第四章 まほうを唱える時
第一節
***
執行魔法
(執行懈怠の罪)
第六十一条
その任に違背して魔法の執行を怠った法官は、三十年以上の禁獄に処し、その執行力を奪う。
***
底冷えする夜だった。
暖炉の炎が揺らめき、その光が部屋の壁をも揺らす。
風がひとつ吹き、建てつけの悪い窓をうるさく鳴らした。
「今夜は冷えますね、レーアさん」
横たわる影から、答える声はない。それでも、ネイトは笑顔を作って、言葉を続ける。
「こんな夜には、家ではどうしてたんですか? 自分で暖炉に火をくべてました? それとも面倒だから、ウヌスかデュオに任せちゃうんですか?」
木がぱちぱちと燃える音がそれに負けないよう、ネイトはそばに積んだ木の枝の山から何本かを取りだして、暖炉に投じる。それでも、思ったように火の勢いが増してはくれなかった。
「一晩、もつかな……」
心配になる。この木の枝は外の枯れ山からかき集めてきたものだ。ちゃんとした薪など、ここにはなかったのだ。
立ち上がり、窓に近づく。氷のように冷たいノブをつかんでひねり、一度小さく開いた。
闇の遙か向こう、月明かりに照らされて、教会の建物が小さく辛うじて見える。
もっとも、いまだそこが神や精霊の訪れる場であるかは知らないが。
ただひとつはっきりしているのは、その教会は今、自分たちとは異なる正義の信徒たちの居城であるということだ。
勢いをつけて、窓を強く閉める。歯をくいしばって、力一杯ノブを引いて。
せめて、隙間風が入りこまないように。せめて、今だけは手負いのレーアがベッドで深く休めるように。
その時、呻くような声が、小さく聞こえた。
「レーアさん!」
部屋に一つだけある、パイプを組んで作られた簡素なベッド。その上、あまりきれいとはいえない灰色のシーツをかぶせられて、死体と見紛うような姿が横たわっていた。レーアの肌は元々目を見張るほど白く滑らかだったのに、今は傷と痣にまみれ、しかも血の巡りを欠いた死者のように青白い。
ひとまず目に見える傷痕には、ネイトが周りの空き家からくすねた包帯をありったけまいておいた。だが、治療としては心許なかろう。骨もいくつかやられているかもしれない。
自分の顔や背中も傷だらけだが、レーアのほうが圧倒的にひどい。当然だ。あれだけ激しく激突し、そして圧倒されたのだから。
ここに運びこんだ時は呼吸も非常に薄かった。介抱をしながら、息絶えたのではないかと何度恐怖し、心音を確かめたことか。
レーアの瞼が弱々しくも細く開くのがわかった。紅い瞳が左に右にと動いているのを見た。ネイトの目尻は熱くなる。レーアがまだ生きているということの実感を、今ようやく得ることができた。
「気がついたんですね! よかった!」
レーアの瞳は、ネイトの姿を認めて動きを止めた。
「ここ、は……」
「……まだ、アゴラにいます。でも、ここは教会じゃありません。教会から遠く離れた空き家です」
「あいつは、」レーアが上体を跳ね起こそうとして、だが、できなかった。「……う!」
「あ、待って! 起き上がらないで。今は無理ですよ」
「あいつは、フォイエルバッハは!」
「大丈夫です、今はもう。あ、だめですよ! 動いたら!」
ネイトはなんとか起き上がろうとするレーアの両肩を必死の思いで押さえる。起きて早々に、先般の戦いのことを思い出させたくはなかった。一抹の躊躇を感じながら、それでもレーアを落ち着かせるためにネイトは言う。
「……本当に、大丈夫です。……どうするか、決めろって。明日の夜明けまでには、って。だから、それまでは。それまでは……大丈夫」
だいじょうぶ、とレーアはネイトの言葉をなぞるように口にした。力のない瞳が、天井を見つめ、彼女の唇からはすうっと息が漏れる。逆立っていたレーアの精神が、ゆっくりと凪いでいくのが伝わってきた。
レーアは、安堵したようだった。その様子を見て、ネイトもまたほっと胸を撫でおろす。
レーアは、シーツの中から片腕を出し、自分の顔の前に持ちあげた。包帯が巻かれた痛々しい腕だ。それを、感情も力も失せた虚ろな目で見つめている。
「なんとか包帯は見つけられたんですが、薬はなくて。今できることは、それくらいしか。辛いでしょうけど、少し我慢してくださいね」
「……うん……」
か細い声で、従順な返事。
