第三章 死の価値
第一節
***
断罪ノ魔法
第一編
(適用領域及び国外犯)
第二条
1・2 略
3 皇領の内において罪に当たるべき行為を皇領の外においてした者がある場合において、法官の面前に当該者を差し置き、かつ、当該行為を法官に告発したときは、当該者をこの魔法における罪人とみなす。
***
フォイエルバッハが、また来た。
ルーベンス対フォレスト事件から三日後。レーアの公邸たる廃図書館で、ネイトがレーアと共に進めていた書類仕事がちょうど一段落したときだった。
いつもの深緑色のトレンチコートに身を包んだレーアの師匠は、出迎えに出たネイトに「よう」と片手を上げた。まるで古くからの友人を気軽に訪ねたように。
ネイトが喜んで執務室に案内すると、レーアは長身の師匠の顔を見るなりものすごく嫌そうな顔をした。それから半目でジロリとネイトを睨んだ。
「追い払え」と言われてはいたが、だからといって無下にするわけにもいかないではないか。ネイトは頬を掻きながら苦笑いをしてごまかす。
執務室中央の応接机、外窓に向かって右側のソファにフォイエルバッハが座り、左側にレーアが座る。
ネイトは何か飲むものを探しに降りようとした。だが、フォイエルバッハは「今日はいいさ」と言い、全く同時に、レーアも「今日はいいだろ」と。
フォイエルバッハは辛辣な弟子の冷遇など歯牙にもかけずに、
「どうにも、こっちの仕事が一気に忙しくなりそうでな。こんな風に気軽に話すのは、しばらく無理かもしれん。で、挨拶がてら、二人の顔を見に来たんだ」
父が子を慈しむような笑みを浮かべて、二人にそう言った。
「そうなんですか。遠くに行かれるんですか? どれくらい長く?」
ネイトが尋ねる。
「場所も期間も詳しくは言えないんだよな。遠くは遠くだ。そして、長い仕事になる」
「寂しくなりますね。……あ。もしかしてフォイエルバッハさんが戻ってくるとき、僕は未成年じゃなかったりして? そうしたら一緒にお酒が飲めますね」
「おう、そうだな。弟子とも孫弟子とも飲めるなんて楽しみだぜ」
白い歯を見せて笑うフォイエルバッハに、レーアが口を開く。
「先生の話はわかった。しばらくは会わずに済む──いや、会えないということだな」
わざとらしい訂正だ。
「先生、来てもらって早々に悪いが、私はもう先に寝ていいか? 明日は朝一から建物収去土地明渡請求の執行。疲れそうだ」
「お? なんだよ。顔を見に来たとは言ったが、寝顔まで見せてくれんのか?」
「先に寝る。おやすみ、ネイト」
もはやフォイエルバッハに有無を言わさない様子で、レーアが立ち上がった。
「おやすみなさい、レーアさん」
「おやすみレーア。おっと、ネイトすまん。おれにかまわずレーアに添い寝してやってくれ、いつもどおりな」
「そ、添い寝って! そんなことしてませんから! フォイエルバッハさん、今日はお酒持ってないと思ったけど実はもう飲んでます!? それとも素面でそうなんですか!?」
言ってから、ネイトは顔を熱くした。以前、レーアの呻きが聞こえて部屋に勝手に入ったことを思い出す。その時に見た、レーアの姿。白く透き通った肌。汗の滴る細い首筋にはりつく銀の髪。一枚の薄いシャツ越しに、より豊かに見える胸──。悪夢にうなされていたレーア本人には実に申し訳ないところではあるが、十七歳の健全な青少年に不埒な妄想を禁ずる手立てはないのだった。
「ネイト」
レーアだ。ドアノブに手をかけた状態で、銀の長髪の後ろ姿が、振り向かずに声を発した。
ネイトの背筋が反射的に伸びる。
「は、はいっ!」
「今日は、もうここに泊まれ。遅いから」
「え……ええ!? 添い寝でいいんですか!?」
「何を錯乱したことを言っているんだ?」
振り返った横顔、その紅い瞳がぎろりと睨んできて、ネイトはすくみあがった。
そ、そうだよな。何を言っているんだ僕は。
「たしか、一階の倉庫に余分な毛布があっただろ。適当に使って適当なところで寝ろ」
「は、はい。ありがとうございます」
フォイエルバッハがここぞとばかりに面白そうに口を開く。
「ほお。自分の家に男を泊めてやるとはね。あのレーアが」
「ネイトが、法務で危険な目に遭った」
フォイエルバッハの冗談を無視して、レーアはぽつりとそう呟いた。
「姉さんのあの時、先生が考えたことを、私もきっと考えた……気がする」
