第三節

 教会の扉は、開かれていた。

 それはまるで、信徒に門戸が開かれていることを示すべく、教会が教会の常としてそうであるかのように。

 その扉の向かって右側、煌めく白亜の壁に背を付けて立つ少年がいた。

 少し癖のついた淡い紫色の髪、中性的な顔立ち。深みのある青紫色の瞳はアメジストのように美しく、そして険しく光を放つ。

 ネイト・クーヒェラルの胸中には、既に決死の覚悟がある。

 呼吸が荒くなり、肩が否応なく上下する。それを落ち着かせるために、一度肺が痛くなるほど大きく息を吸い込んで、そして吐く。そうして少しはましになったところで、右側の腰に手を当てる。シャツの下から半分だけ覗く革のホルスター。シャツの裾をめくれば、重厚感のある拳銃のグリップが姿を現す。

 グリップに手をかけたまま、教会の扉の中を覗き込む。

 教父用の演台の後ろに立つ、二本の横線と一本の縦線、そしてその交差部に円を授けた形の、神の目を模したシンボル。それを背にして、裏切りの大法官が立っていた。

 そして、彼──アムゼル・フォイエルバッハと言葉を交わしているのは、昨日と変わらず青いスーツを着たオースティンだ。その脇を固めるように、クーという名の少女やその他二十数名のノウェイラ軍の戦士たちがいる。

「……行ける」

 彼らはまだ、ネイトが持つこの銃が無用の長物だと思い込んでいる。フォイエルバッハは、魔法の統制下にあったネイトには弾丸を入手する機会がないと考えている。単に、父の形見であるとしか捉えていない。おそらく、それはフォイエルバッハの口からオースティンたちにも聞かせてあるのだろう。昨日、レーアとフォイエルバッハとが交戦している間に一時拘束されていたときも、あえてこの銃を取り上げようとはしてこなかった。ノウェイラの同胞に対する、あるいはやがて同志となるべき人間に対する、配慮ということだろうか。

 だがそれこそが、ネイトの勝機となる。

 彼らは知るだろう。

 この銃には、今、たった一度だけの使い道があるということを。

 そしてその時こそ、フォイエルバッハが命をもって贖罪する時に他ならない。

「さよなら、レーアさん」

 自分は死ぬ。

 この銃を使うことができるのは、たった一度だけ。首尾よくフォイエルバッハを倒しても、その瞬間、他の青スーツ共はネイトをもう同胞とは見るまい。自分は容赦なく殺されるだろう。もはやその時、抗う術はない。

 だが、それでよい。

 フォイエルバッハを討ち、魔法を救う。それがいつかきっと世界を救うこととなる。そう信じた。そしてその信念に殉じることに決めた。父と母のために。レーアがせめて穏やかに生きるために。自分が最初に見出した正しさを、証明するために。

 ネイトは、一度そっと瞼を閉じ、赤青く焼けていく空に向かって祈る。

「父さん、母さん……いま行くよ」

 再び目を開くと同時、グリップを握る手に力を込めてそれを引き抜き、足を強く踏み出して身を翻す。

 さあ、教会の扉をくぐろう。レーアの血が染み込んだ赤い絨毯の上を駆け、敵めがけてただただ走ろう。

 そして、倒す。魔法を否定する者を、倒す。

 レーアさんの代わりに、僕がそれをする。

 神の目がそこにあるというなら、僕の正義を見せてやる。たとえそれが、罪であっても。

「──ネイト!」

 声がした。

 それと共に、敵陣に飛び込もうとしたネイトの体は、強く引き留められた。何かが、彼の左肩を強く押し留めて、彼の背を再び白亜の壁に叩きつけたのだ。

 強く打った背の痛みに一瞬瞑目し、再び目を開く。

 そこにあったのは、二つの紅い瞳だった。

「レーアさん!? どうして──」

 レーアは答えず、扉の中へ向かって声を張り上げる。

「フォイエルバッハ! ノウェイラ人! 私たちはここにいる! もう抵抗する意思はない! どこへでも連れていけ! 味方になれというならなってやる! ただし、命を保証しろ! 魔法が失われても、帝国が滅んでも、私たちを生かすと約束しろ!」

