名前のゆえん 🦜

上月くるを

名前のゆえん 🦜



 いまなお京の住人が「さきの戦」と呼んで湿っぽい優越(笑)を誇るという応仁の乱から半世紀後、そして、尊氏たかうじ発祥の足利将軍家も2世紀近くを経ようという時代。


 幕府の財政いよいよ困窮を極め、側室の出産費用の捻出のため甲冑を質草にした。

 そんなうそみたいな逸話があったころ、幕閣の知恵者がうまいことを考え出した。


 ――徳政とくせい


 なにやら大時代なお触れだが、平たく言えば、官命をもってする借金の踏み倒し。

 そんなばかなことが罷り通るの? と思うが、どうやられっきとした史実らしい。



      ****



 その足利幕府の成立よりもさらにむかし、平家討伐に入洛した木曽義仲よろしく、田舎ぶりをひそかに嗤われながら京都の大学を卒業したヨシキが、生地の地方銀行に就職が決まったとき、小さな製本会社を経営していた両親は手放しで喜んでくれた。


 地銀といっても県内トップの上場企業で、ここがいけなくなるときは日本経済全滅(笑)と言われていたし、活字離れやペーパーレスの波に揉まれに揉まれ、四六時中資金繰りに追われていた両親にとって、地元の銀行は神さまにも等しい存在だった。


 なれど、どの業界にも表と裏がある。

 こんなはずではと思うこと数知れず。


 辞めてしまいたいと思ったことも何度かあるが、自分たちの苦労を息子にさせずに済むねと言い言いしている両親や、平穏な暮らしに感謝している妻子を思うと……。



      ****



 その顧客に初めて会ったのは、新しい支店に移動になった年度の仕事始めだった。

 

 窓口の客にいくらかでも定期預金があると、自動的に資金運用部門へ連絡が来る。

 ダメもとで名刺を渡しておいたら、その日の夕方、先方から電話がかかって来た。


 顧客の方から連絡して来るなどめったにないことなので、いささか警戒しつつも、ひょっとしたら、新年早々、幸先がいいのかもしれないと思わないでもなかった。


      *


 約束の朝、まっすぐ奥へやって来た初老の女性は初日と同じく地味な服装だった。

 商談の個室へ通しても動じる気配がないのは、融資慣れ(笑)しているせいかも。


 下調べでは当行との取引は半世紀にわたり、過半は経営者としてのものだった。

 全国に先駆けてタウン誌を起業し、一時は地方文化の一翼を担っていたらしい。


 SDGsやロボット開発など次世代型の株を、女性はふたつ返事で承諾してくれた。

 会社解散時に親身になってくださった御行の推薦に、全面的にお任せすると言う。


 金を借りるときは卑屈なほど頭を下げておいて、いざ返す段になると、返し渋る。

 上席に掛け合った苦労も顧みられず、金貸し呼ばわりで罵倒されることまである。


 そんな経験を積み重ねて来た身には世辞を抜きにした女性の言葉が晴れがましく、仕事に誇りを持てる幸福感に、なにか、ぐっと胸をせり上がって来るものがあった。


      *


 2時間ほどの商談が済んだあと、席を立ちかけた女性が「そういえば」と言う。

「あなたのお名前、どなたがおつけになったの? とても珍しい、佳いお名前ね」


 ふつうなら右から左の名刺にふと心が動いたのは、下の名前の一字だったという。

 仕事柄、数多の名刺を交換したが、今までただの一度も見かけなかった文字だと。


 難字ではないのにパソコンの変換で出て来ない名前を疎ましく思った生意気時代もあったが、両親の思いの丈が籠った文字が、こんなかたちで活きて来るとは……。


      *


「あ、そうそう、わたしね、わずかながらも社会に恩返しがしたいと思っていたの」

 うれしそうな笑顔を見送りながら、ヨシキは人と人との縁の不思議を思っていた。


 

 


 


 

 

 





 

 

 

 


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