第34話 熊と人間
熊が出没している。日本の、そこらじゅうで・・・。
やつら、最近ではどうも厚かましく、市街地まで行動範囲を広げ、場合によっては建物に「立て籠もる」ようだ。
野生動物というのは本来、人間に対して強い警戒心を抱いているから「建物」に立て籠もったりはしないものだが、それはあくまで人間が彼らに「害」を成す存在だと知っているからである。そうした野生動物における親子の「教育」というものが昔はあったに違いない。
「手袋を買いに」という新美南吉の童話でもきつねのお母さんは子ぎつねの片方の手を人間の手に変える際に、「間違ってきつねのほうの手をだしたらひどいめにあうからね」と教えたのである。しかし、近年熊だの猪だのは、そういう「義務教育」を受けていないらしい。そんなこともあってか野生動物と人間界の「緩衝地域」がどんどんとなくなってしまっているようだ。
道を歩いていたら向こうから熊さんがやってくる。あいては本物の熊だから
「やあ。はっつぁん」
「なんだ、熊公」
なんて落語の挨拶はなく、いきなり襲ってくるのだから大変危険である。
つい最近も秋田県で熊が立て籠もり、それを殺したら、県庁にたくさんの抗議電話がかかってきたそうで、県知事が「もし自分のところにそんな電話がかかってきたら、住所を聞き出して熊を送ってやる」とぶち切れ、波紋を呼んだ。
言い方もあるのだろうが、熊を殺処分したからと言って匿名で県庁に抗議の電話をやたら掛けるのは業務妨害である。考えがあるなら正々堂々と名乗れということであろう。
世の中ではどうも「自分の意見を正義」として振りかざすことをなんとも思わない人が「熊」なみに増えているらしい。くまったことだ、などと冗談を言って済ませるわけにも行かない。なぜ、熊の味方をする人が増えているのか、実情は良く分らないが、どうも基本は「熊が出たからと言ってすぐに殺すのは身勝手では無いのか。動物にだって生きる権利がある」とか「かわいそうではないか」とか、決して「否定しかねる心情」がそこにあり、恐らく言っている本人も本気なのである。
それに対して県知事が言っているのは。「じゃあ、熊に出会ってみろ。そんなお伽噺みたいなことを言っていられるのか」というこれもまた然り、というわけで、ちっともそこから話が進まない膠着状態が続いているのである。
熊の頻繁な出没が報じ始められたのは2020年辺りからで、その頃から意見の衝突も激しくなっているのだが、4年経ってちっとも膠着状態から進展はない。進展が無いどころか、北海道辺りでは猟友会が、2018年の事件の経緯(砂川でハンターが猟銃を発砲し、それが周辺環境からいって違法な発砲と告発され、猟銃所持許可を取り消された処分、及び道によるその取り消しが違法だとした地裁の判決を高裁が覆したこと)に基づき、道警からの駆除依頼のボイコットを始めた(これには熊退治は時間もかかるし、命がけだというのに十分な対価も払って貰えないという経済的理由もあるので更に事態が複雑になる)ことで更に問題が大きくなっているようだ。本州の熊はツキノワグマであるが、北海道にいるのはヒグマで、凶暴性は段違いなので大変であろう。
熊を擁護する人間に関して「否定しかねる心情」とは書いたが、僕自身は現在の文脈に措いて「熊の味方」をする人間を擁護するつもりは全くない。恐らくそう言う人間の95%は熊と対峙する勇気など持ち合わせていないお花畑のような空想しかもっていない人間で、自分が実際に被害に遭ったらすぐに180度意見を変えるような人間に違いないと睨んでいる。
だが、「否定しかねる」という心情もある。人間と動物という関係に措いて、動物は常に弱者の存在であった。ニホンカワウソもラッコも、人間の欲得で絶滅ないし、絶滅に近い状況に追いやられてきた。人間がもっとも凶暴な「動物」であることは事実である。ニホンオオカミに関しては危険だからという側面があったにしても、絶滅させるまでの必要があったのかよく分からない。
それにしても今の熊の取扱においてその「否定しかねる心情」を適用するのは間違えである、と思うのである。人里を徘徊し、人の物を食べ、人を襲った熊を「可哀相」というような心情で助けても、その熊が再び人を襲う事の危険性は高い。動物の教育の効果と、飢えということを天秤にかけると半死半生位の目に遭わせないと、彼らの結論はやっぱり食べ物に行き着く可能性は極めて高いのである。そうでないと主張するなら身を以て証明してごらん。
ならばどうするべきか?この問題が顕著に置き始めたのが最近であることを考えると、やはり幾つかの要因があるに違いない。それをきちんと分析し、なるべく命の犠牲を少なく、かつ効果的に解決する手法を考えるというのが大人である。
例えば、「熊の命を助けたい」と思う人に行政が「ならば、熊が人里に出る要因を減らすことの協力」を申し出れば良い。例えば、人里において熊の出る環境を減らし(木の実や柿の木の伐採)、熊が秋に好んで食べるような木の実が十分に取れるように森林整備をする(気候による要因もあるが、椎や小楢などが成長しやすいように森を整えるなどの作業は有効である)、その手助けを「熊が可哀相」という人々に提案する。宿泊や作業道具、食事は公民館で賄い、交通費はボランティアが払う、などの分担をすれば「熊そのもの」を減らす効果はさほどないかもしれないが、互いにわかり合える場ができるだろうし、実際「熊に関わること」で「熊の実態を知ってもらう」こともできる。そういう事に協力しない輩の話など聞かないという毅然とした態度も世間から納得して貰えるだろう。
それでも人里に出てくる熊はこれは処分するしかない。熊と人は「共存」はできない。適度な距離をおいて「分離」して「分・存」するしかないのだ。逆に筍取りに「熊」の地域に人が入るというのは避ける、これもあるべき姿であろう。
熊の出現要因には他にも様々な要因があり、その幾つかは過疎化で疲弊しなかなか対応が追いつかない地方の実情もあるのだから、文句を言う前に協力することも必要だろう。その方が「熊を送りつける」などと脅迫するよりよほど現実的である。
問題は今の世の中、「熊取扱」ということ一つで絶対的な対立が起こり何年も解決できないということの方にある。
どうですかね、秋田の殿様?ツキノワグマくらいだったら何とかなる、というのが古からの知恵では無いのかしらん。
としよりの戯言 西尾 諒 @RNishio
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