MARGINAL_旧題・かえらない

横嶌乙枯

MARGINAL_旧題・かえらない

 口の中で混ざり合った血と砂利を吐き出す。鼻を啜ると途端に口内が鉄臭くなって吐き気がした。遠くなる複数の下卑た笑い声にはらわたが煮えくり返るような感覚を覚えながら、言葉として成立しない罵声をもごもごと呟いた。踏み躙られた左手が痛み、四本しかない指をゆっくりと曲げて折れていないかを確認する。根元から無い小指のつるりとした断面を見て、また悲しくなった。


 向こう側に投げられて土埃にまみれたカバンを取りに行く間、立ち上がろうとして三回も転んでしまった。肩掛けの紐が無残にも引き千切られており、中を覗いてみれば教科書やノートは水浸しになっていた。酷い事しやがって。いつの間にか筆入れの中に一匹の蛙が閉じ込められていて、怯えたようにじっと身を縮ませていた。筆入れを逆さにして蛙を野に放ち、悪態を吐きながら帰路についた。




 寂れたアパートの一室に帰ると、小さく古臭い部屋には不釣り合いなほど馬鹿でかい化粧台の前で、下着姿の母が大股を開きながら厚化粧を顔に施していた。くすんだ肌を若く見せる為の悪足掻きだ。大いに醜い。


「なァに、汚いね。鼻血垂れてる」


 鏡越しに見つめる目には真っ青なアイシャドウ。下品な赤の口紅を塗りたくった唇からそう言葉が紡がれた。部屋の黴と埃、部屋の中央にある丸テーブルの上から腐った生ゴミ臭、母のきつい香水の匂いが混ざり合って吐き気を催す。


「何でやり返さないかなぁ。頭おかしいんじゃない」


 私の無抵抗を詰る言葉に、胃液が過剰分泌されていくのを感じる。捩れるように腹部が痛くなった。悔しくて歯軋りをし、鏡の中の厚化粧女に睨みを効かせるも彼女は鼻白んだ表情で髪を撫で梳かして直している。彼女の内腿の弛んだ皮膚にいる、緑のしなびた蛇の入れ墨が小さく跳ねた気がした。

 

 これ見よがしにわざとらしく大きな溜息を吐いてみせる母に、ふつん、とこめかみが一瞬冷たくなったのを感じた。

 腕を横に大きく振りかぶり、その骨ばった背中に遠心力を加えたびしょ濡れのカバンを強く投げつける。その拍子に留め具が外れてカバンの中身が散乱した。低く唸る彼女が此方を向き、鋭く伸びた爪を私の頬に突き立てようとする。瞬間、身を屈めて床を蹴り付ければ、その胴に強く体当たりをして転ばせてやった。

 自分でも驚くほど俊敏に立ち上がり、ぞんざいに纏められたゴミ袋を力いっぱい蹴りつけて、切り刻まれた名刺や少女漫画の付録を床にまき散らす。

 

 私はまっしぐらに玄関へと走った。耳を劈くような金切り声の怒号を背に浴びた。スニーカーの踵を潰し、私の視界は夕焼けの赤に染まる。



■  ■  ■



 オレンジ色の空に紫の雲が薄く線を引いている。ガードレールに座り、遠くから聞こえる電車の警笛に驚いて田園から飛び立つ雀の数を指折り数えていた。たたん、たたん、と耳に心地良いリズムを奏でて線路を走る電車が、山の裾野を滑るように移動している。

 向こうの方から、黒ランドセルが項垂れながら歩いてくるのが見えた。今時の小学生にしては珍しい芋臭いイガグリ頭に、時代錯誤な黒の学生帽をかぶっていた。その子が国道脇の歩道を道なりに進み段々通学路から外れ、凡そ帰り道とは思えない細道へ入って行くのを見る。太腿まで伸びた雑草を掻き分けて、林の中に消えて行った。点数の悪かったテスト用紙でも捨てに行くのだろうか。

 腹いせにちょっと揶揄ってやろうとほくそ笑んでその後を追った。


 何処かで耳にした表現だが、その細道は木が避けていた。まるでイガグリ頭が通る為にわざわざ作ったと言わんばかりの不自然な小道。轍によって徐々にできたものではなく、誰かが通るのを想定して「作られた」真っ直ぐな道だった。

