終章 正義の味方
終章 正義の味方
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断罪ノ魔法
第一編
(罪刑)
第一条
魔法が罪と定めたもののみを罪とし、刑と定めたもののみを刑とする。
***
大臣民広場を一大処刑場にしてから、もう一箇月が経とうとしている。
燃え立つ暁の都、帝都ヴェルアレスの街並みの風景は、少なくともネイトの目にはいつもどおりのものに映った。
きゃあきゃあと談笑しながら歩く女性たちが、ネイトの脇を通り過ぎていく。ネイトの目は、なんとなく、その背を追いかけた。
魔法は、守られた。守られたことをすら、彼女たちは知らない。
一時、滅亡の坂道を転がり落ちていたことなど微塵も感じさせないまま、ヴェルヘイル帝国は今日も栄華を極めている。
中天を過ぎた穏やかな太陽の下、通りを行き交う数多の人生。山高帽を被った黒いスーツの太った紳士が、同じくぱんぱんに太ったバッグを大事そうに抱えながら歩いている。大きな羽根付き帽子をかぶった貴婦人が三人、道路の柵に腰かけながら雑談に興じている。黒い煙を競うように吐きながら走る、丸みを帯びた自動車の群れ。警邏の陪席人形兵が、行き交う人々の間を貫くように歩きながら、仮面の顔で辺りを見回している。
少しだけ雑然としていて、それでも平穏な、いつもどおりの日常。
『──フォイエルバッハ大法官の大逆事件から一箇月。ノウェイラ軍事政権との関係は今なお高い緊張状態にありながら、双方ともに対話を重視する構えを明らかにしています。ただ、上奏院議員には休戦協定の破棄とノウェイラの完全併合を求める声も根強く──』
店頭で展示されている、長方形の箱の形をしたラジオからは、ざらついた報道の声が厳めしく世相を伝えていた。
国の外ではいくら火花が散っていても、内には日常の安寧を享受する臣民の姿がある。人々が通りをあちらこちらへと行き交う様を、ネイトはただ、眺望する。
この日常を自分とレーアが二人だけで守ったなどとは、今でも実感がない。
そのことを思うたび、守られた平和に安堵して、少しは誇らしい心地ともなりはする。だが、決まってそのすぐ次には、もういない酒好きの恩人のことを想い、自分たちの掲げた正義の御旗の下で死んでいった者たちを想い、心が針で刺されたように疼く。
「レジス・ジュディカ。“判決”。被告は、原告に対し、138万8712ライヒスライトを支払え」
澄み切った声が冷涼な空気に響きわたったのを受け、ネイトははっとして眼前の法務に意識を戻した。
銀髪を腰のあたりまで流した、赤い執行衣の背中がそこにある。
それを挟むように立つ二人の男は、裁きを受けた当事者たちだ。
片方の男は原告で、四十歳前後、下がった目尻に年の割には多い白髪。ネイトとレーアがこの場に到着した時は、身の回りのすべてに疲れ果てたという風な色濃い辛気をまとっていた。ところが、いまレーアの判決を耳にした途端、さながら乾いた砂漠に水が染みわたるように、みるみるとその瞳は輝き揺れだした。大きく開けた口からは、「あ、あああ、」と、まるで神でも目の当たりにしたかのような声が漏れた。
「はああああ!?」
対してもう片方の男──たったいま敗訴を告げられた被告は、色素の薄い肌に金髪の貴存民だ。モーニングコートを着込んだ小綺麗な身なりにはふさわしくない、素っ頓狂な不服の声を張り上げた。
被告は原告よりは一回り若いように見える。だが、原告に対して年長者を敬うなどというような態度は欠片もなく、むしろ、当初から常に高圧的な態度を取り続けていた。しかし、そのような態度もレーアの判決が下った瞬間に消し飛んでしまったようだ。
ネイトは手に持ったバインダーの上の調書に万年筆を走らせていく。レーアが先ほど言い渡した判決を記しながら、原告の憤慨の声を聞き流す。
「なぜだ! どうしてそんなに払わなければならん! 最初の金額より増えているじゃないか! もともと120万ライヒスライトだったんだぞ!」
憤慨する被告に、レーアは淡々と述べてみせる。
