恋に狂いながら

しらす

恋に狂いながら

 人は簡単に狂うことが出来る。

 どんなに衣食住に不足がなかろうと、優しい人々に囲まれていようと、厳しく自己を律していようと、人はある日突然に、制御のしようもなく狂う事がある。

 その代表が恋というものだ、と私は思う。


 私は極端に言えば、誰にでも恋ができてしまう人間だと思う。

 性別や年齢はもちろん問わないし、実在しない人物でもときめいてしまう。好き嫌いがあるだけで、これらの条件は私にとって「恋する」ことのハードルにはなり得ないらしい。

 特別珍しい人種でもないのかも知れないけれど、ハードルが低い分だけ、私は恋したことで何度か自分を、人生を狂わせてしまった。


 その最たる恋の相手が、もう別れて六年にはなろうかという、ある男性だ。

 その恋の話をしてみようと思う。



 私が彼と出会ったのは十四年前だった。

 大学時代のことで、私はとある文化系サークルに所属して三年目だった。


 その年に入部してきた新入生の一人は、すんなり部室に馴染み、小さなノートパソコンを持ち歩いて小説を書き、よく新聞を読んでいた。どこか浮足立った他の新入生とは、明らかに違う空気をかもし出していて、しばしば注目を集めていた。仮に彼の名をTと呼ぼう。

 Tはこれと言って変わったところのある風貌ふうぼうでもなく、ただ身長が小学生並みに低い私とは正反対で、かなり背が高い人だった。彼が椅子に座り、私がその前に立たないと視線が合わないくらいで、その光景を見た他の後輩が大笑いしたくらいだ。


 そんな彼がある時、私と部室で二人だけの時にこんな事を言い出した。

「私はたぶん、もう二、三年以内には街中で銃を乱射しますよ」と。


 Tの目はいつも静かで、感情があまり顔に出なかった。そう言った時もやはり、彼の目には何も浮かんでいなかった。

 誇らしげなわけでも、私を怖がらせてやろうとニヒルに笑うでもなく、ごく当たり前に事実を述べているだけ、という淡々とした様子だった。


 その頃は無差別殺傷事件や、池田小事件の影響か、学校に犯行予告が届いたりする事が頻繁にあった頃だ。私の通っていた大学には無かったけれど、そういった事が近隣の施設で起きているという警告は見た覚えがある。

 彼の言葉も、それらの事件に感化されたものなのだろうと私は思った。


 けれどそれ以上に、私は「どうしてそこまで彼は苦しんでいるんだろうか」と瞬間的に思った。

 それは電流が流れるようなほんの一瞬のことで、本気で「銃を乱射する」と言っているTを、怖いとも気持ち悪いとも思わなかった。

 私は何を迷うことも無く、

「その時になったら必ず私に連絡してよ。そこに行くから」

 と即座に答えていた。


 Tはわけが分からないという顔をした。


 考えてみれば当然だった。特に死にたいと思っているわけでもなく、家族や恋人でもない人間がそんな返事をしたら、困惑するに決まっている。けれど当時の私は、それがごく自然な当たり前の返答のように思った。

 Tは「意味わかって言ってますか?」と首を傾げ、同じ言葉を繰り返した。私は何度も同じ返事をした。

 たぶん私は、そのとき彼に恋したのだと思う。



 Tが高校時代は陸上部にいたこと、そしてそれができなくなったのは、治療法がほぼ無いというある病気を発症したためだ、という事を知ったのはそれから少し後だった。

 その事実が彼の心にどれだけの影響を及ぼしたのかは分からないし、「銃を乱射する」という無差別な暴力を振るいたいと言い出す原因と、はっきり関係があるのかは分からなかった。

 事実を知りたければ本人にたずねてみるしかないけれど、安直にそれを結び付けられれば余計にTが傷つくような気がした。それに言葉では言い表せないような苦痛だとしたら、と思うと何も聞けなかった。

