茜染る風の野で
伊崎 夕風
茜染まる風の野で
秋の風が心地よい。まだ半分青い下草を踏み分けながら、野原に男たちの嬉しそうな声が時々聞こえてくる。今、矢を射たのは誰だろう。女たちは天幕の下で口元を扇や袖で隠しつつ、まるでイタズラ好きな我が子を見守るように、男たちが狩で競り合う様子を眺めていた。
「久方ぶりではありませんか?」
「うん?」
隣から声をかけてきた、古参の女官、若狭が私の方へ少し身を傾けて思わせぶりな流し目を寄越した。
「大海人皇子の事か?」
わたしはふ、と小さく笑った。
「皇子が大王に、まるで幼子のように、共に狩りをしたいだなどと申し出るだなんて、いくつになっても弟というのは、兄からしたら可愛いものなのかもしれませんね」
たとえ、それが妻である私の元夫だとしても、という含みを、若狭の言葉の端に感じる。
「あ、仕留めたようですよ?」
ここから見える距離の木立で、従者に持っていた弓を渡して、腰に手を当て、仕留めた獲物を待つのは大王。そっと天幕の端の方を見ると、息長の若い姫が、私から隠れるようにして腰かけていたが、そばを離れた女官のおかげで、その横顔がよく見えた。頬を染めて、大王を見つめている。
(初心なものだ…)
きっと、また大王とは日が浅いのだろう。今、大王がご執心な姫だった。若狭が気がついて、そっと彼女を隠す位置に身を進めた。
「少し風に当たってくる」
私は言い残して、ついてこようとする若狭を目で制した。ゆったりとした足取りで天幕を出ると、厩のある方角へと小さな小川のそばを歩く。
もう、自分は三十路も過ぎて、微かに老いも見え始めている。大王の後継となる大友皇子の母は、
そういう役割の妃だと、自分で分かっている。
今日ここに息長の姫が来ることは今朝知った。自分もほかの妃もいる中に、足を運ぶのはさぞ気を揉んだだろう、そう心配までしていたが、思いのほか、思慮の深い娘では無かったようだ。
(男はあまり年は関係ないものな…)
息長の姫はまだ十六と言ったか…。
ふと、道端に溜まった水溜まりを、のぞき込む。耳環がシャラ…と音を立てて揺れた。そこに写っていたのは、私の顔。口許や目元に、張りの無さが目立って来たが、飾る玉や化粧、結い上げた髪はまだありがたいことに白いものは混じらず。だが、まるで若さにしがみついているかのように、均等が取れなくなってきているようにも見えた。大王が作らせて贈ったという、あの姫の髪に揺れていた、簪の煌めきをふと思いだして、軽く目を伏せた。まだ、嫉妬する気持ちだけは一丁前に自分にもあるのだな、と自嘲気味に、ため息をつく。
すぐ先に揺れる花を見やると、その少し先にいた人影に気がつく。近くはないが、どんな表情をしているかがわかる程度の距離だ。どうやら仕留めた獲物を、従者が確かめに行ってる最中なのだろう。大海人皇子、我が元夫が、1人でそこに佇んでいた。秋の野に茜の陽が差し込んだ。昼頃に降った通り雨の名残のつゆが、朱い光を弾いてキラキラと光る。あれはまだ17の頃だったか。こんなふうに、あの人を心ときめかせて目で追っていた。あの初々しい息長の姫のように。
大海人皇子は、私の姿に気がつくと、しばし、じっとこちらを見ていた。その口元に笑みが浮かんだ。目を見開いた私に、元夫は、笑いながら手を大きく降った。
(いつまでも、まるで若人のような人ね)
私は可笑しくなって笑った。
舘の前での夕飯時、歌会をする事になっていた。
今日の狩りでの勝者は、弟の大海人皇子の方であった。大きな雌鹿を、見事、仕留めたのだとか。
兄と弟がそれぞれ相手を嘉する歌を読み合い、従者たちも、それぞれ狩の途中に感じたことなどを歌にして交し合う。
