君の線を描く

哀原深

君の線を描く

 部活動の盛んなこの高校において、わたしの所属する美術部は異質だ。


 顧問は放任主義で滅多に部室に顔を見せず、部員数の大半は幽霊部員という、何とも自堕落な部である。


 だから大抵、放課後の部室はわたしと彼女の二人きり――。



◇◆◇◆



「今日も鉛筆画?色が無いと寂しくない?」


 被写体とキャンパスに背を向けて振り向いた彼女は、鮮やかに染まった筆で宙をなぞりながらこちらを見た。


 二人きりの部室には、油絵具の微かな香りと緩やかな沈黙が流れ、答えを口にするのも躊躇われる。


 乾いた唇を少し湿らせて、しばし、時を稼ぐ。


「いいの。あまりに鮮やかなものは、わたしの手には余ってしまうから。――それに、線の美しさって、あるでしょう?」


 さ迷わせていた視線を彼女と合わせれば、体の奥に熱が疼くのがわかる。


 ふぅん。と興味無さげに頷いた横顔が、たまらなくわたしを欲情させるとこを、彼女は知らない。


 ポニーテールを揺らしてキャンパスに向き直り、彼女は再び筆を動かしはじめた。


 わたしは、ふぅ、と息を吐いて彼女の後ろ姿を盗み見る。


 はじめは、こうではなかった。


 彼女の描く油絵の繊細さに惹かれて、いつも部室に二人きりである状況も手伝って、わたしと彼女は言葉を交わすようになった。


 互いにあまり干渉しない、静寂の中に思い出したように揺蕩う会話が心地よくて、放課後のこの時間を心待ちにするようになっていった。


 では、いつからだろう?


 彼女のその姿を、身体を形作る線の美しさに、これほど身を焦がすようになったのは。


 きっかけは何だったか、もう思い出せないけれど、馬鹿らしいと思ったことはよく覚えている。


 同性の身体つきを、薄い唇を、揺れる髪の毛の一筋ひとすじを、これほど美しいと思う日がくるなど、思ってもみなかったから。


 それでも想いは熱をはらんで、しだいに大きくなっていった。


 だから今日も、線を描く。


 彼女の身体を形作る線を、スケッチブックの白いページに、丁寧に写し取って行く。


 触れられなくていい。


 彼女を、形として手元に留めておきたいのだ。


 本当は、彼女を彩る全てをこのページに留めておきたい。


 少しハスキーな声音も、甘やかなシャンプーの香りも、そこに微かに混ざる彼女自身の香りも、見え隠れするたおやかで穏やかな内面も。


 でもそれは叶わないから。


 全てを閉じ込めることは出来ないから、色褪せた線画で十二分で、それ以上は必要なくて――。


「鮮やかさは、色だけで表現できるものではないよね。でも少しだけその姿を表したくて、わたしはキャンパスを色でうめるの」


 唐突に、彼女は筆を置いて楽しそうに語りはじめた。


「わたしはその方法しかしらないけれど、君は違う。わたしね、君の描く線は、とても鮮やかだと思うわ」


 くるりとこちらに向き直った彼女は、おもむろに立ち上がると、わたしの元へとゆっくり歩を進める。


「だからね、君の絵が好きよ」


 眼前であげられた口角と、細められた瞳。


 この世界に、二人ぼっちで残されたような感覚に、身体が麻痺して行く。


 知らずに伸ばした手が、彼女の頬をかすめた。


「ん?」


 不思議そうに微笑みを宿したままの顔で首を傾げる彼女に、わたしはぐっと息を飲み込んだ。


 駄目だ――。


 これでは壊れてしまう。壊してしまう。


 身体の奥で想いが、熱が、膨れ上がって視界を霞ませて行く。


 しなやかな頬の丸みを指でなぞれば、どんな感触がするだろうか。


 抱き締めて、その唇に触れたなら、彼女の熱を知ることができるだろうか。


 駄目だとわかっていて、だからスケッチブックの白に閉じ込めると決めたはずの想いが、今にも溢れそうになる。


 何気ない『好き』が、蓋をした想いを暴れさせる。


 もし今彼女に触れたなら、きっと全てが終わってしまう。


 これは予想ではなく、確信。


 放課後の二人の時間が、築いてきた彼女との関係が崩れてしまう。


 わかっていたはずだ。


 この想いに気付いてしまったあの時、同性愛など気持ちが悪いと、自分自身で思ったはずで。


 世間に、彼女に、受け入れてもらえない浅ましい気持ちだと知っているはずで。


 恋を自覚した瞬間に失恋を自覚して、流した涙の味を鮮明に思い出せるのに。


 ――わたしは彼女に、触れてしまった。


 ゆっくりと頬を掌で包み込む。


 見開かれたその瞳が、黒曜石のように光ってわたしを映す。


 引き寄せた身体は、何度も描いてきた通りに華奢で、まわした腕から、彼女の体温が伝わる。


「ちょ、どうしたの……?!」


 掠れた悲鳴をあげる唇が震える。


 ――あぁ、わたしはなんて馬鹿なんだろう。


 そう思いながら。


 この関係が崩れる音を聞きながら。


 わたしは、彼女の唇に自身のそれを重ねた。


 甘酸っぱいレモンの味なんてしはしなくて、柔らかな体温と不器用に押し付けた感触が伝う。


「ぃや、やめっ……んっ……」


 押し退けようとする手がわたしの胸を押し、離れようと身をよじる。


 そんな彼女をかき抱いて、何度も何度も、強く唇を押し付ける。


「もっ……嫌ぁ!!!」


 彼女の悲鳴にハッとして、身体を離す。


 乱れた呼吸と制服に、涙が伝う。


 怯えたようにわたしを見る彼女は泣いていて、そしてわたしも、知らずに涙を流していた。


 あ、終わった。


 そう思った瞬間に、彼女は駆け出していた。


 逃げるように部室の前まで走った彼女は、一度足を止めてこちらを振り返る。


「――。」


「――。」


 沈黙が落ちる。


 それはまるでいつもの放課後のようで、でも確実に何かが違っていた。


 一瞬、わたしと視線を絡ませた彼女は、顔を背けてうつむくと躊躇うように視線をさ迷わせる。


 そしてもう一度だけわたしを見て、振り切るように部室を出ていった。


 残されたわたしは、ただ呆然とその場に立ち尽くして、宙を仰ぐ。


 壊れ、崩れ去った何かを見詰めて――。



◇◆◇◆



 今日もまた、線を描く。


 二度と彼女の訪れなくなった部室で、今日もわたしは、触れることの許されない、愛しい彼女の線を描く。

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君の線を描く 哀原深 @aihara_sin

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