Endless Rain


 小糠雨こぬかあめの降る土曜日、仕事が休みだった僕は、青い折りたたみ傘と本を持って例の喫茶店に向かった。ミウさんは土曜日に来ると聞いたが、時間まではわからなかった。細かく聞くのはおかしい気がしたし、変に疑われても困る。約束しているわけではないんだから期待をせずに行こう、そう都合よく来ているはずがない、そう自分に言い聞かせて、でも湧き上がる少しの高揚感を押さえつけながら、喫茶店に向かった。


 喫茶店のドアを開けて店内を見回したが、やはりミウさんの姿はなかった。僕は窓際の席に座った。気落ちしながらもほっとしている自分が意外だった。


 店員にブレンドを注文して、かばんから本を取り出し読んだ。

「いらっしゃいませ」

 店員の声に顔を上げると、ミウさんが店内に入ってきて少し離れた席に座るところだった。心がざわついた。僕は意を決して立ち上がり、一度深呼吸をしてから、荷物を持って彼女に近づいた。

「こんにちは」

 声をかけると、ミウさんは驚いた顔で僕を見た。

「あの、この前、傘を借りた者です、これ」

 僕は鞄から青い折りたたみ傘を取り出し、ミウさんに向かって差し出した。

「ああ、あの時の」

 ミウさんは、やっと思い出したというように呟いたと同時に、一瞬複雑な表情を浮かべた。

「今日来るかもって聞いたので。ありがとうございました」

 ミウさんが手を出さなかったので、テーブルの真ん中に青い傘を置き、尋ねた。

「ここ、座ってもいいですか」

「ええ」


「ごめんなさい、今日はスーツじゃなかったのでわかりませんでした」

 注文を聞きに来た店員が去ると、ミウさんは話し出した。

「姪っ子がここの近くの英会話スクールに通っていて、姉夫婦に送迎を頼まれているんです。仕事が忙しいみたいで」

「そうですか」

 ミウさんはいきなり知らない男と差し向かう状況になり、困ったように目を伏せた。でも僕はなぜか、この目の前の女性のことを知りたいと思ったのだ。あの日の涙の理由わけも。

 ミウさんは会話に詰まって、ありきたりなことを言った。

「今日も雨ですね」


 店員が気を利かせて僕とミウさんのコーヒーを一緒に運んできた。店員は僕の目の前にカップを置くと、サイフォンから温かいコーヒーを注いだ。カップから立ち上がる香りが心地よい。

「僕、この前ここに来たのはたまたま雨に降られたからなんです。そしたらどのテーブルにも透明な丸い物体が置いてあって、なんだこれって」

 ミウさんはくすっと笑った。

「サイフォンで淹れるお店なんて、この辺にはないですもんね」

「ええ」

 ミウさんは白い指でコーヒーカップを持ちあげ、少し口に含んだ。その後は音をたてないように皿の上に置いた。


「昔ね、私の祖父がサイフォンでコーヒーを淹れていたの」

「それは通ですね」

「ヒーターじゃなく、アルコールランプで温めるんです。フラスコの中のお湯が重力に逆らって上がっていって、今度はコーヒーになって、ふわっと下りてくる。理科の実験みたいで楽しかった」


 ミウさんは目を細め、白い指でフラスコの丸い底をそっと撫でた。

 子どもの頃の大切な思い出なのだろうが、指の動きは艶めかしくも見えた。


「このお店ね、彼が、……いえ元カレが連れてきてくれたんです。駅の喫茶店にしては雰囲気がいいでしょう?」

 ミウさんは店内を見回すと、テーブルに置かれた折りたたみ傘を見た。

「この傘、元カレのものなんです。前、会った時はちょうど別れ話をしていたの」

「……」

「遠くに転勤になった、一緒に来られるか、って。私、決められなくて」

「そうだったんですか」

「でもね、どうして私がついていかないといけないのって言ったんです。だって、彼が残る選択肢もあるでしょう? 仕事を辞めるとか」

「はあ、まあ、確かに」

 急に勝気な口ぶりになったミウさんが少し可愛らしく思え、僕は見も知らぬ彼の心情を推し量った。キャリアを大事にするのは男性も女性も同じだ。ミウさんは肩ひじ張った女性には感じられないし、いろんな小さなことに真面目に取り組んできたんだろうと、良いように推測した。