それからネイトは、先に言われる前に弁明しておかなければと考えていたことがあるのを思い出した。いささかの逡巡を覚えてから、それでもやはり言うと決め、口を開く。
「あの、服、なんですけど。全部、脱がしました。包帯巻くのに、そうせざるを得なかったので。ベッドの下に、たたんでありますから」
言った途端、今は下着しか身につけていないレーアの体の細部に、向けまいとしていた意識が向いてしまう。
身の丈以上の巨大な槍を振るっているとは思えない、あらわにされた小さな白い肩。傷があってもなお麗しい、流れるような首筋。シーツ越しに見える、体の輪郭、胸の二つのふくらみ……。
坂を転がり落ちるように、ネイトの意識は更なる光景を、否が応でも思い描いてしまう。手当てのためとはいえ、倫理観を振り絞ってなるべく見ないようにしたとはいえ、それでも目に入ってきてしまった、彼女の裸体。負った手傷の痛々しさに想いを馳せ、自らの罪悪感を奮い立たせて、それでもやはり少年の心に焼き付く、その美しさ。
「……ネイト」
「は、はいっ!?」
「ありがとう」
ネイトはしばし放心した。それから、レーアは既に瞑目してこちらを見てもいないのに、それでも彼女を安心させるようにと微笑を作り、「いいえ」、と短く返事をした。
レーアの礼は、いつになく素直だった。その素直さが、ネイトの煩悶を嘘のようにかき消していた。空いた心の隙間には、得も言われぬ哀しさが去来して、胸は苦しくなる。
レーアは今、とても弱い。吹けば消えてしまいそうなこの暖炉の炎のように。
いや、あるいは、これが本来の彼女の姿なのかもしれなかった。
レーアはきっと、唯一の肉親の死に砕け散りそうになった自分を、必死に繋ぎ止めながら生きてきたのだ。
魔法への従順さと、魔法を否定する者への憎しみを、悲しい楔にして。
†
再びレーアの目が覚めたのは、窓をがたがたと鳴らす風のせいだった。
ネイトと話したあと、起き上がることもできないまま目を閉じていたら、いつの間にか再び眠ってしまったらしい。
窓から差し込む光はもうなく、外にはただ暗黒の世界が見えるだけだ。日が落ちてからどれだけ経ったのだろう。頭だけを動かして部屋の中を見渡し、時計を探したが、見つからない。
代わりに、ネイトの姿に目が留まった。蕩々と何かを語るように燃える炎を住ませた暖炉のそばだ。抱えた両膝に顔を埋めていた。
「ネイト」
小さく呼びかけるが、返事はない。どうやら眠ってしまっているらしかった。レーアの意識が落ちている間、ずっと火の番をしてくれていたのだろう。
両肘を硬いベッドについて、今一度、上体を起こすことを試みる。いまだ全身という全身が疼くが、先ほどよりはずいぶんましだ。
そういえば、身体を巡る執行力は、身体の瑕疵の修復を常人よりも早くするのだと、昔教わったことがあった。それとも、魔法の逐条解説書か何かで読んだのだったか。魔法による統治を全うするため、貴重な執行資源たる法官に強力な自己治癒能力を与えているのだ、と。
記憶を丁寧に追う。間違いない、教わったのだ。他でもない、師匠であるフォイエルバッハから。
フォイエルバッハ。
──明日の夜明けまで猶予をやる。おれたちと共についてくる気があるのならば、おれは喜んで迎えよう。黙って立ち去るならば、それもいい。どこかで魔法の終焉を見届けるがいい──
全身から汗が噴きだす。部屋の酸素が突然失せたかのように、呼吸が荒くなる。生唾を飲んでこくりと喉を動かす。
自分をベッドに押さえつけようとしてくる体の痛みを押しのけるように、レーアはベッドから飛びだす。自分がほとんど裸の状態であることを思い出し、ベッドの下からずたずたのシャツとスカートだけを引っ張り出して、忙しなく着る。そしてそのまま、外へ出た。
ネイトを起こさないよう後ろ手にそっと戸を閉める。空を見上げれば、そこにはこちらの気も知らずただ輝き続ける星の群れ。見える夜空は、ノウェイラの地でも変わらない。
──だが、いずれも選ばずこの地に留まるようならば、その時は……お前たちを断つ──
「く……!」
前髪を掴み、そのまま拳を作る。
胸の中から、かびのように何かが全身を埋め尽くそうとしていた。魔法に背く者への義憤でもない。自分を裏切り、姉を裏切り、ネイトを裏切った男への憎しみでもない。そういえば、先般のフォイエルバッハとの戦いの中でも、この黒い何かは生まれていた。
なんだ?
