沢品だったと思う。


 手巻き寿司も寿司ほどでは無いがやはり一食分で考えるとやや高くつく。

 この料理は作者の子供の頃の寿司欲を満たすのにかなりいい料理だった。つまり思い出ご飯だ。


 思い出ご飯と言うのは、例えば小学生の時スイミングスクールに通っていて帰りに食べた、塩バターラーメンを今でも覚えている。このように、記憶と料理が紐付けされたものとでも言おうか。エピソードも調味料の一部とでも言えばしっくり来るだろうか?


 すっかり老けた両親と、すっかりおじさんになった作者で食卓を囲み30年前から食べていた料理を食べる。やはり美味い。比較的寿司を食べられるようになった今でも美味い。


 母親は腎臓が悪いため、今日明日というわけでは無いが、いつお迎えが来るかわからない。

 だから私は手伝わない。これを読んで親不孝という人もいるだろうか?

 私は一食でも多く母親の作る料理が食べたいのだ。例えば、風邪の時によく作ってくれた、ほうれん草のシチュー、カレーは苦手だからと、レトルトカレーに生の具材や肉を足しただけのカレー。その全てが私にとっては『おふくろの味』なのだ。


 先ほどの魚と、とびっ子の混ぜご飯だって、難しいものでは無い。酢飯もお手軽な寿司の素の時もあったから、手の込んだものでも無い。それでも自分で作った時「なんか違うな〜」と思うのは、そこに母がいて、それを母が作って、私が1人の息子として食べるから成り立つ『おふくろの味』なんだろう。



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だから私は手伝わない 暴れゴリラ @Abagori

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