月の令嬢

ゆうみ

月の令嬢

 月と寝た男がいる。

 そんな突飛な噂が飛び交った二十年前、彼女に先立って生まれていた僕が、三歳の誕生日を迎えた頃だった。なんとなく言葉が分かり始めた時期で、だから風の噂が耳に入ってきても、「寝る」という一般動詞に含意される行為など、まるで解していなかった。

 噂になった男は月面基地の主任技術者だった。

 彼の祖父はまだ人類が地球にこもっていた頃、若くして月面移住プロジェクトを主導していた辣腕家だった。同業者からの評価は高かったものの、家族を顧みずプロジェクトに腐心したため、自らの息子、つまりは男の父には酷く憎まれていた。だから、男は元々生まれも育ちも地球であり、月に来たのは親元を離れてからだった。

 隔世遺伝なのだろうか、男の血に刻まれた月への憧憬は強力で、彼は世界有数の工科大学を卒業すると、父の猛烈な反対を押し切って月へと飛び、基地の管理を担う技術職に従事した。情熱もさることながら男は技術も天下一品で、酒も飲まず女も作らず、ひたすら自己研鑽に励んだ末、能力主義の世界を瞬く間に駆け上がり、二十代としては初の主任技術者となった。

 男は同僚に対して、冗談交じりにこんなことを言っていたそうだ。

「俺の恋人は月なんだ」

 男は暇さえあれば、調査という名目で基地の外での「デート」を楽しんだ。すなわち、月面の散歩である。調査衛星の描いた月面図を辿りながら、地球にいた頃はネットや望遠鏡でしか触れられなかった場所――月の海やクレーターの数々――を、大気に比べれば果てしなく薄い宇宙服越しに味わっていったのだ。


 噂の発端となった事件は、ちょうど男が十年間の勤続を果たしたその日に起こった。


 その日、いつものように散歩に出た男が、その腕に赤ん坊を抱えて帰還したのだ。男は一切の説明を拒み、自宅に赤ん坊を連れ帰ると、男手一つでその赤ん坊を育て始めた。赤ん坊の出自について、男は何一つ語らなかった。

 つまり、男の月に対する異常な愛ストレンジ・ラブと、母親不明の赤ん坊という未知の存在エイリアンが、「月と寝た男」などという奇天烈な揶揄を生み出したのだ。


 そしてその赤ん坊は健やかに成長し、やがて「月の令嬢」などと呼ばれるようになった。


 僕が月の令嬢を初めて目の当たりにしたのは、彼女が学校に入学した日だった。その日、彼女は普通の子供と同じように、義務教育のスタート地点に立ったのだ。

 とはいえ、彼女はあらゆる面で異質であった。

 まずはその容姿。印象の薄い灰色の瞳に、色の抜け落ちたような長髪、そして病的なまでに白い素肌。どの人種にも該当しない特色を幾つも有した姿は、異星人だと疑われても仕方のないものだった。そして同時に、この世の存在とは思えないような美しさを放ってもいた。

 性格もまた普通ではなかった。基本的に彼女は自ら喋らない。休み時間に話し掛けられても、首を上下左右に振るといった反応は見せても、一切口は開かないのだ。その一方で、授業中の質問には明快に答え、一度たりとも答を誤らなかった。

 学校にいた人間たちは、先生を含め、皆一様に彼女を避けていた。嫌悪していたわけではない、畏怖を感じていたのだと思う。


 だけど、僕だけは彼女に接近した。たぶん最初は、一目惚れだったと思う。


 僕は彼女が入学したその日からしつこく構っていた。子供でなければストーカーとして吊し上げられていただろう。それくらい過剰に構った。帰宅途中に声を掛けたり、休みの時間に訪ねたり。彼女は嫌な顔一つしなかったが、口を開くこともまたほとんどなかった。時折頷いたり、首を振ったり、そういうロボット未満の反応が得られるのみだった。


 そんな彼女が唯一饒舌になるテーマがある。それは、月だ。


 彼女は元より才気煥発であるが、月を情緒的に語ることに関しては輪をかけて天才的だ。込み入った科学の話をしながらも、詩人のような表現でその魅力を言語化する。表面に溢れる愛らしいクレーターの数々、極の寒さに閉じ込められた氷の孤独、山地と谷底の惚れ惚れするほどの落差。どの表現も僕の感性には嵌らなかったけれど、口角を上げて楽し気に話す彼女を見る時間は、僕の退屈な日常の中で唯一の輝きを放っていた。

 地球の文明が滅んだあの絶望の日にも、僕は彼女から月の話を聞いていた。あの日、僕は地球で失われた多くの命に思いを遣りながら、初めて彼女に家族の話題を振った。

「君の母親は、月なの?」

 彼女はただ一度、こくんと頷いただけだった。


 その頃には、もう月と寝た男という言葉の意味も理解していた僕は、その言葉を冗談の一種であると解した上で、ならば彼女はどこから来たのだろうという、当然の疑問を抱き始めていた。

