イノリ

桜 透空

イノリ


 無滑稽に広がる峰々は、いつも寛大な心で受け入れてくれるから好きだ。嬉しいときも悲しいときも変わらぬ顔で迎え入れてくれる。

幼なじみで同級生のイノリと私は山の五合目付近にいた。

 私と君の呼吸音。この荒々しく自然をむき出しにした荒野で共鳴しているかのように繰り返されている。

鳥のさえずる声も木々が擦れる音の綺麗さはない。

 ただここにあるのは自然に置かれた本物の造形物のみが鎮座している。

 誰もいない、たった二人だけの世界に浸る。

 嗚呼、何て心地いいんだろう。

 今でも君は気づいてないかもしれないね。


 大好きだよ──イノリ。


 登山服に身を包まれてるけれど白く透き通る肌を私は知っている。

 高一の夏休み、山登りをした山頂で。ポケットからスマホを取り出して「一緒に写真撮ろ」と言って体を寄せ合う。蒼空をバックに撮ったイノリとの写真が私の学生証に挟み込んである。

 登山が趣味な君と同じ夢をいつしか追いかけたくなった。

 一緒に山登りを楽しむうちに、すっかり山の魅力にのめり込んでいることに気づく。私もイノリみたいに山ガールと名乗ってもいいかな。


 ねえ、イノリ。

 気づいてよ。

 

 ううん、やっぱり気づかなくったっていい。

 この距離感があるからこそ君と一緒にいられるような気がするから。

 君と一緒にいられるのなら、ずっと幼なじみのままがいい。

 前を行く、君の後ろ姿を追う。

 ふいに蒼い空を仰ぎ見た。私は空へ届くようにトレッキングポールごと両手をかざした。

 前方を歩くイノリは急に振り向く。


「ひまり、手なんか上げて何してんの?」 

「こうやって空に向けたら届きそう──って」

下界からよりは遥かに天に近いと思ったから。

「やってみる!」


 彼女は持っていたトレッキングポールを足元に置いた。登りかけていた右足を戻し両手をめいっぱい空へとかざす。

 君がかざした小さな蕾のような手のひらの隙間から、零れるように光が差し込んできた。


「わあ──! ねね、ひまり。空掴めそうー」

「イノリってば素直すぎて可愛いんだけど」

「ノンノン、ひまりの方が可愛いんだからね」

 彼女は「ノンノン」と言って、細い人差し指を突き立てて横へ振った。

「あー、はいはい」

「もお茶化さないで」


 何でもない君との会話が楽しくて新鮮で尊くて苦しいよ。でもね、この苦しさがある限り理性が保てそうだと思うから。


「さ、登ろう。頂上がもう見えてる。もうひと踏ん張りだよ、ひまり」

「うん、行こう」


 君の夢は私の夢。

 君と同じものを見て、同じものを目指し同じ気持ちになる。

 ただそれだけでいい。

 この幸せがいつまでも続くと思っていた。

 イノリがいなくなる前までは──。


 独り登山の道中。

 初めて登る山の険しさに、君は足を滑らせて五メートル下に滑落し運悪く命を落とした。

 急な激しい雨が降ってこなければ、足を滑らせることもなかったかもしれない。

 例え滑落しても硬い岩に頭を打ちつけなければ、命を落とすこともなかったかもしれない。

 十七年間、精一杯駆け抜けてきた君。

 これも全て運命として受け入れるしかないのだろうか。


 君の後ろ姿と蒼空を眺めながら山に登ることも。

 艶やかな黒髪を撫でることも。

 もう君の肌を見ることも。

 うたた寝する君の横顔を愛でながら、そっと指を絡ませることも、もう叶うことはない。

 私の夢は決して叶うことはない。

 



北北東の風、風力三、天気 快晴。壁のように立ちはだかる山肌に油断していると一瞬で飲み込まれそうになる。


「んー、最高にいい天気。遠くまでよく見渡せるし」


 イノリと登った登山道を二年ぶりに仲間と共に歩く。大学の山岳部に入った今でも高校生の学生証を持ち歩いている。

 渇れるまで泣いたから、これからは山頂を目指すだけだよ、イノリ。

岩だらけで過酷な道なき道をゆっくり確実に進む。

疲れたらひと休み。ひっそりと咲く一輪の野草に休息を頂き、そびえ立ついただきを視界に映そう。


 いつか君の夢である奥穂高岳の山頂を目指すから。

 だからさ、イノリ。蒼い空から見下ろしていて。都会よりも何もない荒れた荒野の方が見つけやすいと思うから。

 それまでに体力つけなきゃね。

『もお、ひまり遅いぞ!』なんて声かけてよ。


 君があの日この場所で両手をかざした地に立つ。あの日よりも両手を高く空へ届くように伸ばした。

もっと、あの空に近づきたいよ。

イノリに逢いたい──。







 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 







 


 

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