 何かにぶつかっている訳でもないのに、酷い閉塞感に襲われる。心なしか息苦しい。耳元でごぽり、と水の音がした気がした。

 

 イガグリ頭は細道を早足で歩き、やがてその小さな体躯が光に照らされたと思えば広い場所へ出た。半円状の壁に押し退けられているように背丈のある木が全てカーブを描いてドームを作り出している。周りの木たちの頭の天辺は触れ合わず、天井にぽっかりと穴が開き、そこから夕暮れの空が見えて少し安心した。


「ねぇお前。こんなところで何しようとしてるの」


 いささか調子を取り戻し、ぶっきらぼうに言葉をかける。

 少年は俯いたまま此方を振り向き、ゆっくりと帽子を脱ぐ。上げられた顔に高く叫んだ。

 顔の側面、それもこめかみより少し上の両側に付いた丸い目。耳まで裂けた口。鼻梁がない穴だけの鼻。極めつけはその肌の色だ。雨に濡れた新緑のような肌。

 少年の顔は蛙だった。


「ありがとう」


 金属を引っ掻いたような耳障りな声で紡がれた言葉を理解する前に、その場にへたりと座り込んでしまった。


「助けてくれた。ありがとう。お礼。お礼。お礼。お礼」 


 心臓が煩く鼓動を打ち、何とか逃げようと来た道を勢いよく振り返るも、いつの間にか木が塞いでいた。一寸の隙間もない。

 蛙少年は近付いて来る様子もなく、此方が落ち着くのを待っているようにも見えた。制服の胸元をきつく握りながら必死に状況を理解しようと深呼吸に努める。


「お礼、考えた。嫌い、消す。消す」


「……嫌いなもの? 蛙は嫌いだ。お前が嫌い。早くここから出して」


「俺。いっぱい。いっぱい、消す、無理。あなたの、嫌い。知ってる」


 短い指が私の左手を指した。欠損した左の小指のことを言いたいのか。


「それ、知ってる」


 筆箱に閉じ込められた時に私を虐げていた連中とのやり取りをこの蛙は聞いていたらしい。

 臭いだの貧乏人だのと散々罵られた挙句、この左手を踏み躙られた。これは生まれつきである為に、どうしようもなく私自身も諦めていた欠点だ。


「……なァに? お前の指でもくれるの?」


 少年は首を振る。


「選ぶ」


 頭の側面に付いた両目をそれぞれ掴みながら引っ張ったと思えば、ずるずると神経と血管を引き両目を抉りだした。あまりの光景に思わずその場に嘔吐したが、蛙は気にせず此方に歩み寄ってそれぞれの目玉を私に見せてきた。右の水晶体には私を虐めた奴ら、左の水晶体には母の姿が映っていた。


「選べ」


 蛙が同じ台詞を呟く。口の中の酸っぱい胃液と唾液をその場に再度吐き出すと、眉間に皺を寄せる。

 つまりは、私を虐める全ての奴か、こんな身体に産んだ意地の悪い母親を、詳しい意味は分からないが先程言っていたように「消す」のだろう。それを選べと私に言っているのだ。


 粘つく口内に再度唾液を溜めて、だらりと口端から地面に垂らした。

 選ぶなら。どちらか、一方を消すのなら。


「……左」


 水晶体の中でつん、と澄ましている母を睨みつけた。ヒステリー持ちで私を殴りつけ残飯のような食事をさせながら、私はこんなに頑張っているのにと泣き喚く女。自分の浮気が原因で父と別れたのに、あの男が甲斐性なしだからとほざく。挙句浮気相手にも逃げられ、啖呵を切って引き取った私をストレスの捌け口にしているこの女。


 虐げられる原因である私の指は、この女の胎内に忘れてきてしまったのだ。


 蛙は了承したというように頷き、左の目玉を握り潰す。まともに見た私はまた吐いた。液体が飛び散ったと思えば、その飛沫が空中で徐々に集まって形を成し、やがて一人の女を作った。

