第32話  日本の政治 (都知事選を憂う)

 東京都知事選が告示され最初の週末が過ぎた。残念ながら何かとたちの悪い話題に塗れた愚劣な選挙となりつつある。

 候補者はやたら多いが、数が多いだけである。しつはとんでもなく下がった。有力な候補者でさえそうである。

 主要な公約を破りまくっておいて、「達成しております」などと言っている候補者の公約なぞ誰が耳を傾けたいと思うのだろうか?対立候補も「どうして(スーパーコンピュータの開発にあたって)2番ではいけないんですか」と言って話題を振りまいた「実績」からは遁れられない。「学校の成績だって1番を狙っても2番以下しか取れない」という普通の状況を理解できないらしい人に世間の舵取りを任せて良いのだろうか?というネガティブなイメージが永遠について回っている。まあ、あの場面を繰り返し流すという行為にも悪意をうっすらと感じるが。愚問にもまともに答えられない経済産業省(と書いたが実際は文部科学省と理化学研究所だったらしいスパコンスパコンを経済産業省が担当していないことじたいが不可解ではあるけれど)の役人の愚かさとシンクロしてしまっていて日本が駄目になっていく過程を想起させて食欲が湧かない。

 仕方ないから、マスコミも普段なら歯牙にもかけられないような(昔で言う)泡沫候補に下駄を履かせて水面上に出さないと候補者リストが「何のリスト?どこかの自治会の役員人事ですか?」みたいなレベルになってしまっているのが実情だ。いや、それは自治会に失礼か・・・。

 ピンクビラに裸の写真、選挙ボードは昔の公衆電話ボックス並に汚されつつある。


 こんな馬鹿げた事態を招いたのはもちろん、ネット界隈を賑わす低劣な人間の所為せいであるが、こんな馬鹿どもが躍動するような政治をしてきた既存政党にも責任の一端は有る。あくまで一端であり、それが馬鹿どもを許容する何の理由にもならないのは自明であるけれど。

 残念ながらこんな様子を眺めなければならない事態に直面すると、昔の選挙の方が数段マシだったと思わざるを得ない。それも1980年代以前、美濃部亮吉とか鈴木俊一の時代まで遡らねばならぬ。悪いが功罪は別として青島幸男や石原慎太郎あたりから、どうも知事を選ぶ基準がおかしくなってきた。それ以降は論外である。まともなのが一人も居ない。何かの行為(公用車を私的に使ったとか、怪しげな金を受け取ったとか、学歴が怪しいのにまともに釈明できないとか)の問題ではなく、「見ただけで駄目」というのが率直な感想である。

 美濃部とか鈴木が都知事候補であったあの頃、つまり僕がまだ少年時代、都知事選挙は首都の未来を決めるという意味が確実に伝わる真剣な選挙であった。選挙権のない僕らでも学区制度など身近な問題もあったせいか、どんな候補者がどんな政見を掲げるのかを興味を持ってみていた。

 選挙というのは大人がやる社会を決める大事な制度であり、その大人を子供たちは見ている。今の馬鹿どもにはその自覚はない。「法に触れなければ何をやっても良い」などとうそぶく馬鹿を見て子供たちはどう未来を描くのだろう?


 ところで、ネットでは性善説に基づいた選挙制度に問題があるという論が幅を効かせているが、これは明らかに勘違いである。

 性善説とか性悪説とか言うのは、そもそも制度を決める基準ですらない。この議論は「人間の本質は善か悪か」という問いかけであり、何かの物事を決めるのに性善説によってきめるなどという愚かなことはしてはいけないし、さすがにそんな事は今まではなかった。世の中には「一定程度の悪意を持った人間」、「善悪をきちんと判断できない」層が存在するのは自明の事である。そんな状況でも「成立」しうるかどうかという判断があるわけで「性善」だからなどという事で物事を決めているわけではないのだ。もっともネットのお陰で「一定程度の悪意」を持った人間が「善悪を判断できない人間」をagitateしやすくなったという問題に社会が直面しているのは厳然とした事実であり、それに対応する何かが必要な時代になりつつある。


