わたしの弟

黎井誠

前編


 弟はわたしが十歳の時、夏休みのうちに生まれた。名前はライだったが改名した。ライと言う名でも改名後の名前でも、語っていると混乱しそうなので「弟」で統一しよう。


 とにかく弟が生まれた。この家にわたし以外の子供がいる。しかもとても幼い。どう扱えばいいのやらさっぱりわからず、てんやわんやする毎日だ。

 とにかくすぐに泣く。

 その原因を探るのも難しいし、原因が分かってもうまく対処できずに余計に泣かせることもある。


 離婚したばかりで新生活に慣れていない母を当てにすることはできず、わたしがどうにか世話をするしかなかった。


 しかし自分なりに弟に対応して数か月すると、彼のいる生活にも慣れていった。

 彼の欲望は基本的に「遊びたい」なので、わたしの手が離せないときは簡単な計算問題を与えておけば、しばらくそれで遊んでくれた。とはいえ答え合わせはわたしの役目。


 弟は生まれた時から五歳だった。

 その為、最初からある程度の言葉は喋れていて、すぐにわたしと同じくらいに話せるようになった。


 計算問題も最初は繰り上がりの計算すらできなかったのに、二桁と二桁の足し算と引き算を暗算で出来るようになり、終いにはわたしの教科書を見て九九も習得し、二桁と一桁の掛け算にも手を出していた。


 こうして五歳だった弟は、十二月には九歳になった。

 彼のわがままな幼少期はすぐ終わり、自分から喋ることがあまりない、物静かな子供になった。

 しかしわたしが話しかければ返してくれたし、話が盛り上がって夜遅くまで話し込んでしまうこともあった。

 同級生たちの弟の話を聞いていると、弟という生物はみんな生意気なイメージがあって身構えていたので、少し拍子抜けした覚えもある。


 どちらかというとわたしと弟の関係は、姉弟より姉妹の方が近い気もした。

 とはいえ弟は弟だ。生み出した本人でさえ、時々弟の存在にゆらぎを感じていたものの、間違いない。


 数年が経ち、わたしは中学生になっていた。

 部活は一番お金がかからなそうだった文芸部を選んだ。


 そして春が過ぎるか過ぎないか、そんな曖昧な季節に十三歳の誕生日を迎えた。


 ――そうだ、この日から『ライ』の様子がおかしくなったんだ。



 §



『になちゃんへ』とわたしの名前が書かれたチョコレートプレートと、どこまでも鮮やかに赤い苺の乗ったケーキ。

 白いホイップクリームが照明の光に当たって、つやつやとほんの少しオレンジがかった色を反射している。

 二人だと到底食べきれない大きさなので、それぞれ一切れずつ食べたあと、冷蔵庫で保管し、少しずつ消費していくのがいつもの流れだ。いつもの、といっても二人で暮らすようになってからの数年だが。