「それは原告の売掛金債権、その元本だけだろう。さらに支払うべき金額として、弁済期到来までの四箇月において生じた約定利率による利息。くわえて、弁済期経過後、七箇月十三日の経過による遅延損害金。これら併せて138万8712ライヒスライトだ」
レーアの教戒を理解しているのかしていないのか、原告は魚のように口をぱくぱくさせながら、なお抗弁しようとする。
「わ、私は、ここで三十年も、帝国のために働き続けてきた! こいつはどうだ! 十年前、散々帝国に抵抗した挙句に併合された、旧レセア連邦の人間じゃないか! 支払の優先順位を多少下げるくらいで、どうしてこんな──」
「出身国が併合された時期にいったいなんの関係がある。臣民は魔法の下に平等。臣民であった期間の長短などで差別はされない」
レーアが被告の主張を断ち切ったあと、ネイトの方に半面を振り向いて、
「支払額に相当する被告の預金債権を差し押さえ、原告に転付。転付証書を原告に交付。口座番号、Imp.X-FF4F-2292-4357」
「はいはーい」
レーアが被告のシグネットから読み取った口座番号を、ネイトはさらさらと調書に書く。そして新たな簿冊を開き、その頁にも記す。その頁を簿冊から切り取り、レーアに手渡す。レーアは一読したあと、ぱちんと小気味良い音を立てて万年筆を抜き、そこに自らのサインを残した。レーアがそれを原告に差し出すと、彼は震える両手で恭しく受け取った。
この紙は、被告の預金債権が原告に移転したことの証書だ。これを帝立統一銀行に差し出せば、原告は判決で認められた金額を自らの手元に引き出すことができる。
「くそっ!」目の前で淡々と続く手続に被告はなすすべもなく、思い切り地を蹴ってから肩を怒らせてその場を後にした。
被告にはもう何もできない。仮に被告が原告の手から証書を奪ったところで何にもならず、ただ罪に問われるのみ。原告が金を引き出せないよう、被告が先に銀行で預金をすべて引き出してしまう、ということも不可能だ。それもまた、執行妨害罪である。
「誰にも、頼れないと、っぐ、思って、いました」大粒の涙をぼろぼろと流す原告が、しゃくりあげながら言う。「ここにきて十年、元請けの工場には、奴隷のように扱われ続け、いじめられ……本当に、うぐ、辛かった。それに、ぐうっ、法官だって、ほとんど貴存民、私なんぞ、助けてくれるわけないって。でも、違った。あなたは、違った」
「レーアさんが言ったでしょう? 人はみんな、魔法の下に平等なんですよ」
ネイトが言いながらハンカチを手渡すと、受け取って目に押し当てるや否や、より一層口の形を歪ませて大声で泣き始めた。
「ありがとう! あなたたちは、私たち家族の救世主だ!」
おいおいと泣きながら涙も鼻水もハンカチで拭き始める原告に、ネイトは思わず苦笑する。
ふと、レーアが言葉を発さないことに気がついて、彼女の姿を見る。レーアは、原告と彼を慰めるネイトから数歩分の微妙な距離を置いたところに立っていた。両手で肘を抱く格好のまま、こちらに背を向けている。
原告の慰労をネイトに任せきり、それが済むのを待っているのだろう。あるいは、感謝されることにいまだ慣れていないのか。
「ほら、おまえもこっちに来なさい。法官閣下に、お礼を」
原告の男が、遠くを見ながら手招きをする。見れば、曲がり角の物陰に一人の少年が顔を半分だけ出してこちらの様子を伺っていた。少年はおずおずと姿を現すと、ネイトの方に歩み寄ってきた。ネイトよりは年下だろうが、それほど年は離れてはいないように見える。
「きみは──」
思いだした。あれは、ネイトがテネンバウム魔法学院に登院する道中のことだった。この少年が路地裏で三人の不良に暴行されていたのを見つけたことがある。
そういえば、その時もレーアが助けに来てくれた。美しく、颯爽と姿を現して、華麗に悪を裁いてみせてくれた。
今なお彼女は、自分の目指すべき正義であってくれている。
「あ、あの……」
少年はばつが悪そうだった。さあ、と父親に背を叩かれても、うん、と曖昧に頷いただけで、なかなか言葉を発そうとしない。
少年の方も、ネイトとレーアに過去に助けられていることを覚えているのかもしれない。あの時、少年は、レーアを前に逃げだしてしまった。もしかしたら今、彼はその時に礼を言えなかったことを後悔しているのだろうか。
