第二節

 ノウェイラの首都ガアドにて、陸海空軍が国民議会議事堂および大統領府を占拠。

 政府要人その他から抵抗らしい抵抗はなく、抗戦の扇動もなし。大きな衝突は見られない模様。

 大統領府からは、軍部の頂点に立つ総軍参謀総長がラジオ放送を通して国民に演説。

 曰く、今回の行動は究極において国民のためであり、いやしくも私利に出でたものでなし。

 目的は、ノウェイラの主権護持。魔法の断固拒絶。だが、休戦協定の破棄をする意図は現時点では存しない。我々は平和を愛する者だ、とも。


 ──クーデターの翌朝のこと。

 フォイエルバッハがネイトを連れて再び廃図書館を訪れてきたとき、レーアは驚き呆れた。もうしばらく会わないと聞かされていたフォイエルバッハと、たった一日で再会するとは、と。

 文句の一つも言ってやろうかと思ったが、いつになく真剣な顔つきのフォイエルバッハを前に何事かと訝しんだ。そうしているうち、フォイエルバッハの方から、以上のノウェイラでのクーデター事件の概要が報告されたのだった。

 ひととおり聞いてから、レーアはレーアなりに、ネイトの心中を察してみようとした。

 もとより外国の政局になど興味がない。だが、曲がりなりにも一年以上は付き合いのある弟子の、その故郷の話だ。

 彼は落ち込んでいるのか、それとも怒りを覚えているのか。そうであるとして、自分は、何か言葉をかけてやるべきなのか。

 誰のおかげか、誰のせいか、今まで大して考えたことのなかったことを、随分と考えるようになったものだ。

 だが、かける言葉を探す時間など与えられはしなかった。フォイエルバッハはレーアに、ネイトを使ったある“作戦”を聞かせた。そしてどうやら、それが本題のようだった。

 その作戦とやらに、レーアは敢然と反対した。

 ──正気を失ったのか先生。なぜネイトが──

 ──ネイトでなければできないからだ。今回のクーデターに対処するため、最高法院はノウェイラの親帝国派との協議のチャンネルを持っている。ネイトはな、その親帝国派の重鎮の、ご指名なのさ──

 フォイエルバッハの話によると、要するにこうだ。

 クーデターの成功には、国民の支持が必要不可欠である。そこで親帝国派を構成する元政府要人や政党団体は、国民の支持を強固に獲得し、世論が軍部に味方しないようにしたいのだという。そうすることで主戦派と対等に交渉し、民主政回復の一途を築くことができる、と。

 そこで、ノウェイラ国民に、帝国に融和的であった自らの姿勢を正当なものと国民に知らしめる必要がある。そのためには、ノウェイラ出身者でありながら帝都で暮らし、魔法とそれがもたらす秩序を享受してきた──実際のところはともかく、そういうストーリーに適任な──ネイトが必要だ。ネイトの口からノウェイラ国民に、魔法は暮らしを脅かすものではなかった、むしろ安定と安全をもたらすものだ、と説かせようというのである。

 ──いくらなんでもばかげている。そんな奴らの希望的観測だらけの筋書きを先生は承認して、皇帝陛下に上奏したっていうのか──

 ──いずれ帝国がノウェイラを魔法により統治すれば、そこには秩序がもたらされる。が、臣民の支持はあるに越したことはない。ノウェイラの南の残地の併合を強制的にではなく、あくまで平穏に進める希望がまだあるのなら、その手を尽くすべきだとおれは考えた──

 ──ネイトの身の安全はどうなる? ノウェイラ人に裏切り者扱いされて襲撃される可能性だってあるぞ──

 ──その点は、レーアさんに頼ることになってしまいそうですね──

 ネイトは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。フォイエルバッハも続けて、

 ──レーア。お前もネイトと同行し、ノウェイラの首都ガアドに向かってもらう。ネイトの身辺警護がお前の任務だ──

 ──ガアド!? いったい何を言っている!──

 レーアは叫ぶように言った。

 ──先生にはわかりきったことだろうが、耄碌したのかもしれないからあえて言う! 皇領の外には魔法の規律力が及ばない! スティグマが見えなくなるし、最小限度の自衛しかできないんだ! その上、ガアドだと? 皇領の外縁から五百キロは離れているぞ! 単純に見積もれば、私の執行力は五分の一にまで落ちる!──

 魔法の力と呼ばれるものには、分けて二つのものがある。

 一つは、法官が行使する“執行力”。また一つが、皇帝が皇領全体に及ぼす“規律力”だ。

 魔法は、皇領と呼ばれる帝国の領土においてのみ適用される。皇領の中では、法官は見えたスティグマやシグネットに基づき、魔法を根拠としてあらゆる執行を行うことができる。違法な存在の排除、拘束、監獄への瞬間移動などがそうだ。いつかネイトが声を奪われたように、自然現象や生理現象を一定の範囲で操縦することもできる。また、強制的に魔法や契約に従わせるべく、ごく一時的にではあるが、洗脳をすることさえもし得る。

 このように魔法を執行することができるということを言い換えれば、それはこうだ。すなわち、皇帝が皇領内にあまねく及ぼし続ける魔の規律から、法官が具体的な力を引き出し、現実の物理世界に具現化させる、ということである。つまり、執行のためには元となる魔法の規律があり、その規律を制定しかつ定着させる力を指して、規律力という。

 だが、ひとたび皇領の外に出れば、そこに魔法はない。魔法がないというのは、“適用されない”という言い方もあるが、つまりは規律力が及ばず、法官が力を引き出す元が存在しなくなるということだ。ゆえに、帝国の魔法を執行することなどできようはずはない。

 唯一できるのは、魔法の執行ではなく、法官が自ら有する執行力そのものを用いた自衛手段を講じることくらいだ。つまり、執行器と呼ばれる法官の武具を呼び出すとか、自衛障壁を生み出すこと程度に留まってしまう。

 そのために必要な執行力も、皇領の外に出れば減衰する。魔法の執行力とは、皇帝から分与されるものだが、その後にも常に皇帝の身から自動供給がされ続けるものだ。皇領の中にあっては完全な供給を受けることができるが、外ではそうはいかない。皇領の外縁──言い換えれば国境──から距離をとればとるほど、執行力の供給は痩せ細っていく。

 要するに、講じることができる自衛手段が限られるうえ、その力も著しく弱まるというのに、敵陣の渦中に飛び込めとこの男は言う。とても正気とは思えなかった。

 レーアの抗弁にもかかわらず、フォイエルバッハはまったく表情を崩さないまま淡々と告げた。

 ──レーアだけじゃない。重武装の陪席人形兵を百体充てて護衛させる。お前の役割は戦うことよりもむしろ、現地で陪席人形兵の指揮を取ることだ──

 確かに、ただ稼働するためだけに魔法の執行力を受信し続ける陪席人形兵ならば、皇領の外でも悪影響を受けにくい。現に、帝国が外国を魔法の統治下に置くべく征服作戦を展開するとき、まず皇領の外の最前線で戦うのはすべて陪席人形兵だ。

 ──それに、おれも行く。大法官の一人でも行かなければ国として誠意がないからな。だから安心しろ。お前は自衛、およびネイトの他衛に、すべての執行力を注ぎこめばいい──

 フォイエルバッハの話に承服したくなどない。だが、どうやらレーアの見立てに反して、敵国首都での安全性の確保には目途が立っているようだ。そうである以上、上が決定したことに反論することなど無意味だ。

 だがそれでも、まったく危険がなくなったわけではない。

 ──……自信がない──

 ──ノウェイラの三個突撃旅団を一人で壊滅させた法官が何を言う。それとも、ネイトが心配でたまらないか?──

 ──こんな時に茶化すな。そんな茶番劇に付き合える心の広さを持てる自信がないということだ──

 ──頼む、やってくれ。おれはお前に官命権を持つ。官命によりお前にシグネットをつけ、洗脳して強制履行させることもできる。おれにンなこと、させるなよ──

 レーアは掌に爪を食い込ませて、フォイエルバッハを睨みつけた。だが、それ以上のことは何もできなかった。フォイエルバッハの言葉は、事実上の強制に等しい。

 認めたくない。

 認めたくは、なかったのだ。

「レーアさん。魔境柱レヒト・ゾイレが見えました」

「……ん」

 レーアとネイトは、トラックの荷台の中でずいぶん長いこと揺られ続けていた。濃緑色の幌の中、かび臭さとベンチの硬さに、三時間ほど忍耐し続けた後のことだ。

 幌に設けられた丸い窓から、それは見えた。

 薄青い空を背景に、荒涼とした赤い大地の上に斜めに突き刺さった巨大な柱、レヒト・ゾイレ。

 地上に露出している部分だけでも、優に百メートル以上はあろう。

 巨大さもさることながら、その異様な外観もまた、見る者を畏怖せしめる。柱の表面には、白い石質の外殻が無数に見えた。外殻の形状は一定せず、大きさも数メートルのものから十数メートルに及ぶものまで区々だ。この外殻が、びっしりとタイルのように敷き詰められて、柱の表面全体を覆っていた。神が破戒を犯した巨人たちを懲罰し、その骨を取り出して、無作為に並べなおして作ったのだ、という伝説さえ伝え聞かれるほどだ。

 柱の頂点には、まばゆく放たれ続ける紫色の光が見えた。その光は地面と水平に、二つの方角へと二本伸びている。丸窓から見える範囲で光の行く先を目で追っても、地平線の向こうへと消えていくのが見えるだけだ。

 だが、レーアはその光がどこへ行くのかよく知っている。否、レーアだけではない。帝国人の常識ですらある。

 この柱の紫の光は、別の柱と繋がる。その別の柱は、さらに別の柱と光で繋がっている。

 そうしてできあがる、途方もなく遠大な光の囲い。その内側こそが、“皇領”と呼ばれる領域。すなわち、魔法が適用される空間にして、ヴェルヘイル帝国の国土なのだ。

 この柱を、今は他国である土地に次々と新たに設置していく。そうして光の輪を外へ外へと拡大していく。それにより、魔法の適用領域を推し広げる。これこそ、世界を魔法の統治下に置くという“魔法の支配”への途。ヴェルヘイル帝国の国是である。