「な──」

 ネイトは絶句した。

「レーアさん、なに言ってるんです!? 僕は、もう決めたんだ! 魔法を奪おうとする者を倒す! 魔法を救わないと、レーアさんだって!」

 暴れ、拘束から脱しようとするネイトを、レーアはなお必死に壁に押さえつける。銃を握る右手は、彼女の左手によって手枷のように壁に押しつけられた。全身の体重をかけてネイトの身動きを封じるレーアは、下唇を噛み、長い睫毛を伏せ、諦めと決意を固めた様子だった。

「そんな、レーアさん、」

 ネイトは愕然とした。

「だめです! 諦めないでレーアさん! レーアさんを魔法のない世界になんて、絶対に置いておけない! いやだ、放してください! 放せっ! 僕は必ず魔法を、レーアさんを助けてみせる! だから僕は、この銃で、あいつを──」

 その時、唇に柔らかいものが強く押しつけられ。

 ネイトの主張は、覚悟は、決意は、説くことを強引に妨げられた。

 悔し涙に滲んでいた視界を埋め尽くした、白銀に輝くさらさらとした髪、滑らかな頬、祈り願うように固く瞑られた瞼。

 顔を押され、壁に後頭部を打つ。しかしなお、それは自分の唇を強く強く圧してくる。

 廃図書館の、埃っぽい本の匂いがした。

 全身の肌をひりつかせるような熱さを感じたとき、右手の指からは力が抜け、彼の決死の意思を担ったその銃は、ごとりと地に落ちた。

 あまりに強く塞がれたその唇に、痛みさえ覚え始めたころ、レーアの顔はゆっくりと離れていった。

 後に見えたものは、風を孕んでなびく銀髪と、それを木漏れ日のように透かす金色の朝焼け。今にも泣きそうな、宝玉のように煌めく美しい彼女の紅い瞳。

「私は──」レーアは振り絞るように言う。「私は、ネイトに生きてほしい。今は、それだけなんだ」

 今度は、優しく引き寄せられながら、抱きしめられる。

 教会の中から駆けつける足音がいくつも聞こえ、直後、青いスーツの者たちが飛び出してきた。すぐに取り囲まれ、厳めしい銃器が自分たちの方へと、突き刺してくるように向けられる。

 やがて、ゆっくりとした足取りで、フォイエルバッハも姿を現した。

「よく、わかってくれた」

 そう言うフォイエルバッハの言葉には、安堵と、どこか切なげな感情が滲んでいた。

 ネイトがフォイエルバッハを撃つ機会は、これでもう失われた。

 地平の向こう、白と赤と紺のグラデーションを見つめて、ネイトはただ、レーアの言葉だけを反芻することしかできなかった。


   †


 ノウェイラ軍の青い獅子の徽章が印された、大型の軍用トラックがアゴラの街を背に走る。揺れる荷台の四角い窓から外を見ると、魔境柱レヒト・ゾイレが見えた。赤い大地に突き刺さる、白い石質の外殻に覆われた二百メートルにも及ぶ巨柱。間もなくこれを越える。そうすれば、自分たちは再びヴェルヘイル帝国へと、“魔法の支配”の及ぶ領域へと戻るのだ。

「破律弾を装填しろ」

 オースティンが命じると、並行して二列に引かれたベンチに所狭しと座るノウェイラ兵たちが一斉に立ち上がった。装備する拳銃、小銃、狙撃銃に銀の弾丸を装填していく。

 魔法の力を無効化する弾丸。法官の抵抗に遭えばそれを退け、皇帝を討ち魔法に終焉をもたらすための武器。

 それを、、ここで装填する。

 抜かれた通常弾は荷台後方への兵士に次々と手渡され、最後尾の兵士がそれを布袋に入れ、紐で手際よく縛る。そして両開きの荷台扉を少し開け、そこからまとめてごみのように捨てた。布袋は高速で流れる路面に落ちるとがつんと硬い音を立て、そのまますぐに遠く小さくなり、やがて見えなくなっていった。