 地面に横たわった母はいつものように、眉間に皺を深く刻んで眠っていた。

 これをどうやって「消す」のだろうか。振り返ると蛙はお好きなように、と身振りで示した。


 私に、やれと言うのか。


 試しに柔らかく膨らんだ下っ腹を指で突ついてみる。肉が小さく窪んだそばから何処までも沈んで行く。水面にそっと手を入れた時のような感覚と共に、左手全体が生温い温度に包まれる。それは妙に私の肌に馴染んでいて、このまま手を入れていると母と溶けて一体化しそうな気がした。手首から先は体内に埋まっている。血が噴き出す様子はなく、また、母も痛がる様子を見せずに相変わらず眠っている。

 指をゆっくりと動かしてみた。肉の抵抗もなくただとろみの中を掻き混ぜて目当てのものを探す。

 蛙は興味深そうに覗き込んできているようだ。潰れた目で本当に見えているのかは分からないが、その巨大な頭が陰になって母の身体が黒く染まる。焦れったくなって手を大きく開き内臓を壊してしまっても構わないと忙しく動き回す。今までの恨みを晴らすかのように忙しなく左手を動かした。


 不意に、指先に何かが当たった。


 天井に開いた穴から夕焼けの光と共にごう、と大風が吹き荒れる。土が舞い上がって視界が悪くなる。蛙はふらつきながら後退ってその姿を土煙の中に溶かした。

 当たった何かを親指と人差し指で摘み引き上げる。母の腹が波打って、平らになった。


 風が止む。

 辺りは妙に静かだった。

 母の内腿からいつの間にか這いずり出た蛇が、媚びるように私の太腿に頭を乗せている。そこで初めて、指に摘まんでいるものを見た。

 透明でぶにぶにとした蛙の卵。そのゼラチン質の中央には既に成体となった蛙が窮屈そうに蹲っていた。

 それを頂戴、早く頂戴。

 蛇が催促するように大きく口を開け、真っ赤な口内を見せつけてくる。

 目をゆっくりと細め、右手でその小さな頭を撫でてやる。冷たい鱗の感触が伝わってきた。


「誰が、渡すか」


 そのまま右手で蛇の小さな頭を掴み、渾身の力を加えて握り潰した。 



■  ■  ■







 少しだけ昔、クラスメイトにふざけて掃除用具入れの中に押し込められた時の事を思い出した。狭く息苦しい密閉された空間で、埃臭くて仕方なかったけれど何故か安心した。ずっとここに居れば、私は誰にも干渉されずに守られて生きていけるのかもしれないと思った。

 そんな事、今は微塵も望まない。








■  ■  ■



 背中で一纏めにガムテープで雁字搦めにされた腕を軋ませる。埃や食べかすでざらつくフローリングの床に転がされている。少しの間気を失っていたらしい。部屋を見渡してみると、母はとっくに仕事へ出かけたようだ。私を折檻してから慌てて出て行ったのだろう。化粧台の上に乗っていた乳液やスプレー缶が辺りに散らばっていた。

 部屋は夜の闇に沈んでいる。芋虫のように身体を捩じって這いずりながら、閉ざされたカーテンを噛みやっとの思いで開く。月の優しい光が差し込んできた。

 殴られた為か、左眼の視界が赤く染まっているように思えた。

 粗末なベランダの手すりには一匹の蛙が行儀よく座っているのが見える。白い喉元を震わせていた。


「ねぇ、決めたよ。あの女、消せないからさ、私が何処かに行けば良いんだと思う」


 蛙は黙って聞いている。


「このガムテープ、何とか外してさ。どっかに行こうと思う。朝早く、あの女が帰ってくる前に家を出て、電車に乗るよ。そして、遠くへ行く」


 垂れた鼻血は既に乾いて肌に張り付いている。

 ねぇ、蛙。お前が私のところに来た理由が分かったよ。

 小さくそう呟くと、緑色のそれは身体の向きをゆっくりと変えてベランダから飛び降りた。

 あいつの代わりに、まずは同じ数だけ十四年分。色んな景色を見に行こうかと笑った。

 腹筋を使って上体を起こすと足をふらつかせながら化粧台の前まで歩いた。今度は転ばなかった。膝をついて、ちらりと鏡を見ると、いつもよりは自分の顔が人間らしく見えて満足だった。


 後ろ向きで床に手を這わせ、散らばったカバンの中身からようやくカッターナイフを左手で探り当てる。グリップを五本の指でしっかりと握り、スライダーを上にずらした。

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