かなしいと思うから悲しいんだ

藤光

前編


 かなしいかい。

 悲しいよ。朝、ウエットティッシュで乳房を拭っているときに思った。

 

 冷たい台所の床。

 テーブルの上のスーパーのお惣菜。

 パッケージに貼られた『半額』のシール。

 少しずつふくらんでくるあたしの胸。


お母さんあんな人でも、いてくれたらよかったのに」


 積み上がった安いお酒のペットボトルを見て、思わずつぶやいた。平気。お父さんは仕事へ行ってしまっている。いったいいつ帰ってきて、いつ出かけるんだか。


 あたしは全身を拭い終えたウエットティッシュを丸めるとゴミ箱へ放り込み制服に着替えた。学校へ行くのもあと数日。もうすぐ終業式だ。


 駅の改札を出、川面に並ぶ鴨の群れを眺めながら堤防の道を辿っていけば、中学校だ。


「おはよう」

「まだ寒いね」


 同級生たちが白い息を吐いてくちぐちに言い交わすのを背中に聞きながら堤防を下りる。毎日のルーチン。中学生がたくさん歩いている堤防の道を歩くのは好きじゃない。あたしは「臭い」らしいから。川原をゆく。何人か女の子があたしのことを見ているけれど、声を掛けられることはない。ヘンな子がいつもどおりヘンなことをしているだけ。


 鉄道橋の下には、小さな段ボールハウス。大人が潜り込むには小さ過ぎる。寒さ除けに着ぶくれた脚がにょっきりと出ていた。中学生――特に女の子は、このホームレスを怖がって橋の下に近づいたりはしない。毎日見てるあたしは平気。怖い思いをしたことはない。今朝はにいるんだ。擦り切れたスニーカーのそばに、『半額』シールの貼られた惣菜が散らばっているのが見えて嫌な気持ちになった。


 そしていつものように川原を歩いて堤防を上り、校門までやってきたときに始業チャイムが鳴った。道じゃなくて、川原を歩いてくるのだから時間がかかる。遅刻はいつものこと。生徒はみんな教室に入ってしまっていて、むしろせいせいする。ヘンな目で見られることには慣れても、好きになるわけじゃないから。


「おはよう、外口とぐちさん。遅いわよ、遅刻です」

「……うす」

「もうすぐ終業式なんだし、明日は遅刻しないようにきてね」

「……」


 担任のひいらぎ。いつもあたしのこと校門でまってる。毎朝熱心なことだ。あたしのことなんかほうっておいて、もっとクラスの生徒たちの面倒を見てあげればいいのに。なんだか、あたしが柊の足を引っ張っているみたいに見えるじゃない。そのことでまた、クラスで陰口きかれたりするんだよ。


「まったく、どいつもこいつも」

「えっ?」

「なんでもない」


 ぜんたいに学校というところの住人は、先生にしても生徒にしても愉快な人たちでない。まだあと二年も通わなければならないんだと思うとうんざりする。みんなから遅れて教室に入ると、何人かの生徒が視線を寄越した。口にしなくても分かるよ。「なんだ。来たんだ」って目が言ってる。


「臭っ」

「ひー」


 席に座ると。小さく低い声にクスクスと忍笑いが重なって聞こえてきた。ほおら。はじまった。毎朝クラスのだれかが面白半分にはじめるルーチン。


「無視かよ、外口ぃ。臭えってんだろ」


 ガシッ

 椅子の脚を蹴られた。こんどは後ろの席に座っている女子だ。ガシッガシッ――と蹴られるたびに、小さく背を丸める。反応しちゃダメだ。気づかないフリしてないと、かさにかかって酷いことされる。反応するから面白がられる。