 レーアの隣から、オースティンが拳銃を懐に収めながら、

「よく聞いておくんだな、魔女。お前たちの崇める皇帝と魔法の断末魔を。それこそは、人の歴史が修正される瞬間の、祝福の鐘なのだから」

 レーアはそれに構うことなく、振り向くことすらせず、向かいのネイトを見る。彼はうなだれるように俯き、その表情は見えない。

「越えます」目的語を不足した簡潔な報告をしたのは、身をかがめて窓の外を覗くクーだった。魔境柱レヒト・ゾイレを越える、という意味だろう。「三、二、一……今」

「レジス・アクティオ。“官命”」同時、フォイエルバッハが唱える。「レーア・ゼーゼベルケ。ネイト・クーヒェラル。最高法院大法官官命権に基づき、我及びノウェイラ人に対する貴職らの加害一切及び発言を禁ず。本件執行の効力の終期は三十六時間後に定む」

 レーアとネイトの全身に幾何学模様の黄金色の式陣が出現し、すぐに消えた。

「首尾よくいきましたかな」オースティンがフォイエルバッハに問う。

「ああ。魔法の規律力はおれの執行を認めたよ。これでこの二人は、おれたちに引っかき傷一つすらつけることはできない。言葉を発することも封じた。おれたちを国外犯として告発することも不可能だ」

 このような措置を受けることを、予想はしていた。

 フォイエルバッハは皇領の外で、皇帝を殺害して魔法を覆滅することを共謀するという罪を犯した。もっとも、皇領外で犯した罪は、皇領内に戻ったからといって直ちにスティグマを付されることはない。

 だが皇領に入れば、レーアという法官がここにおり、その面前に罪人たちが現にいるというこの状況では、ネイトが口頭で罪をレーアに言い聞かせることで“告発”となる。すなわち、フォイエルバッハたちにスティグマを付することが可能となる。断罪ノ魔法第一編第二条第三項──国外犯の規定によって。

 しかし、そのようなことはフォイエルバッハも百も承知。だからこそ、皇領に入るや直ちに上官としての地位に基づいて、レーアとネイトが言葉を発することを魔法の執行をもって封じこめたのだ。効力の終期が三十六時間後と設定されたのは、終期の定めなく永久的に効力が持続するようにしてしまうと、求める効果が強すぎて魔法の規律力に怪しまれ、執行が発効しないのではないかという危惧に備えたからだろう。そしてまた、三十六時間あれば皇帝の暗殺には十分というのが彼らの計画の想定ということでもあろう。

 これで殴ることも蹴ることも、発話することすらも、もはや二人にはできなくなった。

 魔法の規律力をフォイエルバッハは騙すことに完全に成功し、レーアとネイトは完全に牙を抜かれる格好となったのだ。もう、打つ手は残されていない。

 今はまだ。


  †


 “燃え立つ暁の都”こと帝都ヴェルアレスの街並みは、異名のとおりに燃え立つような橙で染まっていた。

 ある詩人が皇帝の威を称えて詠った詩の中に表れるというその異名。もっとも、その異名をネイトが思い起こすのは、決まって暁の頃合いではなく、この黄昏の時刻なのだった。

 暮れなずむ空の下、しかしまだ、電灯を点ける必要はないだろう。なぜなら、夕の太陽は今、血のように鮮やかに、こうして赤々と燃えている。

 臣民が行き交う帝都の大通りを、異様な集団が練り歩く。

 青いスーツを着込んだ二十数名の異国人の男女。その先頭を、大法官アムゼル・フォイエルバッハの威容が飾る。集団の中にいる自分たち二人は、衆目にとりわけ奇妙に映るに違いない。裂けてぼろぼろの赤い執行衣に身を包んだ、傷だらけの若い銀髪の女。そして同じく、満身創痍の少年とくれば。