自分の中で広がっていくこの黒いものは、いったいなんだ?
「レジス・ヴィルタス! ブルーティゲ・シュペーアッ!」
たまらず、右手を突き出して唱える。
虹色の光が収束して形象化したそれは、しかしブルーティゲ・シュペーアの本来の姿とは遠いものだった。
その柄は、柄頭の付近が存在せず、本来の長さの四分の三程度にまで短くなっている。馬の頭骨を思わせる三角錐状の装甲は、今は具現化さえしてこない。だが、穂先の刃は、欠けはあれどほぼ完全に修復しているし、全体として、槍として取りまわすことができないではない。むしろ軽くなった分、身軽な立ち回りを可能とするようにも思われる。
これで、奴を裁ける。
先ほどの戦いは省みるべきところがあった。フォイエルバッハが有する膨大な執行力を帯びた魔剣ゲヴァルテンタイルンの連撃を、あまりにも正面から受け止めすぎてしまった。もっと受け流すように戦えば、きっと勝てる。勝って、裁きを与えてやることができる。
裁ける、はずだ。
自分の中の黒いものが、さらに巨大になっていく。
遥か遠く、魔の潜む城と化した教会の建物を見やる。今。今だ。ネイトをここに置いていき、教会に単身で飛び込むのがよい。奇襲をかけるのだ。ネイトを巻きこまず、雑念なく戦える。夜明けまでの猶予など必要ない。今度こそ、魔法を否定する者を、死に至らしめてみせる。
さあ、踏み出せ。
一歩を踏み出せ。
あの教会に向けて踏み出せ。
偽りの神が巣食う邪窟を、法の光で焼き尽くすべく、踏み出せ!
