第2話


 頭が真っ白になって、どれぐらい経っただろう。体感ではたっぷり十秒はそのまま動けなくなって、漸く言葉を発した。


「……あの男冗談でしょう」


 つい二十年振りに、夫へ心底しんていからの敵意を向ける。


 確かにその声には怒りが滲んでいたが、それ以上の恐怖を孕んでいた。その元凶は、床に転がるたった一つの材料。


 私は戦慄に耐えられず、それを見下ろしたまま絶叫した。


「これニンニク使う料理なの!?」


 死ぬ程大ッ嫌いなんだけれど!?


 しかしどう見てもニンニク。何故この憎き宿敵を、検索の際に見逃したのだ。


 スマホを取り出し、ほったらかしにしていた検索画面をもう一度見る。……材料にニンニクの文字は無い。いや、まさか。


 驚愕の余り、口元を覆う。


「ニンニクには平仮名だけでなく、漢字表記もあるって言うの……!?」


 だとするなら絶対に読めない。私は日本語は話せは出来るようになったが、読み書きについては子供程度だと夫に言われている。こんな煩雑な言語、きっと百年かかってもマスター出来ないだろうと分かってはいたが……。


 ふと頭に浮かんだ推測に、スマホを握り潰しそうになる。


「私が嫌って言ったから、返報にニンニクを使う料理を挙げたのね……!」


 然し夫は、怒ってこの手に出た訳では無い。


 結婚前から知っている。夫とは、狙った獲物はどんな手を使ってでも必ず仕留める執念深さを持つ男だと。


 まずは、結婚記念日も自分の誕生日すらもすっぽかして帰らなかった自分と、そんな状態の自分に、嫌いな手料理を振る舞ってくれる筈の無い妻。


 然し久々に帰れるのだから、妻の手料理は絶対に食べたい。


 だがこの妻とは強情で意地悪く、下手に機嫌を取ろうとすればその権高さから怒りを買い、暫く会話すら許さなくなる。


 つまりこの妻を言いなりにさせるに最も効率的な戦法とは、ご機嫌取りなどと言う下手な策略では無く、その権高さを逆手に取る真っ向勝負。


 妻を軽んじるような言葉を並べれば必ず怒りを覚え、冷静さを失いこちらのペースに乗って来る。軽々しく謝罪を織り交ぜながら下手したてに出れば、更に侮辱されたと感じ何らかの挑発を仕掛けて来るだろう。そこに自分の願望を填め込んでやれば怒りで顔を真っ赤にしながら、それは勝負では無く誘導であるとも知らず従って来る事間違い無しだ。


 言いつけ通り手料理を用意してくれたら、素直に感謝と謝罪を告げればいい。作ってくれて嬉しいのも、からかって悪かったのも事実なのだから。確かに一年以上も帰宅しなかったのは悪いが、その旨を連絡した際仕方が無いと当時了承してくれたのに、今日になって嫌だと冷たい態度を取ったのだから、君の嫌いなニンニクでもリクエストする権利ぐらいは貰っておくが。


「今敗戦理由を分析してどうするのよ……!」


 途中から自分の思考が、勝手に夫の声で再生されるのを感じつつ、死体のように崩れ落ちた。


 こんな戦い、夫の帰宅が遅れるたびに勃発している。そしてその度に私は手料理を振る舞う破目はめになっているし、田川はそれを分かっているだろうに教えてくれない。イチャついてるだけだと思っているのだろう。私にとっては尊厳を賭けた戦いなのに!


 ……誘導されたとは言え勝負を持ち掛けたのはこちらなのだから、撤回など有り得ない。あれだけの見得を切った以上やり抜かなければ、その見得で己の首を切り落とす事になる。とは言え、やり抜いてしまえば夫の思うつぼ。やらなかったとしても私の負けで、どう転ぼうと夫の勝利は決まっている。


「つまりはあの男この私を、言いなりにさせてご満悦って訳ね……!」


 あのサディスト。変態。


 それでも崩れ落ちた身体に、力を込めて立ち上がる。


「目に物を見せてやるわ」


 憎きニンニクを見下ろして吐き捨てた。


「こうなれば反撃の手は、ただ一つなんだから」


 夫の想像を超えるぐらいに、美味しいまーぼーどーふとやらを作る。


 私の料理の腕を誰よりも知っているあの男を、ひっくり返してやるんだから。


 意を決し、ニンニクを拾おうと鷲掴みした。


 やっぱり臭くてひっくり返った。


 それでも意志とは、貫く為に固めるものだ。


 検索したレシピ通りに調理をこなす。読めない言葉だらけだが、田川が揃えてくれた材料とレシピの画像を見比べて、何が書かれているのか読み取っていく。


 確かに料理なんて大嫌いだし滅多にしないが、所詮は手順の決まっているものだ。煩わしいだけで出来ない訳じゃないし、突き詰めてしまえば料理とは、いかに臭みを除いて旨味を出すかの作業である。煮るのも焼くのも各調味料の分量も、その作業の中の種類に過ぎない。


 つまり見た目や味が違うだけで料理とは、全て同じ。


 だから、人生でまだ二十回目に過ぎない作業であろうとも、私は絶対に失敗しない。


「手間さえ惜しまなければ、この通りよ」


 材料を切った包丁を、馴染んだナイフのように手の中で一回転させながら、黒い鍋を見下ろした。


 そこから立ち上るのは、鍋がパリパリと音を上げるまでしっかり炒めて臭みを除き、限界まで香りを引き出した豚挽き肉に、ニンニクとラー油、漢字が全く読めない香辛料数種に鶏ガラスープがとろとろになって絡み合う、ピリリとした真っ赤な刺激。夕暮れ色の煮汁の中で映えるのは、煮崩れ防止の下茹で処理をした、ぷるんと揺れる純白の木綿豆腐。その表面を、キッチンの照明をきらきら照り返す、コクいっぱいの肉の脂が覆って艶かしい。


 後は大皿にどかっと盛って、たっぷり切った長ネギを添えるだけ。夫は何を食べるにも米を組み合わせたがるから、同時進行で炊飯器に炊いてある。調理中に思い出してコンビニまでひとっ走りして、夫が好きな銘柄のビールも六本パックで買って来た。冷蔵庫代わりに一緒に買った氷と、ボウルに突っ込んで冷やしてある。そして当然ビールに合わせる事を念頭にレシピのタイプは、辛みが強い〝シセンシキ〟とやらを採用済み!


「完ッ璧ね……! 最高のまーぼーどーふだわ……!」


 達成感に、回していた包丁をまな板に突き立ててしまう。


 ガツッと鈍い音を上げ直立する包丁を、慌てて引き抜く。誤魔化せないかと包丁の先が作った穴を指でこするも、どうしようも無い。


 別に誰もいないのに、咳払いをして気を取り直した。


「ンンッ。まあいいわ。これであの男を、ぎゃふんと言わせてやるんだから……!」


 …………。


 本当に、出来るだろうか。


 真面目にやればこの通り朝飯前なのに、私が料理を好まないのは、あるもの以外は口にしても、味が分からないからなのに。



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