バレンタインは蜜の味

かいなた りせん

バレンタインは蜜の味

「あのっ! 渡川わたかわ隼斗はやといますか?」


 すっかり日が落ちた放課後の体育館前は、帰宅準備をしている人々でごった返していた。

 鶇美つぐみは、そこで常夜灯に照らされ、テラテラ光るバスケウェアに身を包む先輩の一人に声を掛ける。

 バレー部員の中で、誰よりも早く帰宅準備をして部室を出た彼女は、全速力でここに向かった。そのせいで、冬の冷たい空気が肺を痛めつけ、声が上ずる。

 好青年そうなその先輩は、息を切らした彼女を見つめる。すると、何かを察したような意味あり気な目つきに変わった。

 ニヤニヤすると、「おっけー」と言って体育館に入っていく。


「おい、隼斗! か、の、じょ!!」


 ひょろ長い先輩の後ろ姿が、体育館に飲み込まれる。するとすぐに、でかでかと隼斗の名を呼ぶ声が奥で木霊こだました。

 彼を待つ間、鶇美はポケットから手鏡を取り出すと、眉毛ラインで直線に整った前髪を触った。重めの前髪を一対九くらいになるように掻き分ける。高くないけど小さい鼻、多くはないけど長い睫毛、そしてくっきりではないけど二重瞼。眉毛はぼさぼさな体質だが、綺麗に整えた。及第点だろうと、言いたげに笑った目元が鏡に映る。


「おう、どうした?」


 頭上の声に、ハッとして表情を戻すと鏡を折りたたむ。

 さっきの電柱のような先輩と打って変わった、筋肉質な身体つきの隼人が立っていた。高身長なだけではなく、薄いウェアから、筋骨隆々な線が浮き出ている。熱い胸板と、広い肩幅が女子たちの目線を釘付けにするであろう。さらに、追い打ちをかけるように綺麗な上腕筋の形が肩幅を広げていた。

 彼はウェアを捲ると、裾で額の汗をぬぐう。そのちらっと見えた美麗な腹直筋に、彼女も例に洩れずドキッとする。深い溝で仕切られたそれは、分厚い筋肉であることを物語っている。

 もういつでも帰れます、と言った具合の姿の鶇美を彼は優しい目つきで見下ろす。


「もうすぐ終わっから、ちょっと待っ――」


 焦ったようにすぐに奥に戻ろうとする彼の汗ばんだ腕を引っ掴む。そして、明らかにとわかる手提げを渡した。


「はい、これ」


「お、おう。ありがと」


 切れ長の目が大きく見開かれる。それは、均整取れた三白眼がくっきりと浮かび上がるほどだ。曲線美を描く頬が引き攣り、わずかに右側の口角が上がる。この表情は、驚いているのだ。

 この一驚は、鶇美から“本命”を貰ったからではない。数ある渡すタイミングの中で、わざわざ今この時が選択されたからだった。


「すぐ行くから待ってろ」


 そういうや否や、再び彼は踵を返した。キュッキュッとバスケシューズの底が床をこする音が遠ざかる。今度は引き留めない。

 彼とすれ違う女子たちはみな、彼の骨張った大きな手に不釣り合いなピンク色の可愛らしい手提げを見つめている。そして、彼女らは鶇美の前を通るときに、俯く顔をまじまじと見つめている感じがした。悪い気はしなかった。

 背後では、男女が先ほどから見つめ合っている。何分そうしているつもりなのだろうか、とふと思った。

 体育館付近では、いや、この校舎全体でそわそわと落ち着かない様子が伝播していた。真冬なのに熱を感じる。これはきっと、部活動の残り熱なんかではない。

 渡すタイミングなんて、いつでもあった。家は斜め前の近所で、朝は一緒に登校している。帰りだってそうだ。クラスだって隣だし、つぐみが所属するバレー部はバスケ部のコートと同じフロアの体育館にある。

 でも、鶇美は今渡したかったのだ。この人々がたくさん出入りするこの場所で、この時間帯でなくてはいけなかったのだ。妙な熱気に包まれ、期待と不安に人々がざわついているこの瞬間である。

 今朝、いつも通り二人で登校した。別々の傘を差し、前後に並んで歩き、無言で下駄箱に向かう。玄関で別れると、鶇美は女子トイレに向かった。

 しかし、トイレからでて、教室に向かう途中、知らない声の女の子が隼斗の名前を呼んだのが聞こえた。


「……渡川くん、受け取ってください」


 それを聞くと、彼女はわざと歩行速度を遅めた。でも、彼の声は聞こえなかった。下駄箱で一体、二人がどんなやり取りをしたのか、それは分からないまま、鶇美は教室についてしまったのだった。

 隼斗は好男子だった。贔屓目ひいきめ無しに、学年、いや学校一のイケメンだとツグミは思っている。

 前髪は右サイドが上がっており、その分け目から美眉と綺麗な目元が神々しく覗く。薄くて端正な唇は、ほんの少しでも彼が口角を上げるだけで女子たちはメロメロだろう。鼻筋も通っており、鼻根部、鼻背部、鼻翼は細い。顔だけではない。体つきも恵まれている。一八〇センチを超える高身長に、細くて長い手足が付いている。自分の腕や腿とは違って無駄な肉がまるでなく、端麗な筋肉だけでその曲線を美しく描いている。

