はんこやさん 🦕
上月くるを
はんこやさん 🦕
街の南部を貫く鮎川の両岸に桜を植えたのは、江戸末期に徳政を敷いたお殿さま。
いまも満開の季節には、たくさんの市民が
薄紅に色づいた花の雲は、空の本物の雲を従えて、東山の麓までつづいています。
そこには現代の桃源郷と呼ばれる集落があり、
*
その里を4キロほど下った川岸に、一軒の小さなお店があります。🌳
懸崖造りというのでしょうか、一見、平屋ですが、実は二階建て。🛖
かつては食堂だった名残に、それらしき看板が朽ちかけているのがご愛敬ですが、ブルーと白のストライプの日覆いには「はんこやさん」の平仮名が記されています。
通りすがりにちらりと視線を送ってみますと、店にはベジタリアンっぽく痩せた、ちょっとクセのありそうな男性が座っていて、一心不乱に彫刻刀を使っています。
レジ横の作業台にはたくさんの木屑が飛び散り、藍もめんの作務衣を着た店主の、丸まった背中のうしろの壁には、多種多様な用途の印鑑の見本が展示されています。
親がかりで大学を出してもらいながら自由人を気取っていた店主が、ようやく店を引き継ぐ気になったのは、裸一貫で創業した祖父の、懸命な願いがあったからです。
息子夫婦を交通事故で亡くした祖父は、逆縁のなみだに咽びながらも大甘に育ててしまった孫息子の前に手を突いて「じいちゃんの一世一代の頼み」を説いたのです。
安心した祖父が異界へわたると、店主は天涯孤独の身の上になってしまいました。
でも、根は生真面目な質ですから、祖父に託された店を何としても守りたく……。
*
折りも折り、そんなときに政府から青天の
――コロナ禍でのリモートワークを機に、古来の旧習をあらためる。😤
今日以降、書類への押印無用の商習慣をこの国に根づかせたい。🥸
先人たちが試行錯誤しながら歴史と伝統を築いて来た一業界を、問答無用の強権でシャットダウンまたはロックアウトなど、人の道としてあっていいものでしょうか。
店主は街のメイン通りにあった店舗を郊外の川沿いに移し、アルバイトにもやめてもらうなど、固定費の削減を図って、なんとかカツカツでお店をつづけて来ました。
*
そこへ古いお得意さまから「こんなときだからこそ」と注文をいただいたのです。
それをきっかけにしたかのように、ぽつぽつとオーダーが入るようになりました。
――実印、記章、落款……印鑑は日本の大事な文化だよ。🐸
いっときの成りゆきで全否定なんて冗談じゃないよ。😴
国民の声を反映し、印鑑全廃の掛け声も、少しずつフェードアウトして来ました。
いえ、むしろ、より芸術性の高い高級印鑑が求められるようになって来たのです。
そんなこんなで、街中から川岸に移った「はんこやさん」にも上客が増えました。
高校時代、美術部に所属していた店主の腕にも、日増しに磨きがかかっています。
****
ところで……。🥕🏺🚢🐕🐈⬛🐧🐲🐒
クォリティの高い印鑑へのニーズに合わせて技術刷新に励む店主のうしろの壁に、少し毛色の変わった印鑑(と言えるかどうか(笑))見本が何点か飾ってあります。
一見、犬や猫の肉球みたいですが、それにしてはずいぶん形象が変わっています。
大きいの小さいの、爪が長いの短いの、羽毛のありそうなの、なさそうなの……。
*
たいていの客はそんなものに興味がないようですが、あるとき、品格のある老人に連れられてやって来た小学生の少年が小さく叫びました「あっ、恐竜の足跡だ!」。
一瞬、店主はぎょっとしかけたようですが、すぐに気づかないフリを装いました。
大人になった少年が覚えていたら、そのときは教えてあげようと思いながら……。
****
三寒のみで四温がないような地域の桜も、半月も咲くと散り始めました。🌸🍃
深紅色の
懸崖造りと見えたのは外見だけ、じつは、崖から突き出た一階には地下室が……。
そこに集まっているのは肉・草食の種類も生息年代もさまざまな恐竜たちでした。
はんこやさんの主は放浪時代、ふとしたことから地下の世界と巡り会ったのです。
で、はるか昔に絶滅したはずの恐竜がまだ元気に暮らしていることを知りました。
そして……ここ鮎川の川底の下にも縦横無尽にけもの道が走っていて、拡大したり縮小したり、環境に応じて自在にすがたを変えられる恐竜たちが棲んでいるのです。
🦕🦖🐉🦎 🦕🦖🐉🦎 🦕🦖🐉🦎 🦕🦖🐉🦎
はんこやさんと恐竜のひそかな交流は、いまのところだれにも知られていません。
例の少年が大人になれば、恐竜界を知る人は2名になるかも知れませんが。(笑)
はんこやさん 🦕 上月くるを @kurutan
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