 柱は、陪席人形兵のコアと同じく、魔法の執行力を受容する素材で建造されているのだという。巨大な航空機により運ばれて地に落とされ、地上に触れた瞬間、魔法を自力執行して地中へと穿孔する。そして一度その地に定着しさえすれば、その柱の周辺、半径約百メートルの範囲には半永久的に自衛障壁を展開し続ける。こうなれば、もはや何人たりとも近づくことはできず、いかに強力な爆弾といえども完全に無効化してしまう。つまり、敵が引き抜き、あるいは破壊することは、ほぼ不可能となる。

 これこそ、ヴェルヘイル帝国の国境を画するとともに、神の秩序と人の秩序とを隔てる境界標。魔境柱、レヒト・ゾイレ。

「皇領を、出ます」

 ネイトが言った直後、上空に見える紫色の光の下をレーアたちはくぐった。皇領を画する境界線を越えたのだ。

 その瞬間、レーアの中に瞬発的に倦怠感が広がった。まるで突然、胃の中に大きな鉛の塊を落とされたかのようだ。執行力の供給が、がくりと落ちこんだ時の感覚だった。

 すぐにめまいと吐き気が来る。もともと雪のように白い顔が、今度は青白くなろうとしている。顔を片手で押さえ、背を丸めてうずくまった。

「レーアさん、大丈夫ですか!? 水、飲んでくださいね」

 不安一色の子犬のような顔で、ネイトが紙コップを差し出してきた。皇領を出る直前、ネイトは既に水筒から紙のコップに水を汲んでいたのだ。

「……たすかる」

 おずおずとコップを受け取りながら、どうしてこんなに気が利く人間にできあがったのだろう、とぼんやりと考える。この少年には両親がいた。対して自分には、いつの日からか知らないが、いなかった。その差なのか。いや、だが、自分には姉がいた。

 姉は優しく、世界の全てを包みこめるかのような人だった。だが、自分は挟まれるばかりだった。尊ばれ、憎まれ、その狭間で揉まれて生きるしかない。

 トラックはなお走る。遠方に見える魔境柱レヒト・ゾイレは、自分たちの後ろへとゆっくり流れていく。

 そしてレーアは、魔法を否定する者たちの世界へと、流れていく。



 運転手の陪席人形兵は、例によってまったく言葉を発することができない。だから、トラックの揺れがぴたりと収まり、けたたましいエンジンの音が消え失せた時も、それが果たして目的地に到着したからそうなのか、はたまた車が故障してしまったのか、よくわからなかった。

 おもむろにネイトが立ち上がり、幌のファスナーを勢いよく開く。陽光がトラックの荷台の中へと強く差し込み、レーアは手を目の前にかざした。

「わあ、ついた!」

 少年らしい純朴な感嘆の声を上げて、ネイトは元気よく外界へ飛び出していく。

 その背中を追ってレーアもまた一歩を地に降ろした瞬間、不思議な香りに迎えられた。

 金属のような硬い匂い。だが、砂糖のように甘く、柔らかい匂いも相伴っていて、決して不快ではない。

「この匂い、わかります? 街全体がこうなんです。建物や道の舗装に使われている鉱石の匂いなんですよ」

「道から建物から、何から何まで青いのも、そのせいか」

 レーアの目の前には、一面、青い景色が広がっていた。鮮やかな青、淡い青。濃淡様々な青が、建物も、道も、花壇の一つ一つに至るまでをも彩っていた。

 いま立っているこの通りの行く末を目で追っていくと、途中で右に左にとくねりながら緩やかな下り坂となっていて、遥か先まで続いている。その両脇を挟むようにいくつもの住家が立ち並ぶ。何百戸もの住家の青い屋根瓦は、海面がうねっているかのような一面を構成していた。

「そうです。この辺りから採れる石は青色の鉱物を多量に含んでいるんです。美しいし、加工しやすくて丈夫だから、この街はその石をたくさん使ってるんですよね」

 家々はただ青いだけではなく、どれもきらきらと輝いて見えた。足元の石畳に目を落とせば、日光を受けて白金色に輝く砂粒のようなものが石材に混じっているのがわかる。

 レーアは再び目を街並みに投じた。優しい風が運んでくる、この不思議な甘い香りを、ひとつ強く吸いこんでみる。

 まるで、油絵に描いた空の上にいるかのよう。おとぎ話の中みたいだ──そう思った直後、柄にもないことを連想した自分に心中でせせら笑った。

 ネイトはレーアの数歩前へと躍り出た。かと思うと、両手を翼のように広げて振り返る。ジャケットの裾と淡い紫の髪とを涼風になびかせながら、顔に満面の笑顔を咲かせて、ネイトは言った。

「ようこそ、レーアさん! ノウェイラの宝石と謳われし、蒼き街アゴラへ!」

 皇領と化した北ノウェイラと、いまだ独立を保持している南ノウェイラ残地との間には、帝国とノウェイラとの間に引かれた休戦ラインが引かれている。そして、その休戦ラインを挟んで南北約四キロに渡り、非武装地帯が存在する。

 非武装地帯はいまだ皇領ではなく、帝国人が自由に立ち入ることはできない。一方、ノウェイラ人もまた立ち入ることが許されていない。双方が一定の距離を取って対峙し、突発的な紛争を回避するための緩衝地帯の役割を果たしている。

 ここアゴラは、その非武装地帯の只中にある街だ。

 住む人間なき今となっては、街だった、というべきかもしれないが。

 ここは自分たち二人の旅路の中継地点だった。目的地の首都ガアドまで、陪席人形兵が運転する法院の自動車で行くわけには到底いかない。帝国の国章が描かれた車で向かおうものなら、道中で帝国に反感を抱く者からの襲撃に遭うことは必定といってよい。

 そこで、親帝国派の元政権幹部が、数人から成る使節団をアゴラまで迎えによこすという手はずになっていた。落ち合う場所は、アゴラの中心部にあるという教会だ。

 教会の場所は、初めてこの街を訪れるレーアにもすぐにわかった。この下り坂の遥か先、周囲よりも一際高い尖塔を備えた建物が見える。その尖塔の中に、くすんだ金色をした鐘が小さく見えた。

 二人、その鐘を目指して歩き出す。

 日の光を受けて煌めく建物の外壁は、やはり間近で見ても美しい。一方、建物の陰が落ちる道の青色は、深く色濃い。

 この街に同じ青はなく、時になだらかなグラデーションを、時に鮮やかな明暗のコントラストを生み出しながら、レーアたち取り囲んでいる。

 石を叩く足音のほかは、風の囁く音だけがする。他に音を立てるものはなく、猫一匹すら見つからない。

 邸宅の庭の中では、雑草が好き放題に延びていた。手入れが行き届かなくなってから久しいことがわかる。

 このアゴラで二人を華やかに迎えてくれるのは、風景を彩る青のほかは、こうした雑草が咲かせる多少の花々くらいだった。

 他には、何もない。

 休戦協定締結の折、アゴラからはすべての住人が住家を引き上げることを余儀なくされた。もはやここには、人の暮らしの残骸が転がっているだけだ。

「静かで寂しいところですね。当たり前か。人っ子一人いないんだから」

 ネイトが寂しげに笑う。

 降り立った当初は意気揚々としていたネイトだったが、街中を歩くうち、彼の顔は暗く変わっていった。ネイトにとって、ここは懐かしい故郷であると同時に、恨むべき故国でもある。細められた青紫の目には、複雑な感情が垣間見えた。

「でも、僕にとっては、人がいない今の方が、この街は綺麗に見えます。ノウェイラの人たちは争ってばかりでしたから。それに、僕の家族だって散々な目に遭わされて。ああ……この話、レーアさんにはちゃんとしたんでしたっけ?」

「いや」

 少し躊躇を覚えてから、レーアは口を開く。

「でも、ネイトの事情は先生からひととおり聞いてはいる」

「でしたか。良かった。レーアさんには知っておいてほしかったけど、僕の口から説明するのは、その、やっぱり結構しんどくて」

「……そう」

 六年前に帝国とノウェイラが休戦を迎えた後のネイトの経緯について、ネイトとの間で話題に上ることはほとんどなかった。だが、ネイトを自分の弟子に充てることを計らったフォイエルバッハの口から、すべて聞いてはいた。

 ネイトの父は、比較法学者としての見地から、魔法として定められた法制度をノウェイラの立法に導入することを世に提言したこと。そしてそれが起因となり、ネイトの家族は迫害を受けるに至ったこと。その後、フォイエルバッハの支援を受けやすい休戦ライン間際の街へ移り住み、隠遁生活を送ったこと。

 しかし、結局はノウェイラ兵に見つかり、父と母を残忍な方法で処刑されたこと──。

「全部けしてやる、って、そう思ってたんです。法官になったら、僕がノウェイラにいる敵を皆殺しにしてやろう、って」

 端正な顔立ちを歪めもせず、ただ淡々と内に秘めていた黒い想いを吐き出すネイトに、レーアは黙って耳を傾けた。

「今でも、その覚悟は変わってはいません。でも、ミアラさんやサアリさんみたいな人を増やしたいわけじゃない」

 おかしいですよね、とネイトは乾いた笑いを零す。

「魔法のために戦えば、死ぬ人がいる。それで悲しむ人がいる。そんな当たり前のこと、わかっていたはずなんです。たぶん、僕は無意識に目を背けてきてしまっていた。でも、ミアラさんやサアリさん、ルーベンスさんが、それを僕に自覚させてくれた」

