あれから、いろいろな形の月が私の空に現れた。

 運命は幾重にも枝分かれしていて、別の道もあるのだと誰かが教えてくれていたら……ということはほとんど思いつかない、というのが私たちの人生なんだ。少なくとも、私はそう思い込んで生きてきたに違いない。後悔こそが私に似合いのテーマであると。

 あれから、いろいろな形の月が私の空に現れた。でもそれも、あの夜以来、すべて同じように見える空虚な一枚の絵になった。


 今夜のメニューはナスのグラタンだと調理の牛嶋うしじまさんが告げると、同居人たちは年甲斐もなく子どものように喜びの声をあげた。

 それからはじまった服薬の確認、ぶつかる食器、引きずられる椅子──。私は一人、テーブルから離れて、漆黒を映している窓ガラスに見入った。美しいものはいつもこの施設の外にある──そうやってねじ曲がっているところが私の気質そのものという気がしたが、若いころからずっと、遠い世界、あり得ない現実に焦がれてきたのかもしれない。あの三日月の光の下へ行けた栃原とちはらを羨ましいと思うくらいに。


 昼間にトランプをやっているといつも口を挟まれるということで、「あんたの兄さんはほんとにうるさいわよねぇ」と、私に絡んでくる天野あまのさんが、よりにもよってその兄・庸介ようすけと向かい合って座っている。二人してぼそぼそと通夜の席のようにうつむいてグラタンをつついている。天野さんは舌を火傷したのか何度も湯呑みのお茶をすすっていた。虫の声が耳に届くようになると、私の意識は完全に個となり、たまらなく外へ出たくなってきた。初冬といえども、まだそれほど寒くはないはず。


樹里絵きりえさん、ご飯食べないの?」


 職員の舌間したまさんの呼びかけを無視して、戸を開けて中庭へ出た。県道を走る車の音と虫の声が一層高くなり、闇に横たわっている死人のような草を眺めた後、空を見上げた。分厚い雲の切れ間に、輪郭のぼやけた月が見えた。


 この施設に来てから七年。私はあの月のように孤独な年寄りだ。

 三十年前に立てた三日月を用いた誘拐殺人計画のことだが、あの後、アップサイクルの講座で、佐郷さごうさんは手のひらサイズのスケッチブックを持ってきて、私に見せた。そこには色鉛筆で優雅に描かれた夜空と三日月があった。

 佐郷さんの計画は──佐郷さんにとっては絵本の制作、私にとっては元恋人の抹殺というれっきとした差があったが──絵をプレゼントすることで、相手が月に招かれる動機を発生させられる、ということだった。

「人間、プレゼントと言われたらすんなり受け取るものでしょう?」と佐郷さんはにこやかに言った。「高価な物なら遠慮したり裏を考えたりするものですが、親しい相手から手作りの物をプレゼントされたら、断れないはずだ」

 私は佐郷さんの絵にひと目で魅せられた。頭も良い上に、芸術の才能まで持ち合わせているのか、この人は。「素敵な絵を描けるのね。額に入れて飾りたいくらい。まさか、私に見せるためにわざわざ?」

 佐郷さんは照れ笑いした。「いや、絵本って大人にも人気じゃないですか。大人が改めて童心に立ち返るとき、人生に対する哲学的な発見がもたらされることもあるんじゃないかと。そういう考えに至って、僕も興味を惹かれまして」

 この絵が招待状となり、三日月の世界に導かれていく……か。実際はファンタジーを隠れ蓑にしたサスペンスなのにね。私が考えた「釣り」のアイディアよりスマートではあるな。

「僕は昆虫が好きなので、自分で昆虫図鑑も作っているんです」

 佐郷さんは別のスケッチブックもバッグに忍ばせていて、それも取り出して見せてくれた。様々な昆虫がこれもまた色鉛筆で描かれていて、どこで発見したとか、図鑑で調べた名前や特徴などが細かに書き加えられていた。

「すごいすごい。本物の図鑑は気持ち悪くて見たくないページが多いけど、これならずっと見ていられるわ。種類別じゃなくて雑多なところもおもしろい」

「ありがとうございます」佐郷さんは相好そうごうを崩した。

「ねえ、これ、カラーコピーをもらいたいんだけど、コピーを取っても平気?」

「え? まあ、いいですけど」

「絵を描くときの参考にするだけ。勝手に売ったり借用したりしないから」

 三日月の絵もよかったらどうぞ、と言われたが、私の目的を佐郷さんは知る由もない。いつか話してくれた「走光性」のことが私の頭に残っていた。それを利用して、ついに栃原を月の世界へ連れ去る方法を思いついたのだ。

 佐郷さんの昆虫の絵の中から「走光性」の特徴を持った虫を探し出して、その絵を栃原にプレゼントする。カラーコピーを額に入れてみたら、本当に部屋に飾りたいと思えるような立派な物になった。栃原のマンションに届く差出人不明のプレゼント。新しい恋人からだと勘違いして嬉々として受け取る彼。人間も「走光性」を持っている生き物だそうだ。




 あれから、月に浮かぶ陰気な模様を見るたび疎ましい感情がつきまとうことにはなったが、栃原への想いは私の中から消えた。

 施設の同居人たちとトランプや麻雀をすることはほとんどなかった。協調性がないと言えばそれまでだが、一人で本を読んだり物思いに耽ったりすることの方が好きだ。兄の庸介も昔のままの偏屈さを発揮して、「おれはギャンブルなんてやらないから」と突っぱねて、仲間に入らないでいる。

 佐郷さんのことだけ、よくなかったな、と苦い思いが残った。彼とは数回、互いに食事に誘うような仲になったが、ただそれだけ。「月がいつも同じ面を向けていることには意味がある」と、最後に会ったときにはそんなテーマに取り憑かれていた。

 年に一度、十五夜の季節になると、同居人も職員も月を話題にし、揃いも揃って愛でるわけだが、その日ばかりは私だけ月に背を向ける。

「月に浮かぶ模様は、××という国ではさ、神の教えに背いて追放された罪深い男の服なんだってよ……」

 他愛のないおしゃべりに息が詰まり、一人になったらなったで手持ち無沙汰になるので、例の誘拐殺人について、別のアイディアがないものかと、そういうことを考える時間に充てている。やり直せるなら──やり直せたとしても、やはり栃原に惹かれ、愛して、私たちは無駄に傷つけ合い、同じ結果へと辿り着くだろう。でも佐郷さんを巻き込むことだけはやめよう。彼の絵はどれも好きだったけれど、手元に残せなかったことも残念でならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三日月を伸ばしたくて 崇期 @suuki-shu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画