そういう時は遠慮していても、斉明天皇の補佐として、歌の指南をしていた私が詠まないで済むはずもなく。大王に促されるままに、一首詠んだ。
『茜さす 紫野行き 示野行き 野守がみずや君が袖振る』
若い女の声とは違う、柔らかな声音が、館の広間に響く。
茜のさす野、王家しか立ち入ることのできないその野で、あなたは私に手を振る。野守が見ているかもしれないのに。
ゆらゆらと揺れる松明の光が、一瞬見やった弟皇子の瞳を揺らしたように見えた。
そこに集まった者たちが、大王を気遣う風に視線を流す。大王は少しばかり目を開き驚いた風に私を見、そして気がついたのか、ゆっくり弟皇子の方へと視線をやる。
皆が弟皇子へ注ぐ視線がくすぐったいだろうに、たが、彼はそれをものともせず、涼しく口を開いた。
『紫草の にほえる妹を憎くあらば 人妻ゆえに 我れ 恋秘めやも』
紫草のように、匂い立つあなたが憎いなら、もう人妻なのにどうして私が恋するだろうか。
裏を返せば、人妻だから、恋しく思っても心に秘めておきますよ、という意味にもなる。程よく遊び心がある、いい歌だ。歌を交わしあった昔、私の才に、自分の歌などつまらないものだと、ひねた事のある、弟のような元夫。そんな気持ちがあった故、歌作りも上達したのだろう。まるで姉のように、それが嬉しく感じた。
「おいおい、私が置いてけぼりじゃないか」
大王が悠然とした様子で、また、2人の交わした色っぽい歌を面白がるように、言った。
「先程、雌鹿を仕留めた時、野で額田王に会ったのですよ」
「ほう」
「茜色の野に風に吹かれているのを見て、野に降り立つ神かと思うほど美しかった。私にも懐かしい人ですが、すこし兄上に嫉妬してしまいましたよ」
兄弟の会話に、周りもくすくすと笑い声が起こり、
「そうだ、しっかりと捕まえておかないから、そういうことになるのだ、お前は、少し詰めが甘いところがある」
「だが、今日は見事な雌鹿を捉えましたよ」
獲物を、という意味でもある。だがその言葉には含むところを感じる。
あの瞬間、額田王の心を捉えたのは、兄上ではなく、私ですよ、そう言っているように、大王は受けた。
やがて宴は、宵の闇を篝火が照らし、酒に酔った人達の笑い声と共にたけなわとなった。
***
「良かったんですか?」
少しため息混じりに、若狭が私の髪を漉きながら問いかける。
「まあ、なに?」
「久々にあのような色っぽい歌を詠まれたと思ったら、御相手は弟皇子様だったなんて」
私は微笑むだけにして何も言わない。
ご執心な若い姫がいる人に、そんな歌を詠むなど、周りの者たちを凍りつかせるだけだ。
「もしかして、本当に弟皇子様とは…」
「知ってるでしょ?あの人は元夫。もう昔の話よ、調子に乗って手を振って来たりするから、牽制の意味も兼ねてみたの」
若狭は、そうでしょうけど…と、大王の事を気にしているようだった。若狭には、もう少し若い頃、私の代わりに大王のお相手をするように言いつけたことがある。だが彼女は絶対に首を縦に振らなかった。
知っている、大王から歌を送られていたことも。それでも、頑として私に忠誠を尽くして仕えてくれた。故に信用している。若狭が物音を聞きつけて戸口に立つ。
「…あ、ただ今」
「よい、私と額田の仲だ」
驚いた。振り返ると大王が供人も連れずに、私の泊まる御館を訪ねてきた。
私が若狭に目を配ると、若狭は大王の御館へ使いを出すべく、御館の外へと出ていった。
「若狭は、もう長いね」
「ええ、あれほど忠誠の信じられる者はなかなかいませんよ」
「そうか、それは羨ましいことだ」