「先生の話を引き受けたのは、それが理由か」

 ネイトは黙って頷く。

「戦わず、穏やかに帝国がノウェイラを支配できるのなら、それに越したことはありませんから」

 フォイエルバッハとノウェイラの親帝国派の目論見どおり、親帝国派が実権を取り戻すことができれば、確かに帝国とノウェイラはこれまで以上に接近するだろう。親帝国派も、帝国への借りを何らかの形で返さざるを得ないはずだからだ。そうとなれば、ついにノウェイラ全土を皇領とする目途も立つのかもしれない。

「でもどのみち、ノウェイラには僕を恨む人が必ず出ますよね。僕は恨まれ続けることになる。売国奴の息子として、そして売国奴そのものとして」

 ネイトは風で乱れた髪を右手でかきわけながら、諦観に満ちた微笑を浮かべた。

「このきれいな街にも、僕を恨む人がきっといるでしょうね。だったらやっぱり、誰もいない今の方が、いいな」

 それは、寂しい願いだった。

 気がつけば、ネイトの歩く速さが少し落ちていて、自分は彼を追い越しつつあった。レーアは速さを合わせようと一瞬思った。

 だが、やめた。自分は、このままの速さで歩くことにした。合わせるなんて、してやらない。そう、弟子は師匠に追いつこうとするものだ。

 ネイトを背中に置き去りにしつつ、レーアは振り返らずに、凛とした声で言う。

「ノウェイラの一番奥まで魔境柱レヒト・ゾイレが刺されば、ここも皇領になる。そうなれば休戦ラインも非武装地帯も消えて、ここに人が戻る」

 紅い双眸に力を込めて、まっすぐ前を見つめたまま、レーアは続ける。

「だがその時、住人は既に魔法の規律に服している。断罪ノ魔法、私律ノ魔法、そのほか千を超えるすべての魔法がここの連中を縛る。誰もおまえを侮辱できない。誰もおまえを傷つけられない。もしそんなやつが出たら、おまえが自分の手で処罰すればいい。その時、おまえはもう法官なんだろう?」

 他人にこうなってほしい、という望み。それは、レーアにとってはらしからぬ願望だった。

 いや、願望ではない。きっとそれが、確かな未来なのだ。

 少なくとも今は、そういう日が来ると信じている。

 ネイトが言葉を発さず、ただ不思議なものを見るような目で自分を見ているのが、背中越しに伝わってきた。

 やがて、ネイトはくすりと笑いながら言った。

「あれ? もしかして、慰めようとしてくれてますか?」

「まさか。冗談じゃない」

「あは。またまたぁ」

「またまたじゃないだろ」

「……ありがとうございます。レーアさん」

 突然の純真な礼にどう返してよいか、わからず。いささか照れもあってそれを隠すべく、レーアはさらに歩幅を大きくとってネイトを引き離した。

「あ、ちょっと! 待ってくださいよぉ!」と子犬のような悲鳴が追ってくると、ひとまず嗜虐的な満足を得て良しとした。


 そして二人は、教会の扉の前に立つ。

 見上げれば、アゴラ特有の鉱石で彩られた空色の尖塔。横に目をやれば、見る角度を変えるたびに煌めいてみせる滑らかな白亜の壁。

 目の前の背高な両開きの扉は、表面が升目状に区切られ、それぞれの升の中には絵画が描かれている。人々が一人の男に膝をつく絵、男が川に砂のようなものをまく絵など──きっとこれは、太古より今に伝えられる神の物語なのだろう。

 ネイトが扉の片側に手をつき、足を少し引いて体重をかける。ギィ、と軋んだ音を立てつつ扉が開く。暗い隙間が開くと、その中へ吸い込まれるようにネイトが入っていく。レーアもまた、後に続いた。

 中は、薄暗かった。

 だがそれゆえに、この聖堂に降る光は天からの下賜と思うばかりの神々しさだ。

 堂の天井を見上げればそこに、この世の全ての色を注ぎこんだのではないかとさえ思われる極彩色のステンドグラスが、降り注ぐ日光を虹色に変えていた。ステンドグラスもまた、それ自体が神を物語る絵画だった。高度に抽象化されてはいるけれども、神や天使の姿が躍るような力強さをもって描かれている。

 別に、美術を愛でるような嗜好を持ち合わせてはいない。だがその自分にさえ、この場所は息を呑む美しさを感じさせた。

「ネイト・クーヒェラル君。それから法官の、レーア・ゼーゼベルケ判事正ですね。お待ちしておりました」

 男の声が聖堂に木霊した。

 何列にも並べられた、落ち着いた色合いの木製の信徒席。その向こう側は一段高くなっていて、教父が教えを説くための演台が設けられている。

 そしてさらにその向こうにはくすんだ黄金で打ち立てられた教会のシンボルが見える。二本の横線と一本の縦線を交え、その交差部を円で囲った形だ。

 そのシンボルのそばに、青色のスーツを着た一団が立っていた。

 その数、ざっと二十数名。下は十台の末ごろと思しき女から、上は四十絡みに見える壮年の男までいる。

 声を発したのは、三十代半ばといったところの男だった。茶色に近い濃い金髪に、緑の虹彩。やや褐色がかった肌。

「ノウェイラ大統領府、大統領補佐官のオースティンです。クーヒェラル君、あなたは私たちの希望の星です。よく、来てくれました」

 オースティンは柔和な笑みを作って右手をネイトに差し出した。

「ネイト・クーヒェラルです。よろしくお願いします」

 ネイトは、会釈を返したものの、その表情は明らかに硬かった。ネイトの右手はオースティンの手を握ろうと腰の高さまでは上がったが、そこで止まり、掌は中途半端に開かれて空を掴むばかりだった。

 そう、簡単には手は握れまい。

 ネイトはノウェイラという国家を恨み続けてきた。その恨みの対象に、反帝国派も親帝国派もなかったのだ。親帝国派の政権とて、ノウェイラの司法部をコントロールできなかった。だからネイトの両親はありもしない罪をかぶせられ、定められてもいない刑罰で殺されたのだ。この好青年も政権の一翼を担ってきたならば、その罪責の一端はあろう。

「“元”大統領補佐官、だろう」オースティンとネイトの間に割り込みながら、レーアは言う。「正直、疑っている。あなた方の目論見がどこまでうまくいくものなのか。だから、依然として個人的には反対だ。ネイトをあなた方の駒にすることには」

 オースティンは差し出した右手を引き込めてから、瞑目し、

「ですが、今はこうするしかないのです。休戦以降、この六年間の政権が執ってきた外交の正当性を世に訴える。帝国との交流を維持し、魔法に怯える必要はないと説く。ノウェイラを正当な政府に取り戻すためには、確かに十分条件とはいえません。が、必要条件ではある」

「その先に、ネフティス・クーヒェラルの名誉の回復も、あるんでしょうか」

 ネイトが床を見つめ、躊躇いがちに口を開く。

「お父様のことですね」オースティンが慮った様子で言う。「ご両親のことは残念でした。この場を借りて、謝罪します。我々大統領府には、反帝国と独立保持の一色に染まった司法府をコントロールすることができなかった。結果、ノウェイラの法は奪われてしまった。すべて、我々の力足らずがゆえです」

 ですが、と言い置いてから、オースティンは言葉に力を込めて続ける。

「ネフティス・クーヒェラル氏の提言を、現大統領は高く評価しております。帝国との親交を続けていたのも、ゆくゆくは魔法の一部導入を企図してのことでした。お約束します。我々が政権を取り戻した暁には、必ずや、クーヒェラル氏の名誉を回復してみせましょう」

 その言葉に、ネイトの表情はいくらか晴れやかになる。

 だが、レーアの心中は相変わらず猜疑的だ。

「その力足らずとやらが治ればいいが、どうだろうな。つい先日も、あなた方の元首はその椅子をあっさりと手綱の外れた飼い犬に明け渡したようだが」

 レーアの棘のある言葉に、オースティンはただちに反論を返そうとはしてこなかった。ただ、困ったような微笑を顔に浮かべてみせただけだ。

 こいつ、とレーアは思う。

 その表情にこそ、レーアにとっては気に食わないものがあった。

 いくつものスティグマやシグネットを見てきた経験からか、その微笑の裏に潜む何かを、レーアの鼻は嗅ぎ取ってしまう。

 どこか、こちらを軽んじるような。あるいは、侮蔑するような。

 細められた目の緑色の瞳も、口元ほどには笑っていないように見える。

 レーアの中に確信めいた思いが芽吹く。

 この青スーツの連中には、何かある。

 正体はわからないが、何かを隠している。

「私はあなた方の政治活動に興味はない。私とネイトの安全が最優先。それが私の行動の方針だ。いいな」

「承知しております。ところで、安全といえば、護衛の務めを果たす人形の兵隊が用意されているとか」

「陪席人形兵が百体、明日ここに合流する。こちらの市民を威圧しないよう、ローブを着せてある」

「心強い。アムゼル・フォイエルバッハ師のご到着も明日で相違ないですね」

「そうだ」

「では予定どおり、明日、私たちの車でガアドへ向かいます。今日の宿は、この教会の寝室が使えます。少々埃っぽいですが、我慢してください」

「助かります」ネイトが安堵の溜息をつく。「やっと休めますね、レーアさん。汽車の乗り心地はひどかったし、陪席人形兵の運転は荒かったしで、もうくたくたですよ」

 そうだな、と生返事を返しながら、レーアはなおオースティンから目を離さなかった。

「これで、事態は動きます」

 オースティンは踵を返して、背後を見上げる。

 二本の横線に一本の縦線、そして円を重ねた形の、くすんだ金色の十字架。

 レーアもつられて、それを見る。

 その十字架の形が何を意味するのか、レーアは知らない。だが、この場にあってその十字架は、ここにいる全員を見渡す瞳のようにも思われた。

「目です」

 横から、高い声が言った。声の主を見れば、黒髪のポニーテールの女がきれいに背筋を伸ばして、こちらに鋭い眼差しを向けている。先ほどもわずかに目に留まった、十代後半と思しき者だ。この青スーツの一団では最も年少だろう。