 二人には、手枷も足枷もない。それでも前後を青スーツの者たちに挟まれながら俯きがちに歩く姿は、まるで連行される囚人のような陰気を帯びていた。

 大通りから、“大臣民広場”へと出る。直径八百メートルにも及ぶその巨大な広場を、今日も大勢の人々が行き交う。その様相をもし上から見ることができたとすれば、きっと色とりどりの虫がわらわらとたかっているかのように錯視さえするだろう。

 労働に、学校に、あるいは恋人との逢瀬にと、目的様々に歩く彼らは、まだ、自国が滅亡の危機に瀕していることなど知らないのだ。

 フォイエルバッハは立ち止まり、大臣民広場から数百メートル東の先にそびえたつ巨大な宮殿を見仰いだ。

「あれが皇宮だ。中央の塔の上層、皇帝の執務室はそこにある。いうまでもなく、お前たちはそこまで辿り着く権限がない。お前たちがすべきことはわかっているな。随所、然るべくやれ」

 足止めしようとする法官や侍従官は、破律弾で排除せよという意味だろう。

 フォイエルバッハは、再び皇宮に向けて歩き出す。青スーツの者どももそれに続く。

 だが。

「──おい、どうした。何してやがる」

 集団内の後ろにいるノウェイラ人から、訝しむ声が上がる。

 ネイトとレーアの二人が、歩こうとしないからだ。

 かつてレーアから教わったことを思いだす。遥か昔、ヴェルヘイル帝国がここに興る以前のこの地には、ウルプスという民主制の国家があった。魔法などなく、代表者が民を律する法を決める社会。裁判官が人を裁くべく法廷を開き、対立する者たちの双方の主張を聞いて判決を決めたという。そう、今のノウェイラと同じに。

 ここにしよう。

 その歴史的遺産であるウルプスの演台が遺されているこの場所こそ、“法廷”に相応しい。

 ネイトは、動く。

 シャツの裾をめくり、拳銃を抜き、それをフォイエルバッハに向けた。撃鉄を起こす。がち、と重い金属音が立つ。

「誰も動くな!」

 拳銃の照準は、フォイエルバッハを捉えた。

 たちまち色めき立つ青スーツたち。彼らは、だが、強引にネイトから拳銃を奪うような所作に出ることはなかった。ただ、ネイトを睨めつけるか、フォイエルバッハを脇目に見て、その指示を仰ごうとするばかりだ。

 そのフォイエルバッハといえば、少しも狼狽の色を見せず、ただ悠揚とした表情でネイトを見つめている。

 周辺の臣民にも、異様な事態に気づく者が現れ始め、徐々に戸惑いの声が上がる。「そこの法官の姉ちゃん、さっさと執行してくれよ。スティグマ見えてんだろ」と野次さえ上がる。だが、レーアはネイトの隣で、真正面の何もない空中を睨みながらじっと立っているだけだ。

 フォイエルバッハが険しい顔で問う。

「なんのつもりだ、ネイト。……と訊いても、いまのお前は何も話せないんだよな」

 そこで何かに思い当たったのか、フォイエルバッハの眉間に深いしわが刻まれた。

「ありえない。ありえない、はずだが……。仮に、お前が、どういうわけか“その弾”を持っているとしても、だ。その引き金を引くことは、絶対にできない。忘れたのか? お前にはおれたちへの加害禁止の魔法効果が──」

 その時、フォイエルバッハの表情が一転した。

「まさか!」

 さあ、ここに開廷しよう。果たしてどちらの“正しさ”が、喰い、喰われるのか、裁きをもって臣民たちに見せつけよう。

 ネイトはフォイエルバッハを厳しく睨みつけたまま、射線の向く先を、討つべき敵から反らした。

 その銃口を改めて向け直した先は──自分自身の、左の二の腕だ。

 奥歯を思い切り食いしばり、声なき声を上げながら、引き金にかけた指に力を込める。果たして、指に重い抵抗感を感じさせながらも、引き金は火を吹く位置へと引かれていった。

