ペアレンツ・コネクト

坂崎 座美

ペアレンツ・コネクト

 その日の東京は雨だった。


 大雨というほどのものでもないが、外に出るのは少し億劫になるほどの降水量が窓の一面を灰色に染める。こんな日は特に四畳一間の部屋から早く出たいものだと切に思う。


「ねえー。暇だよー。おじさん」


 散らかった部屋に似つかわしくない少女がぐずる。テレビも置けない部屋に籠りきりでは無理からぬことだろう。


「千夏、無理言うな。俺は車も持ってないんだ」


 半袖の大男が答える。こちらが部屋の主のようで、乱雑に入れられた食器や煩雑に積まれた本も彼の部屋と聞けばしっくりくる。


「借りればいいじゃーん。ここ東京だよ? レンタカー業者なんて吐いて捨てるほどあるでしょ」


 着ている薄桃色のワンピースが演出する清楚さもかすむほどの暴言に男は頭痛を覚える。小さいころから、それこそ小学生のころから言動がほとんど変わっていない。


「勉強でもしたらどうだ。受験生だろ?」


「余裕だよ。前の模試も良かったし、志望の高校の受験はまだまだ先だし」


 足を前に投げ出してつまらなさそうに言う。きっと何度も同じことを言われてきたのだろう。おじさんまで同じことを言うのとその目が語る。


 男は言葉に詰まった。うっすらと、それでも確かな罪悪感が芽生えるのも無理からぬことだろう。実のところ、男はかなりお人よしだった。きっと男自身は決してそうは認めないだろうが。


「まあ軽借りて、どこか行くか」


 男の財布事情はかなり苦しかったが、少女のわがままに使うのはやぶさかではなかった。それは彼なりの愛情表現で、不器用ながら彼女を喜ばせたいという思いに嘘はないのだ。


「そうこなくっちゃ」


 そう言って笑う少女はもはや先の失言のことなど忘れているかのようで、その笑顔が見られるのなら数千円の出費は痛くないと思えた。




「なんかタバコ臭くない?」


 確かに古い軽自動車からはそこはかとなくタールの匂いがしている。


「言われてみれば……」


「まあおじさんも最近加齢臭が……」


「やめろ」


 この年代の男性に言ってはいけないことランキングでかなりの高順位が期待できそうなワードを発しかける。おそらく男は少女からそれを聞けば二度と立ち直ることができないだろう。


「あはは、まあいいよ。頑張って借りてくれたんだもんね」


「違えよ。余裕だよ。こんなもん余裕だ。大人の財力を舐めるなよ」


 精一杯の虚勢を張ってみせるが、少女は男の懐事情をよく知っている。


「いや、一万円札差し出すとき手震えてたよ?」


「いや、うん。一万円は大金だからね。しかもそのおつりがあれだけ……」


 重ねて言うが男はかなり貧しい。家計は常に火の車で借金がないのはある意味奇跡だった。心なしか意識が遠のき、目線も遠くなっていく。


「うん、なんかごめんね」


「謝るな」


 中学三年生にお金の心配をされては中年おやじの立つ瀬ががない。どんなにつらくても、具体的には明日からもやし生活が数週間続くとしても、払わなければならないコストというものもやはり存在するのだ。男はつまらない意地を張ることを選んだ。


「どこに行きたい?」


 適当な幹線道路まで出る道すがら男は少女に尋ねた。そう遠出はできないが、車があればきっと少女の望むところまで行けるだろう。


「雨が降ってないところ」


 そんなところあるのだろうか。まあ走っているうちに雨が止むかもしれない。そんなことをぼんやり考えながら、とりあえず車を海の方へ向けた。




 雨が降ってないところという難解な指示を受けた男だったが、それでもそれなりに楽しく運転をしていた。


 数年ぶりの運転ではあったが問題なく運転できそうだ。走り始めて一時間ほどになるが運転面では危険なことは何もなかった。


 一方で天気の方はあまり良くない。先ほどより雨脚はやや強まって、外を歩く人はほとんどいない。都心からやや離れたがそれでもこんなに人気のない街を見れるのは雨の日くらいだろう。誰もいない歩道が、やけに不自然に見えるのも男が都会に染まった証明になるのだろうか。


「雨強くなっちゃったね」


 少し残念そうに少女は言う。車の濡れた窓の外に広がる灰色の景色はどこか目新しいだけではない。そこには根源的な悲しさと諦観と、悔恨を呼び起こす何かがあるに違いない。少女は雨の大都市に何を見出したのだろうか。


「ああ」


 少女が何を考えているのかなど、男にはわからない。わかるはずがない。男は彼女の親ではなく保護できる力もない。


「おじさんの親はさ、どんな人だったの?」


 少女の目は外を向いていて、男の目とは合わない。


「……まあ、自由な人だったよ。父も母も。俺にこんな暮らしを許した親だったしな。早くに死んだが、これでも、感謝はしてる」


 もっとまともな葬式をしてやりたかったとは付け加えないでおく。きっと少女に言うべきことではない。男のどうしようもない後悔を今更聞いても、きっと少女は律儀に胸を痛めてしまうだろうから。