 やがて、僕は彼女を連れてきた張本人である、技術者の男に会いたいと思うようになった。僕は彼女に、お父さんと話をさせてもらえないかと持ち掛けた。彼女は少しも迷わずに承諾してくれた。

 彼女の家に初めて訪れた僕は、しかし失望を覚えることになる。彼女の父親は記憶の欠落を抱えていたのだ。彼は人間が有性生殖をする生物であるという認識すら失っていた! だから、父一人娘一人という家庭に何の疑問も抱いておらず、母親について尋ねても、「母親?」とただ首を傾げるだけだった。

 それでも、血潮に刻まれた月への愛だけは消えていなかった。彼の語り口は、彼女によく似ていた。そこには、確かに親子の繋がりがあるように思えた。


 結局、月の令嬢の出生にどんな秘密があるかを暴くには至らなかったが、僕はそれでもいいと受け入れるようになっていた。秘密を知ったところでどうなるというのか。過去はその人の一部であって全体ではない。彼女を愛するため、過去に知悉する必要がどこにある? 誕生の一瞬などよりも長い間、僕は彼女と過ごしてきたのだから……。


 学校生活が終わり、労働者となった後も、僕は暇さえあれば彼女の下を訪ねた。やがて彼女はその優秀な頭脳を買われ、研究員として高給取りの道を邁進し始めたが、本人は金銭に対して一切の執着を持っておらず、彼女は素晴らしく何も変わらなかった。


 しかし、地球を滅ぼした星の病が五年後に月へとやってくるという予測が、彼女を少し変えてしまった。


 外部環境を完全に隔絶し、人の生存が可能な領域を構築している月面基地であるが、星の病に対して立ち向かう手段とはなりえない。僕たちは移住を余儀なくされた。

 月を捨て火星に向かう、それが政府の選択だった。確かにかつて、地球では火星への移住計画が着実に進められていた。しかし、地球から溢れてしまうとされた人口は〝一瞬の戦争〟によって大幅に減少し、わざわざ火星に向かう必要もなくなった。そもそも、戦後の人類にはそんな大掛かりな計画を実行する体力が残されていなかったのだ。

 だから、既に開発計画の進んでいた月面基地のみが、唯一地球外で人間が定住できる環境であった。

 火星への移住計画は、はっきり言って無謀な賭けだった。五年という歳月はあまりに短い。乏しい資源、失われた多くの技術、そしてなにより人手不足。問題は探すまでもなく湧いてきた。

 そんな状況下で、彼女はある種の救世主となった。月に隠された様々な資源の位置を看破し、失われた地球の知恵をその小さな頭の中で復活させ、さらには足りない人手を家事ロボットのリプログラミングによって賄い、火星における基地建造の現実的な案を一から起草した。


 まるで、ずっと前から全てを予期していたかのように。途轍もなく鮮やかに。


 ――そして今日、出航の日。

 宇宙船の中、いくら待っても彼女が姿を現さない。

 僕は船を降りて、ほとんど無人になった基地を駆け巡り、彼女の姿を探し回った。果たして、彼女は基地の出口にあたるハッチの前でぽつねんと座り込んでいた。なぜか基地外活動用の宇宙服を着用している。

「早く乗らないと」

 僕が言うと、

「私は残る」

 彼女はそう言った。珍しく即答だった。

「どうして?」

 僕は戸惑いながらも、冷静に話を進める。

「月を守るのが、私の役目だから」

「守る? でも、ならどうして移住計画なんか」

「人間は月にいらないの」

 それは紛れもない正論だ。しかし……。

「なら、星の病を克服する方法が君には分かったの?」

 彼女は首を振った。

「これから探すの」

「そんな時間はもう……」

「大丈夫、予想は嘘だから」彼女はあっけらかんと、衝撃の事実を暴露した。「本当の期限は今から十年後、まだ少しある」

 彼女はハッチを開こうとしていた。僕はその手を取って引き留める。

「僕も、連れて行って」

 どこに行くつもりかも分かっていないのに、衝動的にそう言った。

「……」

 彼女は首を縦にも横にも振らなかった。だけど僕が基地外活動用の服に着替えている間、彼女は黙って佇立していた。


 彼女は探査機に乗り込むと、手慣れた動作で月面を走り出す。僕は助手席に座って、彼女の運転に身を任せた。

「全部、教えてくれないかな」

 途中、そう尋ねると、彼女は真正面を向いたまま淡々と語り出した。

「お父さんはずっと前から自分の病気を分かっていたの。いずれ記憶がなくなり、まともな活動はできなくなるってことを。それだけじゃない。お父さんは星の病気についても予期していた。だから、記憶が失われる自分では守れない月を、私に託そうと考えた」

 情報の波で、頭が激しく揺さぶられる。全ての言葉が眩暈を引き起こすようだった。だけど、まだ肝心のことを聞いていない。

「君は結局、どこからやって来たの?」

「……」

 彼女は探査機を停めて月面に降りると、無言で砂塵の舞う地面を差した。ただの更地にしか見えずに困惑していたが、よく目を凝らすと鈍色の鉄扉が見えた。彼女が足元のスイッチを踏むと、鉄扉が開き、真っ暗な空間が口を開けた。