 ぱん、と銃声が広場に轟く。

「────っ、あぁぁぁぁぁっっ!」

 その一発は、ネイトに声を、悲鳴を取り戻した。被弾した左腕に灼熱の痛みが閃き、血の花が咲く。視界に稲光が走り、激痛は、彼の手から拳銃を手放させた。

 いっそありったけ大声で叫んで少しでも痛みを紛らわしながら、ネイトは走りだした。

「──喋れ、る」

 目を皿のように丸くし、愕然としている青スーツの男たちの間をすり抜けて、走った。

「喋れる」

 甲高い悲鳴を響かせる臣民たちを押しのけて、ただ走った。

「喋れる! これで!」

 すべては、尊敬する師匠の目論見のとおり。

 フォイエルバッハが加害禁止の官命を自分たちに下すことを、レーアは見通していた。そしてそれに満足し、自分たちを物理的には拘束しないであろうことも、予測していた。もっとも、魔法に基づかぬ拘束など、魔法の下ではそれ自体が逮捕罪や監禁罪になるから、やりようがないのだが。

 それを前提に、レーアはネイトに一つの共謀を持ちかけていた。アゴラの教会、レーアが屈服の意思を叫び、フォイエルバッハたちが駆けつけ、自分たちを拘束してくるまでの間の話だ。まず、レーアはネイトを抱き寄せながら、その耳元でこう囁いた。

 ──破律弾を、自分に使え──

 さらに目論見を説くレーアの声は、尊敬する師匠が法務を全うするとき常にそうであったように凛然としていて、もう、そこに弱さはなかった。その清冽な声は、自棄に陥っていたネイトの中に何かを蘇らせた。そして、たちまち様々なことに気づきが至ったのだ。

 そもそも破律弾は、なぜノウェイラの軍人たちが皇領に持ち込むことができるのだろうか? この国では、許可なく弾丸を持つことは魔法によって許されないはずなのに。その魔法に違反すれば、ただちにスティグマが付されてしまうはずなのに。

 その答えは、すなわちこうだ。破律弾自体が、魔法の規律力の目から免れる力をも有しているからに他ならない。つまり破律弾は、魔法を減殺する力をもつがゆえに、魔法にとって透明な存在なのだ。

 そしてその魔法相殺の力は、装填されている銃器にも及ぶに違いない。だから皇領に入る直前、ノウェイラ軍人たちは揃って銃器に破律弾を装填した。一方、魔法の下においてその保有が犯罪となる通常弾などは、皇領に入る前にトラックから捨てていったのだ。これを見た時、レーアは破律弾の持つ性質にさらに確信を抱いたに違いない。

 それゆえに、ネイトは破律弾を撃つことができた。それをフォイエルバッハやノウェイラの軍人たちに使うことはできなくても、自分にはできた。禁止されていたのは、“フォイエルバッハとノウェイラの軍人たちに対する加害”だ。自分を撃つことは、何ら禁じられていない。

 破律弾の力で、フォイエルバッハの施した“官命”の魔法効果は失われた。

 ウルプスの演台の石段を駆けあがり、かつて演者がそうしていたように、そこに立つ。

 大きく息を吸い込み、それから腹からありったけの声を張り上げて、叫んだ。

「ここに、告発するッ!」


 断罪ノ魔法第一編第二条第三号。


「最高法院大法官、アムゼル・フォイエルバッハ! そしてその周囲に存するノウェイラ軍人二十余名! その共謀した罪を! 皇帝陛下に大逆し、魔法を覆滅し、もって、ヴェルヘイル帝国を滅亡せしめんとする、その罪の事実をッ!」


“皇領の内において罪に当たるべき行為を皇領の外においてした者がある場合において、”


