第6話 幻想を歌う獣(3)

「アレッタ、見てごらん」

 シャノンに促され、恐る恐る眼下を覗いた。

「すごい……。これが、空を飛ぶということなのね」

 港も家も、全てが小さくなって、作り物のようだった。

「本当はもっと、綺麗な景色を見せたかったけれど」

 炎と煙が上がる光景を見て、シャノンが言う。


 カイロンは山の方に向かって飛び、一番高い山の頂上にそっと降り立った。シャノンが再び機器を操作して、キャノピーが開いた。何をするつもりなのだろう。私は操縦席から出た彼に続いて、顔を出した。

 ひんやりとした、爽やかな風が頬を撫でていく。ずっとここにいたら、寒くて風邪をひいてしまいそうだ。そんなことを考えていると、彼が肩に自分の上着をかけてくれた。

「土や煤で汚れているかもしれないけれど、風は防げるから」

 彼はすまなそうに言ったが、私は気にならなかった。彼が生きて自分の信念を貫くため、闘った証。そう思えば、愛おしさすら感じられた。


 私たちは悠然と佇むカイロンの横に立った。深い黒色の瞳は、今何を見ているのだろう。凪いだ海のように穏やかな、優しい目をしていた。

 シャノンがカイロンの首にそっと手を当て、耳元に何か囁いた。了解と返事をするかのように首を動かしたカイロンは、トゥーレの街へ、ゆっくりと体の向きを変えた。


 天を仰ぐように顔を上げ、ぱかりと開いた大きな口。そこから、咆哮がほとばしった。びりびりと感じる振動に、思わず首を竦める。

 咆哮はやまびことなって、幾重にも聞こえた。呼応する声が、どこかから聞こえてくる。


 やがて、一頭のカイロンが助走をつけ飛び立った。そこから離れた場所でもまた何頭かが飛び立つ。気づけば大きなうねりになって、島全体からカイロンが空へ駆け上がっていった。その中には、兜をつけた帝国軍のカイロンも混じっていた。

 息を飲むほどの、美しさだった。夕陽を浴び、まるで天国へと昇っていくように、上へ、上へ。きっと一生で一度しか見られない、壮大な景色だった。


「彼らはどこへ行くの?」

 シャノンに尋ねると、彼は目を細めてカイロンたちを眺めながら言った。

「人のいない、自然の豊かな場所だよ。この島の、さらに果て。彼らはその場所を知っているんだ」

 咆哮をやめたカイロンは、誰かに呼びかけるように、遠吠えをした。どこか哀愁を帯びた鳴き声が、山に響き渡る。


「この景色は……?」

 私たちが見下ろす街は、帝国軍によって破壊され、燃えているはずだ。それなのに、今私の目に映っているのは、穏やかなかつての街だった。私が子供だった頃、まだ、公爵様が島を治められていた頃の。


 にぎやかな市場、広大な牧場、活気のある港。

 私はふと思いついて、シーバート家の屋敷があった方に目を向けた。小高い丘に建つ屋敷は、美しく咲き乱れる花に囲まれている。ほんの一瞬、花園の中を駆ける子供たちが見えたような気がした。あの中にはシャノンと、エルと、アリスがいたのかもしれない。


 私はそのことをシャノンに伝えようと彼を見上げ、そっと口を噤んだ。ただ、黙って彼の手を握った。気づけば幻想は私たちの足元にまで及んでいて、可愛らしい花が風に揺れていた。ぽたりと落ちた雫は白い花弁の上ではじけて、きらりと光った。


