後編
「藍子」って呼ばれたから、思わず「お父さん?」なんて思っちゃったけどそんなわけない。お父さんはこんなに早く帰ってこないし、あたしのことを「藍子」だなんて呼んだりしない。じゃあ――これはいったいだれ?
「いやあ。助かったよ、ホント。おれのこと藍子が見つけてくれて」
だっ、だれ?
「だれって――ほら、あのいつも通る橋の下の」
「ホ、ホームレス⁉︎」
思わず口をついて出てしまった。
部屋の中に、あの橋の下にいて死んでしまったホームレスが立っていた。正確には、床から十数センチ浮かんであたしを見下ろしていた。おまけに幽霊?
「傷つくなあ、その言い方。あらゆるしがらみから自由なフリーマンとでも呼んでくれよ」
ありえない、ありえない。ホームレスだなんて、ユーレイだなんてそんな馬鹿なこと。あたし夢を見てるんだ。もう一度寝直そう。そして、この悪夢をあたしのなかから追い出すんだ。
「まてまて、追い出されちゃかなわんし、そんなことでおれは追い出せないよ。それにおれはこの世に未練があるからここにいるんだし」
「み、未練。 あたしに?」
「そう。野垂れ死したおれのことを見つけてくれた女の子が、いつまでも悲しい顔したまんまってんじゃ、死んでも死にきれないよ」
そういってホームレスの幽霊があたしに向かって片目をつむってみせたので頭が痛くなってきた……。
「ま、この部屋を見れば、藍子が悲しい顔でいるってのも納得だけどな。中学生の女の子をウキウキした気分にしてくれる部屋じゃねーよ」
閉め切ったカーテン。敷きっぱなしの布団。埃の溜まった床。部屋の隅に積み上げられたゴミ袋。食べ残しのお惣菜。安酒のペットボトル。くしゃくしゃに脱ぎ散らかされた服。下着。この恥晒しな部屋は、幽霊の言うとおりかもしれない。
「でもよ、気は心って言うぜ……って意味が違うか。ま、いいや。とにかく、なにが悲しいかだなんて、そいつの気持ちひとつだ。元気だせよ。かなしいと思うから悲しいんだ」
「……悲しくなんて……ないし」
「さっき、『悲しくないなんてない』って大きな寝言いってたけど?」
「……」
テーブルの上に散らばっている食べかけのお惣菜。ゴミ箱から溢れ出している乾いたウエットティッシュ――やっぱり、あたしは悲しい。ひとりこんな部屋にいるじぶんが可哀想だ。どうしてあたしが。あたしだけが。
「気持ちひとつといっても、藍子の場合、まず素直になることかな。さっきみたいに、じぶんが悲しいってこともなかなか認められないんじゃ、一人じゃない、可哀想じゃないって言っても聞かないだろうからな」
「あたしは一人よ。だれも、あたしのことなんか――」
「いや、ちがうね。藍子はひとりじゃない。おれを見つけた時だって、あの女の子がいたし、警察には先生と迎えにきてくれたじゃないか」
「冬海と柊のこと?」
頭にふたりの姿が思い浮かんで胸がざわついた。
「そう。あの人たちなら、藍子のこと分かってくれそうだ」
「そんな訳ない」
冬海の両親は大変なお金持ちで、冬海自身はクラス委員を務める優等生だ。頭が良くてかわいくてクラスの人気者。あまりに完璧な女の子なものだからあたしは苦手だ。柊もそう。新しくやってきた国語の教師。熱心で生徒の面倒見もいい。教室であたしをいじめられている子がいると、きちんと指導してくれるのはありがたい。でも、所詮きれいごとばかり言う教師は嫌いだ。今日は最悪。よりにもよって警察に連れていかれたあたしを見られたなんて。二人と違い、なんてあたしは恥ずかしくてみじめな人間なんだろうと思う。
「幸せな人に不幸せなやつのことなんて分かんなんいよ」
「不幸せなやつって藍子のこと?」
「そうよ!」
「じゃあ。見てみようか。ふたりのこと」
「え」
「ふたりが幸せで、藍子のこと分かっていないのか確かめてみよう」
幽霊はすっと床に降りてきて、あたしの手をとるとぐいと引っ張り上げた。「きゃっ」あたしは布団から引っこ抜かれるように空中へ飛び上がった。幽霊の顔がすぐそこにある。血の気のない顔は髭だらけで、汚れているけれど怖いとは思わなかった。歳はお父さんくらいだろうか。繋いだ手が氷のように冷たかった。
「死んでるからね――いくぞ」
幽霊が寂しそうに笑い、青白い手に力をこめたかと思うと、あたしたちはアパートの部屋から飛び出していた。壁を抜け、屋根を突き破って、弾丸のよう空を突っ切ると、眼下に街の明かりを楽しむ余裕もなく、タワーマンションに飛び込んでいった。なになに? あたしも幽霊にてなってしまった?