 ポップな色の蝋燭に灯された火をすべて吹き消した瞬間、


「十三歳おめでとう、仁奈にな。僕も十三歳になったよ」


 脳内でボーイソプラノの声が響いた。弟の声だった。初めて自分から喋ったなあ。弟に向けて、


「ありがとう。ライも十三歳おめでとう」と声に出さずに返す。わたしの言葉にまた弟が言う。


「僕は今日からライじゃない。一也いちやだ」


「え?」

 思わず声に出てしまった。リビングのローテーブルの向かいに座っていた母が怪訝な顔をする。


「どうしたの」

「あ、えっと、蝋燭これ十二本に見えちゃって」


 咄嗟にケーキを指差した。蝋燭の火は消えたばかりで、まだ細長い煙がゆらめいている。

 弟のことは母に言えていなかった。言いたくなかった。心配されたり、病院に連れて行かれたりしたくないのだ。毎日忙しそうな母に迷惑をかけることだけは避けたかったから。

 それに弟は物理的な体がなくても、わたしの頭の中にいるからそれは存在しているのと同じことだ。

 だがそれを言っても妄想だと言われるのは目に見えている。


 母が身を乗り出して、蝋燭を一本一本、「いち、に、さん……」と数えながらケーキから抜いている。

 その髪に白いものがきらりと目立ち、つい目を反らす。


 わたしは声に出さないよう努めながら、弟に

「いきなり何なの。名前を変えるなんて」と尋ねた。


「ライなんて名前、普通じゃないだろ。だから変えたくなったんだ。で、どうせなら同じ年になったときにしようかなって」


「だとしても、いちや? だなんてつまらない名前にしなくても良いじゃない。ちょっと苗字っぽいし」


 わたしは文句を垂れた。

 ライという名前を付けたのはわたしで、それを随分気に入っていたからだ。特別で、他に無くて、でも呼びやすいように、と。そんな名付け親としての心境を語ろうとしたら、


「やっぱり十三本だよ」と、蝋燭をすべて抜いた母が言ったので、

「そっか、数え間違えちゃった」とわたしも笑って言った。この隙に弟は声をかけても届かなくなっていた。



 §



 誕生日ケーキは毎年同じで、特別なのに安心感がある砂糖の味だった。

 舌で液体と化してべたつくクリームと、パンとは全く違うふわふわとした食感のスポンジ。

 融けて落ちた水色の蝋をフォークで掬って皿の端に避けて食べ進め、ちょっとだけ気持ち悪くなった頃に丁度ケーキ本体を食べ終えた。

 残しておいた苺をフォークで刺して口に運び、その酸味で吐き気を解消させる。


 ごちそうさまでした、と手を合わせると母がお皿を下げてくれた。今日の家事はわたしの担当なのだが、誕生日くらいはいいよ、と夜にやることは母がやってくれることになっている。

