放課後、この手を取って。
やなぎ怜
放課後、この手を取って。
「
わたしが小学生のころに、突如として世界中で蔓延し始めた感染症。感染率はそう高くなく、有効な対処法が確立された今となっては、さほど恐ろしい病というわけではない。
無限に空へと飛んで行ってしまっては、いずれ人は死を迎えるだろう。けれどもその手をだれかが取るだけで、背中に生えた小さな翼は取れてしまうと言う。決してむずかしい対処法・治療法ではない。
だからわたしの背中に五センチにも満たない小さな翼が生えても――「天使病」になっても、怖いなどとは一度たりとも思わなかった。
……体が浮き始めたその瞬間を、迎えるまでは。
「
「……え?」
どこかためらいがちに、戸惑いながら
新城――新城
「なんのこと?」
「とぼけるのとか、いいから……」
「いや、ほんとになんのことかわかんないんだけど」
沙也は呆れた視線をわたしに向ける。陸上部に所属する、根っからの体育会系である沙也は、ハッキリとした物言いを好む。常はそんな竹を割ったような性格に好意を抱いていたが、今はただ正直すぎる沙也の物言いは、わたしにとってはナイフを振り回されるも同然の恐怖だった。
わたしはすっとぼけたわけではない。ただ、そのときは本気で沙也がなにを言っているのかわからなかった。
新城鈴子。忘れ去ろうとしていた、小学生時代からの友人だった彼女の名が、接点のないはずの沙也の口から出てきたことで、少なからずわたしは動揺していた。
「茉由と
わたしはいよいよ動揺を隠せなくなっていた。
「そんなんじゃないよ」
その声は震えていた。失敗した、と思った。沙也と夏帆の顔を見れなかった。
いや、失敗していたのはもう、ずっと前からそうだったのかもしれない。
新城鈴子――鈴子とわたしは小学校に入学したその日に知り合って、気がつけば大の親友という間柄になっていた。
引っ込み思案のケがある鈴子を、いつもわたしが引っ張っている。そんな関係だったが、決して鈴子を下に見たことがあった事実はない。
鈴子はわたしよりもずっと頭がよくて、勉強ができた。ただ、そういう性質は小学校時代にはあまり評価されることはなかった。だからイジメめいた扱いを鈴子が受けることもあったが、そのたびにわたしは鈴子の味方でいた。
てらいなく親友だと――大の親友だと言える仲だった。親にも話さないような秘密を、鈴子にだけは打ち明けられた。
けれども、無邪気に親友だと言い切れたのは小学生のころまでだ。中学へ進学し、明確に二次性徴が見られるようになると、なんとなく鈴子との関係が変わっていった。
ハッキリとしたきっかけがあったわけではないが、わたしは確かに鈴子を意識するようになっていた。それが恋愛感情なのか、友情の延長線上におさまるものなのかは、今をもってわからない。
ただただ、わたしは鈴子が好きだった。鈴子のすべてをつぶさに知りたいと思ったし、彼女の一番でありたいと、無意識にしろ常に願っていた。
鈴子はそれに嫌悪感を見せたりはしなかったように思う。今となってはもうわからない。ただ、当時の鈴子が上手く感情を隠していた可能性はある。その可能性を考えるたびに、今でもわたしは胸が苦しくなる。
わたしも鈴子も、なにも言わなかった。言わなくてもわかりあえていると――当時は――思ったし、事実わたしはどういう種類の感情かはわからないにせよ、鈴子のことが好きだった。
「え?
半笑いでそう言ったクラスメイトの男子の顔は、もう思い出せない。彼が冗談でそう言ったのは明らかだったが、いつのころからか、わたしと鈴子がレズビアンの関係だという噂が流れるようになった。
決定的だったのは修学旅行先のホテルで、鈴子の手を握ってしまったときのことだ。
「あれがレズってやつ?」
よく知らない別のクラスの女子の、半笑いで発せられた、あからさまなセリフを聞いて、わたしの心は折れてしまった。
いや、正確にはそのときにうつむいた鈴子を見て、わたしはなんだかとても悪いことをしているような気になったのだ。
もしわたしが鈴子に対してハッキリと恋愛感情を抱いていると認識していたとすれば、きっとそれまで数々のセリフを耳にしても、心が折れることはなかったかもしれない。だれかを真摯に愛することは、よく知りもしない他人からそしられるべきものではないからだ。
けれども現実には鈴子とわたしの関係は友人同士で、わたしのほうは彼女に対して恋愛感情を抱いているのかどうか、まったくわからなかった。
わたしの鈴子への好意の種類はひどく曖昧なものだった。
修学旅行から帰ってきてから、わたしと鈴子は少しずつ疎遠になった。どちらからそうした、というものではない。恐らく、互いにこれ以上いっしょにはいられないと思ったのだろう。鈴子の口から直接聞いたわけではないけれども、きっとそうだ。
気まずくなってしまったし、噂がこれ以上出回るのも怖いと感じた。今でもわたしは子供だけれど、当時はもっと子供だったから、疎遠になる以外の選択肢がわからなかった。
そして進学を機に、わたしは鈴子とは完全にしゃべらなくなった。
高校では新しい友達もできた。沙也と夏帆がそうだ。いっしょに笑って、バカ騒ぎして――そうしてわたしは鈴子のことを忘れて行った。いや、忘れよう忘れようと必死になって、沙也と夏帆こそが親友なのだと思おうとした。
