第3話


 私は生まれた時から、そのあるものしか摂らない。それしか要らないし、身体もそれ以外を必要としていない。だから、味というものもよく分からない。私が食の味として認識しているのも、そのたった一つだけ。他のものを食べてもみな、等しく異物に感じてしまう。……私はその生き方を、確かに誇りにしていのに。夫と結婚する、二十年前まで。

 

「今となっては、何も分からない馬鹿舌ね」


 黒い鍋でぐつぐつ煮える、まーぼーどーふを見下ろして呟いた。


 あれだけ怯えていたニンニクの使用量も欠片みたいなもので、騒いでいたのが馬鹿らしいし、いくら出来上がったまーぼーどーふのにおいを嗅いでも、少量舐めてみても、美味しいのか分からない。


 レシピは素人の投稿物ではなく、プロが教えるサイトから引用した。


 このレシピを紹介している動画では、実際にこのまーぼーどーふを作って食べた人が、手間はかかるけれど、作ると家族が大喜びしますと言うので当てにした。


 だが所詮、他人の言葉だ。


 夫もそれで喜ぶ保証は無い。


 料理のこういう所も嫌いだ。いや、ここが一番嫌いかもしれない。


 美味しいも不味いも、食べた本人の主観で決まる。それを外部から読み取るのは、難しい。こうしておけば絶対に外れないという答えが無い。


 分析が出来ないものは、嫌いだ。そもそも人間とは、難解なのに。


 その上夫は、私が作ったものを何でも美味しいと言って平らげる。二十年間ずっとだ。きっと今回も美味しいと言う。意地っ張りな私はそれに、あらそうと返す。


 だが今日は、それでは絶対に駄目だ。


 私達は今年で結婚二十年目。つまり夫がすっぽかした今回の結婚記念日は、二十回目の節目の日だったのだ。勿論夫の誕生日も。


 このまま夫の思い通りに、事を運ばせるのは我慢ならない。


 死んでもぎゃふんと言わせたい。


 お世辞を言う暇も、格好を付ける隙も与えないぐらい動揺させて、「俺の完敗だ。君は完璧で最高の妻だ」みたいな事を、何が何でも言わせたい。


 そうだ、何だかしんみりしてしまったが、これは誇りを賭けた戦いなのだ!


 とは言えこの舌じゃあ、味の改善は不可能に近い……。第一もう完成してしまったし、そろそろ夫も帰って来るでは無いか!


「何か何か……! 何でもいいから何か手は無いの……!?」


 キッチンをぐるぐる歩きながら考える。


 色味でどうしても目立つ、まーぼーどーふばかり見てしまう。……味は分からないけれど、色が素晴らしいのは理解出来る。何せ赤色が入っているのだ。食欲が出ない筈が無い。まあ、香辛料が混ざり合った煮汁の、複雑な夕暮れ色の中に見える程度だから、どこから見ても真っ赤という訳では無いけれど……。


 偶然、その赤色が際立って見える角度で、足を止めた時だった。


 あるじゃない。必勝法。


 手間がかからない上に私だけが出来る、絶対に夫が喜ぶ味付けが。


 思わず、口の端を歪めて笑う。


 それはきっと、二十年振りの、血も凍ると恐れられた微笑。


「……落ちたものね。こんな簡単な方法を見落とすだなんて」


 まな板の上でほったらかしていた、包丁に手を伸ばす。


 最後の仕上げを済ませ、あつあつの状態を保とうと火加減を見ていると、夫が帰って来た。


「ただいま」


「ええ。おかえりなさい」


 火を止めながら玄関を一瞥する。


 線の太い長駆をブラウンのソフトハットとロングコートに包んだ、白髪交じりの男が立っていた。最後に家を出て行った日から何も変わらない……。と言いたいが、顔の皴が増えた気がする。確か、もうすぐ五十歳だったか。


