後編
数か月経った夏の陽射しがうるさい日。
町中の木という木で騒音を立てていた蝉の唸り声が、夜になっても耳に、脳裡にこびりついて離れない。
それでも期末テストの勉強をしようと、手始めに漢字問題の確認をしていた。
「そんなことより、数学の成績が不安ならそっちを先にやってしまいなよ」
呆れたような、がらがらと不安定な低い声が蝉の幻聴と共に頭の中で聴こえた。
いつものように知らんふりで目を閉じ、『アイマイモコ』の『コ』の字が何だったかと思い出そうと記憶を探る。
アイマイモコ、曖昧模……胡だっけ、湖だっけ、いや違う。
ふと思った。弟はこんなに低い声を出せていただろうか。こんなに抑揚をつけて喋っていただろうか。
……声変わり?
「ほら、俺に気付いているじゃないか。漢字なんて大体どうにかなるし数学を先にやりな」
わたしが無視しきれなかったのをいいことに、更にわたしの邪魔をしてきた。
「邪魔したいわけじゃないんだよ、仁奈が心配なんだ」
いけしゃあしゃあと、以前と似たような言葉を言い放つ。
手のかかる妹に言い聞かせるように。
――ひょっとして。
「ねえ、一也」
「なんだい、仁奈」
柔らかくて棘のない低音。
いつの間にこんなに、表情豊かになっていたのだろう。きっと――。
「あなた、わたしの兄にでもなりたいの?」
誕生日、同い歳になってからずっと。
「……」
額から頬にかけて汗が伝う。この部屋に冷房がないこととは関係なく。
脳内ではまだ蝉の挙げる悲鳴がジリジリと反響している。うるさい。弟にものを問うたのだ、あんたたちには何も訊いてない。
部屋に響く時計の音も、リビングで母が見ているテレビの音も、するはずなのに耳に入らない。
蝉がうるさい、うるさい、うるさい。
静かな騒音に苛まれつつ、ひたすら解を待つ。
勉強の事など頭から飛んでいた。
ただ怖かった。わたしの生んだ弟が、わたしの一部を変形させて作った人格が、切り離されるなんてことが。
弟はわたしだし、わたしの意思の中で動くキャラクターだし、とにかく弟がわたしの意思に背いて兄になるなど有り得ない。
はずなのに。
「そうだよ。俺はお前の兄になる」
淡々と告げた弟は、わたしから完全に独立した。
彼が弟であることは変わらない事実だが、兄になろうという意思があることが問題なのだ。
いや――弟がわたしの思考を読んだ時点で問題だった。何故気付かなかったんだ。
「もう俺は仁奈の思考を読まないよ。『一也』という一つの確立した人格だからね」
「だめ、だめだよ。思考を読むのもだめだけれど、勝手に自我なんか持たないで。ライ、あんたは弟。わたしの弟。わたしの一部なの」
「ライじゃないってば俺は。一也だ、お前の兄だ。何で分からないんだ」
「お前とか言わないで。一也なんて名前で長男ぶってもだめ。あなたはライ。早く前みたいに物静かな子になってよ」
「まだ俺を所有物扱いするのか!」
「所有物だよ! わたしの頭が生んだ、わたし自身の分身! 勝手な行動しないで!」
言い合いはそこからずっと続いた。
壁に掛けた黄色い時計のグレーの針が二本重なった頃、やっと二人の言葉が尽きた。
§
結局勉強は進まなかったし、全く動いていないはずなのに肩で息をする羽目になっているし、もう何も考えたくなかった。
椅子の背もたれに体重をかけてのけぞる。白い天井と円い蛍光灯が目に染みて、涙で視界がぼやけた。
その曖昧な……曖昧模糊とした景色にふと男の子の顔が浮かんだ。
わたしとそっくりな吊り目、垂れた眉、薄い唇、丸い鼻。でも髪はわたしとは違って色素が薄く、短い。
弟の顔だと直感した。そっか、こんな顔でいるつもりだったんだね、あなたは。
弟は無表情で、ただわたしを見つめていた。
わざわざ自分から目線を逸らすのも面倒でそのまま見つめ返す。
「そんなに俺が嫌なのか?」
と問うので頷いた。もう弟はわたしが望む弟ではない。
「じゃあ――どちらかが消えよう」
消える?
