第二節
星々の瞬く夜空の下、レーアはアゴラの街中を歩き続けた。
自分の足音だけを聞いて、傷の痛みをなるべく意識しないようにしながら。
道の左右に立ち並ぶ、住まう人のいない住家の群れ。誰の姿もないはずの窓の中から、ここはおまえのいる場所ではない、と声なき声が告げてくるように思えた。
言われなくても、出ていくよ。
ガラスの割れた窓に力ない瞳を向けて、心中でそう呟く。色の白んだ下唇を強く噛んで、歩を進める足に一層の力を込めた。
緩やかに続く長い上り坂をようやく上がりきると、そこは最初に陪席人形兵の運転する車から降りた場所だった。アゴラの街の端まで来たということだ。
皇領の方角に目をやる。黒い地平が一面に広がっている。その中に、紫色の光を星空に向けて吐き続ける巨大な柱の影──
その後のことは、もう、どうでもよい。
フォイエルバッハとノウェイラ軍の部隊は、皇帝を討つと言った。まず、彼らは皇領に侵入する。皇領は、帝国の外征に応じて常に拡大するから、その外縁にいちいち検問など置いていないし、外国人がそのまま入っても罪になどならない。皇帝暗殺の企図があっても、その共謀は皇領の外で行われたことだ。国内で改めて犯罪行為に打って出るまでは、スティグマがつくことはない。
国外犯としての告発も、その要件は厳しく、望みが薄いだろう。
断罪ノ魔法、その第一編第二項第三号の規律を思い出す──“皇領の内において罪に当たるべき行為を皇領の外においてした者がある場合において、法官の面前に当該者を差し置き、かつ、当該行為を法官に告発したときは、当該者をこの魔法における罪人とみなす。”
要は、彼らが皇領外で皇帝暗殺の共謀をしたことだけでは足りず、彼らの身柄を法官の面前に差し出しながら告発する必要があるのだ。無理だ。
フォイエルバッハたちは、何らかの方策で帝都ヴェルアレスに入り、皇宮に入る。破律弾とやらを使って抵抗する法官を殺し、最後には皇帝をも殺す。
皇帝は魔法の力の源。その命が消えれば、魔法もまた運命を共にする。
魔法が消えれば、帝国は瞬く間に滅ぶだろう。法官は力を失い、陪席人形兵は物言わぬ鉄くずと化す。人間の兵士から成る通常の軍事力など、帝国はもう数百年も有していない。
それももう、どうだってよい。
その時は、その時。
そうでない時は、そうでない時で、自分は法官としての日常に戻るだけだ。
「……戻る……?」
戻れるものか。
魔法を否定する者を、この手で裁くことができなかったのだ。これからおめおめと逃げ帰るのだ。自分が法官を続けてきた大前提たる信念に重大な瑕疵を抱えて、もう、これまでどおりに過ごせるわけがない。
なんのために帰るのだろう。たった独りで、これから何を支えに生きていけば。
足に力が入らなくなり、民家の壁に近づき、手をつく。経年で傷んだ塗装がぱりぱりと剥がれ、地に落ちる。自分もまた、壁に背をもたれて落ちるように座り込んだ。
汚れた銀髪の間から、空を見上げる。
闇の空に浮かぶ星々が黒い雲を透かして瞬く。なんだかまるで話しかけられているよう。だが、それが自分に対する助言だとしても、聞こえることはない。
「姉さん、私はね、」
だからせめて、声を届けることしかできない。
「姉さんの命は守れなかったけど、命の意味は守ろうとした。頑張ったのよ。でも、もうだめ。私は、怖い、みたい。もう姉さんのために頑張るのは、無理みたい。ネイトにも言われたよ」
星々の瞬きを力のない瞳で見上げたまま、ただ想いを零すことしかもうできない。
「だから、私は……逃げる」
逃げる、ともう一度自分のしようとしていることを確かめるように口にする。すぐに体の中心から血を冷やすように寒気が広がっていく。
「怖い」背を丸めて己の身を抱きすくめた。「やっぱり怖いんだよ。姉さん、許してくれる? それがわからないから、逃げるのも怖いの。私が逃げたら怒る? がっかりする? ねえ、姉さんは……」
──それは、
「姉さんは、今でもアムゼル・フォイエルバッハが好き?」
それは、もう答えの返ってこない問い。
それでも問わなければ進めないというのなら、自らが嵌っているのは、地獄か、それとも。
「姉さんが死んでからも、フォイエルバッハは姉さんのことをずっと想ってた。だからフォイエルバッハは魔法を棄てた。私も姉さんのことずっと考えていたのに、どうして逆なんだろう。私じゃなくて、フォイエルバッハが正しかった? 私がずっと間違ってた? 私が逃げたら、むしろ姉さんは喜んでくれるの?」
星々の中に極星を見つけた。
移ろうことがないとされるその星を見つめ続ける。
そして、改めて問う。
「姉さんは、どうして先生のことが好きになった?」
思いだす光景があった。
フォイエルバッハが酒を飲み、リーベが手作りの料理を机に載せ、自分もまたそこにいて、三人で談笑しているのだ。
次に思いだされた光景があった。
フォイエルバッハは相も変わらず酒を飲んでいる。ただし、手作りの料理を振る舞うのは、リーベではなく、ネイトだ。自分は、同席しようか毎回少し迷うのだけれど、結局はいつも二人から少し距離の離れたところに座って、二人の話を聞いていた。
遠い思い出のように感じられるその景色を思い起こしながら、
「どうしてネイトは、私なんかのことを」
──ああ、でも、そうか。
姉さんは、法官として、女性として、フォイエルバッハのことを追いかけた。
そんな姉さんを、私は追いかけた。
私は、追いかけてばかりだと思っていた。
でも違う。
今は、私が追いかけられている。
私を目指して、魔法を守ろうとする人がいる。
私の守ってきた姉さんの命の意味を、私の代わりに守ろうとする人がいる。
そして何より、私を、私自身のことを、守ろうとする人がいる。
ああ、それなら。
私が逃げ、ネイトの命が失われれば、それは私の罪。
魔法でさえ罪と認めてくれない、誰からも裁かれぬ、罪。
先生。
その罪ならぬ罪が、あなたの苦しみだったんだね。
あなたは、私に裁いてほしかったんだね。
「レーア。あなたにも、まほうが使えるようになるわ」
突如として声が聞こえ、弾かれたように立ち上がった。
背を持たれていた家の中から聞こえたような気がした。ガラスの割れた窓に恐る恐る近づき、サッシの縁に手をかけて、中を覗き込む。月明かりに照らされたリビングに、しかし誰もいるはずはなかった。
ふっ、と含み笑いをこぼす。
「仕方ないな。わかったよ」
追いだされようとする夜の姿にレーアは背を向けた。その視線の先には、あの教会。
紅き双眸からいつしか迷いの影は失せ、そこには再び芯のある光が宿っていた。
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