「ここどこ?」
「黙って。見てりゃわかる」
部屋に明かりが点った。広くて清潔なリビングだ。タワーマンションの高層階なのだろう、大きな窓から見える街の夜景がきれいだ。重そうな木製のドアが開いて学生服姿の女の子が入ってきた。
「冬海?」
「しっ」
一緒に男の人と女の人も入ってきた。両親なのだろうか。三人は身振り手振りも激しく口論している。何を言っているのか、あたしには聞こえないけれど、真っ赤になって男に食ってかかる冬海の表情は、学校では見せたことのない厳しさだった。
「あっ」
男が冬海を殴った。ひとつ、ふたつ――それを見ている女は男を止めようともしない。知らんふりをしている。男は倒れ込んだ冬海を踏みつけようとして思いとどまった。リビングの床に花びらを撒いたような血が飛び散った。
「どうして」
「あの男は親じゃない。彼氏だ」
「!?」
「あの子の両親は離婚係争中でね。お互いに恋人のところにいて家にはあの子しかいないんだ。両親共に次の相手との生活にあの子は邪魔なんだそうだ。それが寂しくて彼氏を引き入れたのかもしれないな」
「で、でも……」
彼氏といっても大人の男じゃないか。それがあんなに冬海のことを殴って――それにあの女は。
「男の奥さんだろうね。旦那の浮気現場を押さえて、興奮したんだろうな。あの子、聞くに堪えない言葉で罵られてたぜ。同級生なんだろ。藍子には聞こえなくてよかった」
男と女は、床に倒れた冬海をおいて部屋を出ていく。リビングは明かりが落とされて真っ暗になった。――なんだったんだ。なんだったんださっきのは、冬海!
「これって幸せ? 悲しくないのかな」
「……」
「そうかい。じゃあ次だ」
幽霊は、まだ混乱しているあたしの手を引いて、床にうずくまる冬海のそば――そびえ立つタワーマンションの中から、ふたたび暗い空へと飛び出した。ごうごうと冷たい夜風を切り裂いて舞い降りた先は、あたしの通う中学校だった。もう夜の11時、学校にはだれもいないはずなのに、職員室には明かりが点っていた。
「柊だ」
ひとり職員室に残って作業をしているのは、あたしの担任の柊だった。警察署にあたしを迎えにきたあと、学校に戻ったのだろうか。机の上に山と積み上げられた書類を整理している。こんなに遅い時間なのに。
「今日、異動の内示があったんだ」
「なにって?」
「ここから遠くの学校へ転勤させられるんだ」
幽霊にそう聞かされたので見ていると、柊は書類を足元の段ボール箱に詰めていっている。
「でも、柊は去年、この学校へ転勤してきたばかりだよ」
「学校の上層部に嫌われてて飛ばされるのさ」
幽霊は手を鳥の翼なように、ぱたぱたとはためかせてみせた。
「どうして」
「この学校にいじめがあるって言い出したからさ」
「!」
「藍子だけじゃない。ほかにもいじめを受けている子はいる。彼女はそのことを公にしようとして、校長や教育委員会から目をつけられたんだ。前の学校からもそれが原因で飛ばされてる。教師仲間は距離を置いてて、庇う者のいない彼女に時期外れの異動が決まったんだ」
「どうして柊はそこまでして……」
「彼女は藍子より3つ上の娘さんを亡くしてる。いじめを受けてたって――あとで分かった」
机を整理して、つぎつぎに書類や本、ノートを段ボール箱に詰めていく柊に表情はなかった。ただ黙々と手を動かしているだけだった。
「幸せそうに見えるかい、彼女のこと。藍子の気持ち、分かんないかな?」
「で、でも!」
「じゃあ、とびきりのやつに会わせてやるよ」
幽霊はあたしを連れて、みたび空に舞い上がった。風をついてやってきたのは、さっきまであたしが取り調べを受けていた警察署だった。夜中なのに煌々と明かりの灯った警察署の壁をすり抜けると、あたしたちは長椅子の置かれた暗くて狭い廊下に立っていた。