「──どうして! なんで!」
ブルーティゲ・シュペーアを振るい、空を斬る。
足が、動かなかった。
踏み出すべき一歩が、どうしても作れなかった。
「あそこに行くだけだ! あそこに行って、罪人を処刑するだけ! いつもと同じ、同じじゃないか! なのに、どうして!」
教会の鐘に魔槍の先を突きつけ、レーアはただ己に命ずる。
「私はフォイエルバッハを殺す! 魔法を否定する人間であれば、誰であろうと裁く! でないと、姉さんが! ネイト、だって……!」
その時、レーアは気がついた。
魔槍の柄を握る右手が、震えていることに。
レーアは愕然として息を呑み、右手からは力が抜けた。
魔槍が落ち、地面に重い音を立てて転がる。
レーアの中の黒いものは、もう、その正体を彼女自身に知らしめつつあった。
恐怖、だったのだ。
†
「ネイト! ネイト、起きろ! ネイトッ!」
両の肩を激しく揺さぶられて、ネイトは弾かれるように目を覚ます。目の前にはレーアの顔があった。
レーアの頬には玉のような汗がいくつも伝い、見開かれた目は彼女が完全な恐慌の最中にあることを示していた。
「逃げるぞ! アゴラを出て帝都に帰る! 今すぐに!」
その尋常ならざる気迫に圧倒され、ネイトは言葉を返すことすら忘れてしまった。口を開閉して言うべき言葉を探しているうち、レーアはさらにまくしたてる。
「私は勝てない! フォイエルバッハには! ブルーティゲ・シュペーアの完全修復は間に合わない! 私の傷も治りきらない! だから、無理に戦ってもどうしようもない! だから……だから、助けを……そう、救援を求める必要がある! フォイエルバッハが裏切ったこと、法院にも伝えないといけない!」
「……レーアさん」
「心配するな」
言いながらレーアは立ち上がり、ベッドの下にまだ残っていた、赤い執行衣を乱暴に引っ張りだす。息を荒げつつ執行衣に袖を通しながら、レーアは言葉を畳みかけた。
「確かに、確かに執行魔法では、魔法の執行を怠った法官は三十年以上の禁獄刑に処し執行力を奪うと定めている! だがここは皇領の外、魔法はない! 魔法が適用されるとすれば罪に当たる行為を皇領外でしたら、皇領内で告発されると罪に問われるというだけ! それは皇領外に魔法が存在するという意味ではない! つまり、執行を怠りようもないということ! だから、逃げても大丈夫なんだ!」
まるでネイトにではなく、専ら自分に言い聞かせているかのようだった。
自説に同意を求めるように再び差し向けられたレーアの目。そこにはもう、場を律する凛とした法官の目などなく、平常時のどこか倦怠めいた余裕のある色合いもない。
あるのはただ、虚勢。あくまでネイトの前では、弟子を導く師匠であり続けようという。だが、レーアが着ている傷だらけの執行衣同様、いくら毅然と立ち振る舞おうと、その心の傷はもう隠せはしない。
レーアのその痛々しさが見るに耐えなくなり、ネイトはただ俯くことしかできなかった。
肯定の返事をしないネイトにまだ迷いがあると感じたのか、レーアはネイトの肩に手をかけて、半ば叫ぶように言う。
「ネイト、おまえの気持ちはわかる! フォイエルバッハは、あいつはネイトの両親を……! でも、あいつを罰するなら確実な手段を取るべきだ! 私の言っていることは間違っていない! そうだろう!?」
ネイトはレーアの目を見た。そして、穏やかに、諭すように言った。
「レーアさんだけ、逃げてください。僕はここに残ります」
「どうして!? こんなところにネイトを置いていくなんて、そんなことできるわけない!」
「僕たちが逃げることをフォイエルバッハさんは許した。僕たちに逃げられたとしても、目的を果たせる方策と確信があるんです。つまり、ここで二人とも逃げたら、いずれ本当に魔法が滅ぼされるのかもしれない。だから僕はここに残って、どうにかフォイエルバッハさんを食い止めます」
レーアは、まるで違う国の言葉を聞いたかのように虚を突かれた表情で、二の句が継げない様子だ。
ネイトはホルダーから、父の形見の銃を引き抜く。そして反対側のポケットからも、何か光るものを取り出した。
それは、弾丸だった。白銀にコーティングされた、滑らかな輝きを放つ弾丸が、一発。
破律弾。
魔法の力を相殺し、皇帝の敷く魔の規律を打ち破ることができる破魔の弾。
レーアにとどめを刺そうとしたオースティンの手から銃を奪い取った時のことだ。その直後にうつぶせになり、あのクーという少女に何度も殴られ蹴られながらも、なんとか銃の弾倉を開いて取り出したのが、この一発だった。