「その者らは、今、そこにいる! レーア・ゼーゼベルケ判事正、貴女のその眼前にッ!」


“法官の面前に当該者を差し置き、かつ、当該行為を法官に告発したときは、”


「さあ……! 魔法に定める要件は全て満たされた! 魔法の網、皇帝の眼よ、規律力よ! ここに告げた真実を認め! 罪人らにその身に相応しいスティグマを刻めッ!」

 

“当該者をこの魔法における罪人とみなす。”


 獣のような雄叫びを上げながら、青スーツの大男が掴みかかってきた。押し倒され、後頭部を強く地に打ち付ける。この大男は、もはや自分だけが罪を被ってでも他の仲間に皇帝暗殺を遂行させようという意図なのかもしれない。あるいは単に怒りによって冷静を欠いたか。

 大男は破律弾が装填されているはずの拳銃を懐から抜き出し、ネイトの額に押し当てた。

 死を覚悟した。もとより、一度は命を賭してフォイエルバッハを討とうとしたのだ。今になって命が惜しくはない。

 だが、引き金が引かれ、ネイトの頭が爆ぜるその瞬間は、永遠に来なかった。

「ど、どうなっている!? 引き金が、引けな──」

 大男が、自分の腕にまきつく赤く光る文字列に目を奪われている。その姿もすぐにネイトの前から消えた。まるで巨人が指で小虫を弾いたように、その巨躯は数十メートル先の向こうへと吹き飛んでいったのだ。

 痛みに思考を霞ませつつ、遠くを見る。

 その視線の先で、溢れる執行力が赤黒い電光となって渦を巻いている。その渦の中、黒い人影がひとつ。それは清き法の女神か、はたまた侵略者たる鬼神か。執行衣がはためき長髪が舞い、そして禍々しく輝く血色の眼光。

 力をすべて取り戻した、法の番人の姿がそこにあった。


  †


「レジス・アクティオ──」

 いつか、どこかで、自分は問いを抱えてうずくまった。

 姉の教えてくれた“まほう”と、自分の魔法とは、なぜこうも違うのだろう、と。

 今ならわかる。これこそが、リーベ・ゼーゼベルケが優しく示してくれた、正義の在り方。

 正義は、皆のためにはなく、自らにとって大切な存在のみを守るためにこそ、まずはあり。

 それが世を救う理となるには、他の正しさを喰い続け、ひたすら止揚していくしかない。

 その道は元より血塗られていて、正しさを追い求めるがゆえに、罪深い。

「──“大執行”。ブルーティゲ・ベアハトゥン」

 かくして、レーアの答えまほうは唱えられた。

 魔法は、レーアをネイトの“告発”に応ずる断罪者として選んだ。そして魔法は公益とフォイエルバッハの官命権とを比較衡量し、前者を優先して、レーアを拘束から解いたのだ。

 大臣民広場に、赤い光で描画された円陣が無数に生じる。円陣は、大小の異なる円を幾重にも重ねたような形象をしていて、その円と円の合間には、同じく赤い光で書かれた文字列。文字列は互い違いに高速で回転し始める。

 どくり、どくり──と、地の底から響く心臓が脈打つような反復音。それに応じて円陣もまた明滅する。

「う、撃て! 破律弾を撃ち込めば殺せる! 早く撃てッ!」

 オースティンが悲鳴混じりに命じた。応じて、ノウェイラの軍人たちも周章狼狽の最中にありながら銃に手をかける。もはや今、皇帝暗殺よりも自らの生存が最優先となったのだろう。

 だが、無駄だ。彼らの腕には既に赤い文字列が鎖のように巻きつき、罪となるべき所作を封じ込めている。彼らはもう、引き金を引けない。

 円陣の中央から、大人の背丈二つ分はあろう巨大な鋏が姿を現し始める。赤黒い金属質の三角錐すいを二つ重ねた形で、刃は鮫の牙のように凶悪な凹凸を作っている。鋏はいわば頭で、その下にはさらに胴体が続いた。その胴体というのは、巨人がしつらえたのかと思うような鋼鉄の巨大な矢じりをいくつもつなぎあわせた形で、ちょうど人体ほどの太さがあった。