 レーアの中に、何かが引っかかる。

 この使節団は、大統領に近しい幹部で構成されていると聞いていた。彼女のような、少女ともいうべき者が混じっているのは、奇妙だ。あるいはその実、武に長けたボディガードとでもいうのだろうか。

「いかなる罪でも見通すことができるとされる、神の目。法官が見抜けない罪も見抜きます」

 黒髪の女が言う。すると、オースティンが女を半面で振り返って、

「クー、失礼じゃないかね。喧嘩をしにきたわけではないんだよ」

「はい、すみません」

 クーと呼ばれた少女は、抑揚のない言葉で謝罪を口にする。その間も、じっとレーアの方を見つめ続けていた。

 レーアもまた、その視線に抗うように、じっと目を細めて見つめ返す。

 やがて、十字架を見上げるオースティンの背中に目を戻す。

 数秒してから、再びクーの顔を見た。

 相変わらず、クーはレーアの顔から目を離そうとしない。

 それから、青スーツの一団の全員の顔を、いま一度見渡す。

 目、目、目。

 皆が皆、こちらを見ている。

 銀の髪に雪のような白い肌、血のように紅い目の帝国人。そう凝視するほど、珍しいか。

「魔法については、フォイエルバッハ師からよく学びました」

 オースティンの背中が語り始める。

 レーアはオースティンに一瞬だけ視線を戻した。次に、背後のネイトに視線をやり、その様子を確認した。オースティンの話に耳を傾けようとしている。教会という場所柄もあって、まるで説教を受ける信徒のようだった。

 オースティンは背中越しに言う。

「法官は魔法の力で、いかなる罪も義務も見通すことができると。どのような虚偽も貫いて、真実を暴き突き止める力。ゼーゼベルケ判事正、いわばあなたも、“神の目”をお持ちなのですよね」

 賞賛を受けているのか、ある種の皮肉なのか、よくわからない。いや、正直どちらでもよい。

「皇領の外では、スティグマもシグネットも見えない。テロの予防には役立たない」

 言いながら、レーアは右手を開き、閉じる。

 そしてまた開き、閉じ、そうして何度か開閉を繰り返す。

「ああ、そうか。ヴェルヘイル帝国の実効支配が及ぶ地域──“皇領”といいましたか、その中でなければ、人の罪は見えないのでしたね」

「いずれは世界のどこにいても見えるようになるがな」

「“魔法の支配”、ですか」

「そうだ。まずはおまえたちの国、ノウェイラからだ。帝国はおまえたちの国をこの世界から消すだろう。親帝国だろうが反帝国だろうが関係ない。必ずおまえたちを魔法で支配する。そうすれば──」

 オースティンを睨みながら、右の掌を開き、指を伸ばす。

 そして、動きを確かめるように、指を一本一本ゆっくりと閉じていく。

「そうすれば、私の目の前で嘘はつけない」

 目、目、目。

 視線が自分を串刺しにしてくる。

「ゼーゼベルケ判事正。私は神ではないが、それでも……罪は見える。克明に」

 突如、オースティンは勢いよく振り返る。

 先ほどまでの柔和な微笑は、もはやそこになく。

 あるのはただ、表情さえ生まぬ、澄み切った憎悪。

 スーツの懐から引き抜かれたオースティンの右手には、黒い光沢を放つ凶器が握られていた。

「あなたという人間の──」

 反射的にレーアは右手を掲げる。

「“傲慢”という罪がッ!」

 怒声とともに、銃口が差し向けられた。

レジス・スクトゥム自衛障壁!」

 光が閃く。

 鼓膜をつんざくような甲高い金属音がひとつ弾け、床は激しく振動し、聖堂に満ちる静謐はものの見事に打ち破られた。

 銃声、いや。

 聞こえたそれは、銃声ではなかった。確かに、銃弾は放たれた。だが、銃声をかき消すほどの爆音もまたあった。激烈なエネルギーをもって、弾丸と別の何かとが衝突したのだ。

 自分に銃口を向ける“敵”の姿を睨みつつ、紅い瞳の上で瞬きをふたつ。よし。目もあり脳もある。幸いにも自分の顔はまだ顔として存在しているようだ。オースティンのその凶弾は、レーアの頭を吹き飛ばすには至らなかったのだ。

 だが、わずか数瞬でも式言の詠唱や執行力の発出が遅れれば、この教会からそのまま天に召されるところだっただろう。

 果たして銃弾は、レーアのかざした右手の三十センチ手前の空中で静止していた。レーアの前にある見えない壁と銃弾との衝突音の余韻が失せるにつれ、だんだんとその実体なき壁が可視化されていく。

 赤い光の波が、レーアの右手から円状に広がる。その光の波はさらにレーアとネイトの後方へと広がっていき、二人を球の形で包み込んでいく。そしてその光の波に引き連れられるようにして、二人を包む球の上には無数の線と円から成る幾何学模様が展開されていく。

「な、これは……! 魔法!? ばかな!」

 オースティンは変わらず銃口をこちらに向けながらも、片方の眉を吊り上げながら驚愕していた。

 空中で食い止められていた弾丸が、力なく落ち、石の床に冷たい音を立てて転がる。

 レーアは頬に冷たい汗を伝わせつつ、喉の奥から一笑を付す。

「勉強不足だな! 皇領の外に出たからといって、法官がすべての魔法を執行できないとでも思ったか!」

 執行魔法第三二条──“法官は、魔法の規律が及ぶと及ばざるとにかかわらず、障壁を展開することができる。”

 “自衛障壁”とも通称されるこの魔法の執行は、皇領外で法官が執ることのできる最小限度の自衛手段の一つだ。

 皇領の中にあっては、執行魔法第三二条の規定の執行として行われる。だが、皇領の外にあって皇帝の規律力が及ばず、執行魔法の適用がない場所であっても、自らの執行力そのものを形象化して自衛障壁とすることができる。

 事態を理解できず、最も混迷の中にいるのはネイトだ。

「レーアさん、これって……! いったいどうして!? 何がどうなって……うぁっ!?」

 一発、さらに一発。

 自衛障壁に撃ち込まれていく弾丸には明確な殺意が載っている。レーアにとっては、そのことだけで情報としては必要十分だ。おまけに、青スーツの者どもが次々に懐から拳銃を取り出すのが見える。

 もはや彼らは、親帝国派などでもなんでもない。単に、“敵”だ。

「撃ち続けろ! 帝国領の外では法官は弱体化する! 二人とも殺せッ!」

 オースティンが叫ぶや否や、銃弾の雨が降り注ぐ。鉛が打ち鳴らす雨音に冷静な思考を引き裂かれそうになりながらも、レーアは耐え、冷たく思案を巡らせる。

 皇領の外では法官は弱体化する──確かにオースティンの言うとおりだが、さりとてただの拳銃弾の連発に自衛障壁を打ち破られるような、並以下の執行力など持ちあわせていない。この障壁は、戦艦の砲弾にさえ耐える。二十数名で銃撃しようと、この鉄壁は揺らぎもしない。

 だが、防御には自信があっても攻撃には一難ある。なにせネイトを守らなければならない。ブルーティゲ・シュペーアを召喚して青スーツどもを処刑すべく立ち回ることは、どうやらできそうになかった。

 そうとなれば、導き出された解はひとつしかない。

「逃げるぞ! 教会を出て車の方まで戻れ!」

 自衛障壁を銃弾が叩きつける音の連続で、果たしてネイトに聞こえているかはわからなかった。だが、ネイトの胸を強く押したことでこちらの意図は伝わったようだ。ネイトはいまだ怯懦を顔に色濃く滲ませながらも、力強く頷いて踵を返した。

 レーアもまた同じ方向へ走り出す。

 右手は後方にかざし続け、自衛障壁に自らの執行力を供給し続ける。

 空いた左手は、ネイトの片腕をとる。いやしくも自衛障壁からネイトがはみ出さないよう、一定の近さを保つために。

 レーアはネイトを引くようにして、二人、教会の扉を目指す。

 けたたましい銃声と、それを上回る鼓膜を破らんばかりの着弾音でひるみそうになる。

 だが、大丈夫だ。速くは走れないが、それでも怒り任せのこの程度の銃撃など、恐れるに足らない。

 と、その時、今までとは異なった、連続的な着弾音が自衛障壁を叩き始めた。

 自衛障壁から散らされる絶え間ない閃光と火花との合間に、あのクーと呼ばれた少女の姿が見えた。先ほどの澄ました顔とは打って変わり、歯を剥き出しにして敵愾心を露わにしながら、その小柄には似つかわしくない大型の自動小銃を握っていた。

 駆けながら、天を見仰ぐ。

 頭上のステンドグラスに彩られた神々が、教会を去ろうと走る自分たちを見送ろうとしている。

 いや、よもやこの敵たちこそが神の御使いか。

 そうであるなら、神に裁かれる罪人は自分たちとでも?