ネイトは困惑した。自分のことが話されているに違いないのに、話がよくわからない。“姉さんのあの時”? 何のことだろう。というか、姉がいたなんて初めて知った。
フォイエルバッハの方を見ると、先ほどの面白可笑しそうにする表情はどこへやら、細めた目が真剣味を帯びていた。
レーアは改めてフォイエルバッハを振り返る。
「先生、しばらく会えないんだったな」
同じ話題を繰り返すレーアは、しかし先ほどとは打って変わって、フォイエルバッハを邪見にする様子はない。純粋にフォイエルバッハの予定を改めて確かめているという感じだ。さらに、ネイトの誤解でなければ、会えないことに多少の惜しみがあるようにも感じられた。
「ん? ああ……。いいや、すぐにまた会うかもしれないな」
肩をすくめて、冗談なのか何なのかよくわからないことを言うフォイエルバッハ。「なんだそれ。どっちなんだ?」と、振り返ったレーアの横顔がしかめられる。
「おやすみ、先生」
最後の最後、レーアはようやくフォイエルバッハに対する挨拶らしい挨拶を口にして、ドアの向こうへと姿を消した。
主が去った部屋は、一段と深い静寂に落ちたような気がした。
雨の音に気がつく。執務机の向こう側で、窓に雨水が細長い線を描きながら伝っていくのが見えた。
「お姉さんがいたんですね、レーアさんには」
「ああ。リーベ・ゼーゼベルケ。彼女も法官だ」
「リーベさん、か。知らなかったな。レーアさん、自分のことはほとんど話してくれないから」
「リーベはな、おれの婚約者でもある」
「えぇ!? そうなんですか!?」
思わず前のめりになって叫んだ。
「じゃあ、結婚したらレーアさんはフォイエルバッハさんの義理の妹ってことですね。レーアさんがフォイエルバッハさんと、兄妹……。うわあ、すごく不思議な感じがしますね」
あまりにも毛色の違う兄妹だ。頼り甲斐はあるが酒好き冗談好きで、ちょくちょく妹をからかう兄。そしてそれを疎ましそうにして、冷たく接する妹。想像すると、心配でもあり面白くもある。
愉快な想像を膨らませつつ、ネイトは問う。
「で、いつなんですか? リーベさんとのご結婚は」
「死んだよ」
フォイエルバッハは表情を変えず、淡々とそう言った。
雨音が、急に強くなったような気がした。
「六年前だ。戦争中に、ノウェイラ兵に殺された。この姉妹には親がいなくてな。リーベはレーアの親代わりだった。唯一の肉親を失って以降、レーアはまあ、世界の全部が敵と言わんばかりの顔をしていたもんだ」
「そんな……。そう、だったんですか」
膝の上に拳を握って、俯く。それ以上の言葉が見つけられなかった。
愛する者を失った過去を語るフォイエルバッハに、なんと言ってあげればよいのかわからなかった。死を語る口ぶりは淡白ではあったが、傷が癒えたわけではあるまい。湿度を失い固まった土のような悲痛が彼の中にはまだあるだろう。自分も両親を目の前で殺された。だから、わかる。
そして、レーアのことだ。彼女の胸中に想いを馳せると、胸が切りつけられるようだった。
しかしここで疑問がわく。
「どうして、レーアさんはノウェイラ人の僕を受け入れてくれるんでしょう。いや、心の中では、本当は恨んでいるのかな」
言ってから、胃が捻り上げられるような心地がした。自分はレーアを心から敬愛している。だが逆はどうなのか。レーアは自分をどう見ていたのだろうか。
「いいや。レーアはお前を恨みに思ったことは一度もないさ。それは断言できる」
ネイトの懸念を読んでか、フォイエルバッハは直ちに否定してみせた。
「あいつは確かにノウェイラを敵と思っている。だが、それは別に姉を殺した国だからじゃないんだよ。あいつが憎む対象は決まってる。皇領の内では、魔法に反した罪人。外では、魔法を受け入れようとせず帝国に敵対する外国。つまり……」
「魔法を否定する者」
そうだ、とフォイエルバッハは頷く。
そして、話してくれた。レーアとリーベ、そしてフォイエルバッハの三人の身に起こった、六年前の出来事を。
帝国とノウェイラとの戦争のさなかのこと。フォイエルバッハは、レーアとリーベをはじめとする複数の法官を伴って、ノウェイラ北部の陸軍駐屯地を奇襲する任に就いた。
奇襲は概ね成功し、駐屯地は火に包まれた。だが、リーベは隙を突かれ、敵兵に人質として捕らえられてしまう。