 父の言ったことは、全部、全部、本当だったのだ。カイロンは幻想を歌う。在りし日の幸福を、未来への希望を。

 絵本の物語と同じならば、これはカイロンの望む風景だ。カイロンが紡ぐ幻想の風景の中に、私たち人間もいる。彼らはまだ、私たちと共に生きようと思ってくれている。

「……ありがとう」

 私が頬をそっと撫でると、カイロンはもう一度大きく吠えた。




「――以上が、調査の結果と今回の顛末です」

 私がそう結ぶと、ルイス室長はしばらく呆けたようにぽかんと口を開けていた。興味があると言って同席していたイザベラも、目を丸くしている。


「……いやあ、ずいぶんと壮大な冒険譚だなあ」

「本当に、よく生きて帰って来られたわね」

「ええ、私も生きているのが不思議です」

 もう駄目だと思った瞬間はあった。シャノンや皆のおかげで、私はこうして生きている。

「とりあえず、ご苦労様。少しの間だが、ゆっくり休んでくれ。まあ、その後はまた忙しくなるだろうけどな」

 室長がぼやいているのは、今回の一件で乗り物としてのカイロンの扱いが大きく変わりそうだからだ。


 かねてから、手術を施してカイロンを操ることには倫理的に問題があるといわれてきた。それが後回しにされていたのは、利便性と安全性という、人間の都合のためだった。

 しかし、カイロンの供給源だったトゥーレからカイロンが姿を消したことで、ジュノーに残るカイロンをもっと大切に扱うべきだという声が上がった。ブリンカーによる制御やフライトプランを優先した飛行は、確実にカイロンの寿命を縮める。そこで試すことになったのが、制御なしで行う操縦だった。騎内に積むのは通信機のみ。馬車と同じように、カイロンに合図を出して御するのだ。


「今までのように、厳密なスケジュールや決まった経路での飛行はできなくなるだろう。便数は減るだろうが、予測がつかないから捌くのは大変だぞ」

「それこそ、私たち管制官の腕の見せどころじゃないですか?」

 ルイス室長は私を見て、君には敵わないな、と笑って肩をすくめた。


「しかしこの流れも君の活躍あってこそだ。帝国軍のカイロンがあんなことにならなければ、この国も暢気にカイロンとの関係を考え直したりはしなかっただろう」

 トゥーレに進軍してきた帝国軍のカイロンたちは、私がベイレイの不協和音を聞かせ、さらにシャノンが命じたことで、トゥーレのカイロンと共にどこかの島へ飛び立ってしまった。一気に攻め落とす算段だった帝国軍は、国内の大半のカイロンを集結させていた。それが機銃ごといなくなってしまったのだから、戦力として大きな損失だ。さらにカイロンに放り出され逃げられなくなった帝国軍の兵は捕虜になり、その取引でジュノーは帝国に大きな貸しを作ることに成功したのだった。

 もうしばらくは、帝国が攻めてくることはないだろう。ジュノーの人々にとって、それはとても喜ばしい知らせだった。


「では、私はそろそろ失礼します」

 今日は室長に経緯を報告する以外の仕事はなかった。ソフィアたちも急激な変化に戸惑ってはいたが、元気そうで安心した。


「今日も彼のところに行くの?」

 イザベラがからかうように言う。私が軽く睨むと、彼女はころころと笑った。

「私、なんだかうまく行く気がするわ。カイロンはきっと優雅な空旅の供になって、私たち管制官はその手伝いをする。そういう、穏やかな未来が見える。それは間違いなく、あなたたちのおかげね」




 管制塔を降りた私は、その足で空港の敷地内の一角に向かった。そこは新たに作られた、カイロンの飼育法を研究する施設だ。

 入り口の近くまで来ると、飼葉と獣の匂いがした。こんにちは、と声をかけながら入れば、近くにいたスタッフたちが挨拶を返してくれる。


 厩舎の柵の前では、クレアが見学に来たらしい背広姿の男性たちに、熱の入った説明をしていた。トゥーレの牧場がなくなり、飼育員の大半は今、カイロンの知識を持つ貴重な人材としてここで雇われている。彼女は家族と共に王都に引っ越し、案外都会の暮らしを楽しんでいるようだった。彼女が楽しそうにしている理由の半分はエルといられる時間が増えたからだろうが、それを言えば照れを通り越して本気で怒られそうなので、心の中に留めている。