「ふざけるな」

 思わず、悪態が口をついて出た。彼らが何者であるかなど知らない。関心もない。だが、機にさえ恵まれれば、直ちに絶命せしめる。魔法を拒む者ならば、神とてその首を刎ねてみせる。

 それが、魔法のために死んでいったリーベにできる、唯一の弔いなのだから。

「やめッ! 撃ち方やめ! “破律弾”を使う!」

 オースティンの命令と共に、レーアの右手を痺れさせ続けた衝撃の連続が、はたと消えた。発砲がやんだのだ。

 理由は不明だが今のうちだ。教会の入口まではあと少し。ネイトを引く腕に力を込め、駆ける足を速める。

 一方で、危険な予感が脳裏をかすめてもいた。

 オースティンは、何かを使う、と言っていた。なんだ。何をするつもりだ。

 皆が銃口をこちらに突きつけたまま命令に忠実に静止する中で、オースティンの手元だけが不気味な動きを見せていた。下ろしたリボルバー式の拳銃の弾倉に、新たな弾丸を詰めている。

 そして再び、オースティンの銃口はこちらを向いた。その小さな穴の中には、これまでとは違う深淵な闇が潜んでいる。

 ぱん、と銃声が上がる。

 銃弾は、やはり自衛障壁に阻まれた。レーアの掲げた右手のそばの空中で、白い光沢を持つ円柱状の弾丸が制止されているのが見える。

 だが。

「これは!?」

 直ちに想定を超えた異変が生じ、レーアの顔は驚愕に彩られる。

 押しとどめられ、エネルギーを失したはずの銃弾は、だが、なんとその場で再び回転を始めた。

 さらに、甲高い女性の悲鳴にも似た、この世ならざるものとしか思えない音が、けたたましく空間を切り裂くではないか。

 極めつけに驚愕すべきは、その次に起きた現象だった。銃弾を押しとどめた自衛障壁が、銃弾の回転する方向へねじれるように歪んだのだ。

 銃弾の回転が早まるにつれ、その悲鳴めいた音はより音量を増して鳴り響く。そしてそれに伴い、自衛障壁の幾何学模様は銃弾の回転に吸い込まれるようにねじれ、つぶれ、破綻していく。

 そして、割れた。

 弾丸が生み出す自衛障壁のひずみが、障壁それ自身の弾性の限界を超え。

 鉄壁だったはずの魔法の壁は、さながらガラスが砕け散るがごとく、無数の白い破片と化して、崩れた。

「──ば、」

 ばかな。

 そう発声しようとして、できなかった。

 左の二の腕、その肌が執行衣ごと爆ぜ、峻烈な痛みが言葉を失わせたからだ。

 キン、と硬い音を立てて銃弾が床に転がり、

「ぐっ──あああぁぁぁっ!」

 直後、焼けるような痛みがレーアにこらえがたい絶叫を上げさせる。両膝は力が抜けて床に落ちる。上半身も支えきれず前に倒れ、額もまた地についた。

「レーアさんッ!」

 半ば悲鳴と化したネイトの声も、やけに遠くから聞こえるような気さえする。

 血が滝のように溢れる傷口を右手で押さえようとする。だが今それはまずい、と焼きついた思考の中で考え直す。だめだ。傷をかまっている場合ではない。今、自分たちは無防備な状態だ。すぐに自衛障壁を再展開しなければ、殺される。

 震える右手を前に掲げながら面を上げ、正面を見ると、

「犯した罪をあの世ですすげ、魔法使い」

 そこには、既に死神が佇立していた。

 オースティンは口元を一文字にきつく結んだまま、感情を超越した緑色の双眸でレーアを見下ろしていた。

 レーアの見開かれた紅い左目に、銃口が突きつけられる。

 瞳孔が広がり。

 死を、意識した。

 魔法を執行し、人を裁き続けたレーアが裁かれる瞬間があるとするならば、あるいはこの時なのかもしれなかった。もし魔法を超越した罪というものが世にあるのであれば、それはこの時、レーアの身に現界したのかもしれなかった。

 しかし、否。

 魔法を守り、裁くことの業は、まだレーアを解放しようとはしない。

「やめろぉぉっ!」

 ネイトだ。

 死の一撃を見舞おうとしたオースティンに、その少年は身一つで飛び込んでいった。満身に滾る怒りを力に換えて、喉が裂けそうなほどの喊声を上げながら、彼は勇敢に、あるいは愚かにか、体当たりの一発をもってオースティンの体を突き飛ばした。

「っ、こいつ……このガキ!」

 足をもつれさせ、よろめいたオースティン。その左頬に、さらにネイトの左の拳がめりこむ。瞬間、オースティンの銃を握る右手の力も緩むこととなった。

 ネイトは、その隙を見逃さなかった。ただ怒りを力任せにぶつけにいっただけではなかったようだ。

 というのも、ネイトの手はすぐさまその銃へと伸び、怒気に顔を歪ませるオースティンの手から、器用にも銃をすくいとってみせたのだ。

 ネイトは直ちに体をひねりこみ、同時にオースティンを蹴り飛ばす。両者の間隔がわずかに開く。さらにネイトは数歩後ずさりながら、銃のグリップを右手の正しい位置に収めて握り、そこに左手を添える。

 彼の手にはいささか大きすぎるその銃を、重そうに、しかしまっすぐにオースティンに向けた。

「みんな動くな! 動けば、こいつを──」

「ネイト! 後ろだッ!」

 オースティンを人質にとり、事態をせめて膠着状態に運ぼうというのがネイトの試みだったのだろう。

 だが、運命は自分たちに味方することはなかった。

 クーと呼ばれたあの少女が、小銃を振りかぶり、その銃床をネイトの側頭部に叩きつけたのだ。

 がっ、と声にならない声を上げてふらつくネイト。さらに顔の反対側へと銃床が重く叩きつけられる。ネイトは数歩よろめくも、意識を飛ばしかけた現状では立ち続けることなど叶わず、結局は教会の冷たい石床の上に崩れ落ちた。

 それでも、ネイトは倒れるや否や石床の上で体を転がして、その手に握る銃を再び奪われまいとするように、体と床の間に隠すようにしてうつぶせとなった。あくまで抵抗しようとし続けているのだろう。

 そのネイトに対し、クーは、皮革のブーツの硬そうなかかとを振り上げ、ネイトの後頭部へと降らせた。ごっ、と嫌な音。だがネイトからは悲鳴すら上がらない。耐えているのか。それとも意識を喪失したか。

「レジス、ヴィルタス……、ブルーティゲ……シュペーア……!」

 レーアは喉の奥から絞りだすように式言を唱え、震える足に喝を入れて立ち上がる。血の止まらない傷口から右手を離し、柄を握る形に掌を構え、そこにブルーティゲ・シュペーアが瞬時に顕現するのを待つ。

 しかし、

「──出ない!?」

 おかしい。魔槍の重みが掌にのしかかっていくあの感覚が、生じない。

 魔法の執行力が体中の回路を伝って右手に収束していく、あの力の巡りをも感じない。

「おい! “呪文”を唱えさせるな! 破律弾の効果はそう長くはもたんぞ!」

 オースティンが命令を叫んだ直後、一際大柄な青スーツの男が正面に現れ、レーアの喉元を右手で絞めあげるように掴んでくる。振りほどこうと岩のようなその手に自らの両手をかけるが、びくともしない。そのまま大男に背後に回られ、羽交い絞めにされてしまった。

 声が出ない。気道をほぼふさがれ、呼吸すら。

 もがけばもがくほど脳に行き渡る酸素は薄れ、視野の端がざらつき始める。目に見える世界がどんどん暗くなっていく。

 ネイトは、頭や首をかかとで蹴られ、銃床で殴られ、それでもまだうつぶせの状態を維持している。体をびくとも動かさない。痛みに呻くことすらない。師匠を守ろうとしたこの忠実な弟子は、師匠に先立って意識を手放したかのようにも見える。だが、それでもネイトは頑なに銃を奪還されまいと守っていた。なんという執念。しかし悲しいかな、それは意地でしかない。たとえ銃をひとつ奪おうと、この状況を打開する一手にはなりえないのだから。

 ネイト。ネイト。

 声なき声を叫び、逃れ得ない拘束の中からレーアはネイトに向かって必死に手を伸ばす。

 ステンドグラスの中で輝きを放つ神は、ただ、この事態を見下ろしているだけだ。何もしてはくれない。

 考えろ、と薄れる意識の中で自分へと命じる。考えろ、考えろ。

 神にすがる、それ以外の方法を。何かないか。何か。

「同胞だからと手加減しておけば、こいつッ!」

 一向にオースティンの銃を手放す様子がないネイトに、クーはその表情をいよいよ怒気と苛立ちに染めた。

 今一度、大きくクーの足が大きく振り上げられる。

 もはや頭蓋を踏み砕いてしまっても構わないという殺気めいた勢いすら感じさせながら、そのかかとは死神の鎌のように、ネイトの後頭部めがけて振り下ろされた。

 その先に響くのは、ネイトの頭骨を割る音か、脳漿が飛び散る音か。

 それを予測した瞬間、レーアの脳髄を鮮烈な恐怖が凍てつかせた。六年前に聞いた、姉リーベの頸椎が砕かれる音が、鼓膜に蘇ったのだ。

 全身の肌という肌に怖気が走り、レーアは眼前の光景を見届けることを本能的に放棄した。もはや目を潰してしまいかねないほど、瞳を瞼の中に固く固く閉じこめて。

 だが、その先に待っていたのは、骨を砕く音などではなかった。

 いぃん……と。

 何か、金属のようなものが強く打たれ、鳴いた音。

「な、んだ……これ」

 クーの狼狽する声が聞こえる。

 そっと目を開く。

 ネイトは、いまだそこにうつぶせている。頭も、まだ人間の頭としての形を保っている。

 ではクーの右足はといえば、それはネイトの頭の少し手前で、まるで時を止められたかのように滞空していた。

 いや、食い止められていた。

 クーの足とネイトの頭との間に、一振りの剣。

 剣は、なんと、剣だけだった。つまり、剣を振るう剣士の姿など、どこにも見えなかったのだ。柄は人の手になど握られていない。握るための皮革すらまかれず、鋼が艶やかな光沢を曝しているだけだ。

 剣は霧のような光に包まれ、その霧の中で刃はとりわけ白銀に輝く。鍔は、柄と刃との間で垂直に細く伸び、剣を清冽な十字型に仕立てあげている。

 主なきその剣は、凍りついたように空中に静止していたかと思いきや、突如、姿見えぬ剣士が振り上げたかのように勢いよく舞い上がった。刃の腹で押しとどめていたクーの足は振り払われる。クーは驚愕に目を丸くしたまま尻餅をつき、そのまま空中で舞い踊る剣を見上げながら後ずさった。

