2(終)
「シェアト……?」
アベルはゆっくり瞼を持ち上げて焦点の合わない目をぼんやりと動かし、シェアトの姿を認めると再び目を閉じた。目を瞑ったままマントの留め具を外そうと胸に手を伸ばすので、シェアトはたこの出来た手にそっと自分の手を重ね、代わりにそれを外してやった。
「そなたが?」
「いいえ、アベル様がご自分でいらしたのです」
アベルは長い溜息を吐き、床に手をついて起き上がる。おもむろにそばに転がっていた王冠をつかみ、窓に投げつけた。
「きゃっ」
重い金属がガラスをたたき割り大きな音を立てる。
「一体……私が何をしたというのだ」
ギリギリと奥歯を噛んで風穴の空いた窓を睨みつける。
驚いたシェアトだったが、こういうことも珍しくは無い。割れた窓に近寄り、火かき棒で芝に落ちた王冠をたぐり寄せた。
「アベル様は立派な王ですよ」
電池が切れたように壁に寄りかかりずるずると座り込んだアベルの頭に土を払った冠を乗せ、整えてやる。
「アベル様?」
「……帰る」
「何を仰るのです、シェアトに見栄を張る必要はありません」
シェアトは屈み、アベルの額に軽くキスをした。
「やめろ」
威嚇のように叱る。シェアトは特に気にした様子もなく、床にちらばったアクセサリーやマントなどをハンガーにかけていった。王冠を床に置いて死んだように眠る夫の姿を片目に、冷えた紅茶を捨て洗いもせずに新しく温かい紅茶を注ぎ直した。
随分長い間無言でいたにもかかわらず、アベルは目を瞑り起きていた。体も頭も動かないのに、眠れないのだった。
「どうぞ」
薄目を開けて受け取ったカップに口をつけ、シェアトでなければ分からないくらい小さく微笑んだ。シェアトは自分だけに向けられる無意識なその顔を愛していた。シェアトはアベルが口ではシェアトを嫌っているように言い振る舞うが本心は違うことを知っていた。
「今日のアベル様、かっこよかったですよ。凛々しくて、ご立派でした」
アベルは空になったカップを床に置き、手をついて立ち上がってふらつきながらうつ伏せでベッドに埋まる。ベッドの真ん中をアベルが陣取ってしまっているためシェアトは 端に腰掛けた。アベルはシェアトの気配に顔を上げ、毛虫を見たときのような顔をした。
「……戯言を」
「本当のことですよ」
「ならばそなたは本当に頭がおかしいのだろう」
「でもアベル様はシェアトのことが好きなのでしょう」
アベルはそれには答えなかった。否定できなかったのではなく、身体のしびれに気がついたからだった。シェアトを殴ろうとしたが、起き上がることすらできなかった。
「っ、貴様、何をいれた……」
シェアトは声を上げず笑い、力の入らなくなったアベルの胸に手を伸ばした。上衣を止めているボタンを外す。
「触る……な」
先程シェアトが言ったような昼間の凛々しさや威厳は欠片も残っていない。怒鳴る気力も残っていない。いくら殴られ蹴飛ばされてもめげないシェアトがただの言葉を気にするわけがない。
「こうでもしないと、アベル様はシェアトを遠ざけようとするではありませんか」
「悪魔め……」
顔をしかめ汚らわしいものを見るように毒突く。
いつもシェアトはアベルの近くにいようとした。要らないと言っているのにいちいち弁当を作って差し入れてきたり、思いっきり殴り飛ばされると分かっているのに平気な顔して会いに来たりするシェアトが気味悪い。だからこの悪魔から離れたい。
しかし、どんなことをしてもやはりシェアトの笑みは全く崩れることがない。かたかたと震えるアベルの手に指を重ねて目を細めた。
「アベル様はずっと、シェアトをあの方々から守るためにシェアトに嫌われようとしていたんでしょう?」
「ちが……」
アベルはゆっくりと上半身を起こし、シェアトの手を振り払って逃げ、壁にもたれかかった。シェアトは無駄な抵抗をする夫に蛇のようにゆっくり這い寄り、もたれかかる。
「シェアトは貴方の妻です。貴方の味方です。ねえ、わかっているからここにいらしたんでしょ?」
もう逃げ場はない。
心のどこか奥深くの本心は自分に向く刃が妻に飛んでいかないように、自分から離そうと距離を取っていたことを見透かされていた。たしかにそうだ。そうでなければシェアトがいつも持ってくるサンドイッチを手に取るはずがない。シェアトのところに無意識に向かうはずがない。
「……ああ、そなたは私の、妻だ。そう……契約した。しかし……」
「やっと気がついたのですか」
アベルはシェアトの髪を摘み、少しだけ目を細めて手を離した。
「違う。そなたに、愛など無い……ただ、」
シェアトは顔を上げて、何故自分に嘘を言い聞かせるのだと目に涙を浮かべた。右拳を胸にたたきつけ、苦しそうに息をするアベルを下から覗き込んで震える声で叫んだ。
「シェアトはアベル様の隣にいたい、どうして分からないんですか、どうして気がついているのに遠ざけるのです!」
「どうしてもなにも……」
自分の声も震えていることに気がついたアベルはそっと顔を背けた。一筋の涙が頬を伝う。
「私はこの地獄にそなたを連れて行きたくないのだ。だから、早く離れてくれ」
この先には行ってはならない。そなただから私の不幸を分けたくない。アベルの思いとは裏腹にシェアトはアベルの目をじっと見上げ、やっと本当の気持ちを言ってくれたと困ったように笑った。
「この先が地獄だと知っていても、貴方と生きていきたいのです」
シェアトはアベルの唇に自分の唇を重ねた。すぐに離すとアベルはシェアトと目を合わせる。心に傷をつけていた針を取り除いた代わりに、それよりもずっと大きなナイフでえぐられたような痛みが走って、胸が痛くて仕方ない。
雫を落としてもう一度熱く唇を重ねた。シェアトの骨張った身体に両腕を回して抱きしめる。そうしていると痛みは半分ほどに和らいだ。しかし、その代わりにシェアトが胸が張り裂けそうなほど痛々しく涙を流す。その苦しみを背負いたいとは思わなかった。
この痛みは二人のものだ。
Fall into a Snare コルヴス @corvus-ash
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