 だが、昔はこうではなかった。


「つーちゃん、あいつに触ったら隼斗菌が移っちゃうよぉ」


 近所で幼馴染のよしみで、鶇美は物心がついたころからずっと隼斗と一緒に居た。だから、その流れのまま小学校で彼と話すと、仲のいい女の子たちから口々に心配された。

 眉目秀麗な彼は、元々は醜男しこおだったのだ。いつもよれよれのシャツを着ていた。襟は伸びきっていて、穴も開いていた。持ち物もずっと汚かったから、こっそり弟のお古をあげたこともあった。顔は垢で煤けているように見えたし、髪の毛もぼさぼさで、フケまみれだった。ひどい臭いがするときもあった。

 今思えば、ネグレクトを受けていたのかもしれない。

 そんな隼斗も、だんだんと物が分かってくるようになったのだろう。小学校高学年、中学校に上がるにつれて、大きな変貌を遂げた。道端に落ちている、気味の悪い毛虫が、美しい翅を持つ蝶になった。そんな感じだった。鶇美だけが、その気持ち悪い毛虫の価値を知っていた。隼斗に甘い蜜をあげるのは鶇美だけのはずだった。

 しかし、そんな彼の見てくれの良さが頭角を現すや否や、周りはひらりと手のひらを返してきた。


「隼斗くんって怖そうだけど、意外と顔かっこいいよねー」


冬山ふゆやまさんって、渡川くんと仲いいよね? うちのクラス会に来るように言って欲しいんだけど……」


 最初は彼が皆に受け入れられたことが素直に嬉しかった。だが、勝手すぎる彼らの態度にだんだんと嫌気が差してきたのも事実だった。


「今日はいつになく早ぇじゃん。いつもだらだら帰りの準備してるくせに」


 パッと顔を上げると、隼斗は壁に肘をついて鶇美を見下ろしていた。今度は両方の口角を上げて笑っている。首に巻かれた青のギンガムチェックのマフラーは、鶇美があげたものだ。


「早く終わったんだよねー。珍しく」


 荷物を抱え込んで座っていた彼女は、そう軽い嘘を言いながら立ち上がった。

 いつもは友達や先輩とぺちゃくちゃ話しながら、着替えている。だが、今日は今までにない彼女の早着替えに、部員たちは閉口した。唖然として、彼女の着替える姿を見た後、「あーね」と意味深な目くばせをし始めた。

 そうだ、今日だけは、だめなのだ。いつものようにバレー部の部室横で彼を待たせるわけにはいかなかった。先回りして、待っておかなければいけなかったのだ。


「隼斗は今日さ、誰かにチョコ貰ったのー?」


 隼斗の背後で、もじもじとしているジャージ姿の女子がいた。あれは彼と同じクラスの何とかさんだった。その後ろで、その子の友達らしき集団が熱い視線を送っている。

 ほらね、来てよかった、と鶇美は思った。


「今年もお前だけだったなぁ。俺にチョコくれるような物好き、ツグしかいねーよ」


「ふーん。みんな見る目ないみたいで、よかったあ」


 傘を差しながら、彼は外に出た。背後で繰り広げられる青春の一端には気付いていない。

 鶇美は自分の傘は手首に掛けたまま、彼の傘に滑り込む。

 隼人との相合傘は非合理的で好きじゃなかった。二人は三十センチ以上身長差があるため、どちらかが無理な体制を取らなくてはいけないからだ。隼斗は肩幅が広いから、絶対に濡れてしまう。だから、いつもはこんなことやらない。

 現にもう右肩がはみ出ている。だが、彼はそれに構わず左手を回して彼女を抱き寄せた。


「俺がいい男なのはツグの前だけ。だからモテねーのさ」


 彼女は顔が綻ぶのを抑えきれなかった。一体どんな顔をしてそんな言葉を紡ぎ出しているんだろうか、とふと気になり顔を上げた。目が合い、鶇美はほっぺたを指さしてキスをねだった。


「珍しいな。いいのかよ? ここ、まだ敷地内だぜ?」


「今日だけだから! お願いしますぅ!」


 困惑した彼に対し、鶇美は語尾を伸ばしてあざとい声を出した。隼人はチョコを貰った状況以上に驚いていたように見えた。それはそうだろう。普段の鶇美は、人の目に着くところで絶対にそんなことはしない。ましてや学校の敷地内で、手すら繋いだことはなかった。

 きっと、雨が大胆にさせたのだ。傘できっとバレない。

 彼は恥じらったり、茶化したりしなかった。腰を折ると、さらに左手で彼女を抱き寄せる。そして、おねだりされた頬に口づけをするのではなく、唇を重ねたのだった。

 結局のところ、件の女子学生が、隼斗に声を掛けてくることはなかった。これからもきっと、ないはずだ。

 綺麗な蝶に蜜を与えるのは、鶇美だけでいい。これからも、ずっと。

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