「きみたちを助けたのは、僕じゃない。お礼を言いたければ、レーアさんにね」
ネイトが少年に片目を閉じて囁いた。少年はレーアの方を一瞥し、それからネイトの方を見て、決意したような顔で大きく頷いた。
少年は、今もこちらに背を向けているレーアに駆け寄っていき、
「ありがとう。助けてくれて。父さんのこと。あと、前に……オレのことも」
レーアは驚いた様子で少年を振り返る。それから今度はネイトを見た。呆れたような責めるような半目だった。「また余計なことを」とでも言いたげだ。
ネイトはにこにこと笑顔を浮かべながら、上に向けた掌を上下させて、レーアに少年の相手をするよう促してみせる。
レーアは少年に再び顔を向けると、なんと言い返したものかしばし逡巡する様子を見せた。それからおもむろに、少年の肩にぽんと手を乗せる。
「困ったときは、私たちを頼りなさい。私たちは……」
そこで言葉は区切れ、レーアは俯いた。
彼女は、言葉を躊躇って、迷って、選んで。それでもまた、言葉を発した。
「私たちのまほうは、きっとあなたを助ける。私たちは、……そう、“正義の味方”だから」
優しく温かく、包みこむような微笑みを浮かべて、レーアは言った。
廃図書館に戻る二人の頭上を、それは美しい紅葉が覆っていた。赤や黄や金の宝石をたっぷりと混ぜて散らしたような、壮大な天がそこには広がっていた。葉は陽を受け清涼な風に揺れ、きらきらと輝いている。
ここを通ろうと提案したのはネイトだった。レーアは別に興味がないという風だったが、それでも彼女の手を引いて、強引に連れてきたのだ。
なんだかんだいって、レーアも来てよかったと思ってくれている、と信じたい。頭上の黄金を瞳に映す彼女の表情は、穏やかそうだ。
二人、目を愉しませながら、いつもより歩く速度を緩めて帰路を辿る。
「そういえば、学院にはいつから戻るんだ」
おもむろに、隣を歩くレーアが目だけでこちらに振り向いて聞いてきた。
「明後日からです。また毎朝登院して、私律ノ魔法の演習に頭を悩ませて、サヴィニー教授の眠い講義を聴いて、試験の勉強をして……完全にいつもどおりの日常ってわけですね」
「そうか」
「ふふ。だから、感謝してます。レーアさんに」
「感謝? 何に」
「だから、そういう毎日に戻れることに、ですよ」
ネイトは大股でレーアの前に躍り出て、美しい並木をその背に、両手を広げた。
「忘れないでくださいね、レーアさん。ここには、レーアさんや魔法を恨む人もいるかもしれないけれど、それだけじゃない。あなたに心から感謝してる人だって、確かにいるんです。あなたをかっこいいって思う人も、尊敬している人も。あなたを大好きな人だっている。さっきの子もそうだし、僕だって、そうです」
だから、それを忘れないで。
風に舞う、黄金の葉。
ネイトを見つめるレーアの紅い瞳が、揺れる。
レーアは顔を俯かせ、その目元を前髪の陰に隠した。
数秒の間、堪えるようにそうしてから、レーアは面を上げ、今度は天を高く見上げる。
「きれい」
濡れた輝きを帯びている彼女の瞳。その向く先を、ネイトも追う。
鮮やかなモザイクを作る木々の葉から、帯状の木漏れ日が注いでいた。
二人の選んだ前途を祝福するかのように。
「でも、ここみたいにきれいな道ばかりじゃないぞ。私が歩くところは。それでも……ついてきてくれる?」
おそるおそる差し出された手、か弱く細く伸びる指先。
ネイトは、優しく、だが力強さのこもった笑顔を差し向けて、その手を力強く掴んでみせた。
二人が歩くのは、気高き道。
そして、迷いなき遵法を義務付けられた、血塗られし道。
呼吸さえままならぬ、崇敬と憎悪の狭間を行く。
それでも二人なら、互いによりかかりながらでも、歩いていけるだろう。
もしかすればその先で、人々に幸をもたらすまほうつかいに、なれるかもしれない。
ブラッディ・コンプライアンス 了
ブラッディ・コンプライアンス 亜鋼 @A-Steel
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