 建物の中を進んでいくと、奥からアリスが歩いてきた。

「あら、ごきげんようアレッタ」

 彼女は私の前で立ち止まると、静かに言った。

「ダレン様と兄の遺骨が、見つかったの。ヴァイナーの話した通り、海の中だったわ。今、ユアンにも話してきたところよ」

「そうですか……。見つかったことは良かったと思いますが、海に捨てるなんて……」

「ええ、同じ人間とは思えないわね。でも、これも彼を捕まえてくれたエルのおかげだわ」


 ヴァイナーたちは、船で夜の闇に紛れて逃げるつもりで山側の岸に潜伏していた。エルがカイロンを使ってヴァイナーの血の匂いを辿り、見つけたのだという。隠れ蓑にしていた医院から持ち出した遺骨は袋に入れて海に沈めたと、尋問を受けたヴァイナーは話していた。


「お墓のこともあるし、私も来週にはトゥーレに戻るわ。早く、元通り人が暮らせるようにしないとね」

 瓦礫の撤去と、焼けた住居や庁舎の建て直し。作物ごと燃えてしまった畑もあるという。

「ご病気のこともありますし、無理はなさらないでくださいね」

「ありがとう、大丈夫よ。お父様もだいぶお元気になられたし、コックス親子と協力して頑張ってくれているわ」

 今はアリスの父ジェフリー様が指揮を取り、復興を進めてくださっている。ギルと一緒にいるベリンダの手紙によれば、彼も毎日飛び回って奮闘しているようだ。次に会った時は、もっと楽しい話ができるだろう。


「そういえば、ロザリーンさんの香水、母がとても喜んでいたわ。今度はお店に伺います、ですって」

「それは良かったです。母に伝えておきますね」

 母が完成させたカイロンの香嚢を使った香水は、王都の女性たちの間でちょっとした流行になっているという。王都で無事再会して、親不孝だ無鉄砲だと散々怒られ泣かれたが、今はクロフォード家の計らいで店舗を借り、楽しそうに働いている。


 アリスと別れた私は、そのまま廊下の奥に進んだ。突き当りにあるのは、室内に作られた大きな牧場だ。私は両開きの扉の片側を、ぐっと体重をかけて押した。

 牧場の中に足を踏み入れようとした途端、声が飛んできた。

「アレッタ、気をつけて!」

「えっ? ……ひゃあっ!」

 私は足元に衝撃を感じ、声を上げた。見下ろすと、子供のカイロンが一頭、私に体当たりをしてきたようだ。まだ体も小さく外殻部分も柔らかいので、痛くはない。ナイトレイ曹長が素早くドアを閉め、ウィンベリー中尉が屈み込んで子カイロンを捕獲した。


「すみません、こいつ隙を見て外に逃げ出そうとするんですよ。親に育児放棄されてユアン様が面倒を見ていたから、普段はユアン様にべったりなんですけどね」

 彼がカイロンを床に下ろすと、その言葉通りシャノンの方へとぽてぽて駆けていった。甘えるように、彼の足に頬を擦りつけている。

「か、可愛い……写真、写真を……」

 うわ言のように呟きながら、ナイトレイ曹長がカメラを取りにどこかに走っていった。いつもクールな彼女が実は可愛いものに目がないなんて、初めて知った時は驚いたものだ。


「せっかく来てくれたのに、騒がしくて悪いね」

「勝手に来ただけだから気にしないで。順調そうで何よりだわ、“所長さん”」

「アレッタに言われると、なんだか変な感じがするな」

 シャノンは首を傾げて言う。


 今回のパラス帝国の襲撃以降、航空部隊は実質無用になってしまった。カイロンにはベイレイの振動で暴走するという、致命的な弱点が明らかになったからだ。民間の利用はともかく、兵器としてカイロンを利用することは難しいだろう。シャノンも軍に籍を置きつつ、この飼育研究所に異動することになった。目下のところ、カイロンの生態を詳しく知り、人とカイロンの“付き合い方”を研究することが目的なのだという。