 ガシッ

 このまま消えてしまえたら――。


「やめなさいよ」


 あたしの椅子と後ろの席のあいだに影が割って入った。ひときわ目を引く美人はクラス委員の冬海だった。


「外口さんの椅子、蹴っていなかった?」

「蹴ってないよ……冬海さん」

「ならいいわ」


 冬海が丸めたあたしの背中に優しく手を置いた。思わず傍目にも分かるくらいビクリと身体が動いてしまった。


「ならいいの――外口さんも、ね?」


 あたしは胸の前でぎゅっと拳をつくった。みんな嫌い。


 体育の授業は生理だといって見学した。女子生徒は鼻白んだ顔であたしのことを無視した。そりゃそうだ。もう三週間近く休み続けだ。そんな生理あるわけない。


 二月にだれかのであたしの体操服が破れてしまった。うちには新しい体操服を買うだけのお金がないので体育は見学している。体育の先生もあたしのことを放っておいてくれた。


 体育館のすみからぼんやりと授業を眺める。


 じつはもう一着体操服はあるのだけれど、いまうちの水道とガスは止められていて、炊事も洗濯もできないのだ。きれいな体操服をクラスメイトたちに汚されたくはない。


「保健室行く? 体操服だって借りられるよ」


 冬海がそばに来てそう言う。


「……いい」


 そう言ってあたしを油断させるんでしょ。

 だいたい借りても洗濯して返すことができないんだよ。ウエットティッシュじゃ体操服はきれいにならない。


 放課後、職員室へ呼び出された。柊から朝や体育でのことを訊ねられた。聞き取るならは、ほかのクラスメイトからでよくない? あたしなにもしてないのに。


「最近どうしたの? 遅刻も増えたし体育も見学続き。朝もトラブルがあったって聞いたわ」


 冬海だ。柊はクラス委員の冬海から聞いたんだろう。


「べつに」


 柊は、家で何かあったのか、食事は取れているのか、クラスメイトとうまくいっているのか、いろいろと訊ねてきた。あたしは「ええ」とか「まあ」とか適当に答える。お母さんが妹を連れて家を出て行ったこと? 仕事だと言ってぜんぜん家にいないお父さんのこと? そのくせお金がなくて水道もガスも止められてしまっていること? そんなこと聞き出して、なにがどうなるっていうの。


 長い間、根掘り葉掘り訊ねられたけれど、なにひとつ確かなことは答えてあげなかった。もともとあたしから聞き出したところで、物事の半分もわかりゃしないのだ。そのうち柊は疲れ切ってしまって、あたしは尋問から解放された。


「じゃ、今日は帰っていいわよ」

「……うす」

「暗いから気をつけてね」


 学校を出ると、外はすでに日は落ちて薄暗くなりはじめていた。普段は明るいうちに帰ることができるのに、ついてない日だと思った。部活帰りの生徒たちに混じって校門を出た。学校からの帰りも、生徒たちが使う堤防の道へは行かず、川原に下りた。ここまで来ると一人になれる。堤防の濃い影が落ちた川原を駅へ向かって歩く。今日は疲れた。早く眠りたい。


 鉄道橋の下に差し掛かる。橋脚の手前で折れて堤防を上れば駅の改札はすぐそこだ。コンクリートの階段に足をかけたところで、ホームレスの段ボールハウスが目に入った。いつもと変わりない。朝のままだ。


 ――朝のまま?


 小さな段ボールハウスの中から、泥だらけのオーバーパンツを履いた二本の脚がにょっきりと投げ出されている様子も朝のままだ。いや……思い返すと、昨日の帰り道に見た時も同じような姿勢でホームレスは寝てた。24時間もこの姿勢で? まさか。


 ――死んでるんじゃ。


 ほうっておいていいような気がした。どうせホームレスなんだと。

 どうせ?