長椅子には派手な色に髪を染めたきれいな女の人が座っていて涙を流している。そこへ男の人が現れて、二人は言い争いはじめた。女の人は怒っていて、男の人はうんざりとしていた。
「なに……これ?」
「おれの死体をどうするか揉めてんの。ミキは――女の方な――いいやつだからおれの死体を引き取って葬式しようと言うんだけど、ケージがまっぴらごめんだってさ」
幽霊は少し寂しそうに言った。ここは、警察署にある遺体安置室の前だったんだ。この安置室の中にホームレスの死体がある。
「こう見えておれ、あいつらとバンド組んでたんだ。パンクだよ。これでもちょっとは人気があったんだ」
とてもパンクロッカーには見えない。ホームレスで、幽霊で、そして、さえない中年のおじさんだ。
「ずっと5人でやってたんだけど。おれ不器用だから。あっちでもこっちでも人とうまくやれなくて。良いところまでいったんだけど、一人抜け、二人抜け……。バンドは解散するし、友達はいなくなる、挙句は橋の下で野垂れ死さ。おれが死んだと聞いたら、ファンの子たちは悲しむだろうな。彼女たちが捧げる花束であの橋の下は溢れると思うよ!」
しばらく言い合っていたけれど、男の人はいなくなり、しばらく長椅子でうなだれていた女の人も、やがて静かに廊下を立ち去った。ホームレスの死体はだれにも引き取られることはなかった。
「でも、おれは悲しくなんかないぜ。あいつらの生活が苦しいのを知ってから。あいつらがおれのこと悲しんでくれていることが分かるから」
「……」
「藍子。悲しいなんて言うなよ」
そろそろ時間だ、帰んないとな――幽霊が小さくつぶやいた。あたしの手を離すと急に姿が霞んで、小さくなっていった。いったいどうしたの。
「昨日、食料を仕入れようといきつけのスーパーに閉店間際に入ったら、半額のお惣菜が売り切れちゃってて。しまったって思ってたら、親切な親父さんからお惣菜のパック分けてもらったんだ」
いきなり話が飛んだ。親父? 半額のお惣菜? それって――。幽霊の姿がますます霞んでゆく。
「娘の分だけあればいいから持ってけよって。だから、親父さんはおれの命の恩人なわけ……って、おれは次の日には死んじゃったんだけどね。おれ、あの人の娘には笑っててほしいんだよね。おれの恩人のこと、恨んでほしくないわけ。かなしいと思うから悲しいんだ。かなしいと思うの、やめようぜ」
途端にブッとテレビの電源が落ちるように、幽霊の姿が見えなくなった。「待って」と伸ばしたあたしの手は宙を掻いて、気がつけば元のアパートの畳の縁を掴んでいた。ホームレスの幽霊は永久にどこかへ行ってしまっていた。
その夜、久しぶりにあたしが起きているうちにお父さんが帰ってきた。ふたりでお父さんの買ってきたスーパーの半額お惣菜を食べた。「おいしいな」ってお父さんが言った。
次の日、鉄道橋の下には、いくつかの小さな花束が控えめに置かれていた。陽気なパンクロッカーが言ったようには溢れかえっていなかったけれど。花束はどれも赤や黄色、ピンクといった華やかな色で、彼によく似合っていると思った。
堤防を上ると駅から降りてきた冬海と出会った。「おはよう」「おはよ」堤防の道をふたりで歩いてゆく形になった。
「今日は遅刻しなさそうだね!」
「冬海さんって――」
「ん」
「ううん、なんでもない」
「?」
あたしは聞かなかった。目の下が少し赤くなっていたけれど、冬海は悲しそうじゃなかったから。
校門では、いつものように柊が生徒たちを出迎えていた。
「おはよう」
「おはよう……ございます」
柊は笑顔であたしにうなずいてくれた。やっぱり悲しそうには見えなかった。ふたりが悲しくないのなら、あたしもきっと悲しくなくいられそうだ。
もう、かなしむのはやめよう。
(おわり)
かなしいと思うから悲しいんだ 藤光 @gigan_280614
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