けれども今、親友だと思っていた沙也と夏帆は、あきらかに好意的でない視線をわたしに向けている。侮蔑的な空気を感じないだけまだマシだったが、親友だと思っていたふたりから戸惑いの目を向けられたのは、ショックだった。
心臓がドクドクとイヤな感じに脈打つ。まるで耳のそばに心臓があるようだ。舌の付け根が乾いて、なにを言えばいいのかわからなくなる。
こんな風に「疑惑」を真正面からぶつけられたことはなかった。だから、わたしはどうすればこの気まずい場を切り抜けられるのか、まったくわからなかった。
わたしの顔は自然とうつむいて、少し汚れ始めたローファーの先へと視線をさまよわせる。
そのとき――
「――っい、痛い……っ?!」
急に背中が痛み始めた。背中全体に急に根が伸ばされたように、痛みが広がって行く。
思わず背中を丸めてその場にしゃがみこんでしまいそうになったが、あいにくとそれは阻まれる。
わたしの体が、浮き始めたのだ。
ぐっと背中に生えた小さな翼を巨人が指先で持ち上げているような感覚。それと共に、徐々にわたしの体全体が浮かび上がって行く。そしてあっという間にローファーの先が地面から離れた。
「天使病」の末期症状だ。このステージへ移行した「天使病」の患者は、だれかに手を取って引っ張ってもらわなければ、空の彼方へ消えてしまうと言う。
簡単な対処法だ。
わたしはとっさに沙也と夏帆へと視線をやった。ふたりは戸惑いの目でわたしを見ては、目くばせしあうような仕草をしている。
沙也も夏帆も、わたしに手を伸ばしてはくれない。
わたしはショックでなにも言葉を発せられなかった。
そうこうしているうちに体がどんどんと空へと向かって浮き上がって行く。
わたしは中空でもがくが、沙也も夏帆もなにも言わずただ成り行きを見ているだけだった。
――え? わたしここで死んじゃうの?
そんな絶望的な予測が脳裏をよぎる。
死への恐怖に、親友だと思っていたふたりが、そうではなかった衝撃に、自然とまなじりに涙が浮かんだ。
恐怖に呼吸は荒くなり、ぐうぐうと嗚咽めいた音がのどから漏れ出る。
そのとき、
「茉由!」
鈴子の声がした。
涙でゆがんでよく見えない視界が揺れる。
次の瞬間にはわたしの右手首がだれかに力強く引っ張られた。
その衝撃でまなじりから涙がこぼれ落ち、視界が少しだけクリアになる。
地面に尻もちをつくと同時に、セーラー服の隙間からなにか小さなものがすべり落ちたのがわかった。身をよじって振り返れば、地面に五センチにも満たない小さな翼が一対、落ちていた。「天使病」が治ったのだ。
わたしは視線を再び前へと向ける。ぜいぜいと肩を大きく揺らして、息を切らせて赤い顔をした鈴子が両ひざに手をついている。
「ま、間に合った……」
鈴子は何度かせき込んだあと、そう言ってその場に座り込んでしまった。
「よかった」
鈴子の言葉に、わたしは再び涙が溢れてくるのを感じた。
「ありがとう……ごめん……ごめんね……」
「え? なんで謝ってるの?」
罪悪感に圧し潰されそうになっているわたしに対し、鈴子は気負いない目を向けてくれる。こうして直接言葉を交わすのが一年以上ぶりだというのに、鈴子の様子はそのブランクを一切感じさせないものだった。
けれども気づいてしまった。鈴子の目の端にも涙が浮かんでいることに。
その意味がわからないほどわたしは馬鹿ではなかったし、そしてその意味を無視する気持ちにも、もうなれなかった。
しばらくわたしたちはみっともなく涙を流し合った。
わたしの「天使病」が治ったあの日以来、沙也と夏帆とは疎遠になってしまった。
けれども意外とそのことにショックは受けていない。今ではもうさっぱりとした気持ちで、現実を受け入れている。
価値観が合わないのであれば、無理に一緒にいるのは不幸のもとだ。どうしようもないことに対してあきらめがつけられる自分に、少しおどろいた。
以前はあんなにもひとりになってしまうことを恐れて、沙也と夏帆という友人がいることに安堵を覚えていたのに、今はもうひとりになったとしてもいいやと割り切れている。
……まあ、実際はひとりではなく、鈴子がいるんだけれども。
身勝手な理由で距離を置いてしまったことを謝罪したわたしに対し、鈴子は「気にしていない」と言い切った。そして鈴子もわたしと距離を置くことが最善の選択だと思っていたことを告白された。
それでもあの日――「天使病」の末期症状が現れたわたしを見て、鈴子はなりふり構わず走って助けにきてくれた。小学校時代から「走るのは大嫌い」だと公言してはばからなかった鈴子が。
それだけで、わたしは鈴子の本心を知れた。仮にそれをきっかけに鈴子との交友が復活しなかったとしても、それだけでじゅうぶんだったと思えただろう。
わたしの背中にはもう翼はないし、空を飛ぶこともない。
けれども鈴子の隣に立つ今は、まるでふわふわと体が浮いているかのような、爽快な気持ちだった。
放課後、この手を取って。 やなぎ怜 @8nagi_0
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