「そう。なあ仁奈。俺は消えたくない。だから……」
なんとなく、涙を拭った。
弟はまだ目の前に立っている。
わたしもいつの間にか立ち上がっていた。
椅子と机はなくて、壁の時計はのっぺりとしていた。文字と針を失っているらしい。本棚も箪笥もない。
ただ中央に布団が敷いてあり、わたしと弟はその上で対峙していた。
掛け布団ごと踏みつけていたので、二人の体重分の皺がそれぞれの足に向かって集中している。
夢なのかな。
「そうだよ、夢だ。でも俺にとってはこれが現実だ」
弟の顔に表情が宿った。
眉根を寄せ、鋭くわたしを睨んでいる。
薄い唇を真一文字に結ぶので更に薄く見える。
「ここからお前を消せば、俺は消えなくて済むんだ」
棒立ちのわたしに、弟はたったの一歩で距離を詰めてきた。
そして両手をわたしの目の前に掲げて、そして少し下に降ろして、わたしの首を覆った。
「消えろ、仁奈」
わたしの喉仏がぐい、と横にずれ、そこに弟の親指が食い込む。ぎゅうぎゅうと押される首は空気を肺に供給してくれない。目の前には血走った目があった。吊り目。深い、深い、焦げ茶色の虹彩。真っ暗な瞳孔。その目にだけわたしの意識は集中して、それ以外がすべてぼやけていく。ぼうっとする。
やめて、やめて、消えたくない。
「消えろ」
鉛を持たされたかのように重たい手を、必死でわたしは持ち上げる。
わたしの首に伸びている弟の腕を掴むけれど、力が強くて振りほどけない。
ならば。
お前が消えろ、とわたしは言ったが声にはならず、ただ喉が細かく揺れ震えた。けれどもそんなことには構わず、重い腕を更に伸ばし、弟の首へ伸ばす。わたしのそれよりはっきりと出っ張った喉仏に親指を置いて、そのまま押し込む。首の後ろに回した四本の指と親指で圧迫する。ごり、と何かがずれる感触がした。
わたしたちは互いの目に意識を合わせながら、互いの首を絞め、互いに殺していく。
どちらかが消えるまで。
弟の瞳が消えた、と思ったがそれは瞼が落ち、目を閉じているだけのようだ。
どっちの瞼が?
疑問が脳に浮かんだその瞬間。
§
首の圧迫感が消え、左の肩、腕、腰、足に、ガンと衝撃が走る。
「うっ」
どうにか上体を起こして辺りを見回す。
わたしは床にいた。椅子からずり落ちてしまったようだ。
右手が青い軸のシャープペンシルを握り込んでいるから、勉強をしている途中でうたた寝をしてたのだと思う。
「ア、アア」
声が嗄れて、上手く出ない。喉が痛い。でもわたしは消えていない。わたしは仁奈だ。佐藤仁奈。
ライでも一也でもない。
全身の力が抜けて、敷きっぱなしだった布団に倒れ込んだ。
今は何時だろうと横目で壁の時計に目を遣る。
五時三十五分。
いつも起きる時間より一時間半早い。しかし全く眠気はなくて、かといってきちんと寝た爽快感もなくて、ただただ一つの感覚があった。
――弟の暴走から逃げきったという実感。
目を閉じて、恐る恐る弟に話しかけようとした。
「一也?」
そのつもりは無かったのに、声に出てしまった。
というか、今までどうやって彼を呼び出していたんだっけ。
わたしは、弟とのコミュニケーションの方法の感覚をすべて忘れてしまっていた。
どうやって話していたのか、どうやって話しかけてきていたのか。もう何も分からない。
覚えているのは弟と何を話してきたか。
そしてその時弟が何を考えていたのかも――これは覚えているというより、思い出したという感じか。
そして知った。弟はもういないけれど、ちゃんとまだいることを。しかし完全に消えたというわけではない。弟がわたしから離れる前に戻っただけ。
さっきまでの殺意に溢れた弟の顔を思い出し、かつての物静かな弟の声を思い出し、生まれてすぐのわがままな弟を思い出す。
涙は出なかった。
ただゆっくりと、弟と共に、一つの身体で呼吸していた。これからもずっと。
Fin.
わたしの弟 黎井誠 @961Makoto
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