「そっか。……私の親は今、何してるかな?」


「……仕事だろ」


 赤信号に止められる。すぐ前の横断歩道を母と子供が通った。小さな子供は何かのキャラの雨合羽を着て、母親と手をつないで横断歩道を渡っている。この少女にもこんな過去があっただろうか。男に分かるはずもない。


「そっか」


 それきり少女は黙り込んでしまった。




 少女の母親は男の姉。つまり少女は男の姪ということになる。男にとってあまり実感はなかったが、よく考えれば小学生くらいの子供がいてもおかしくはない年なのだ。


 少女の母は良くも悪くも男とは似ていなかった。やや極端な放任主義の家庭の中で長男と長女は両極端に育っていった。


 男は大学を中退した。高校までの成績も悪く、どうにか滑り込んだ大学での生活に耐えられなかった。


 耐えられなかった理由はいろいろある。いわゆるFラン大学を卒業したところでどうにもならないと思っていたし、先輩を見ていても実際そうだった。それに自分は致命的に何かを頑張ることができなかった。コツコツとか、積み重ねとか。そういったやり方を知らないまま中学、高校と進学して、面白いほど簡単に挫折した。


 きっかけは二年生時の留年。大して難しくもない講義の単位をぼろぼろと落とし、進級要件の単位数に6単位も足りなかった。必修も二つ落としていたので、どのみち留年ではあったが、そこで男の心が折れた。


 そのあとも前期まで大学には在籍はしたが、講義には出席できなかった。ある意味でふさわしい末路だったのかもしれなかった。努力をしない人間の人生なんてたかが知れている。当たり前のことができない人間に訪れるのは破滅しかないのはあまりに当たり前のことだ。後期に入る前に大学を中退し、部屋に一か月ほど引きこもった。


 事そこに至っても、親は男に何もしなかった。


 それは放任というよりも放置のように思えた。まるでお前に興味はないと言われているようで、他人が関わってくるなと突き放されているようで、男はひどい疎外感を覚えた。


 姉は男とは対照的だった。ずば抜けて優秀ということもなかったが、都内の進学校に進んで、偏差値60ほどの大学に進学した。弟と比べれば天と地ほどの開きができた。


 彼女は放任家庭の中でもコツコツ努力を積み重ね、時に遊び、それでもやるべきことはきちんとやった。それはつまり当たり前のことを当たり前にやったということだ。それゆえに彼女は大いに当たり前の幸せをつかみ取った。


 銀行に総合職で就職し、そのまま職場恋愛で結婚。どちらも大手の銀行に勤めているので男とは収入面で五倍ほどの差ができた。それは男にとって自分の価値は姉の五分の一と言われているようだった。


 いつもは人間の価値は金じゃないなんて言っていたくせに少し落ち込むとこうなる。そんな自分の精神を男は何より嫌悪していた。




 男が大学を中退して最初の誕生日に姉はキャンプ道具一式をプレゼントしてくれた。よくわからないチョイスだったが、貰ったものに文句をつけるほど腐ってはおらず、一度使ってみた。


 男は瞬く間にキャンプにはまり、バイトをしながら金がたまれば各地のキャンプ場に赴いた。時に親の車を借りることもあったが、せいぜい気をつけろと声を掛けられるくらいだった。


 親を心配させたいなんて普通は幼稚園で卒業する欲求だろう。一度家出して、怖くなって家に帰って、心配していた親と泣きながら抱き合えば充足する欲求のはずなのだ。それでも男がそれを満たせなかったのは、きっとその両親の歪さというほかない。少なくとも男はいまだにそう信じている。


 男は突然ヒッチハイクで国内を一周すると言い出した。親もさすがに心配するかと思ったが、やはり気を付けてと言って十万円が渡されただけだった。


 男の所持金もやはり十万円ほど。合わせて20万円ほどで国内一周の旅はスタートした。道中のことを語っても仕方がないが、それはきっと試験や試練を避けてきた男にとって初めてのチャレンジだった。


 社会に評価されることはありえず、姉に近づくには足りず、両親の心を動かすことはない。幼稚で稚拙な冒険がそれでも男の在り方を変えるためのピースになった。




 一人暮らしをするといった時の親の顔はどんなものだったか、男には思い出せなくなっていた。それほど昔の話ではないが、きっとあの頃の男は自分のことだけでいっぱいいっぱいで、周りのことなんてほとんど見えていなかったのだろう。


 しかしそのあとの親の反応だけはよく覚えている。父親は確かに近くにしておけといった。それは就職のことを考えてかもしれないし、何かあった時のことを考えてのかもしれない。それでも男にとって初めての親からの干渉だった。


 実際には、初めてでも何でもない。彼の両親は普通の家庭よりも早く子供にかける安全のリミッターを外していったに過ぎない。


男が小さい頃は当然安全管理が徹底されていて、転べばすぐに手当てがなされていた。そういったものを見落として男は放置だと叫んでいたにすぎない。それでも男は悟ったのだ。親が期待している自立のレベルにようやく追いついたのだと。


