夜の匂いと恋わずらい

すが

夜の匂いと恋わずらい

 夜明けが嫌いだった。


 ベッドのそばにある窓から見える空。黒々とした青紫色を染め上げていく朝日。橙色にも紫色にも変わっていく曖昧な色。そんな色を背景に煙草を吸う彼を見上げる。


 私が起きたことに気づいたのか、彼は煙草を咥えたまま目を細めた。


「まだ、寝てればいいのに」


 あいさつよりも先に囁かれた言葉に、私は曖昧に笑う。きっと、彼も私と同じ気持ちなのだろう。


 夜はあれほど甘やかに私たちを包んでくれていたのに、朝は冷え冷えとした空気で突き放す。


 明けない夜はないなどと言わないで。ずっと、夜でいてほしい。


  ◆


 彼と知り合ったのは、親友の結婚式の後に行われたお披露目パーティーだった。


 良く晴れた秋の日、燃えるような紅葉の美しい庭園。結婚式よりもフラットな気分で参加できるそれは、日没までを庭園で楽しく過ごすというものだった。幸せそうに微笑む新郎新婦を囲うように用意された空間。降り注ぐ穏やかな陽光も、二人を祝福している。


 たまたま隣の席について、たまたまビンゴゲームであがるタイミングが同じだった彼。なんとなく話していたら、いつの間にか意気投合していた。二次会へ向かう人々の輪からこっそりと抜け出し、私たちは二人きりで薄暗いバーへと入ったのだ。


 適当なカクテルを飲みながら、他愛のない話に花を咲かせる時間は楽しかった。飼っている猫がカーテンをよじ登って、レースの生地がぼろぼろになってしまった話。先週見た映画があまりにも面白くなくて、同じ日にもう一本別の映画を見た話。暇つぶしのつもりでダウンロードしたゲームアプリに、思いのほかハマってしまった話。最近よく見ている動画配信者の話。


 本当にくだらない話ばかりしていた。まるで、今日の結婚式がなかったかのように。


 バーを出た後、私は立ち去ろうとする彼のスーツの袖を掴んだ。


 彼の少しだけ充血した目がこちらを見る。目が合ったタイミングで、男の指先に自分の指を絡める。ぴくりと彼の人差し指が震えた。


「……私、真澄ますみが好きだったの」


 きゅっと冷たいてのひらを握る。


 彼は短くため息をついた。


「俺は、かおるが好きだった」


 お互いの口から紡がれた新郎新婦の名前。どこか諦めたような、泣きたくなるような顔で彼が笑う。私も同じような気持ちで笑った。私たちはどちらからともなく、キスをした。


 夜の匂いに包まれる。酒と香水の混じったような、甘い匂い。


 唇が離れる。先ほどまで触れ合っていたそこを見せつけるように舐めてやると、彼が私の腕を力強く引いた。


 そのままもつれるようにビジネスホテルに入った私たちは、ベッドに倒れ込んでもう一度キスをした。無我夢中で抱き合って、お互いの衣服をはぎ取り、素肌を触れ合わせる。私たちが身じろぎするたびに、部屋中に夜の匂いが広がっていくような気がした。甘ったるくて優しいけれど、後ろめたい匂いをお互いに擦りつける。


 私に触れてくる彼の指先が泣きたくなるくらい優しかったから、私も同じくらい優しく彼に触れた。私と彼の触れ合いはまさしく、傷の舐め合いだった。彼の体温はぬるくて、ちょうど良かった。


「……目、閉じて。名前、間違ってもいいから」


 濡れた音に混じる掠れた囁き。脳髄を溶かすような甘い声。けれど、その言葉はあまりにも浅はかで、私は笑ってしまった。


「ふふ。あなたと真澄じゃ、似ても似つかないわ。目を閉じてても、わかるもの」

「そう、だね。……そりゃ、そうだ」

「あなただって、そうでしょう? 私を馨さんと間違えたり、しないでしょう」

「うん。絶対に、間違えないな」


 鼻先を擦りつけ合いながら彼が眉を下げる。


「君とあいつじゃ、似ても似つかない」


 くしゃりと顔を歪める美しい男。かわいらしい人の友人は、やっぱり見目麗しいものなのだなと、ぼんやり思った。


 私は彼の頬をゆるりと撫でて、顎を伝う雫をそっと拭ってやった。


  ◆


 裸のままの上半身を起こす。そのまま彼の唇から煙草を抜き取って吸った。今どき紙巻煙草なんて珍しい。独特な味わいを肺まで落として、紫煙をゆっくりと吐き出す。まずい。眉を寄せると、彼は苦笑まじりに私から煙草を取り上げた。


 ホテルの窓から見える景色は、先ほどよりも若干橙色を強めていた。部屋も徐々に明るくなっていく。


 ぎしりとベッドが軋んだ。隣を見れば、彼が寝転びながら煙草の火を消している。


「まだ、朝まで時間あるから」

「……そうだね」


 薄暗い部屋から逃げるように、私も毛布の中にもぐりこむ。


 身を縮こまらせると、彼がそっと私を抱き寄せた。


「ねえ、真澄さんの、どこが好きなの?」


 囁き声に眉を寄せる。野暮な男だと睨んでやれば、彼はいたずらっ子のように眉を下げた。その表情がなんとも幼くて、私はため息まじりに「顔」と返す。


「うわ、俗っぽい」

「ひどい言い方ね、否定しないけど。そんなものでしょう。一目ぼれだったの」


 目を閉じて、脳裏にその人の姿を思い浮かべる。


 真澄と初めて出会ったのは春だった。小学校の入学式。花びらがひらひらと散る桜並木の中で、私は満開の桜よりも、あの切れ長で涼やかな目元に惹かれた。短い黒髪は艶やかで、風に揺れると陽光を反射していたのも印象的だった。この人に近づきたい。そう望んで、真澄という人物に関わるうちに、その人となりに惚れこんでしまった。ずっとこの人の傍にいたいと、願ってしまうほどに。