レーアがフォイエルバッハとの戦いを始めたとき、銃は青スーツに奪い返されてしまったが、取り出した弾丸だけはこうして隠し通すことができたのだ。
「まさか、その一発で戦うっていうのか!? 勝てるわけない!」
「勝てるわけなくても、戦うって決めたんです。魔法を信じ、レーアさんを信じると覚悟を決めた、その意味がこれなんです」
「何を……いったい、何を言って……!」
「レーアさんは、ただ、怖くなってしまっただけです」
レーアの表情が、固まった。
幾ばくかの沈黙。そののち、ネイトの肩から、レーアの手が滑るように離れた。
ネイトは気づいていた。レーアの心中に生まれつつあるであろう、その感情の正体を。
恐怖を。
「隠そうとしなくても、いいんです。レーアさんは、いま、怖いんです。戦って、敗けること。自分では魔法を守れないとわかってしまうこと。お姉さんに立てた誓いが、正面から破られること。そして何より、自分が死ぬことが」
「……私は……」
返す言葉もなく、レーアはただ途方に暮れて床に視線を落とす。その手が先ほどから震えていることも、ネイトはとうに気がついていた。
「でも、それでいい。怖くていい。怖さって、生きたさだから。僕だって、レーアさんに生きていてほしいんです。もう、傷ついてほしくない」
そして、レーアの顔をしっかりと見据え、力強く告げる。
「だから代わりに、僕が戦います。レーアさんが守ろうとする魔法を、ここでは僕が守る。法官レーア・ゼーゼベルケを守ってみせる。だから、僕はレーアさんにはついていけません」
まるで、一切の抗弁の余地なき法官の裁きにも等しい宣言。現に今、レーアからすべての言葉を奪っている。レーアはただ、絶句し立ち尽くすのみだ。
暖炉の火は、今、死んだ。
くべられていた枝には橙色の筋が残って、それもまた消え、後には黒い消し炭だけが残った。
二人を、月夜のもたらす青い闇が包む。
レーアは、ただ言葉を失ったまま、ネイトに気圧されているように、一歩、また一歩と後ずさりした。
やがて背が壁に当たると、そのまま床まで腰が落ちる。それからレーアは、子供がこぼしてしまった大事なものを拾うように、力なく両膝を腕で抱えて、何もない闇の一点を見つめた。
月の光に半面を照らされたその顔には、もう、虚ろな表情が残っただけだ。
木の洞のような真っ暗な目は、尽き果てた心をぽっかりと写しだしている。
風の音はいつの間にか止んでいた。
耳の痛くなるような静寂。
「最初は、姉さんに、憧れていただけだった」
やがて、か細い声が、闇に語りかける。
「法官をしている姉さんは、誰からも尊敬されていた。いつも誰かから礼を言われていて、まるで周りの人ぜんぶに愛されているように見えた。だから、私もああなりたいって」
ネイトは、何も言わず、ただ耳を傾ける。
「それに、姉さんのこと、私は大好きだった。姉さんを追いかけたかった。同じ場所に立っていたかった。だから……だから私も、法官になった」
ネイトは思う。きっとレーアは、ネイトだけではなく、自分の中の闇に話しかけているのだと。
闇の奥深くに封じこめてきた、本当の自分に。
「でも、姉さんは、死んだ。私を置いて」
レーアは震え、怯えながら、その事実を再び、自分の言葉でなぞるのだった。
自分の中に巣食うその暗闇にいま、彼女は手を伸ばそうとしている。そこから、本当の自分の姿を引っ張り上げようとしている。恐れながら、震えながらも、自分の本当の感情と向き合おうとしているようだった。
「六年前のあの時。姉さんは私たちの目の前でノウェイラ軍に捕まって、敵は先生に選択を迫った。魔法を破って敵の捕虜を解放するか。それとも魔法を守って姉さんをみすみす死なせるか」
フォイエルバッハがかつて教えてくれた、レーアの過去だった。その悪夢を今一度、自らの言葉をもってネイトに伝えようとしている。
「私は、弱かった。先生に敵の言うとおりにしろと、姉さんを助けろと先生に迫ってしまった。でも先生は、法官として、魔法を選んだ。姉さんの命を犠牲にして、魔法を守る道を選んだ。……私は、それからもずっと、弱いままだった。先生を憎むのも、魔法を疑うのも、どっちもできなかった。
だから、だから私は、魔法には姉さんが死ぬだけの価値があったんだ、姉さんは魔法に命を捧げたんだって、そう信じた! 信じこむことに決めた!