 後にその当時、Tは心のバランスを崩していたのだと、彼のお母さんから聞かされた。


 果たして私の返事が正解だったのかどうかは分からない。

 いずれにせよ私はTの事が気にかかり、色々と話をするようになった。


 理系の学部にいた彼と、文系の学部にいた私とでは、講義の内容がまるっきり違っていて、話を聞くのが面白くて仕方なかった。Tがどう思っていたのかは分からないけれど、私はほとんどミニ講義のようなその時間をとても楽しんでいた。

 彼の両親と関わりができたのも、彼から「うちの米買いませんか」と言われたからだ。


 Tの実家は米農家だった。美味しいと自慢の米だからと言って勧められ、一合もらって食べた私はすぐ母に電話した。

 私が勧めるのだからと、母は迷うことなく注文し、以来今に至るまで毎月Tの家の米を買っている。


 そんなやり取りがあって、自分の事をほとんど語らないTより、彼のお母さんから色々な話を聞くようになった。

 彼の実家と私の家ではかなり距離があったが、家まで遊びに行ったこともあるし、私と兄の両方がうつ状態に陥った時、一週間ほど滞在させてくれた事もある。



 と、ここまで話せばすぐに付き合いだしていたのかと思われそうだが、実はかなり長い間、私の片思いだった。

 なぜかと言えば、Tのある言葉が私にブレーキを掛けていたからだ。


 Tは自分の病気ゆえに、結婚しても子供は望めないと知っていた。子供を作らないとしても、配偶者にはワクチンを打つ必要があると医者に言われていた。

 そのせいか、時々彼はしみじみと、

「私は将来、この病気に理解のある人と結婚して、子供が欲しかったら施設で探そうと思ってるんです」

 と空を見上げながら口にしていた。


 もしこの言葉を、私の顔を見ながら言っていたのなら、私はもっと早く「あなたが好きです」と言えただろうと思う。

 けれどTはいつも、ずっと遠い未来の、まだ見ぬ誰かの事を考えているような顔で、私とは目も合わせずにそう言った。


 私にとっては彼の病気など、結婚の障害の「し」の字にも思えなかった。それに周囲が自分をどう思うかを理解して、それでも将来への展望を語る彼の支えになりたい、という気持ちが強かった。

 けれど明後日あさっての方向を向いて語られる言葉は、Tにとってその相手は私じゃないと、そう言われているようなものだった。



 だから実際に付き合い始めたのは、Tも私も大学を出てからだった。

 パソコンのチャットツールやメールで、時には訪ねて行って付き合いを続け、一年くらいした頃にやっと告白した。


 この時すでに二十代の半ばだった私は、地元に同年代の知り合いがおらず、このままでは一生独身になるのではないかという気がしていた。

 それに私は、すぐに誰かに恋しては諦めたり破れたりするのが常だった。なのにTだけは長い間想い続けていて、その間、他の誰にも恋をしなかった。諦める事すらできなかった。


 そんな私に対するTの最初の返事は「分からない」というものだった。

 六年思い続けてもらう返事としては、がっくり来るのに十分なものだった。予想はしていたけれど、彼にとって私は先輩か友達のようなもので、その一線を越える相手と考えた事がなかったようだ。


 それでも全く考えなかったわけでもないらしく、迷っている様子に、更に私は一年待った。

 そこで私は、これ以上は正直待てない、という気持ちをはっきりと伝えた。私と彼の年齢はたった二歳の差だが、それでも人生のパートナーを考える時期としては遅いという焦りがあった。

 そこでやっと、「じゃあ、付き合いましょうか」という返事をもらった。



 こうして長年の片思いが決着し、ようやく始まった付き合いは、しかし二年で終わりを告げた。

 最初の切っ掛けが何なのかは、私にもよく分からない。

 というよりもその頃は、ありとあらゆる記憶が曖昧になっていた時期なのだ。


 鬱になった兄が実家に戻って来て、様々な事情から夜に眠れなくなってた頃か。

 当時働いていた店がブラックで、家の状況の相談もできず仕事中に失神する事が続き、にも関わらず店長には仕事を増やされていた頃か。

 仕事を辞めて病院に通い始めたものの、薬の影響と今までの疲れで寝たり起きたりを繰り返していた頃か。


 この時期もTとの付き合いは続いていたし、彼の方から車で私の家まで迎えに来て、あちこち連れ出してくれた記憶がある。前述のとおり彼の実家に一週間お世話になったことも覚えている。