 蛇とも百足とも竜ともつかないそれは、大臣民広場に無数に描かれた円陣から次々と生みだされ、場を阿鼻叫喚の渦へと陥れた。

 大執行──それは、法官各々の執行器を規定する魔法が、個々の法官の適正に応じて与える特別の執行器。

 死刑に処するべき者が多数認められる場合など、一括かつ強力な処刑を要するときにレーアだけが召喚することが可能なそれの名は、“ブルーティゲ・ベアハトゥン血塗られた遵法”。

 その鋼鉄の触手は、罪人を断罪すべく、その役割を果たし始める。

 銃を捨てて逃げ惑う青スーツの男を、鋏が背後から食らいつき、真っ二つにする。また別のところでは、女のノウェイラ軍人が一度ナイフを構えるが、無駄と悟りすべてを諦めたように両手を垂れて立ち尽くし、そのまま鋏に首を刎ねられていった。

 鋼鉄の触手は蛇のようにうねり、フォイエルバッハにも襲いかかる。だが、彼の体にまで届くことはなかった。魔剣ゲヴァルテンタイルンを構成する剣の一本が、空中で押しとどめたのだ。たちまち他の二本の触手が背後から襲いかかるが、他の二本の魔剣がやはり受け止めてしまう。

 しかし、もうフォイエルバッハに残された抵抗の手段はない。赤いスティグマが全身にべったりとこびりついた彼は、自身に内在する執行力によって執行器を召喚しているのがせいぜいだ。他の魔法の執行、すなわち魔法の規律力を介在した執行は、罪人となった現在すべて正当理由がなく、発効させることができない。