「大王、可愛らしい方を放って置いていいのですか?」
「うん、まあ…今日のところは里へ帰らせた」
「まあ」
「そなたと月でもゆっくり見たくてな」
そっと肩に置かれた手は温かく、差し出された手に自分のそれを重ねると、私は高足の腰掛けから立ち上がった。控えていた若狭が戸口を大きく開けてくれた。
「今、御酒を用意しておりますので」
「ああ、いい、もう酒は十分」
「では、お白湯を」
若狭は後ろに控えていた従者から白湯の用意を手にし、2人に出すと、外に控えています、と伝えてその場から下がった。
「ようやく2人きりだ」
大王の少し砕けたものの言い方に、私は微笑む。姉のように、この隣にあり続けた。だが、そう決めつけなくても良いのではないか。そっと、その肩に頭を寄せた。背中に回った逞しい腕は肩を抱く。
「あれは、なんだったのだ?」
頭の上から降ってきた、不服そうな声。ちら、と見上げると、蓄えた髭の下の唇がくちばしのように尖っている。まるで機嫌を損ねた少年のようだ。
「ふっ」
「笑い事じゃない!」
ひとしきり忍び笑いした後、息をついて、空を見上げた。雲が晴れて、黄みがかった月が顔を出した。
「綺麗ですね」
「ああ」
大王は肩を抱く手に力を込めた。
「…いつも、あんなふうに見下ろすように私を見てくれていたから、安心しすぎたのかと…」
「まあ」
「私が見上げることを怠っているうちに、雲に隠れて、昔の恋人と宜しくやってるのかと焦ったよ」
「…さて、どうでしょ…」
全部言い終わらないうちに、唇が語尾を吸い取った。
「今宵はここで過ごす」
その言葉に胸が熱くなる。
「…もう、若くないんですよ?私は」
頬が染まるのが恥ずかしくて俯くと、顎に手がかけられて上を向かされた。
「充分、美しいでは無いか。今宵の宴では誰よりも男どもの目を奪っていたのは、そなただろう」
他の男に取られないために、慌ててやってきたのか…そう思うとまたおかしくて、吹き出しそうになったが、手を引かれて、奥の閨へと導かれる。明かりの芯がつまれて、薄暗くしてあるのは若狭の采配だろう。本当によく気の利く女官だ。
「大海人皇子とは…」
「なんにもありませんよ、弟のような人をちょっとからかっただけです」
羽織ってきた衣を脱ぐのを手伝うと、紫草の香りがふわりと香った。
「あ…」
「この香りは、そなたとの出会いを思い出す」
あの、まだ少女と呼べる年頃の…
「一目惚れだったのだぞ?」
「ええ?」
先に、惹かれあったのは、彼の弟とだった。
次第に恋仲になり、翌年娘が生まれた。身分もあり、正式な妻ではなかったが、娘が物心着く頃までは何度となく私の元へ通ってきた。
「あなたが、私の所へやってくるようになって、あの人は離れていきました」
「俺に遠慮したということなのか?」
「その程度だったということでしょう」
紫草の香りが私を包む。肌寒さはまだ感じないが、人肌の温かさとは、気持ちの良いものだ、とその温度を噛み締めた。
「あ…先を越されたか」
御館のすぐ近くに現れた男は、御館の外に控えた女官の姿を見つけて、既に兄が御館を訪れていることを察した。
「うーん、上手く使われた気がしないでもないな」
茜の陽に染まりながら、ヒレで口元を隠し、こちらに小さく手を振った額田王を思い出す。
「懐かしいひと、か」
温かな出来事を、喜びを分け合った過ぎし日は、もう昔なのだ。
大海人皇子は、来た道へと踵を返した。
茜染る風の野で 伊崎 夕風 @kanoko_yi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます