敏腕リーマン、向かいのビルの清掃員さんに恋をする
長埜 恵(ながのけい)
第1話
僕の名前は春顔道吉。二十九歳。会社員。独身。
このたび、向かいのビルの清掃員のお姉さんに恋をしてしまった。
前々から可愛いなーとは思っていたのである。黒い長髪を後ろで一つに縛り、毎日三十分ビルの前に出て掃除をしている。丁寧にガラスを拭き、ゴミを掃くその真面目な姿は、見るたび好感が持てたものだった。
それがとうとう恋に落ちたのは、一週間前に挨拶をした時である。
「おはようございます! 今日は肌寒いので、暖かくされてくださいね!」
寒空にハキハキと響いた明るい声。こちらに向けられた朗らかな笑顔。そして極めつけに、僕を気遣う優しい言葉。
好きにならない理由が無かった。結婚したいとすら思った。
だから、告白しようと思ったのである。
幸い、自分は若くして努力が認められ、この歳にしてはなかなかの肩書きを持っていた。結婚しても、彼女を最低限不自由させることはないだろう。
プレゼントも持った。ほぼ初対面でこれは重過ぎるかもしれないが、彼女には自分の本気を知ってもらいたいのだ。
スーツも一張羅を下ろした。今日の顧客にはドン引きされるかもしれないが、自分の人生がかかってるのである。温かい目で見逃してほしい。
さあ、準備は万端である。恋のレッドカーペットにいざ行かん!
――――――
私の名前は松本日代子。二十五歳。職業清掃員。独身。
今日も、パートで契約先のビルの清掃をしている。
お掃除は好きだ。目の前のものがどんどん片付けられ、綺麗になっていくのを見ると胸がすくような気持ちになる。頑固な汚れが、重曹やクエン酸、その他ここに名前の出せないお掃除グッズで元の美しさを取り戻す時なんて、小躍りすらしてしまう。
けれど、今日も今日とて楽しくお掃除を頑張るぞと気合いを入れた、その時。
「すいません」
突然、後ろから男性に声をかけられた。振り返ると、一点の汚れもないパリッとしたスーツを着た人が真っ赤な顔をして立っていた。
「はい、何か?」
「あ、あの……じ、実は、前からあなたのことを見ていたんです!」
「まあ!」
よく見れば、彼は向かいのビルの会社員の方ではないか。一週間前、この寒いのに上着も着ずワイシャツで出社していたのでよく覚えている。
だけど見ていたとはどういうことだろう。尋ねると、男性はアタフタとして言った。
「そ、その……あなたが掃除をしている所を見ていましてですね」
「そうだったのですか」
「それで……その、とても綺麗だなと思って!」
その一言に、私は驚くと共に歓喜に打ち震えた。
何故なら、そんなことを言われたのなんて初めてだったからだ。周りの人は、それをさも当然のことだと思っていたから。
――まさか、私の掃除した場所が面と向かって綺麗だと言われる日が来るなんて!
「ありがとうございます……! とても嬉しいです!」
「! そうですか! 嬉しいですか!」
「はい! そんなことを言っていただけるとは思いませんでしたから!」
「あ、あなたが喜んでくださるなら毎日だって言いますよ!」
食い気味に言ってくれる男性の顔を、再び見る。
え……朝出社するたびに私の掃除を褒めてくれるの?
何それ。すごくモチベーションが上がる。
「重ね重ねありがとうございます。でも、そんなに言ってくれるなんて。一体どこを見てそう思ってくれたのですか?」
「え? それはもう全てにおいてですが……」
「全てにおいて!?」
「はい。全て綺麗だと思います。……ああ、ですがあなたの立ち居振る舞い……掃除を真面目に頑張る姿にも、とても心を打たれました」
「そんな所まで!?」
なんという人だろう。私の掃除した箇所を褒めてくれるだけでなく、私の掃除に対する情熱まで目を向けてくれるとは。
自分の努力が認められたことに胸を熱くしていると、彼は私にスッと名刺を差し出してきた。
「実は私は、向かいのビル……ギラピカクリーニング社で主任をしている者です。母体はクリーニング業ですが、業績も好調で多角経営も波に乗っています」
「まあ、それは素晴らしいですね」
「恐れながら、私は今そこで一大事業を任せられる立場にあります。……そんな私が、あなたを見染めたのです。この意味はお分かりですか?」
え……クリーニング業で、若くして責任のある仕事を任せられた男性が、私を見染めた理由……?