「ノウェイラ人、離れろ。そこのデカいお前もだ。その法官から手を放して離れろ」

 大男の太い指がレーアの喉元から躊躇いがちに離れ、途端、レーアは強く咳きこみながらうずくまった。体が酸素を渇望し、喉から手でも生やしそうだ。気道周りの筋肉が激しく痙攣し、塊を吐くような咳を繰り返して背を丸める。身を揺さぶる苦悶の中、それでも何が起こったのかを確かめようと、閉じそうになる瞼をこじあけて、この場に現れた新たな声の正体を見た。

 後ろでまとめた白髪に、黄金色の瞳。紺碧の執行衣を身にまとい、黒い詰襟には太陽を模したヴェルヘイル帝国の国章。黒いマントがかかる両肩は筋骨たくましく、太い腕は体の前で組まれ、床に突き立てた銀の剣の柄を握っている。

 だが、彼が床に突いたその一振りが先ほどレーアを救った剣そのものかはわからない。なぜなら、彼の右には、そして左にも、同じ見目の銀の剣が浮かんでいるからだ。

「フォイ……エ……ッハ……さん……」

 声を発したのはネイトだった。彼はあの蹴りの雨を浴びながら、まだ意識を繋ぎとめていたらしい。レーアは口中に塩辛い空気を感じながら、安堵に全身を脱力させた。

 ちっ、と舌を打った音が聞こえて、オースティンの言葉が続く。

「フォイエルバッハ師。ご到着は明日ではなかったのですか」

「お前たちの本音を確かめておきたくてな。予定を切り上げて駆けつけてきたのさ。そうしたら、案の定このざまだ」

「ご冗談を。最初から我々を泳がせるおつもりだったのでしょう」

 レーアは傷の疼きに脂汗を滴らせ、そして呼吸にむせながら、フォイエルバッハに問う。

「先、生……! こいつらは……!」

「彼らは親帝国派などではない。まして元政権の連中などではな。帝国を憎み、魔法を拒み、北ノウェイラの奪還を目指す、純粋な主戦派。クーデターを起こしたノウェイラ陸軍の一部隊だ」

 つまり、騙されていた。

 反帝国を掲げるノウェイラ軍を、自分たちは親帝国派であると誤認させられていたというのか。

「だが、安心しろ。こいつらにはこれ以上好き勝手させん。おれの目の届く間は、決してな」

 レーアを庇うようにしてフォイエルバッハは立つ。フォイエルバッハを忌々しげに見るオースティンは、しかし、猛獣に威圧された小動物のように立ちすくむばかりだった。

 自衛障壁を食い破るあの謎の弾丸を、まだこの青スーツどもは持っているに違いない。しかし、それを差し向けようとも最高位の法官の位を頂くフォイエルバッハが屈するはずはないだろう。青スーツどもは、それを理解しているようだった。少しでもフォイエルバッハを排そうとする挙動に出れば、たちまち、彼の執行器たる空を舞う三振りの剣が斬り刻むに違いない。

 フォイエルバッハは身を転じてレーアの方に向き直り、手を差し伸べてきた。

「立てるか、レーア。破律弾の効果ももう切れたはずだ」

 言われれば確かに、力が今一度、全身を巡るのを感じる。遠く帝都の皇宮から流れこむ執行力が、血流と共に全身の回路に行き渡る。

 左腕の銃傷はまだ耐え難い痛みを帯びている。だが、出血は先ほどよりは収まった。

 戦える。

 いま一度、その機会に恵まれた。

 今度こそ、うまく殺してみせる。

 魔法を否定する者どもを、皆殺しにしてみせる。 

 レーアは一度瞑目して、息を大きく吸い、そして吐いた。

 そして、問う。

「破律弾とは、なんだ」

 フォイエルバッハが差し伸べる手をとらず、ただ彼に問う。

「どうして自衛障壁を破れる。どうして、執行器の召喚を妨げられる」

「魔法の規律を破る弾丸だ」フォイエルバッハは即答してみせた。「弾自体が執行力を常に放ち続け、他の魔法執行と衝突した際にそれを相殺し、打ち消す」

 それが、レーアの自衛障壁を一発の銃撃で破壊できた理由。

「法官の体に撃ち込まれれば、しばらく体内に弾丸自体の執行力が滞留する。そうなれば、その法官本来の執行力と相殺し続ける」

 そしてそれこそ、ブルーティゲ・シュペーアの召喚の失敗につながった。

「どうして、そんなことがノウェイラ人にできる。……いや、それはいい」

 弾丸の理はもうよい。だが、なんとしても明らかにしたい謎がまだひとつ残っている。それを放置するわけにはいかない。

 その謎こそ、今のレーアにとって最大の疑問。フォイエルバッハ自身の口から、回答させなければならないことだ。

「どうして、そんなことを知っている……先生」

 フォイエルバッハはその問いに、瞳を揺らすことはなかった。

「おれが、考案者だったからだ。破律弾の原理の、な」

 黄金色の双眸はただレーアを見下ろし、超然として答えを授けた。

「お前も知ってのとおり、法官はヴェルヘイル帝国皇帝より執行力を分け与えられ続ける。その器たる回路は、とりわけ法官の骨に密集している。骨中では執行力が常に激しく行き交っている。骨の中で、目的なきまま魔法の執行が繰り返されているようなものだ。法官の骨を取り出して砕き、その粉末を外発的に励起させたまま弾丸に埋め込めば、破律弾のできあがりというわけだ」

 そして、フォイエルバッハは懐から取り出した。

 白く艶めいて輝くそれは、先ほどレーアの自衛障壁を砕いた弾丸と同じ。

 魔女の身に撃ちこみ絶命させるための、銀の弾丸。

「この原理は、おれがノウェイラ軍に伝授した。破律弾はその名のとおり、魔の規律を打ち破る。皇帝を倒し、帝国を、そして世界を正しき姿に戻すための切り札となる」

「皇帝を……倒す……」

「そうだ、レーア。この話は、皇領の中ではできなかった。大逆共謀の罪によるスティグマを回避し、計画の発覚を防がなければならなかったからだ。だが、ここでならばついに話せる。お前たち二人をここに呼んだ、本当の意味をな」

 フォイエルバッハは、銀の弾丸を護符のように強く握りしめ、片手を再びレーアに差し伸べて、言った。

「おれと、いや、おれ“たち”と共に来い。おれたちはこれから、帝都ヴェルアレスを目指す。この破律弾をもって、皇宮に閉じこもり続ける皇帝を打ち倒すんだ。魔法などではなく、世界に真の法を、正義を取り戻すために!」

 フォイエルバッハは、自信に満ちた笑顔だった。

 誇らしげな、満ち足りたような。

 自分が行くべき正しい道を悟り、あとは邁進するのみと胸たぎらせる男の目だった。

 レーアは、呆然とした顔でフォイエルバッハのその目をじっと見つめた。言葉など、発しようがなかった。なぜならその目は、フォイエルバッハの背後にいる青スーツどもと同じ目をしていたからだ。目指すべき思想に燃え、邪とみなす者を切り捨てて己が信ずる道を全うせんとする、狂おしい専心の眼差し。

 レーアはよろめきながら立ち上がった。

 左腕の傷を抑えながら、一歩、後ろの床を踏む。また一歩、さらに一歩。

 両者の距離が開く。

 開け放たれた教会の扉が、外から吹きつけた強風を受けて軋む音がする。

 さえずる鳥の声が、場違いに平和的だ。

 神の目の下、沈黙が横たわる。

 レーアは俯く。紅い瞳が、銀の前髪に隠れた。

「先生、ノウェイラ軍の仲間になったのか」

 弟子は、問う。

「そうだ」

 師匠は、答える。

「姉さんを殺し、私からたった一人の家族を奪った、」

 そしてレーアは、面を上げた。その顔にはただ、彼女の怜悧さをすべて塗りつぶして、身を溶かすような灼熱の怒りが噴きこぼれていた。

「魔法を否定する連中! その仲間になったのかッ!」

「そうだ!」

「そして私に、その仲間になれと!?」

「そうだッ!」

「あああああああッ!」

 拳の一撃をフォイエルバッハの横顔に食いこませる。フォイエルバッハの顔は拳を受けて揺れ、だがそれでも彼は身をよじることをせず、視線をレーアから離そうともせずに、レーアの一発をただ甘受した。

 叫ぶ。殴る。叫ぶ。殴り続ける。執行器の召喚がされていない今、身体能力の拡張もなく、繰り出す拳は常人のそれとなんら変わりがない。痩身の女性が繰り出す手拳など、たかが知れている。

 それでもレーアは殴り続けた。そして、フォイエルバッハは受け止め続けた。殴るたび、目の前に立つのが揺らがない壁と思い知るようで、さらに怒りが噴きあがる。

「どうしてだ! どうして! 六年前、おまえは魔法を守った! だから姉さんは死んだんだ! だから私は、私も、魔法を……! それが姉さんの、死んだ意味だった! 命の意味だったッ! それなのに、どうしておまえはッ!」

「レーア、お前は逃げているだけだ! リーベの死に怒り嘆くことを恐れ、ただその死に“意味”を見出して正当化し、そこへ逃げこんでいるだけだ! 向き合うんだ、リーベの死と! その先にようやく見つけることができる! 真の“正しさ”をな!」

「ふざけるなッ!」

 さらにもう一発、フォイエルバッハのみぞおちに叩きこむ。ぐっ、とフォイエルバッハの食いしばった歯から息が漏れ、その身がわずかにくの字に折れた。

 だが、限界は先にレーアに訪れた。左の二の腕からは再び血が噴きだし、目がくらむ。く、と奥歯を噛みながら、よろめくように数歩後ずさりする。

 二人に開いた距離に割り込むように、ネイトの甲高い声が割りこんだ。

「フォイエル、バッハさん……! これが、あなたの“正しさ”だっていうんですか? 僕たちを、裏切ることが……! 僕には、わからない! あなたが、何を考えてきたのか……!」