 彼女がやにわに中へと飛び込む。少し怖かったが、意を決して追従した。緩やかな重力に導かれたその先には、人工的に作られたと思われる洞穴があった。

「ここは、お父さんのおじいちゃんが運営していた研究所。月面における科学的事象を包括的に研究するために、沢山の設備が用意されている。壊れている機械も多いけど、幾つかはまだ使用できる」

「もしかして、ここに人がいたの?」

 その中の人と、密かに子供を設けていた。そう予想したが、

「ううん。生きている人はずっと前からいない」

 周囲を見ると、彼女の言葉を裏付けるように白骨が転がっていた。先に進むにつれてその数は増していく。この場所で一体何があったのだろう。想像するだけで身の毛がよだつ。

 何度か扉を抜けた後、

「これが、私の母親みたいなもの」

 しばらく沈黙していた彼女が、唐突に口を開いた。彼女の目の前にあるのは、無機質な見てくれの冷凍庫。中には沢山のシャーレが入っていた。全てに英数字のラベルが貼られている。

「お父さんは自分の精子と、ここにある卵子から私の元を作って、あそこの装置で培養したの」

 指差した先には、見たこともない立派な機械があった。ここで一体どんな実験が行われていたのか、考えていると吐き気がこみ上げてきた。

「記憶がなくなっていくお父さんの代わりに、私が月を守らなくちゃいけない。私の遺伝子に、頭に、そう刻み込まれている」

 いつになく真剣な彼女を前に、僕は言葉を失った。彼女は生まれながらにして、父親に刷り込まれていたのだ。月への愛と、絶対的な恭順を。だから今、危険も顧みず一人この月に残って、実るかもわからない研究を続けようとしているのだ。


 どうすればいい? 彼女の「愛」を認めてこの場を離れることが、彼女を愛する者として正しい選択なのだろうか。

 星の病という、未知の事象。彼女の頭脳を持ってしても、果たして立ち向かえるかは不明瞭だ。ここに置いていくことは、彼女を見殺しにすることと同義になるかもしれない。

 何が彼女にとっての最良か、いくら考えても僕には判断できなかった。

「あなたはもう、船に戻って」

 彼女が言った。単身で月に残り、仕える覚悟を宿した目。死をも恐れない狂気の色。……でも、その瞳こそ、僕が愛する彼女を体現する色だ。


 僕が愛する彼女とは、月に恋焦がれる「月の令嬢」なのだ。


 初めは容姿に起因する、不純な一目惚れでしかなかった。でも、今は違う。彼女の月への異常な愛が、退屈な日常の外へと向けられたその視線が、僕は欲しかったのだ。なら、彼女の愛を邪魔するべきじゃないのか? 黙って立ち去り、その愛を全うさせるべきなのか?


 いや、違う。


「一緒に火星に行こう」僕は咄嗟の思い付きをまくし立てた。「火星に行って、そこで星の病の研究を続ければいい。君は民を救った救世主だ。好きな研究をしたとして誰が咎められる? 地球や月を星の病から救い出すための研究とでも言えば、大義名分としては十分すぎる。この場所にこだわる必要なんてないだろ?」

「でも、土壌のサンプルが必要になるかもしれない」

「なら、火星から探査機を飛ばす。宇宙船が作れるなら、それくらいできるはずだ」

「……だけど」

 僕の勢いに気圧されたのか、反論が鈍っていた。すかさず僕は言葉を継ぐ。

「僕が全力で君の力になる。月を見捨てるんじゃない。火星に行って多くの人に協力してもらって研究をするんだ。その方が効率が良いだろ。みんなだって進んで協力してくれるさ。だって、月は僕らの母星なんだから」

 僕は延々と喋り続けた。火星に行く理由、その利点、月を救う賢い方法であるという理屈、屁理屈。思いつく限りの全てを舌に乗せて、瀑布の如く吐き出した。

 そして、彼女は固まった。口は開いていたが、言葉は一つも返ってこない。

 宇宙船が出る時間は刻一刻と近づいている。僕は彼女の手を無理やり引いて、研究施設の外へ連れ出そうとした。

 彼女の軽い体は、いとも簡単に動いた。

「本当に嫌なら、この手を振り払ってくれていい」

 僕は走りながらそう言った。だけど、彼女の腕に力が入る気配はなかった。

 そのまま地上に戻り、探査機に乗り込んで基地に向かう。助手席には彼女が乗っている。僕は片手をハンドルにかけ、もう一方の手でずっと彼女の手首を握っていた。

 結局、宇宙船に乗り込むまで、僕の手が彼女から離れることはなかった。


――母なる月へ、僕は今から娘さんを連れて行きます。だけど、きっといつか戻ります。あなたを救うために。


 心の内で誓いを立てる。この選択が、僕にとっても、彼女にとっても、そして月にとっても、良い選択であったのだと。そう、胸を張って言えるよう願って――。


 こうして、僕と彼女は生れて始めて月を離れた。

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