●●●の愛妻まーぼーどーふ

木元宗

第1話


 仕事で滅多に帰って来ない夫からの電話に目が覚めるも、その内容ったら最低だった。


「今晩帰れるようになったんだ。夕飯に君の料理が食べたいから、準備をしておいて欲しい」


「嫌よ」


 鑑賞中のDVDを一時停止もさせず即答した。


 耳に当てたスマホの向こうで、夫は少ししょんぼりする。


「……いいじゃないか。十六ヶ月と八日振りに帰れるのに」


 夫に引いた私は声が低くなる。


「……その付き合いたての彼女みたいな無駄に小刻みなカウントは何?」


 女々しいわね。


「君と最後に会った日から数えてるんだ」


「それは詩的ね」


「という訳で君の料理が食べたい」


「どういう訳よ。あなた、私と結婚する際に決めたルールは覚えてる?」


 堪らずテーブルのリモコンを掴むとDVDを一時停止させて足を組み、天井を仰ぎながらソファにもたれた。リモコンを放した手の指を、続く言葉に合わせて一本ずつ立てる。


「浮気をしない。子供を持たない。はい、最後の一つは?」


「勝手に人のおやつを食べない」


「違うわよ私に料理をさせないでしょう! 家事は嫌いだって結婚前からさんざっぱら言ったわよね特に料理なんて絶対にしないって!」


「でも、結婚記念日と俺の誕生日には作ってくれるじゃないか」


「馬鹿言わないで祝いの日ぐらいの区別は付くわよ今日はそのどちらにも当てはまってないわ!」


 夫は「はあ」と、それはわざとらしく肩を落とすような溜め息をつく。


 腹が立った私はその瞬間に、百個は反撃の言葉を用意した。


「そうか、分かったよ。いつも携行食ばかりだから、たまには君の料理が食べたかったんだが……。君がそう言うなら仕方無い。今回はその辺のホテルに泊まって、職場にとんぼ返りとしよう」


 反撃が、どれも出なくなる。


 代わりにぼそぼそと声が出た。


「……帰って来るなとは言ってないけれど」


「いいさ。帰ってからの自炊は疲れる。久々に食事に時間を割けるんだから、ホテルで奮発する方が楽しいさ」


 聞き捨てならない言葉にカチンと来る。


「方が? 方がって言ったあなた今? 人に嫌な事を強要させておいて、それが通らなかったら別案の方がいいですって?」


「ああ。下らない提案をして済まなかった。全く俺は出来の悪い夫だな。矢張やはり今回は君に会うべきじゃない。ホテルで一人、反省会をしておくよ」


「卑怯者ね。反省会なんて言ってるけれど、私に作って貰えないからってその料理、ホテルで頼んで食べようって訳?」


「今日はどうしても麻婆豆腐が食べたい気分なんだ。君の味で楽しめないのは残念で仕方無いが……」


「ええ全く惨めで仕方無いわ。それが自分の夫だなんて眩暈めまいがしそうだから、その猿でも出来そうな料理、作ってあげるから帰って来なさい。この十六ヶ月とやらの間の結婚記念日と、あなたの誕生日の祝いついでに済ませるから、寄り道はしないで頂戴」


「それは嬉しいね。帰りに何か買って来るが、欲しいものはあるかい?」


「今言ったじゃない。あなたよ。他には何もらないわ」


 夫がヒュウと口笛を吹いた気がしたが、既に焦りを覚え始めていた私は、その意図を確かめず電話を切った。


 即座にスマホを両手で持つと、前屈みになって画面を睨み付ける。


 まーぼーどーふって一体何。初めて聞いたのだけれど。


 両の指でぽちぽちと、まーぼーどーふと打ち込む。ピアノの鍵盤と違って、押し込んでいる感触が無いから未だに慣れない。夫に連絡用にと持たされているが、電話が出来るようになるまで何年かかったか。いや、今そんな事はどうでもいい。表示される検索結果に集中する。


 ……この、赤と白のべちょっとした気色悪いのが、まーぼーどーふ? 臓物の塊みたいだけれど、あの人こんなものが食べたいの? 材料は……。ああもう、いつにも増して読めないじゃない。


「全くこの国の言葉って鬱陶しい」


 兎に角買い物よ。冷蔵庫なんて置いてないんだから。


 手早く出掛ける準備を済ませて、勢いよく玄関のドアを開ける。


「ダァアイッ!?」


 突如目を襲った痛みに、思わず奇声を上げた。


 咄嗟に顔の前に翳した腕の陰から辺りを見る。


 ワインとオレンジが混ざり合うような複雑な色をした空の下端で、まだ半分程顔を覗かせながら沈んでいく太陽を見つけた。


「……夜以外に出掛けるのはいつ振りかしらね……」


 苦々しく呟きながら、足早にスーパーに向かう。夫が帰宅する日しか行かないから、まだ存在しているだろうかと毎度不安になるも、何事も無かったように営業していた。


 入店すると店員を探して、スマホを見せながら声を掛ける。

 

「これを作りたいのだけれど、材料がどこに置いてあるか教えてくれないかしら?」


 呼び止めた小太りのおばさん店員は、私の顔を見るなり手を振りながら笑った。


「アラァ久し振りねえ! ここに来たって事は、今日は旦那さんが帰って来るのっ?」


 知らない人間だと思っていた私は、その声で店員が、このスーパーで一番の古株である田川と気付く。


「あら。あなたまた太ったのね」


「おほほ嫌だわぁ! いつまでもモデル体型なあなたが不思議なだけよっ! 二十年前からお嬢さんの姿のまんっま!」


「歳は取ってるわよ。それよりこれ。分かる?」


 田川は楽しいが話が長くなりがちな所があるので、遮るようにスマホを見せた。


 田川は老眼なのか、梅干しみたいな顔になると、仰け反るようにして画面から距離を取る。


「……あーら今晩は麻婆豆腐っ!? いいじゃなーい! んっ? でも、確かあなたって……」


「何?」


「いーえいえ何でも無いわ! カゴに材料入れて来てあげるから、そこで待ってなさいっ!」


 田川は訝しむ私を誤魔化すようにカゴを手にすると、店中を駆け回ってあっと言う間に材料を揃えてくれた。レジに向かおうと財布を取り出す私から財布を奪って、会計まで済ませてしまう。


 日没が近いとは言え、久々に太陽の光を浴びてぐったりしていたからありがたいのだが、強引な気がした。田川は親切だが、それを押し付けるような者ではなかった筈なのだが。


 財布と、レジ袋に収まった材料を受け取りながら、その疑念を口にする。


「……あなた性格が変わった? あるいは私に何か隠して」


「旦那さんの為に頑張ってね! きっと、作っただけで喜んでくれるわっ!」


 田川は私の背を押して店外に出すと、仕事に戻ってしまった。


「……答える気は無いって事ね」


 思わず店のドア前で零しながら、足早に帰路に就く。思いの外早く済んでしまったから、まだ沈んでいない太陽の光を浴びてしまい疲労が溜まった。


 家に着くと、キッチンで手洗とうがいを済ませ、投げるように置いたレジ袋の中身を取り出していく。


「んがぁくっさ!?」


 突然レジ袋の中から激臭が鼻を突き、堪らず材料を掴んだばかりの手を払った。


 何があったのかと手を凝視する。表面上の変化は無いが、心理的な拒絶反応なのかひりひりした。一体何を掴んだ? 最近のスーパーは毒物でも売ってるの?


 こてんと床を転がる何かに気付く。今触った材料……。いや、この災害のような激臭の正体に違いない。


 それへ目を向けた瞬間、言葉を失う。



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