 ネイトも意識をいくらか取り戻したようだったが、その顔は血で塗れ、目はいまだうつろだった。

 フォイエルバッハは視線だけを横にずらし、ネイトの姿を確認した。彼の黄金色の瞳はそのとき少しだけ、寂しそうに揺れて見えた。だがすぐにレーアに視線は戻され、フォイエルバッハは青スーツどもに厳に告げた。

「決して手を出すな、ノウェイラ人。レーア・ゼーゼベルケにも、ネイト・クーヒェラルにもだ。ネイトを身動きさせず、安全な場所まで下がっていろ。……これは、おれとレーアの間の“裁判”なんだ」

 オースティンら青スーツどもは、不満そうな顔色を浮かべながらも忠実に従った。彼らは聖堂の壁際にまで下がり、行く末を見守る格好となる。ネイトもまた彼らに両手を後ろに縛られ、彼らと共にいる。この状況への困惑と悲嘆を顔に浮かべているネイトは、だが、もはやレーアが省みることができる対象ではない。

 レーアの意識は今や鮮明だ。右手を開き、閉じ、また開く。大丈夫だ。明確な殺意が眼前の敵に向けられているいま、この身はいつもどおり、いや、いつも以上によく動く。

 そうだ。そうとも。魔法を否定する者は殺す。

 信ずるべき正義を信じぬ者を排除する──その一意にこそ、自分は支えられてきた!

「──刎ねてやる、貴様のその首を。アムゼル・フォイエルバッハ、貴様を地獄の檻に叩きこんでやる」

「そうだ、それでいい」

 鼻筋に汗を伝わせながら、フォイエルバッハは片側の口角を上げる。

「おれが誤っているというのなら、おれを断罪してみろ。だが、お前が魔法に囚われ続ける限り、もはやお前はおれたちの理想の敵だ。おれの“教戒”が奏功しないならば、その時はお前が処断されるときだと知れ」

 聖堂の中央を貫く赤い絨毯の上、フォイエルバッハが立つ。神の目のシンボルを背後に。ステンドグラスから注ぐ光は、あたかも戦に臨むフォイエルバッハへの祝福の光のよう。

 もしそうであるならば、神ごと首を刎ねるべく、レーアは立つ。

 果たして、対峙する二人。

「レジス・ヴィルタス! ブルーティゲ・シュペーアッ!」

 唱え、レーアの右手に虹色の光が収束する。執行器第七九号、魔槍ブルーティゲ・シュペーアは、瞬時にその禍々しい姿をこの神の領域に顕現させた。

 柄を握り、執行力を魔槍へと巡らせれば、穂の先端までが指先のようにさえ感じられるほどの一体感を得る。

 執行器は、執行力の回路において第二の心臓としての役割を果たす。法官の執行力の流れが執行器を経由すれば、ひときわ強力なポンプを得た水路のように、法官は身体能力を爆発的に拡張させる。

 全身から、すべての力を抜く。脱力した背が丸まり、前髪に顔が隠れる。幽鬼のようにひとつ前後に揺らいだ体は、そのまま前にゆらりと倒れていき、

 頭が、腰の高さまで倒れこんだ、その瞬間。

 地を蹴り、魔槍の穂先を敵にめがけて疾駆した。

「──レジス・ヴィルタス。ゲヴァルテンタイルン」

 フォイエルバッハの脇に滞空していた白銀の一振り。それを包む霧めいた光が、脈打つように一段と強まり、そうかと思えば直後、その一振りが矢のように飛んできた。

 執行器第五号、魔剣ゲヴァルテンタイルン。フォイエルバッハに与えられたその執行器は、彼の随意のままに宙を舞う、握り手を要しない三振り一組の銀の剣。

 すぐにそれを手放させてやる。貴様にはそれを振るう資格などないのだから。

 ブルーティゲ・シュペーアを横に薙ぐ。馬の頭骨を思わせる三角錐状の装甲に取りつけられた刃が、飛来する一振りを見事に打ち払った。

 レーアは一突きを繰り出せる距離まで肉薄し、だがそうはせずに、魔槍の穂先で地を突いた。

 飛ぶ。

 高らかに。

 空を舞い、体をひねりこみながら、フォイエルバッハの頭上を越える。見下ろす紅い視線と、見仰ぐ黄金色の視線がかち合う。

 極彩色のステンドグラスを背景に、さらに一振りの銀の魔剣がいまだ空中のレーアに襲いくる。

 レーアの体は、だが回転の勢いを失っておらず、むしろこの時のためといわんばかりに、その遠心力が魔槍の先端に載せられる。

 そうして繰り出された魔槍の一突きは、第二の剣撃をも叩き落とした。空中に散る青白い火花。その只中を突っ切って、レーアはフォイエルバッハの背後へと着地する。その勢いを殺さずすぐに体を再度捻りこみ、魔槍の一閃をフォイエルバッハの背後に放つ。

 瞬間、フォイエルバッハの正面から背に、最後の一振りが回りこんできた。銀の光を散らしながら、その剣は魔槍の穂刃を受け、その軌道を歪ませる。

 引き、今一度突く。今度は一歩横に踏んで避けられた。同時、フォイエルバッハはそこでついに魔剣の柄を握り、自らの手で弟子を斬り捨てにかかってきた。

 魔槍の柄を上げ、その重い斬撃を受け止める。激しく衝突しあう執行力の奔流が青白い火花を散らす。その向こう側でフォイエルバッハは、吠えるように口を開いた。

「今一度訊くぞレーアッ! リーベの死を、お前は本当に納得できるのかッ!」

「今更っ……! く!?」

 視界の端に銀の光がちらついた。ロングスカートの間から、黒のタイツに包まれた流麗な脚を伸ばし、敵の腹に蹴りこんで距離をとる。直後、二人の間を魔剣が通過し、ひゅうと空を切る甲高い音を立てていった。少しでも遅ければ、腹を串刺しにされていただろう。

 だが、安堵の溜息をついている暇などなかった。フォイエルバッハは両手に魔剣を構え直し、踊るように身を回転させながら、一斬、また一斬と連撃を繰り出してくる。レーアのブルーティゲ・シュペーアは、間合いこそ長いが、懐に踏み込まれれば立ち回りは利きにくく、不利だ。フォイエルバッハも重々それを承知してのことだろう、恐れを知らない踏込みとともに繰り出されるその斬撃は、レーアを防戦一方に引きつけた。

 ひとたび重い一撃を受け止め、かと思えば、フォイエルバッハはあっさりと身を翻して横に飛んだ。その理由は一瞬の後に明らかとなる。彼の姿が消えた正面には、既に高速で飛来する魔剣があったのだ。

「く……!」

 魔槍を縦に構え、装甲部分で受ける。だが、受け止めきることは叶わなかった。その膨大な執行力を受け流さずして正面から押しとどめることは、できなかった。あえなくレーアの体は後ろへと吹き飛び、背中を石床に叩きつけることとなった。

「おれは、納得できなかったんだ、レーア」

 フォイエルバッハが一歩一歩距離を詰めながら、レーアに魔剣を突きつける。その左右に二振りが滞空し、やはりレーアに照準を合わせている。

「六年前のあの日あの時、おれがリーベを見殺しにした時からだ。おれは、おれにそうさせた魔法を疑わしくしか思えなくなった」

 あの炎の熱さを思い出す。

 泡を吹き死んでいく姉の顔が脳裏に蘇る。

 ──姉さんを助けろ! でないと私はッ! おまえを……おまえをッ……!──

 あの時、レーアは感情を抑えきれず、フォイエルバッハにそう迫った。

 だが結局、フォイエルバッハは、リーベの命を賭して、魔法を遵守する道を選んだ。

 リーベは、魔法のために殉じたのだ。そう考えるしかなかったのだ。

 だから自分も、魔法は正義と信じ、守り続けなければならない。

 魔法こそは、リーベが命を捧げたものだから。

 魔法を否定する者は、殺さなくてはならない。

 リーベが生きていたことの意味、そして死んだことの価値。誰にも侵させてはならない。

 それなのに。それなのに、この男は!

「お前は考えたことが本当にないのか! 魔法の、法としての正統性を! 魔法を制定するのは皇帝ただ一人! 規律力などという得体の知れない超常の力で、おれたちが守らなければならない法が決められていく!」

「だから!? それがなんだというんだ!」

「“非人間的”だとは思わないのか! そんな魔人が定めた法をおれは守り、リーベを死なせなければいけなかった! それだけじゃない! 法官は、魔法を世界に広め、人々に有無を言わさず強いる侵略者の役割を担っている! これが人類の歴史の、本当に進むべき道か!?」

「戯言をッ!」

 ブルーティゲ・シュペーアを強く握り直し、立ち上がる。

 許すまいと二振りの魔剣が飛来し、応じてレーアは唱えた。

「レジス・スクトゥム!」

 赤い光で描画された幾何学模様が、傘のように展開する。張られた自衛障壁は、しかし、魔剣ゲヴァルテンタイルンの二振りが有する膨大な執行力の前に、防御として盤石というには程遠かった。食い止めた二振りの銀の剣にはなお執行力が漲り、障壁に徐々に食い込んでいく。

 破られようとする自衛障壁の向こう側で、フォイエルバッハが残された一振りを手に構え、歩み寄ってくる。

「たとえ自分が損を見ようと、それでも致し方ないと納得できる法を追求すべきだとおれは考える。では、そのような法はどのように定める? そう、おれたちの手で定めるんだ」