「だからね、もう会うことはないと思うから、返せません」

 ミウさんは困ったように笑い、そのあと寂しそうな顔をした。


「この傘、」

 コーヒーの香りに脳が活性化された気がして、僕は少しだけ強い声を出した。

「彼に返してあげて下さい」

 テーブルの真ん中に置かれた青い傘を、ミウさんの方にぐっと押した。


「とてもいい傘なんです。多分あの、知る人ぞ知る、老舗の傘屋さんの。梅雨に入ったし、彼、この傘を探しているかもしれない」

 ミウさんは、青い傘をじっと見つめていた。

「もっと彼と話し合った方がいいと思います。離れ離れになってもオンラインで話したり、週末に会ったり、いろんな手段を使って遠距離恋愛を続けているカップルもいますよ。諦めずに、仕事と恋を両立できる方法を彼と考えてみたらどうでしょうか」

「でも」

「だって、まだ好きなんでしょう? 彼のこと」

 不躾だとは思ったが、率直に訊いた。彼女のために、僕自身のために。

「……」

「お会いしたことがないのでわかりませんが、この喫茶店を選び、上質シックな傘を持っていた彼は趣味がいい人だと思います。些細な仲たがいで離れてしまっては惜しいと思いますよ」


 その彼が選んだミウさんも、きっと素敵な女性に違いない。儚げに見えたが、自分をしっかり持ち、それ故に悩んでいる姿は魅力的だった。


 ミウさんはためらいながら青い傘を手にした。

「この傘、持っていってもいいかしら」

「勇気を出して」

 僕は無責任にミウさんを励ました。


 ミウさんは携帯の時計を見ると、

「私、もう姪のお迎えに行かないと」

 折りたたみ傘をバッグにしまって立ち上がった。

「あの!」

 僕はミウさんの後ろ姿に声をかけた。

「もし、なにかあったら、またここで会いましょう」

 ミウさんは振り向いて微笑んだ。

「ありがとう」


 そして店のドアから出て行くと、窓の外にまた赤い傘が現れた。ミウさんは僕に向かって小さく手を振った。

 細かい雨の粒子がミウさんを包み、赤い傘は軽やかに揺れながら消えていった。


 赤い傘が見えなくなると、僕は白いコーヒーカップに手を伸ばし、琥珀色のコーヒーをすすった。コーヒーはすっかり冷めてしまったが、おかげで味の輪郭がはっきりわかった。胸に広がる強い苦味は、コーヒーのせいか。


 何やってんだ俺、必死に話しちゃって。バカだな、彼女を慰めて親しくなったりできただろうに。

 口の端からふふっと笑いがもれた。


 その後しばらく喫茶店に通ったが、ミウさんと会うことはなかった。

 僕はサイフォンで淹れるコーヒーが好きになり、自宅にサイフォン式コーヒーメーカーを購入した。そしてたまに喫茶店を訪れ、マスターに淹れ方や豆の特徴などを教えてもらっている。

 ミウさん、彼氏と上手くいっていればいいのだけど。

 サイフォンでコーヒーを淹れるたび、彼女の面影がよぎる。


 取引先に向かう途中、蒸し暑さを感じて空を見上げた。明るい陽射しの日が増えてきた。

 梅雨もそろそろ明けそうだ。

 でも僕は心の中で、あと少しだけ降り続いてほしいと願った、

 あの美しい雨が。



 *The End*

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A Mythtical Girl~ミスティカル・ガール 光村涼 @mitsumura_ryo

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