 けれどその全部が順番通りには並んでいないような気がするし、私はいつも何かに怯えるか不安な状態で、Tからチャットやメールの返信が無いと、何度も泣いた記憶がある。


 私がずっとそんな状態だったせいだろうか。Tは徐々に私と距離を置くようになった。

 そして決定打になったのが、二人だけで出掛けた二泊三日の旅行だった。



 二日目のホテルの中で、Tは無邪気に抱き付いていた私に「この状態はすごい生殺しなんよ」と、初めて素直な言葉を聞かせてくれた。

 付き合いだしてもほとんど敬語のままだった彼が、本当に恋人にささやくようにそう言ったのだ。


 私は内心びっくりしながらも、体に触っていいよ、と服を脱いだ。

 ワクチンを打っていない私とは性交は出来ないけれど、触るだけなら大丈夫だからと思ったのだ。

 が、もちろんお互い若い男女だ。それで済むはずもなく、結局避妊具を取り出して事に及びかける所まで行った。


 別れの決定打はそこだったのだという気がする。


 その時、Tはどうしても私を前にすると萎えてしまって、最後まではできなかったのだ。

 抱き合って触れ合って、心地良さに「入れたい」と切ない声を出しながら、けれど何度試みても入れることは出来なかった。結局、二人とも疲れ切って諦めることにした。

 けれどその時の私は、初めて見る彼の姿が愛おしくて、その後の事など想像もしていなかった。


 帰宅してから数日後、ある日を境に突然、チャットの返事が全く来なくなった。

 旅行に出たのが暑い八月だった事は覚えている。それから十一月までの三か月の間、いくら声を掛けても返答はなかった。

 母には仕事が忙しいのだろうと言われたが、私は不安と寂しさで気が狂いそうだった。



 誰に相談すればいいのか分からず、私は心細さからネットの知り合いに相談してしまった。

 その人には「そんな苦しい恋をしてないで、別れた方がいいよ」と言われた。

 どうしても辛くて逃げたかった私は、素直に頷いてしまった。そしてTのチャットとメールにこう書いて送った。


「これから二週間のうちに返事をくれないなら、私はもう別れたんだと思うことにするよ」


 予想通りと言うべきか、返事は来なかった。


 後に話をしたTの弁解を信じるなら、彼がそのメールに気付いたのはそれから二か月も後だったという。

 とっくに期限の過ぎたそのメールを見て、彼はもう別れたことになったのだと思い、一月後には気持ちの整理をしてしまったそうだ。


 けれどもし、私がTと同じ状況になった場合、一言の返事もせずに諦めるだろうか、と思う。


 実際私は、彼から返事が来なくても、やはり諦めることはできずにいたし、今でも心の隅で憎からず思っている。

 私と同じように想えとは言わないけれど、もし本当にTが私を好きだったなら、期限が過ぎていようが何だろうが、慌てて連絡するだろうと思うのだ。


 だからきっと、私がTの恋人だったのはあの旅行の夜までだったのだと思う。


 Tはおそらく、私の事を恋愛感情や情欲を感じる相手ではないと、そう気が付いてしまったのだろう。

 それは私も薄々感じていた事だった。彼は私に恋をしているのではなく、母性に等しいものを求めているだけなのだろうと。

 分かっていたのに、別れの時が来るまで、いや別れても恋する心は止まらなかった。



 今思い返せば、私はなんと愚かな人間なのだろう、と思う。

 恋をしてから別れるまで、八年ずっと真剣に狂っていた。

 そもそもが「銃を乱射する」などという言葉で恋に落ちたのだ。最初から狂っていたのかも知れない。

 途中でいくらでも止まれただろうと、今なら言える。でもそれは今だから言えることで、当時の私にそんな余裕は微塵みじんもなかった。


 そんな自分を少し自嘲じちょうしながらも、私はやっぱり人間ってそんなものだろうと思う。

 恋をすれば人は狂うし、狂うから人は恋をするのだと。

 そしてきっと、私は何度この恋を思い返しても、後悔だけはしないだろうと、そう思うのだ。

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