 もちろん、性善説か性悪説かという問い掛けそのものが正しいのか、という問題はある。そもそも善とか悪とかは人間の性質とは別の基準であり、人間は善でもなければ悪でもない、敢て言えば「欲」で生きる生き物であり、本来動物が「食欲」と「性欲」(あるいは子孫を残すという種の生存欲を具体化した欲)という単純な欲で生きていたのに対し、人間はさまざまな欲「権力欲」やら「物欲」やらをくっつけた結果、ちょっと普通の動物より「程度が悪くなった部分を抱えた生き物」である。一方で人間は「知識欲」とか「美や芸術などへの欲望」など、それを補償するものと、「神」を発明した。

 僕は全く宗教に帰依していないが「神」というのは偉大な発明の一つである。世俗の宗教(論理矛盾であるが世の中の宗教の99%は世俗である)は「神」を便利にしか使っていないが、神とは「正しい判断基準」を体現すべきもの、いわばメートル公器のようなものである。というか、べきである。

 もちろん、そんな神は居ないのだけど、余りにも愚かな人間は「神」という基準を作ることで「正しい行い」を規定しようとした。その意味では「法」はそれに近い。ただ、「神」はもう少し包括的な行動指針を示す存在であったのだ。

 愚かな人間に基準を与える「神」を「神っている」とか茶化すネット民やら「自分が神である」などという馬鹿げた新興宗教はゴミ箱に捨て置いて、僕らが考えるべきは「もし神ならどう判断するのか」という正しい判断への希求のプロセスである。

 その神は日本の現状を見て、どう「思し召すであろう」か?

 馬鹿か、と吐き捨てられそうな気がする。


 常々、民主主義制度の限界(民主主義そのものの限界ではない)を感じ、その制度の改革を何か考えないといけないと思ってきた。残念ながらオルテガに指摘されるまでもなく、「大衆」は民主主義を衆愚主義に簡単に変換する。今の日本はその典型であると言って差し支えない。世界中に恥を晒しているのであるが、世界中に恥をさらすことによって何か解決の糸口がみつかるならばそれも致し方ないのかもしれない。残念ながら日本の民主主義というのはその程度の物である。

 勘違いしてもらっては困るが民主主義を破壊する物は全体主義ではない。全体主義を破壊する物が民主主義なのである。それが歴史の過程であった。

 民主主義を破壊するのは「民主主義をおもちゃにして価値を貶める愚かな輩」なのである。愚かな輩は単に民主主義を破壊するだけではない。こういう人間がのさばるなら少し全体主義的な要素を取り戻した方が良いのではないか、という考え方を助長しかねない。選挙制度の改定、警察の出動、たいていは「本来民主主義で担保される自由」を狭めていくのは「愚かな輩たちのせいであり」、民主主義という制度における本質的な「破壊活動」はこういう人間が行っているのである。

 つまり「破壊活動防止法」の対象は彼らであるべきなのだ。

 「破防法対象」であるべき「愚かな輩」の言葉を羅列すればその愚かさは明々白々である。

・違法ではない(なぜ選挙活動で違法要件が緩く設定されているのかという事を理解しておらず、理解もしたくない)

・金(供託金)を払っても(マスコミなどで採り上げられて)効果が大きい(これは採り上げ方にも問題がありそうだ)

 だいたいこういう事を言っている人間たちは民主主義という脆い木造家屋に巣くい、選挙という制度を食い荒らすシロアリのような存在なのだ。国家の違法な干渉を避けるために制度化された議員特権を悪用する国会議員と同じくらい悪質である。


 さてシロアリを駆除するにはどうしたら良いのか?「選挙に行こう」と唱えるだけではもう解決しない段階に達しているように思うのは僕だけであろうか?


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