「真澄の傍にいると、空気が澄んでいるような気がしたわ」


 凛とした雰囲気がそうさせるのだろうか。物心つく前から空手を習っているのだと言ったその人は、その所作ひとつひとつがとても美しかった。


「私ね、制服のスカートが嫌だったの。今は女子用のスラックスを用意している学校も多いけれど、私が中学生の頃はそんなものなかった。まあ、高校はスラックスの子もいたけど、少数派だったわ」


 ふと、思い出したことだった。脈絡のない話にも、彼は口を挟まないでいてくれる。


 子どもの頃からスカートが嫌いだった。男子に交じって鬼ごっこや木登りなんかを好んでいたから、動きにくい服装が嫌だったのだ。


「小六のときよ。そう、卒業式の直前くらい。スカートが嫌だって泣いてたら、真澄は私を優しく抱きしめてこう言ってくれたの」


 ──私は帆乃夏ほのかとお揃いでうれしいんだけどな。


「……私とのお揃いがうれしいって、そう言ってくれたのが、私はうれしくて。ああ、この子のことが、好きなんだって思った」


 彼女と出会った瞬間から、私はきっと恋をしていた。燃え盛る炎の中に分け入るような、荒れ狂う波に正面からうたれるような、そんな恋だった。


 何物にも替えられない、恋だった。


 叶うはずもない、恋だった。


 じわりと閉じた瞼の裏側が熱くなって、ぎゅっとシーツを握りしめる。それに気づいてか、彼が私の背中をぽんぽんと優しく叩いた。


「俺も、馨の顔が好きだったな」

「……俗物」

「お互い様だね。子どもの頃から、丸っこい顔しててさ。そこら辺の女の子よりずっとかわいかったんだ。ふわふわした髪が犬みたいで、触り心地が良かった」


 彼の指先が私の髪を梳くように撫でる。あいにく、私は生まれつきの直毛だ。


「中学のとき、同じバスケ部でさ。あいつはちっこくて小回りがきくから、ちょこまか動いて俺をサポートしてくれてた。試合が終わると真っ先に俺のところにきて、ニコッて笑うんだよ。それが、すごく、ほっとして……」


 ぐす、と鼻をすする音がした。


「俺、こいつのこと、好きなんだって……」


 男の嗚咽が響く中、狭いホテルの部屋には朝日が白く差し込んでいた。朝は幸福な夫婦にも、縮こまって泣いている私たちにも等しく訪れる。


 ──入籍したんだ。秋には結婚式を挙げる。


 凛と響く彼女の声を思い出しながら、私はそっと頼りない男の背中を抱きしめる。


 お気に入りのカフェで告げられた結婚報告。覚悟していたことだったから、私は穏やかに微笑んで祝福の言葉をかけてやれた。彼は、どうだったのだろうか。私と同じように祝福してやれたのだろうか。心の中で血を吐きながら「おめでとう」と笑ったのだろうか。


 ──帆乃夏には、友人代表のスピーチをしてほしいんだ。


 そういえば、この男も新郎の友人代表としてスピーチをしていたはずだ。私は無意識に笑っていた。なんて、なんておかしな話なのだろう。片想いの相手への祝辞を述べた二人が、こうして恨み言のように思い出を吐き出して抱き合っているなんて。


 ふと、ベッドが大きく軋んだ。彼が起き上がって、カーテンを閉めているところだった。


「チェックアウト、十時だから」


 朝日をカーテンが遮る。薄暗い部屋の中で、彼が私にゆっくりと覆いかぶさる。


 ぬるい体温のてのひらが、私の頬を優しく撫でた。


「もう一回、キスしよう」


 彼の声はひどく掠れていて、私はくすりと笑った。


「いいよ。おいで」


 かさついた唇を受け入れるため目を閉じる刹那、カーテンの隙間から朝日が漏れ出ていることに気づく。見たくない。完全に目を閉じてキスに没頭する。まだ残っている酒の匂いに夜の残滓を感じた。もっと、もっと深くへ。夜を感じさせてほしい。私は男の背中をかき抱く。彼も私を強く抱きしめてくれた。


 夜明けが嫌いだ。こんな気持ちを抱えたまま、朝を迎えたくないから。前に進みたくないから。ずっと、こうして、叶わない恋を抱えて縮こまっていたいから。夜はそれを許してくれるから。


「ねえ、帆乃夏さん」


 吐息の合間に彼が私を呼ぶ。


 目を開けると、彼の後ろにはやはり朝日が漏れ出ている。


「──俺たち、また会おうよ」


 ああ、夜が明けてしまう。私の恋わずらいが、消えてしまう。私は縋るように、ごまかすように彼にキスをねだった。

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