 視線を戻して、まーぼーどーふと米をお皿によそう。


「結婚記念日もすっぽかしてお仕事なんて、流石は伝説の怪物ハンターね。どれだけ楽しいお土産話を聞かせてくれるのかしら」


 夫は外したソフトハットを胸に抱えながら、古びたトランクを提げ直して革靴を脱いだ。露わになった精悍な顔には無数の傷跡が走り、髪は軍人のように刈り上げている。


「ああ。まずは中々帰れないお陰で、とうとうこの世の携行食を食べ尽くしてしまった話をしよう」


 私は苦笑しながら、テーブルへ配膳した。


「それ前に聞いたわ。最近の携行食は美味しくなったから、ついつまみ食いして、追跡中の人食い人狼ワーウルフを見失っちゃったって」


「あれには肝が冷えた。近くの街に下りる前に、退治出来てよかったよ」


「体面が保てて何よりよ」


 コートを脱いだ夫が手洗いを終え、洗面所から引き返してテーブルに着いた瞬間、その目前で氷の詰まったボウルごと、叩き付けるようにビールを置いた。


 空気を破るような衝撃が鳴り渡り、氷が飛び散る。


 ボウルを両手で掴んだまま笑みを消し去り、前屈みになって夫へ凄んだ。


「私の体面は保ててないのよ。分かる?」


 テーブルを転がる氷が、床へ落ちる。


 私の背に天井の照明を遮られた夫は、薄闇の中眉一つ動かさない。


「そうか? 他でも無い、君という愛する妻の手料理が食べられるなんて光栄だが」


「誘導しておいて白々しい」


「君の気高さを信じただけさ」


「自分がどれ程身の程知らずな真似をしたのか分かってないのね」


 脇へ放り投げるようにボウルを手放す。夫がかさず片手でキャッチする中、向かい合うように着席した。


「何かすっぽかすたび軽口で誤魔化して。もう通らないわよ。今日こそ決着をつけるんだから」


 執拗に眉一つ動かさない夫。


「君はその軽口に毎度ご機嫌になってるが」


「なァーってないわよ! なってないでしょうが今日はァ!」


 私は両の拳をテーブルに叩き付けて激怒した。


 食器がガッチャンと音を立てるし、咄嗟に動揺を誤魔化そうと、言葉を間延びさせてしまった。


 すると夫はやっと、目を伏せるという反応を見せる。


「流石に二十年目の結婚記念日を軽んじておいて、容易に許して貰おうとは思ってないさ。君が怒るのも分かる。済まなかった」


 すると夫はそれは潔く両手を着いて、額がテーブルにぶつかるぐらい深く頭を下げた。


 ……これは冗談で無く本気だ。年に数回しか顔を合わせないとは言え、二十年夫婦をやっているのだから分かる。


 それに夫が忙しいのは、伝説と呼ばれる程に替えが効かない腕の怪物ハンターだからだ。だから夫はこの歳でも、世界中を飛び回っている。それは分かっているし、結婚前からこういう生活を送る事になるのは知っていた。……何だか怒っている自分が馬鹿らしくなってきたし、やっぱり許してあげようかという気にもなってきたけれど……。


「いいえ、駄目よ!」

 

 何の為なのか分からなくなってきた我慢を強いて、言い放つ。


 姿勢を戻した夫に、身を乗り出しながら指を向けて睨んだ。


「そうやって下手したてに出て、私に作らせた料理も誉め千切って、私の機嫌を取りつつ自分は食べたいものを食べて仲直りってつもりでしょう! いつも美味しい美味しいばっかり言って! 当てにならないのよあなた!」


「事実だ」


うるさいわね! 当たり前でしょうが毎度ガチで作ってるんだから!」


 顔を綻ばせる夫。


「ふ、どうりでいつも美味い訳だ」


「何笑ってんのよ!!」


 こっちは恥ずかしくて死にそうなのに!!


「いいのか? このままだと君がガチで作った料理、冷めてしまうぞ」


「いい訳無いでしょさっさと食べなさいよォ!!」


「君といると賑やかで楽しいよ」


 まだ軽口を吐きながら、夫は箸と茶碗を持った。その動きがまるで仕事中のように機敏なので、よっぽどお腹が空いていたのを我慢していたらしい。


「うむ。なんて鮮やかな赤色。さっきからこの赤だけでよだれが止まらないんだ。香りも素晴らしいが、もう見るだけで美味いと分かる麻婆豆腐だよ。頼み忘れていた米とビールも用意してくれて。矢張やはり君は、何をやらせても完璧だ……」


 嬉しそうに微笑を浮かべていた夫が、まーぼーどーふへ伸ばした箸を止める。


 私はその様子を、椅子に深く掛けながら頬杖を突いて眺めていた。先程までの動揺が、嘘のように。


 夫はまーぼーどーふへ身を乗り出したまま、脅すように私を見た。


「何か入れたな」


「身の程知らずな真似をしたと言ったでしょう?」


 泰然と、血も凍る微笑で返す。


 私が夜以外は外出しないのも、二十年前から見た目が変わらないのも、ニンニクが苦手なのも、吸血鬼ヴァンパイアだから。食事も血という、一つのものしか決して摂らない。


 二十年前に私を狩ろうとやって来た怪物ハンターと結婚して、すっかり隠居してしまったけれど。


 その、伝説の吸血鬼ヴァンパイアと名を馳せていた頃の、血も凍るような微笑を湛える。


「有名よね。吸血鬼ヴァンパイアとは血に魅了の力が備わってるから、美男美女揃いの怪物だって。まあ、もしその血を飲まされた者は、その血を持つ吸血鬼ヴァンパイアの言う事を、何でも聞いてしまう奴隷に成り下がるとも言うけれど」


 自身が伝説と呼ばれるきっかけとなったかつての獲物を前に、怪物ハンターは動じない。


 ただ、値踏みするように凝視して来ると、ゆっくりと口を開く。


 まだ止まらない、涎を飲み込んでから。


「成る程。妙に鮮やかな赤だと思ったら。それで君は、結婚記念日をすっぽかした俺に腹を立てて、暫く家から出さない気か?」


「さあ? どうかしら。私を信じているのなら、食べて確かめてみなさいよ。私が本当に欲しいのはあなたの身なのか、一切の装飾が無い、私の料理への感想なのか。ふふ。まあ、あなたに合わない訳が無いけどね? 正真正銘の、妻の味なんだから」


 頬杖を突いたまま、ゆったりと足を組んで告げる。


吸血鬼ヴァンパイアの愛妻まーぼーどーふよ。召し上がれ」



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●●●の愛妻まーぼーどーふ 木元宗 @go-rudennbatto

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