燃え盛る炎に囲まれる中、ノウェイラの兵士は要求を突きつける。
フォイエルバッハがそれまでに禁獄刑に処し、監獄へと転移したノウェイラ兵をすべて解放せよ、と。
この時、既にその駐屯地の遥か南には、“
敵の要求に従うことは、魔法への違背に等しい。フォイエルバッハは罪を負い、スティグマを刻まれることとなる。だが要求を拒めば、リーベは殺される。
「リーベが死のうとする瞬間、おれは選択を迫られた。魔法を守るか、魔法を犯してでも助けるか。おれは、魔法を守った」
そして、その必然の結果として、リーベは惨殺されたのだった。妹の、すぐ目の前で。
「法官として、それが正しい判断だった。そう信じて生きてきた。一方でレーアは、妹として、また法官として苦しみ抜いた。その挙句、こう考えるようになった。
リーベが法官として守ろうとした魔法。リーベの命と引換えに守られた魔法だ。ならば自分も、魔法を守らなければならない。魔法には、リーベが死ぬだけの価値があったのだと」
「死ぬだけの、価値……」
──魔法を否定する者は、殺す──
あの言葉の意味が、ようやくわかった。
それは、レーアが守ろうとする、リーベの命の意味。すなわち死の価値だったのだ。
「ノウェイラとの休戦後、レーアは殺人事件を好んで受任した。要するに、罪人を死刑にできる事件ってことだ。罪人を自分の手で殺すその瞬間が、レーアにとっては最も魔法を守っている実感を得られるひと時なんだ」
それが、法令順守の虐殺者の、虐殺者たる所以。
「そんなの……そんなの、悲しすぎます」
こんなにも虚しく、痛ましく。
魔法の下において正しいのに、こんなにも間違っているなんて。
「ネイト、ありがとうな」
フォイエルバッハは片の口角をそっと上げて笑みを作った。
「何がですか?」
「おれにはあいつの心を救ってやることはできない。あいつを助けられない。だが、おまえならそれができる」
「そんな、大げさですよ。僕はレーアさんのお役になんてまだ立ててません。強いていえば、家族を失って、レーアさんと同じような境遇にあるっていうだけですから」
それから、少しでもフォイエルバッハの心を支えたくて、ネイトは必死に言葉を連ねる。
「百歩譲って僕がレーアさんを助けられているとしても、突き詰めればフォイエルバッハさんのおかげです。僕がノウェイラで家族を殺されて独りになったあと、助けてくれて、帝国に連れてきてくれたのは誰です? その後、レーアさんの弟子にしてくれたのは? 全部、フォイエルバッハさんじゃないですか」
「それは……ちがう」
フォイエルバッハは、逡巡を交えながら、否定の句を述べた。遠慮でも謙遜でもなく、本当に違うのだというような口調だった。
「ちがうんだ。おれはただ、自分の──」
その時、がちゃりとノブが回る音がして、執務室のドアが軋んだ音を立てながら開いた。
ゆっくりと開いたドアの向こう側を見て、一瞬、ネイトは心臓が止まりそうになった。約二メートルの背高な大男がそこに立っているように見えたからだ。
実際には、それは陪席人形兵だった。ウヌスだ。
黒い鉄帽に取りつけられた長大な鍔から、ぼたぼたと雨水が床に落ちる。着ているタバードにも隅から隅まで雨水が染みこんで、黒く、重そうになっていた。しかし、人形である彼は、ずぶ濡れの自身の状態に不平ひとつ訴えることもない。仮面に刻まれた六本のスリットの間から、青白い光を放つ目が二つ、無言でこちらを見つめている。
「ウヌス、お客さん?」
言葉を放つ機能を持たない陪席人形兵に、ネイトが問うと、陪席人形兵は一度深くゆっくりと頷いた。
「フォイエルバッハ大法官! いらっしゃいますか! こちらにいると伺いましたが!」
階下に迎えが行くのも待ちきれないのか、急くような男の声が下から上がってきた。
「さて」とフォイエルバッハは重そうに腰を上げて、陪席人形兵と共に階下へと降りていった。
「まったく、しょうがないな。傘でも差せばいいのに」
陪席人形兵が汚した床を掃除するため、ネイトも執務室の外へと出た。床を見ると、下へ続く階段から、点々と雨水が部屋の前まで続いている。
陪席人形兵も、雨の時は体を拭いてから入るように言えば、聞いてくれるのだろうか。そのようなことを考えながら物入を開き、適当な掃除用具を探す。
と、その時、階下からフォイエルバッハと来客との会話が耳に入ってきた。
「いつだ」
