鬼ババアの卒業

木野かなめ

鬼ババアの卒業

 お迎えが来たかと思った。


 朝起きて、なにぞ身体が軽いなと思って洗面所に向かうと、そこにはしなやかな黒髪を備えた少女が立っておった。齢八十七。そろそろ制限時間を迎える頃合い。まさかその少女の像が自らの立ちずまいとは、露とも想像しなかった。


「ば、ババア……? 行ってくるわ」


 中学生の孫の敬一けいいちが首をひねりながらアルミ製の裏口を開けて行く。こいつに若返りを信じさせるのはいとも簡単だった。要は私しか知らない事柄を列挙すればよいだけ。私は居間の椅子に腰掛け、ほうじ茶を口に含んだ。夏が時間を縫い止める。腰は真っ直ぐのまま。毛先はレモンゼリーのように中空に弾ける。こりゃ、良いことじゃ。


 若くなったからにゃ、倍働かないけん。魚屋に容器を返した。市から状況確認で職員が来たので簡潔に答えておいた。いずれの来訪者も、私を親戚の娘かなにかと間違うとるようだった。次は掃除機をかけて、棚の上を拭いていくとするか。そのうちやろうと思ってそのままになっていたことじゃし。


 昼が過ぎても眠うならん。洗濯物を取りこんだ私はいつもより三時間ほど早くに買い出しに出ることにした。近所の主婦が羨ましそうに私の顔を見てくる。普段は眉根を寄せるくせに。通り過ぎる男が私の脚を見てくる。普段は歩きスマホをしておるくせにの。


「あれ……?」


 知ったる声。


「ババア? なに出歩いてんだよ!」


 果たして敬一であった。隣には敬一の友人の西口にしぐちもいる。


「買い出しに行くんじゃ。なに、夕食はいらんのか?」

「そうじゃなくてさ! その、かっこで……」

 なにが不満なのか。いつもどおりコルネット袖のブラウスじゃろうが。もっとも、身体が細くなってしまったために、よりブカブカになってしまったが仕方なかろう。

「誰、この子? めっちゃかわいいじゃん!」

 西口は、目をニタニタとさせて私を眺め回してきた。

「おい、あんま見んな!」

 慌てて私の前で手を上下に振る敬一に対し、西口はその隙間から扇風機の向こう側をのぞくように視線を動かせる。

「もしかして彼女?」

「んなわけねー! ババアだよ! うちのクソババア!」

 西口はプッと吹き出したかと思うと、腹を抱えて大爆笑。

「そ、その子がっ、あの鬼ババアかよ!」


 敬一は大きく鼻息を吹き出し、そのまま私の手を引いてスーパーへと向かった。後方から「ずりーぞ!」という怨嗟えんさの声が届いたが、敬一の歩みは声が聞こえる度に早くなっていくようじゃった。




 夕食は、レンコンと人参と鶏肉を炒めたもの。それからピーマン入りの混ぜご飯。鰹節をかけたオクラもつけた。敬一は無言でそれらを胃に流しこみつつ、私の胸元を凝視してくる。


「そんな目つきをしとると、女子に嫌われるぞ」

「うっせ、ババア」

 短い会話の後、また、咀嚼音が続く。敬一のスマホが何度か振動したが、敬一はスマホを確認しようとはしなかった。

「浴衣が珍しいか。昨日も着ておったろう」

「昨日と今日じゃ、全然違うじゃんか」

「思春期じゃな。まあ、今はそれでいいか」

「どっちなんだよ。それよりちゃんとした服着ろって」

「明日になってもこのままじゃったら考えてみるわい」

 テレビをつけてみる。私は国営放送しか見ない。ちょうど、育児ネグレクトに関する番組が放映されていた。

「今日、市の職員が来たぞ」

 敬一は、うん、とうなずいた。こいつの両親はこいつとともに暮らすことを拒否したのだ。だから私が面倒を見ている。あれだけかわいがっていたわが子のくせに、二次性徴を目にした時、『子供が別の存在になった』と考えたらしい。もうかわいがれなくなったのだと。何様じゃと思う。人間とは、何様なのか。

「おい、お前はいくつじゃ。ピーマンも食えい」

 私が机を軽く叩くと、敬一はピーマンを口に運んだ。

 今夜は妙に、素直だった。




 深夜。敬一が、私の部屋の扉を横に滑らせた。

 闇に満ちた廊下を背景にして、たしかな実像が部屋の入口に立っている。

「敬一? お前、何時じゃと……」

「一緒に寝ていい?」

 言い終わる前に、敬一が問うてきた。

 私は横寝の体勢で肘を曲げた。肘が胸にあたった。けして小さくはない、瑞々しい膨らみ。その胸の奥でいつもより血液が早く流れているのじゃと私は知った。

「かまわん」

 ぶっきらぼうに言い捨てると、敬一が私のタオルケットの中に入ってきた。肌と肌の間に数センチの隙間がある。不思議な空間。この空間には、悠久なる時の流れが存在しているのかもしれない。

「胸、触ってもいい?」

 私はすぐに答えを返さず、敬一の瞳をじっと見つめてやった。

 その黒目には、回析をともなった街灯の光が宿っておった。弱々しくて情けなくて、いつか立派な大人になろう目をしていた。

「やっぱ、やめとく」

 タオルケットを出ていこうとする敬一の腕を掴む。私は自らの胸にそれを押し当て、そしてそっと放してやった。

 敬一は、ほとんど足音を立てずに部屋を出て行った。


 目が冴える。


 私は幸運だ。

 鬼になれた。

 婆にもなれた。

 私を生かしてくれた多くの人間が透明な存在になったというのに、私はまだここにいる。神のいたずらをこの身に受けている。少しドキドキ、している。


 私が神にお礼を告げたからか。


 朝、私の身体は老齢のものへと戻っていた。




 敬一は目をこすりながらあくびをする。こいつに、早く味噌汁を出してやらねば。それから、ヨーグルトも。それから、それから。


「敬一」

 私は強く名前を呼んだ。

「今日は、昨日よりもリキを入れて勉強せい」

「なんで……」

 敬一の喉が上下し、ぼやきのような声を乗せる。

「人はの、その時々の課題を解決して次の場所へと進むものなんじゃ。ちゃんとやれたら、私の昔の写真をやろう」

 ひどい。私は教育に行うに際して、もので孫をつってしまった。

 じゃが。

 敬一は、黙って一回だけうなずいた。

「わかった。ばあちゃん」


 敬一が学校に行った後、私は少し誇らしい気分になった。


 どうやら鬼を卒業できたらしい。


 ならば、次は――神か?


 そうじゃねえだろう。まだまだこの身は動いてくれる。ほれ、コンロの油拭きもやれんことはない。買い物袋も、二つまでなら持てるのだ私は。


「そうじゃ」


 ひとりごとを言って、手で手を叩く。

 忘れておった。


 そろそろ下着でも、新調してみるかのぅ。



                                   了

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鬼ババアの卒業 木野かなめ @kinokaname

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