第33話 フキハラ という言葉に思うこと

 最近、テレビでフキハラという言葉が盛んに取り上げられている。なんだかハラスメント界隈にビジネスが成立したらしく、次々にハラスメントが作られ専門家や解説者がでてきている。

 まあ、こういうのは最近の一般的な傾向で、ビジネスになったら「殆どの事象はだいたい(解決していようと居まいと)おしまい」という事だ。

 本来、ハラスメントというのは実に深刻な問題を内在していて、セクハラ・モラハラ・パワハラなどは取り返しのつかない人の生命や身体に対する重大な侵害が起こっていた。だからこそ「問題」になっていたわけである。僕は会社員である時に何人かの部下や同僚が心理的ストレスに悩んでいたのを知っている。会社に出てこなくなった部下の一人を渋谷の「くじらや」によびだし、話を聞いてなんとか元に戻したのに、その社員は僕が海外に出向してすぐ、本人の望まない転勤を強いられ自殺してしまった。結構ストレスがある職場であった事もあり、海外の人を含め何人かのそうした不幸なケースも見てきた。だからハラスメントという言葉は深刻に捉えるべきだと思っている。

 では社会問題になって頻繁に採り上げられたことで、それが解決しているかというとそんなことはない。ハラスメントというのは実は人間の陰湿なところに住む病原菌であり、採り上げられるほどに内向し、陰湿化するものである。だから家庭内暴力とか、ある種のパワハラ・セクハラは「そんなことは行っていない」と被害者が被害を訴えないように陰湿化する形で悪化していく。旭川の陰湿な事件を見ると、被害者は何度も殺されているような物である。苛めの主体、教育者、行政・・・。そのすべてが陰湿なハラスメントの主体であるのに自覚さえないのではないか?

 しかし今のハラスメントの採り上げ方の方向性は「何でもハラスメント」の方向に向いている。そちらの方が採り上げられやすく、楽であるからであろう。これはどうも、「被害者がハラスメントだと思えばハラスメント」という定義を愚かに解釈したことがこの状況を招いていると思える。

 あれは「加害者がハラスメントを否定しても」という枕詞がついての話で、要は被害者と加害者の認識のギャップを埋める言葉である。そのギャップの大きさと被害者の受ける身体や生命への危機感が生んだ言葉であるのに、なんだか気軽になんでもハラスメントに仕立てる方向に向いていませんか、と僕は懸念しているのだ。

 フキハラとは不機嫌さが招くハラスメントだそうで、ため息をついたらアウトみたいな話になりつつある。こういう事を言っている人たちに任せると世の中、みんながヘラヘラ生きていかないと許されない方向に話が行きかねない。それってヘラハラですよね?今度はヘラハラを持ち出しますかね?


 いや、僕は不機嫌さが周囲に不快な感情を招くのを否定しているわけではない。だが、ハラスメントの本質は感情を隠すことによる取り繕いでは全く解決しないし、そんなものはハラスメントの本質ではないといっているのだ。人間が社会で生きている以上、何らかの軋轢は生じる。それがハラスメントに繋がるのは自明の理である。

 しかし、ハラスメントというのには幾つかの条件がある。立場・強度・執拗性。そうしたものを全く無視してハラスメントビジネスにつなげるのはどうかなぁ?人間というのは全ての人がクッションを持って社会と向き合っている。そのクッションの厚さ薄さを感じ取りながら社会という物をうまく回していくのが賢い人間のすることである。だから人間はその感情を少し表すことによって距離感を保とうとしているのだ。ため息くらいはつかないとその距離感は保てない、のではないか。しょっちゅうため息をつきまくる事が良いこととは思わないけど。だからこそ、立場・強度・執拗性などをちゃんと見極めなければいけない。

 なんでもかんでもハラスメントを飯の種にする、そんなことをやっていると本質的な問題は全て未解決のまま、陰湿なハラスメントが充満する世の中になりそうだ。下手をすればハラスメント調査隊によるハラスメントとか・・・。だいたいレベルの低い人間に任せるとこういう話がどんどん肥大化するのは世の習いではないか?

 そう言う報道をしている人を含めてまじめにやってください。

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としよりの戯言 西尾 諒 @RNishio

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