甘い口づけを貴方に

城島まひる

本文

パソコンの画面を眺めては天井を見上げ、またパソコンの画面とにらめっこする。何度も繰り返していると妻が部屋に入ってきて、パソコンの近くに僕のマグカップを置いた。ミルクと砂糖多めの妻好みのコーヒーが入っているのであろうそのマグカップは、ゆっくりと白い湯気を立てていた。


「執筆進んでないようね」


窓際にある二人掛けのソファに座った妻が図星を突いてくる。僕は興が乗らないだけだと口を開こうとして、それが言い訳でしかないことに気づき口を結んだ。そんな僕を見て妻は小さく笑うと、ソファから腰を上げ僕の背後に回った。


「今回は何を書いているの?」


妻が耳元で囁くように問い掛けてくる。僕の両肩に手を掛け、どうしたの?と再度囁く妻の行動に自身の色めきを感じながら答える。


「今回はあれだ...バトルファンタジー的なやつ。こう可愛らしい女の子たちが戦うんだよ、魔法少女みたいに!」


両手を使い、身振り手振りで妻の問いに答える。しかし妻の反応は芳しくなく、ほぼ無反応だった。僕は言葉に詰まり、どうにか話の流れを変えようと思考を巡らせる。


そんな様子の僕を横目に妻はため息一つ。そっと右手をパソコンの方に伸ばすと、ショートカットキーでもう一つの仮想デスクトップに切り替えてしまう。そこには妻が部屋に入って来る直前まで書いていた官能小説の下書きが、ワープロソフトに打ち込まれていた。妻は右手をパソコンから引くと、再度僕の両肩に手を置きグッと力を込める。


「わ、わぁ驚いたな...いったい誰がこんな破廉恥なものを...」


必死にごまかそうとする惨めな僕に、妻は冷たい目線を向けた。そして遂に僕はごまかすことを諦め、今書いているバトルファンタジーものの作品に行き詰まり、気分転換に官能小説を書いていたことを白状した。


官能小説は僕が作家としてデビューして、妻と結婚するまで書いていたジャンルだ。結婚後、妻から官能小説を書くのは辞めてほしいと言われ、それから僕は純文学とライトノベルという若い世代向けの作品を書く、両刀遣いの作家となった。


とは言えそう簡単に行く筈もなく、純文学はそこそこ良いもののライトノベル形式の作品では悪戦苦闘を強いられた。極力余計な描写を省き、登場人物たちの行動や心情を綴っていく。この表現を追加すればもっと良くなるのに、と思ってもそこはライトノベル。なくなく削っていくしかない。


別にライトノベルを悪く言うつもりはない。むしろ画期的だとさえ思っている。純文学作品だと文字の多さや、表紙の素朴さなどが原因で、本そのものから距離を置く人が増えている。しかしライトノベルは読みやすさ、表紙のインパクトなど、本を読みなれていない人でも気軽に読めるものが多い。それに加え、作品のジャンル分けが明確なことも良い点の一つだろう。そしてそのライトノベルに大苦戦中なのが僕である。


「まあいいわ...でもお仕置きが必要ね」


妻は僕の背から数歩離れて言った。僕は何をされるのか小動物みたいに縮こまることしか出来なかった。妻は決して官能小説が嫌いなわけではない。ただ僕が書く官能小説のヒロイン全員が妻自身をモデルとしていること、それこそ彼女が僕の官能小説を嫌う理由であった。


「それじゃ...うん決めた」


悩んだ後、妻は僕へのお仕置きの内容を思いついたのか、フィンガースナップで指を鳴らした。それから両手で僕の目を隠し、目をつぶって開けちゃダメよ、と強めに言った。僕がぎゅっと瞼を閉じると、妻の両手が引いていき、代わりに足音が斜め前に移動した。きっと僕が目をつぶっているか確認するために、移動してきたのだろう。


そして次の瞬間、柔らかいものが僕の唇に触れた。啄む様に触れたそれは次は貪る様に、僕に熱烈なキスを求めてきた。僕は驚きで目を開くと、妻の顔が眼前に広がっていた。妻と目が合うと、そのまま彼女は僕の膝の上に座ってきた。ちょうど対面になる様に、僕と妻は一つの椅子に座っていた。そして妻は首を少しだけかしげて言った。


「チョコレートのお味はいかが?」


そう問われ、ふと口の中に広がる苦みと仄かな甘みに気づく。先ほどまで無かった筈のその甘みは、妻とのキスの際に口移しされたチョコレートによるものだった。


「...程よい苦み、ビターが効いていて僕好みだ!」


「私は苦くてダメだけど、そう良かった」


僕と妻は互いに微笑み合った。そしてどちらかともなくもう一度キスをした。そう言えば今日はバレンタインだったなと、僕はチョコレートより甘い妻エミルとの熱烈なキスの中で思い出すのだった。


初雪の様に美しい白髪と妖しい光からを放つアクアマリンの瞳。たわわに実った女性らしさを主張する豊満な胸と、彼女自身の柔らかい物腰からくる母性が僕の心をゆっくりと溶かしていく。


今は何もかも忘れて妻と一つになりたい。そう切望する2月14日、バレンタインの午後だった。



─完─

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