 それから一年もしないうちに両親は立て続けに亡くなった。男にとってそれはもちろん悲しかったが、不思議と間に合ってよかったとも思った。何が何に間に合ったのかもよくわからないまま葬式が終わった。


 姉もさすがに結婚資金で貯金をほとんど使ってしまっていて、親の遺産と生命保険代から捻出した小さな葬式になってしまった。それでも男は間に合ったのだと、そう思わなければ自分の人生に本当に価値が見いだせなくなりそうだった。




 気が付けば雨は上がりずいぶんきれいな夕日が窓に映る。


 少女はいつの間にか眠ってしまっていたようで、すうすうとかわいらしい寝息を出している。


 男は小さく溜息をつくと近くのコンビニに車を止めコーヒーを買った。スマホのアプリを見せて割引してもらっているあたり、台無しな感がなくもないが。


 クーポンを使えば缶コーヒーよりコンビニのコーヒーの方が安いことも多い。宗谷岬で早朝に飲んだコーヒーもこうして買ったコンビニのコーヒーだった。あの時の肌を刺すような寒さと今の蒸し暑さは似ても似つかないが、ホットコーヒーを買ってしまうあたりあの時のノスタルジーが体に染みついてしまっているようだった。


 一口飲んでから車内に戻る。やはり外はホットコーヒーを飲むには暑すぎた。


「おじさん、おはよ」


 少女は目を覚ましたようで、目をこすりながら挨拶する。


「ああ、おはよう。お望み通り雨は上がったみたいだ」


「うん、みたいだね。ねえ海岸まで行ってよ。夕日が見たい」


 腕につけている安物の時計を見る。さすがに夜が遅くなる前には少女を家に送り届けなければいけない。車で直接家まで送り届けられることを考えてもそろそろ引き返した方がよさそうな時間だ。


「いいじゃん、すぐ終わるって。夕日なんてちょっと見れれば十分だから」


 それはそれでどうなのかとも思わなくもなかったが、ここまで来たのだからと考えて男はすぐ近くの海に向けてハンドルを切った。




 海岸につく頃には夕日は半分沈みかかっていた。無料のキャンプ場になっているようで一緒に夕日を見ている人たちが数人見える。


 互いに気にならず、干渉できない距離。おおよそ二十メートルほどの感覚を開けて夕日を見るカップルたちにならって少女と男は海岸の端に腰掛ける。


「千夏、満足か?」


「ええ⁉ まだ見始めたばっかりだよ」


「いやでも時間がな」


「もうちょっとだけだって」


 そういわれれば仕方がない。男は帰りの時間が十時を回ることを覚悟した。少女の両親に頭を下げる覚悟も決まった。




 夕日が沈み切ったのを見届けて声をかける。


「もういいな? 夕飯食べてる時間はないからコンビニでなんか買っていくか」


「……うん」


 少女はそれでもどこか名残惜しそうに立ち上がる。


「……なあ、千夏」


「うん?」


「お前、もしかして帰りたくないのか?」


「そうかも」


 男が思っていたよりもずっと自然にその答えが出てきた。男はもう一度そこに腰を下ろした。


「そういうこともあるよな」


「でも帰るよ。おじさんが怒られるのみたくないし」


「それは俺も見たくない」


 姉ならきっと男を叱るだろう。母親として、当たり前のことをきちんとするだろう。


「でも、その気持ちはわかるよ。俺も家に帰りたくなさ過ぎて旅に出たようなもんだからな」


「そっか」


「――ここはきっと星もきれいだぞ?」


「あっ、悪いおじさんだ」


 フシンシャフシンシャと物騒な言葉を連呼する少女を男は笑いながら座らせる。周りのカップルに聞こえていないかだけは注意して。


「千夏」


「うん」


「俺はかなりのダメ人間だ」


「知ってる」


「社会的に見ても人間としてみても最底辺といって差し支えない」


 男は少し悲しげな眼で続けた。


「俺はいまだにそれのほとんどは親のせいだと思ってる」


「……うん」


「言いたいことはわかるよ。お前の母親は超優秀だもんな。同じ親なのにその理屈は通らない」


「……」


「千夏が目指すべきなのはやっぱり俺じゃなくて母親で、父親だ。俺みたいになっちゃいけない」


「何それ、……ならないよ」


 少女は泣きそうになりながら、それでも薄桃色のワンピースを握りしめて答えた。


「ごめんな。ダメなおじさんで」


「ううん、ありがとう」


 男にはこれ以上のことは言えなかった。これ以上のことはきっと親が言うべきことだと思ったし、男にこれ以上少女に踏み込む勇気はなかった。


 満天が星をたたえる。東京よりもずっと澄んだ空が通す光は海に反射して、少女の顔を薄く照らした。遠くの星で燃え続ける火がきっと彼女の在り方を変えてくれる。そう信じることしか男にはできない。


 だが、それでいいのだと、男は本当に心からそう思えた。

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