信じ続けるために、法官も続けた。絶対に魔法を守る。誰にも魔法を否定させはしない。帝国が魔法で世界を支配しようとするなら、私もそれを助ける、って。そうやって、無理やり自分を納得させてきた」
魔法を否定する者は、殺す。
それは、自分自身への悲しい呪縛だ。リーベを失い、愛しい姉の死を悼む気力も、怒りに震える力さえも失ったレーアなりの、最大限の自己防衛。
リーベの死に因果を持つフォイエルバッハを恨むに恨みきれず、ノウェイラのことも取り立てて憎悪を口にすることなく、ノウェイラ出身であるネイトのことも、ただ弟子として指導するばかり。これらの存在に対して抱いても無理はないはずの不満や怒りや憎しみは、すべて、“魔法を否定する者”へと逃がされていた。レーアが自身の心の均衡を保つには、そうするしかないと彼女は考えていたのだ。
「でも、本当は、私、怖かった」
語尾は震え、差しこむ月光は、レーアの頬に伝う涙を教えてくれた。
レーアは両手で頭を抱え、堰を切ったように自身の感情を叩きつける。
「そう、ずっと怖かったのよ! 恨まれることに怯えて、殺されることに怯えて、独りになることに、怯えて! 自分も姉さんみたいに死ぬんじゃないかって、いつも思ってた! それでも、姉さんのために、頑張ってきたの! 必死にっ!」
そしてレーアは、自分の膝を睨みつけながら、涙声でかき叫ぶ。
「そうよ! 私は怖いだけ! 逃げたいだけ! 適当な理由をつけて正当化して、いつまでも逃げ回りたい! でもそれの何が悪いの!? これが私にできる精一杯なのよ!? 勝手に私を守るなんて言わないで! 私に、何も期待しないでよっ!」
レーアは、抱えた膝に顔を埋めて、泣いた。
しゃくりあげ、嗚咽を隠そうとすることもなく。
「だから、ネイト……私と来て……私と一緒に、逃げてっ……」
親に棄てられた子供のように、レーアはただ泣き続けた。
ネイトは答えず、手にしたリボルバー式拳銃に目を落とす。
弾倉を横にずらして、六つある穴の一つに破律弾を慎重に装填した。
「ああ、そうか……」その弾丸の鈍い銀色を見つめながら、呟く。「レーアさん、ごめんなさい。僕は、嘘をついてました」
嗚咽が響き続ける中、ネイトは泣きじゃくる妹を優しく諭す兄のように続ける。
「父さんが死ぬ直前、僕に言った。この世界に“正しさ”を見つけろって。僕は、ちゃんと見つけられた気になっていた。それは、魔法の正しさなんだと思っていた。でも、本当はそうじゃない。魔法なんて、帝国なんて、もしかしたら、どうでもよかったのかもしれない」
がちゃりと音を立てて弾倉を戻す。そして、立ち上がる。
膝に顔を埋め時折肩を震わせるレーアを見下ろした。
彼女に向けて、言葉の輪郭をなぞるように明確に、告げる。
「僕は、レーアさんを愛しています」
レーアが息を呑んで、涙に濡れた面を上げた。
「僕が守りたかったのは、魔法でも帝国でも、法官でもなかった。ただ、ありのままのレーアさんを守りたい。誇り高くて格好良くて、でも弱くて怖がりなレーアさんが、帝国で、穏やかに生きていけるようにしたい」
ネイトを見るその涙に腫れた紅い目。そこには、澄み切った覚悟を宿した少年の青い瞳が映るばかりだ。
裁きを告げるかのように、ネイトは厳然と告げた。
「だからこそ僕は、ここに残ります。レーアさんは、逃げてください」
──そしてレーアは逃げだした。
帝都の方角に延びる道の向こうへと、赤い執行衣の姿が消えていく。
ネイトを残し、たった一人、尊崇と憎悪の狭間たる帝都へと去っていく。
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