 足が止まった。

 あたしはだれかのことを「どうせ」なんて言える子なんだろうか。「どうせ、外口だから」って言われてるあたしが。


 あたしは駅へと上る階段を引き返した。お酒のペットボトルや惣菜のパッケージ、ジュースの空き缶などが散乱してひどい匂いだ。段ボールハウスに声をかけたが返事はなかった。それだけじゃなくて明らかにその人の様子は変だった。理屈じゃあない、彼がもう死んでしまっていることは感覚で分かった。途端に、橋の下に甲高い叫び声が響き渡って髪の毛が逆立つほどびっくりしたのだけれど、その声はあたしの喉から出ていたのだった。


☆☆☆


 死体を見つけて呆然としているあたしを見つけて、警察へ通報してくれたのは冬海だった。部活を終えて駅へ向かっていた冬海は、あたしの叫び声を聞きつけて堤防を下りてきたのだ。何台ものパトカーが集まってきて、おおぜいの警察官が川の堤防を埋め尽くした。なにがなんだか分からないうちに、あたしと冬海はパトカーに乗せられて警察署へ連れていかれ、さいしょに死体を見つけたあたしは、私服の刑事から根掘り葉掘り、職員室の柊とは比べ物にならないくらい丁寧でしつこい取調べを受けた。


 ホームレスの男の人を調べ、どうやら殺されたのではなく病気で死んだらしいとわかると、あたしは数時間ぶりに取調室から解放された。怖い顔で取り調べをしていた刑事はいなくなった。


「外口さん、大変だったわね」


 取調室の外では、冬海と柊が待っていたので驚いた。あたしを家まで送っていくのだという。なんでも警察があたしの親と連絡を取ろうとしたけれど、連絡がつかなかったのでクラス担任である柊が呼ばれたらしい。


「お家まで送るわね」

「いい」

「え?」

「送らなくて、いい」

「そんなわけにはいきません。もう夜の9時を過ぎてるんですよ。暗い道を外口さんひとりで帰すわけにはいきません」

「そんなの大きなお世話なのよ!」


 学生鞄を振り上げて、バンッと大きな音がするくらい警察署の壁を思い切り殴りつけると、柊はじぶんが殴られでもしたような顔になって口をつぐんだ。


「いいからあたしのことは放っておいて」


 前に立っていた冬海の胸を突き飛ばすように押しのけると、ふたりの視線を背中に感じながら小走りで警察署の玄関を出た。じぶんのことをとても情けなくて嫌なやつだと思った。嫌だ嫌だと思いながら、やめることはできないとあきらめていた。仕方がないじゃない。これがあたしなんだから。


 夜の道をアパートまで歩く。怖くなかったといえばウソになるけれど、だれかに声をかけられたり危ない目にはあったりすることはなかった。明滅する街灯の向こうにアパートの灯りが見えてきたときは、ほっとして少し涙がでた。


 さんざんな一日だった。弱り目に祟り目とは今日のあたしのことだ。どうしてあたしだけがこんな目にあわなければならないんだ? 家族はなく、金もなく、居場所もないあたしにこの仕打ち。世の中には神も仏もいないにちがいない。でも、もう少しでわが家へ戻ることができる。最低の一日をおしまいにできる。あたしは鞄から家の鍵を取り出して、玄関ドアのノブに手をかけた。ところが……。


「かなしいかい」

「え」


 手を止めた。あたし? あたしに話しかけたの? お父さん……じゃない。聞いたことのない男の人の声だった。見回すとアパートの外階段の暗がりから、あたしを手招きする影がある。黒く汚れたダウンジャケットに泥だらけのオーバーパンツ、擦り切れたスニーカー。あの橋の下でも嗅いだつんとした匂い――


「悲しいかい?」


 電灯の明かりの下に、橋の下で死んでいたホームレスがぬっと現れて、あたしは気が遠くなっていった。


 ――さんざんな日。


 夢を見た。学校の夢だった。春の暖かい日差しが差し込む教室でみんな笑っていた。担任の柊も、クラス委員の冬海も楽しそうに笑っていた。ただ、そこにあたしはいなくって。教室にはあたしの席するなくって。こんなの悲しくないわけがないじゃない。


「悲しくないわけないじゃない!」


 目を覚ますと、あたしはアパートの部屋にいて布団の上に寝かされていた。だれかが部屋に入れてくれたのだろうか。人の気配がする。


「お、目が覚めたか。藍子」


 お父さん?


(つづく)

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