――ヘッドハンティング?
私の掃除の腕を見込んで、他社から引き抜こうとしているの……?
だ、だめよ! そんな上手い話があるわけないわ! いくら私がものすごくお掃除が好きで、色んな場所を掃除してみたいなーと思っていても!
……。
で、でも、お給料を聞くだけなら……。
「……その、聞きにくいお話なんですが、お給料とかってどれぐらいなんですか?」
「いっぱいです!!」
いっぱいなんだー!!
それ揺らいじゃうなー! すごく行きたいなー!
お掃除できてお金いっぱいくれるんなら、万々歳だなー!!
「そして、私はあなたのやりたいことをどんどん応援したいと思っています! だから、どうか将来を見据えた話として考えてくださいませんか!」
しかも私の社会進出をめちゃくちゃバックアップしてくれるの!? すごく条件のいい会社だなぁ!
だって今私の勤めてるとこ、パワハラセクハラすっごいんだもん。まあ奇声上げながら箒振り回してたら誰も寄って来なくなったからいいんだけど。
ああ、揺らいでる。揺らいでるというか、傾いてる。もう心は殆どギラピカクリーニングで働いている。
私は、差し出された彼の手をそっと握った。
「……ありがとうございます。私の心は、もうあなたのそばにあります……!」
「ほ、本当ですか!」
「はい! 私はぜひ、あなたのそばで頑張りたいです!」
「なんと……! これが内助の功……!」
私の手を両手で握り、うっすらと涙を浮かべる彼である。そこまで喜んでもらえると、逆にこちらが照れてしまう。微笑むと、彼は何かを思い出したかのように慌てて私の手を離した。
そしてポケットを探り、小さな箱を取り出す。
「こ、これ! 実はあなたに、あげたいものがあるんです!」
「あら、なんですか?」
「開けてみてください」
そう言われて、おずおずと開けてみる。そこには、ゴールドとシルバーの一対の腕輪があった。
「これは……!」
「……あなたへの贈り物を、色々と考えていたんです。お掃除の時に邪魔しないものがいいかと思って、お揃いのブレスレットを……」
「袖止めバンドですね! わあ、私ちょうど欲しかったんです!」
そうなのだ。うちの会社の制服は丈夫なのはいいのだが、やたら袖がずり落ちてくるのである。私は喜んで二つとも腕につけた。
……ぴったりである。袖は私の肘の先あたりで無事止まった。
「本当にありがとうございます! すごく可愛いです!」
「あ、えっと、それ片方は僕の……」
「これをつけていたら、まるでいつもあなたと働いているような気持ちになれますね! とても元気が出ます!」
「……!! そうですか! では、いつもつけていてください!」
「はい!」
掃除を褒められて、素晴らしい再就職先も見つかって、素敵な贈り物も貰って。こんないいことが一気に起こっていいのだろうかと、私は浮かれきっていた。
けれど、彼はウキウキする私を見て、寛大にも目を細めてくれている。きっと仕事でもこうして部下を温かく見守っているのだろう。素敵な人だ。
「ありがとうございます。それでは、早速今日の晩に改めてお話しをさせてください」
「はい、七時にここでいいですか?」
「ええ、お願いします」
「ではすいません、そろそろ私は仕事に戻らないといけなくて……」
「あ、そうですよね。長話をしてしまいました。……だけど、最後にこれだけは言わせてください」
彼は改めて私と向き合うと、大きく深呼吸をした。
「(あなたのことが)好きです!」
「はい! 私も(お掃除のことが)好きです!」
――私が彼の本意に気づくのは、もう少し先のことである。
敏腕リーマン、向かいのビルの清掃員さんに恋をする 長埜 恵(ながのけい) @ohagida
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