 ブルーティゲ・シュペーアを両手に、柄頭を地に打つ。瞑目し、煮え立つ執行力を体の中心に整集する。

「断罪ノ魔法、第二編第一条──」

 罰条、朗読。

「皇帝に危害を加える方法をもって魔法を覆滅し、若しくは魔法による基本秩序を壊乱し──」

 開眼し魔槍を構え、直後、彼女は一筋の雷光となって駆けた。

「又はこれらの誘引──若しくは扇動をした者は──」

 フォイエルバッハがこちらに気づき、振り向く。自らに迫る生ける断頭台の姿を認め、その黄金色の目は驚天に見開かれた。

「死刑に──処するッ!」

 魔槍を握る腕を引き、地を砕かんばかりに蹴り抜いて、輻輳する執行力を腕に伝え、

 瞬間、

 血塗られたように赤黒い、まるで人の禍々しい罪業を塗り固められたかのような姿のその魔槍は、赤の陽光を一際強く受け、眩い銀に輝いて。

 それは神々しく、罪人に神の意をすら悟らせたかもしれない。

 ──貫く。

「っ……! レー、……」

 フォイエルバッハがレーアに伸ばした手が、届かず空を掴む。魔槍を突き立てられた左の腹から、彼の生々しい生命が零れ落ちる。

 レーアは、肉を裂き、臓腑を捻じり切る感覚を掌に感じつつ、獣のような唸り声を上げながら、そのまま横に斬り払った。

 フォイエルバッハは、がくがくと震える足で、しかしまだ立っていた。両手をレーアに伸ばし、一歩、また一歩と近づいてくる。

 レーアは、魔槍を薙ぎ払った姿勢のままだ。

 レーアの目の前にまでフォイエルバッハが歩み寄った時、彼は力尽きたのか、崩れるように前に倒れた。伸ばされた両腕がレーアの首にかかり、そして、そのまま抱きすくめた。

 師匠は、弟子の頭を優しく撫でた。血に塗れた手をべったりと銀の髪に塗りながら。

「あぁ……、れで、いい……それで、いいぞ……」

「あなたを許します」最後の言葉を伝える。「お世話になりました、先生」

 レーアを包んだ逞しい腕が、彼女の体から滑り落ち。

 白い頬を通り過ぎた罪人の指が、そこに赤い線を引く。

 そして、フォイエルバッハは地に斃れた。

 光を失っていく瞳を天に向け、彼は穏やかな、満足そうな顔をして、

「リーベ……これ、で……やっと、お前に……償え……」

 レーアは瞼を閉じ、瞼の裏の闇を見る。仲睦まじく話すフォイエルバッハとリーベ、その後姿がそこに見えた。

 自分は、二人に必死についていこうとしていた。でも、その歩みはもう、止める。ここで立ち止まって、見送ると決めた。

 再び目を開く。同時に、踵を返し、ウルプスの演台へと走った。

 演台の上には血だまりがあり、そこにネイトは倒れていた。

「ネイト! しっかり! ネイトッ!」

 その上体を抱き起し、彼の名を繰り返し呼ぶ。ネイトの瞼がわずかに隙間を作り、そこから青紫の瞳がレーアを確かに見返した。

「よかった」

 思わず顔が綻ぶ。緩んだ緊張が口から大きく息を漏らさせ、目尻を熱くさせた。

 気付けば、ネイトの目は、レーアの肩越しに遠くを見ていた。その視線を追えば、そこには処刑場と化した大臣民広場の姿がある。鋼鉄の触手が怯え、逃げ、叫ぶノウェイラの軍人を捉え、切り刻んでいく。

「ごめん、なさい……」ネイトは、裂け目のような口をほとんど動かずに声だけを発した。「レーアさんに……また、こんな重荷を……」

 重荷。この制裁という名の虐殺。そして、恩師を裁いたことか。

「いいんだ。これで、いい」

 そう、これでよかった。これでよかったということこそが、フォイエルバッハの最後の教えだったのだ。

「これが、私たちが選んだ正しさの姿なんだ。だから、これでいい」

 思えば、レーアとフォイエルバッハは、決して逆ではなく、同じ真理に辿りついていたのだろう。

 大切な者にせめて幸あれと願い、その者を想う自分に報いあれと祈る。その純真さが人に一つの正しさを選び取らせる。それらは時にお互いに衝突し、その火花の中からしか、世に通ずべき真の正義は生まれない。いうなればこれこそが、世に唯一の正しき理。

 それが、フォイエルバッハが自分に与えてくれた、最後の教戒。

「でも、背負うのは、レーアさんだけじゃ、ないから……僕も、いっしょ、に──」

「うん」

 意識を手放したいほどの痛みがあろうに、それを堪えてレーアに言葉をかけようとするネイトの口を閉じさせたくて、レーアは愛弟子の体を一際強く抱きしめた。

「うん、わかってる」

 この正しさが罪というなら、二人で罪を犯そう。

 怖れなどしない。

 空からは血の雨が降り、地を赤い染みが埋め尽くしていく。人々は返り血に身を汚しながら、悲鳴を上げて錯綜する。

 帝国臣民よ、見るがいい。この光景を地獄と呼びたいなら呼ぶがいい。私を虐殺者と畏れたければ、甘んじて畏れられよう。

 だが、忘れるな。

 これがおまえたちの安住する法の姿だ。

 血を浴びた私こそが、おまえたちの信じる正義の表徴。

 そして、裁き得ぬ罪の証。

 ネイトの額に、レーアは自らの頬を乗せる。ネイトの肩に回した腕をなお引き寄せて、その生の温もりを確かめるように抱く。応じてか、冷たくなったレーアの右手を温めようとするように、ネイトの手もまたそこに重なった。

 二人、目を閉じ、悲鳴と断末魔に浸る。

 今はただ、穏やかに。

 赤い太陽は、二人を見守りながら地平に沈みゆく。

 空に広がる宵の闇は、きっと血も涙も真っ黒に塗りつぶしてくれるに違いない。

 星々は、ほら、いつもと変わらず二人に瞬いてくれる。

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