 歯を磨き、お風呂で湯船に浸かっていると、再び弟が声をかけてきた。


「仁奈、もう僕をライと呼ばないこと。いいね?」


 有無を言わせぬ勢いだった。語尾こそ上がっているが、その調子は強い。


「そんなに嫌だった? その名前」

「嫌というか、一也って名前になりたかっただけ」


 わたしが一也という名に反対しなかったことに安心したのか、弟の口調は少し緩んだ。

 正直に言うと、ずっとライという名でいて欲しかったのだが、本人が望む名前の方が良いだろう、と自分を納得させる。


「それとね、仁奈」


 優しく弟が言う。


「何?」

「同い年だし、だったら僕は弟じゃなくてもいいんじゃないかなって思うんだ」

「双子みたいな感じ? だとしてもライ……一也はわたしより後に生まれたから弟でしょ」


 そろそろ湯気に息苦しくなってきたので、わたしは湯船から立ち上がって浴室を出た。

 弟がまだ何か言おうとする気配を感じたが、のぼせないことがわたしにとっては優先だった。



 §



 次の日から、弟が随分と喋るようになった。

 わたしが何かしようとすると必ず口を挟むのだ。


 料理をしているときに「この手順を先にやる方が効率いいよ」とか、ピンチハンガーに洗濯物を干しているときに「それだとバランスが悪いって」とか。


 勉強をしているときのアドバイスは有難かったが、それは分からない所があるときだけだ。

 学校にいるときに出てこないのが本当に救いだった。教室で突然、その場にいない弟に怒り始めてしまえば、「からかい」の種を与えて、更に苛烈にさせるだけだ。


 口を出されるのは小さいことばかりだったので、口を出したい年頃なのかな、などと数日間は暢気に構えていたが、とうとう我慢できなくなる出来事があった。



 家事も宿題も終わった部活のない日の夜。

 母の帰りを待ちつつ、リビングの座椅子にもたれ、わたしは天井をぼんやり見つめていた。

 クラスで起きている諸問題についての解決方法を頭の中でぐるぐると考えては却下し、思いついては取り消して、閃いてはやめて、と生産性のない作業を繰り返しながら。

 すると弟が突然、


「やっぱりさ、先生に言うのが早いって。無理なら教頭とか校長とか教育委員会」


 と言ってきた。

 わたしは一瞬、まばたきを忘れた。


「は?」

 間の抜けた声が口から飛び出た。

 話しかけたわけでもないのに、勝手に反応されたのは初めてだった。


「なんで……」

 そう言うのが精いっぱいだった。実際に声が出ていたのか、それすらもわからない。ただ問うた。


 どうして。わたしの、わたしだけの考えが。今まではわたしが言おうと思ったことだけが伝わっていたのに。わたしの思考そのものを読んでくるなんて。


「何だよ、今更。最初から全部聞こえてるよ。俺の思考だって、仁奈は知っているじゃないか」

「それでも、反応しないのが筋ってものでしょ!」


 わたしの思考も弟の思考も、根っこの部分で繋がっている。だからそこからそれぞれの考え方を読みに行けるのだ。

 けれどもわたしはそれをしてこなかった。それが当然のことだと思っていた。プライバシーみたいなものだ。

 鍵がかかっていなくても、母の引き出しを勝手に開けないのと同じ。でも。


 ――弟は開ける人なのか。


「そんなこと言ったって、仁奈が心配なんだよ、俺は」

「心配だとしても、人の思考に土足で踏み込まないで。デリカシーって知らない? というかそもそも、最近うるさいよ。上から目線で助言でもしているつもり? そんなもの要らない。鬱陶しいよ」


「……分かってくれないか」


 諦めたように吐き捨てられた。


「ちょっと、一也。何なの自分は悪くないみたいに。……聞いてる?」


 返事はない。会話をやめたいらしい。勝手なものだ。

 肚の底にもやもやと熱が溜まっている感覚がするので、解消する手立てはないかと立ち上がる。

 脛がテーブルの縁にガンと当たり、


「いたっ!」じわりと涙で目が潤んだ。

 思わずうずくまり、そのまま足を抱えた格好で横向きに寝転んだ。痛みはすぐに引いたけれど、動けなかった。身体の右側から床の冷たさが染み込んで、心地よいけれど背筋は震えていた。


 しばらくして起き上がって、フローリングの顔をおしつけていた部分をティッシュで拭った。二枚で足りた。

 ぐしゃぐしゃと手の中で丸め、テーブル脇のごみ箱に放り込んだところで、玄関の扉の鍵が開く音がした。


 母が帰ってきた。まずい、赤くなった目を見られたら心配されてしまう。

 座椅子に座り直してテーブルに腕を乗せ、その上で顔を伏せる。


「ただいま」


そのまま目を閉じて、母の声を無視する。


「寝てる? 起きて。風邪ひくよ」

「うん……」

「珍しいね、うたた寝なんて。ご飯食べたんでしょ、寝るなら部屋行きなさい」


 目を擦りながら体を起こし、うつむきながら自室へ行った。これで誤魔化せたはず。


「仁奈、あの」

「うるさい」


 弟が何か言おうとするのを黙らせ、いつもよりずっと早い時間だが布団にもぐりこんだ。

 疲れていたからか、一瞬でも寝たふりをしたからか、眠気はすぐに訪れてくれた。



 §



 翌日から弟の干渉は多少減ったが、それでも口出しはしてきたし、堂々とわたしの思考に反応するようになった。

 わたしは無視を決め込んだり、反対に不満を捲し立てたりして抵抗したがほとんど効果はなかった。


 お互いを完全にシャットアウトすることはできない。

 弟の言葉は必ずわたしに届く。

 まるで自分が支配者であるかのように振舞うその干渉の言葉は。


 一週間、二週間、一か月と、日々が刻むように過ぎた。

 それでも弟は相変わらずで、一方のわたしは心身共に疲れ果てていた。家でも学校でも。まだ慣れない中学校の生活はあまりにも忙しかった。特にクラスに関しては、きっと一生いても慣れることが出来ないだろう。

 部活は各々静かにパソコン画面と向き合うだけなので気は楽だ。しかし読書にあまり親しんでこなかったのに入った文芸部で、サポートはあれども小説を書いたり、すすめられた難しい内容の本を読んだりするのには気力が必要だった。


 そんな日々の中でしかし、弟の干渉にわたしは慣れていった。

 無視したり適当に「はいはい」とでも返事をしたりして、やり過ごせばいいのだ。変に構って言い合いになると疲れるから。

 それにその方が、すぐに飽きてひとりでにやめてくれる可能性が高まる気がしていた。


 だが期待は外れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る