「はっ!」フォイエルバッハの“教戒”を、レーアは一笑に付す。「独裁者にでもなるっていうのか!?」

「違う。すべての人間が法の定立に関わらなければならない。それは結局、人が政に関わり、言論の中から法を生み出すことでしか為しえない!」

 吠えるように叫ぶフォイエルバッハが、右手に握りこんだ魔剣の一突きを繰り出した。自衛障壁に通流していた執行力はその流れをかき乱され、制御を離れて、青白い光を放ちながら爆発する。

 瞬時に姿勢を低くとるが、

「ぐぁっ……!」

 その回避行動は、奏功しなかった。

 飛来した二振りの剣は、それぞれ左の脇腹と右の肩を引き裂き、激しく血の飛沫を上げた。

 脚は震え、思わず膝をつく。魔槍を握る手に力が入らない。

 レーアの思考を、泡のように湧いた黒い感情が圧迫し、蝕み始める。

 正義の裁きを下そうとする相手が、裁きを拒み、逆に圧倒してくることなど、経験のないことだった。

 まして、罪人とみなす相手が、自分とは異なる正義を自分に流し込もうとしてくることなど。

 光る黄金色の双眸が迫る。身も心も侵される感覚に、屈服の誘惑がレーアに囁き始める。

 だがそれは、姉の命の意味を棄てるということだ。許されない。そんなことは。

「皇帝を討ち、魔法を廃し、法と裁きを人の手に返す。これがおれの辿り着いた答えだ」

「黙れ……!」

「真に人の手に為る法が生み出されれば、おれは今度こそ納得して、誇らしくその法に殉じることができる」

「黙れ、黙れ、黙れ!」

「だが、おれの答えが真に“正しさ”たりえるのか、おれは知らねばならん。そのために、おれは一度裁かれなければならん。裁きに必要な“資料”を揃えるべく、今こそ言おう──」

 フォイエルバッハは、ネイトを見、そして目を細めた。

 次に告げられたフォイエルバッハの言葉は、レーアに残されたわずかな理性をも奪うに十分なものだった。

「ネフティス・クーヒェラル博士の一家のことだ。戦後、彼らは、迫害を逃れるべく休戦ラインに近い街に隠れ住んでいた。だが、ノウェイラ兵に見つかり処刑された。

 彼らの居場所をノウェイラの当局に教えたのは、このおれだ。

 つまり、ネイトの両親を死に導いたのは、ある意味、このおれなんだよ」

 ネイトが目を見開き、唇を震えさせながら、言葉を失している。

「おれはノウェイラに破律弾の原理を与え、帝国を倒させるため、ここにいるノウェイラ人と手を組むことを決めた。彼らの信用を得るため、おれはネフティスの身柄を彼らに売り渡すしかなかった」

「屑めッ! 貴様……どこまでもッ……!」

 肺腑の痛みを堪えるより、今は悪罵を呑み込むことのほうがレーアには難しかった。

「すべては世界を救い、法を人の手に戻す理想のためだった。魔法のために死ななければならなかったリーベの命に、報いるためだった……!」 

 フォイエルバッハは両の手に握った白銀の剣を、強く石畳に突き立てた。そして彼は、彼の望みをレーアに突きつける。

「さあ、教えてもらおう、レーア! リーベの死からおれとは真逆の答えを導いた、おまえに! おれがしたことは、正しかったのか! それともおれこそ人の道を踏み外し、過ちを犯した魔人だったのか!」

 フォイエルバッハが白銀の剣を握るその手には、震えがあった。彼の目尻からは、一筋の涙が落ちる。

 恋人と友人とに死を招いた自らの行いを否定する罪悪感。そしてそれと相克する、正義感。これらが彼の中で混淆し、フォイエルバッハを激しい懊悩に叩き落としているというのだろうか。

 そして、そうであればこそ、フォイエルバッハは、自らに対する裁きを望んでいる。自らの行いの罪なりや否や、その答えを追い求めて彷徨い続け。

 その果てに、レーアに裁き手の役割を求めるというのだ。

 ──その迷いこそ、罪。

「刎ねて……やる……!」

 自らの罪を罪と即断できず、その正邪に迷うことこそ、また罪。

「刎ね飛ばしてやる……貴様の……迷いなど……その、首ごと……!」

 再び立ち上がろうとする、赤き魔法の執行者。痛みに呻き、あがき、それは血染めの法服を着た地獄からの使者だった。

 既に立てないはずの体を、レーアはただ怒りのみによって突き動かし、唸りながら魔槍を持ち上げる。

 私は迷わない。私は私の正義を貫く。眼前の背法の徒を屠り、それを証明してみせる。

 いま一度、魔槍の穂先をまっすぐ敵に差し向けて、ただ──猛進する。

 こうするしか、他にもはや手がなかった。

 いっそすべての執行力を一度に費やし、全身全霊をかけて敵を滅ぼす道もあろうかと思案を走らせたが、不可能だ。それはすなわち“大執行”──法官がその適正に応じて保有する特殊な執行手段のことだ。だが、ブルーティゲ・シュペーアのような通常の執行器と異なり、魔法が適用されない皇領外にあっては発動のしようがない。

 傷という傷から溢れる血が、彼女の辿る道を描く。

 血塗られた道。それこそ、レーアの歩みそのものだった。

 だが、レーアの中の執行力はもはや尽きようとしていた。当然の話だ。遠く帝都に在する皇帝から供給される量に比し、消費する量があまりにも多すぎる。

 それが証拠に、たったいま飛来した魔剣を受け止めたその魔槍は、

「く!?」

 その砲撃のような一撃を受けた柄の中心付近から、真っ二つに砕け散った。

 ブルーティゲ・シュペーアに注がれる執行力が枯渇し始め、その形象を維持しきれなくなっている。

 そして迫る、第二の剣砲。再び式言を唱え、自衛障壁を展開する。だが、それは先ほどの障壁よりも遥かに薄く、弱々しく──現にいま、魔剣は容易くそれを貫通してみせた。ガラスが砕け散るような崩壊音に続き、自分の背中が裂かれる肉の音がした。

「──魔法を、」

 折れたブルーティゲ・シュペーアの先半分を剣のように両手で握り、

「否定する、者はぁっ!」

 裏返った声で怨嗟の叫びを上げながら、斬りかかる。

 渾身の斬撃はしかし、フォイエルバッハと刃を迫り合う局面にすら至らず。

 その残された半分の魔槍もまた、フォイエルバッハの薙ぎ払う一撃に負け──ひびがひとつ走り、ともすれば全体に広がって、あっという間に木っ端微塵に砕け散った。

 絶望が襲う。愕然とし、ついに戦意を失し始めたレーアの眼前に、銀の光が一閃走る。

 喉元に魔剣のゲヴァルテンタイルンの刃は冷たく当てられ、そしてそのまま静止したのだ。輝く刃は白い首筋をわずか裂き、そこからは一筋の血が流れて刃を伝っていった。

 すべてが決した瞬間だった。

「がはっ──」

 今度はレーアのみぞおちに、フォイエルバッハの拳が食い込む。レーアがフォイエルバッハにしたのとは訳が違う、滾る執行力で鋼鉄の如く強化された一打だ。内臓が捩れ、胃の奥から口の外へ熱いものが吐きだされた。

 すべての力は尽きた。両膝が石床に落ち、だがその痛みを感じることすらもうなかった。ぐらりと、そのまま前へと倒れこむ。銀の髪がはらりと舞って、彼女の倒れ様の残像を描くようになびく。

「レーアさんッ!」

 一人、よろめきながら、つまづきながらもレーアに駆け寄ってくる者がいた。その者は、レーアが倒れ顔を石床に打ちつけようというその直前で、彼女の体を受け止めた。

 もう、よく目が見えない。体の傾きから、自分が労わるように仰向けにされたのが辛うじてわかった。瞳孔は開ききり、そこに差し込むステンドグラスの光は眼底に痛い。

 誰かの顔がレーアの視界に映りこむ。必死に自分に呼びかけてくる。だが、もう、聞こえない。彼が誰なのかわからない。思考する力など、とうに彼女からは失われていた。

 低い男の声が、遠くから。

「ネイト。お前はレーアを救ってくれた。だが、このままではレーアの弱さは変わらん。レーアは、リーベの死から逃げるために魔法にすがり、執行力に恵まれれば執行力にすがり、それでも残った脆さを埋め合わせるため、ネイトにすがるだけだ」

「……フォイエルバッハさん、教えてください。どうしてノウェイラで、僕を助けてくれたんですか。どうして、レーアさんに引き合わせてくれたんですか」

「ネイト、お前なら同志になれると思った。お前は、ノウェイラにあっては人の罪深さを知った。帝国にあっては望まぬ法を強いられる者があることの悲哀を知った。そして……おれの可愛い弟子も、いつかはわかってくれると期待した」

「あなたは……勝手すぎる」

「それでも、レーアはおれの罪を、おれが間違っていたということを証明することはできなかった。そうである限り、おれは、おれが信じる正しさを貫くまでだ」

「くそっ……ちくしょう……!」

 少年の傷と痣と固まった血で汚れきった顔に、ただ青紫の瞳だけが美しかった。そこに貯まるたっぷりとした雫が、きらきらと輝く。

 滴が零れ落ちてはレーアの顔を濡らしていく。その熱さだけが、消えゆく意識の中で不思議と鮮やかだ。

 何をそんなに泣いているのか、理解できなかった。その頬に手を添えてやりたくなる。手を持ち上げようとする。だが、あいにく指の一本も動かすことができない。

「明日の夜明けまで猶予をやる。おれたちと共についてくる気があるのならば、おれは喜んで迎えよう。黙って立ち去るならば、それもいい。どこかで魔法の終焉を見届けるがいい。だが、いずれも選ばずこの地に留まるようならば、その時は……お前たちを断つ」

 冷厳に下されたその宣告を聞き届けたのを最後に、レーアの霞のかかった精神は深い闇の底へと引きずり込まれていった。

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