「二十二時。今から一時間ほど前ですね」
「血は流れたか」
「現時点ではそうした情報は。大統領は大人しく退いたようです」
「大統領府は無血開城ということか。すぐに行く。先に戻れ」
階段の手すりから下を覗くと、フォイエルバッハの前に黒いマントを羽織った若い男が立っていた。マントには帝国の国章。どうやら帝政府の行政官のようだ。
血がどうとか、クーデターがどうとか。不穏な話題のようだが、いったいなんのことだろう。
扉が閉じる音がした。フォイエルバッハが再び戻ってきて、階段の下に姿を現す。彼は上のネイトの姿を認めるや否や、深刻そうな面持ちで口を開いた。
「ノウェイラで軍がクーデターを起こした」
聞いて、ネイトは息を呑んだ。
ノウェイラ軍といえば、帝国との徹底抗戦を主張する一派──いわゆる保守派ないし主戦派──を内部に抱えていることは、ネイトでも知っている。もっとも、大統領をはじめとする政権幹部らが親帝国派として休戦条約を締結した六年前の時点では、戦争による弱体化もあり、主戦派は鳴りを潜めていたはずだ。
だが一方、帝国との和平を掲げる大統領が果たして軍を掌握できるかどうかは、世間に強く疑われていた。軍には和平を拒む不穏な分子が根強く存在しているという噂は、常に絶えなかったのだ。
「これから、どうなるんでしょうか」
「なんともいえん。が、帝国と再び衝突するとは限らない。近年の主戦派は、少なくとも表向きには、ノウェイラの主権の護持を掲げていただけだ。闇雲に戦端を再び開こうと訴えていたわけじゃあない」
それも当然だろう。休戦とはいえ、ノウェイラは領土の半分を失う結果に終わり、実質的には敗戦したのだ。軍が自分たちの主張を通しつつ、離れた人心の掌握に努めるには、急進的な色彩はある程度薄める必要があったということだろう。
「この事態は予見されていたことだ。おれたち最高法院や帝政府においても、ノウェイラの親帝国派の方でもな。ついては、だ。ネイト、お前に頼みたいことがある」
「僕に、ですか? レーアさんじゃなくて?」
「ああ、お前に頼みたい。だが、内容は明日追って知らせる。ああ、レーアがやる明日の事件はおれの方で配当替えを指示しておく。今日はとにかく、もう休め」
言いながら、フォイエルバッハは執務室のソファに放られていた暗い緑色のトレンチコートを拾い、それを忙しく羽織る。
ネイトの胸の中には、思考が雑然と渦巻いていた。いずれ自分は法官となり、帝国のために尽くす。世界全土の“魔法の支配”を目指す中で、ノウェイラとの対決があるならば、しっかりと自分の役割を果たす。そう決めている。
一方で、落胆を感じている自分はなんだろう。
そうか。願わくは再び戦争になることなく、穏便にノウェイラが帝国に吸収されてほしいという思いもあったのだ。この思いが叶うための芽が摘まれそうなこの瞬間になって、ようやく気がついた。
そのような思いを抱くようになったのは、いつからだろうか。きっと、フォレスト姉妹の一件があってからだ。自分の感情を押し殺して魔法に服する生き方を決めたあの姉妹の姿を見て、自分の心にも迷いが生じたのかもしれない。
本当の自分は、いったいどうしたいのだろう。
迷いの中にいるネイトを尻目に、フォイエルバッハは階段を降りようと足を踏み出す。
だが、何を思ったか、数歩を降りたところで足を止めた。
フォイエルバッハは、しかしネイトを振り返ろうとしない。
廊下の天井にある白熱灯の暗い光が、フォイエルバッハの白髪を灰色に照らす。
彼の身に落ちた陰影は一段と暗い。
「リーベを殺したのは、おれでもある」
浮くような静寂だけが、二人の間に横たわった。
いつしか雨はやんでいた。鼓膜を打つのはただ、古い白熱灯がちらちらと点滅する小さな音だけだ。
「だが、おれにはスティグマが付かない。魔法はおれを裁かない。だから誰もおれを罪人として扱わない。おれを許さないのは、許さないでいてくれるのは、レーアだけだ。おれはずっと、その意味を考えている」
「……フォイエルバッハさん、あなたは」
その先に続く言葉は、どうしても見つけられなかった。ネイトはただ、深い陰を抱えて階段を降りていくフォイエルバッハの背を、見送ることしかできなかった。
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