「まさかこんなことになるとはね。父が聞いたら驚くよ、きっと」

 シャノンの処遇については、政府も参謀本部も判断に困っているらしい。一時は軍に拘束されたものの、数日で解放された後、彼本人が他人事のように言っていた。


 領主代理のアリスや上官をトゥーレから追い出し、勝手にカイロンを解き放ったこと。自身の出自を偽りその特異な能力を隠していたこと。それらを罪として裁くことはできるが、結果から見れば、彼がいなければトゥーレは帝国に奪われていたのだ。トゥーレはカイロンの繁殖地域である以外にも要衝となる場所で、守りきれたことはジュノーにとって嬉しい誤算だった。世論が彼を英雄視する方に傾いていることも、処分を下しづらい理由になっているのだろう。


「でも、行動の制限があるって聞いたわ。王都からは許可なく出られず、監視もついているのよね?」

「反対に言えば、許可さえ取れば出られるってことだよ。監視役だって、あの二人だし」

 元々遠出する時は上司に報告義務があったので、不便は感じないとシャノンは笑った。


 シャノンの足でじゃれついていた子カイロンは、曹長の押したカメラのシャッター音に驚いてさっと飛びのいた。そのまま元気に部屋の中を走り回る様子を、彼は愛おしげに見つめていた。

「……カイロンは、私たちを乗せることをどう思っているのかしら。飛ぶのに重いものなんて、邪魔なだけよね」

「でも、彼らが一番空へ飛び上がるのが多いのは子育ての時期だよ。メスもオスも、子供をあやすように中に子供を入れて飛ぶんだ」

 大切なものを、守るため。以前クレアが、カイロンの背に空間がある理由をそう話していた。


「パイロットは、カイロンに初めて乗った時、大抵こう言う。『自分が制御しているはずなのに、守られているようだった』って。『守ること』も、カイロンの本能なのかもしれない」

「じゃあ、カイロンにとって守りたいと思ってもらえる存在に、私たちはならなきゃいけないわね」

 私たちは臆病で、彼らを信頼できていなかった。だから、意思を奪い、思うままに操ろうとした。今は、そこから勇気を出して抜け出すべき時なのだ。


「そういえば、ずっと気になっていたのだけど」

 振り向いたシャノンに、私は言った。

「私も、あなたのことをユアンと呼んだ方が良い?」

 アリスやエルはようやく本当の名を呼べたと嬉しそうにしているし、部下二人もユアン様、と呼んでいた。

「どちらでも構わないよ。シーバートの名前は守っていきたいと思う。でも、シャノン・クロフォードとして過ごした時間だって、大切なものだから。そのおかげで、良い部下やアレッタとも会えたからね」

 出自を隠しながらも、彼が信念を偽ることはなかった。だから、そんな風に誇らしげに言い切ることができるのだろう。しかし、いずれはどちらか、選ばなくてはならない日が来るはずだ。


「まあ、アレッタならどちらでもゴロが良いから、私も構わないわ」

「え? ……!」

 しばらく疑問符を浮かべていたシャノンが、言葉の意味に気づいて顔を赤らめた。彼には振り回されることも多かったから、このくらいは仕返しにもならないだろう。


 ああ、カイロンの飛ぶ空を見たいと、私は思った。シャノンの腕を引っ張って、青空の下、力強く翼を羽ばたかせるカイロンを、二人で見上げたい。


 今はまだ見ることができない。でもきっとそれは、そう遠くない未来だ。カイロンの歌った幻想は、いつか必ず、現実になる。

                              (完)

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最果ての島の管制塔 小松雅 @K-Miyabi

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