第五節
数時間後。
ネイトは、レーアと共に、ツァオバラー社の本社ビル、その社長室にいた。
今まで座ったこともないような柔らかさの高級ソファに、レーアと並んで座っている。
「え!? ほ、本当ですか!」
ネイトは素っ頓狂な声を上げて、ソファから腰を浮かせた。
大理石のテーブルを挟んで正対している男の言葉に、耳を疑ったのだ。
「法官閣下の前で、嘘など申し上げようはずがございません」
その男──ロンク・ルーベンスは微笑しながら立ち上がった。両手を大きく広げ、かと思うと片手を腹の位置に当てて、仰々しく一礼してみせた。
「麗しきゼーゼベルケ判事正閣下。貴女が仰るのであれば、すべて従いましょう。ミアラ・フォレストの一件、訴えは取り下げさせていただきます。契約で定められた納期は、今一度、猶予することとしましょう」
ルーベンス──会ってみれば、ネイトの想像していた人物像とはかけ離れていた。
着込んでいる空色のスーツには高級感が漂うが、嫌らしい華美さはない。右手の中指にはめられた金の指輪は、見たところ彼の唯一の装飾品で、帝国有数の資産家という情報からすれば、むしろ無闇に飾ろうとはせぬ彼の謙抑さを引き立ててすらいる。
よく整えられた艶のあるブラウンの髪の下、端正な顔に常に爽やかな笑顔を絶やさない。帝国の陪席人形兵の装備調達を一手に引き受ける大企業の代表でありながら、ネイトはうっかり親近感すら覚えかねなかった。
故国を捨て、財を築くことに邁進する金の亡者という印象はなく、ただ貴族めいた高貴な気品を感じる。ましてフォレスト姉妹の父を裏切った悪漢という風には到底見えず、あるのはただ、理知と才覚に恵まれた好青年の姿だけだった。
「私はまだほとんど何も話していない。被告ミアラにどういう事情があったのか、聞かないのか」
隣のレーアは、ネイトほど驚いている風ではない。だが、それでも怪訝そうな顔つきではあった。
それもそうだろう。ルーベンスは、訴えを起こしてまで実現したかったはずのミアラに対する債権、その行使をあっさりと猶予すると告げたのだから。
レーアの提案はこうだ。ミアラの負った債務は、民事上は依然として有効ではある。しかし、ミアラがその債務を負った真の動機からすれば、ルーベンスに対する履行を強制させることによって、ミアラにさらなる遺恨が生じかねない。万が一にも再犯への刺激となれば、再び魔法の秩序を脅かす。レーアは法官の裁量としてそう判断した。そして、ルーベンスに今は権利行使を延期するよう持ちかけたわけだ。
ただ、こうもあっさりと承諾されるとは、予想していなかった。
レーアは念を押すように言う。
「私の勧試に応じるのかは任意。強制じゃないことはわかっているんだな? あなたがあくまで被告に対する請求を維持したいのであれば、私はまだ被告に履行を強制することができる」
「それでも、法官閣下は訴えの取下げが妥当とのお考えなのでしょう? 紛争の妥当な解決、何より魔法の秩序に照らして。そうであるなら、私は一臣民としてただ従うのみ。背景にある事情など、お聞きしなくとも納得できます。何せ、法官閣下の──いえ、」
ルーベンスはそこで言葉を区切り、テーブルの脇を通ってレーアに近づいた。そして、レーアのそばで、片膝を落とす。
何をするのかとネイトがきょとんとしているうちに、魔法が許してもネイトには許せないことが起きた。
レーアの右手を取ったルーベンスは、その甲に口づけを見舞ってみせたのだ。
「私が心より敬愛する、レーア・ゼーゼベルケ判事正閣下のお心なのですから」
「なっ──」
ネイトは絶句した。顔から血の気が失せ、そうかと思えば今度は顔が熱くなった。
待て待て待て、ちょっと待って。確かにレーアさんには誰からも尊敬されてほしい。願わくば、誰からも愛されてほしい。しかし、しかしです。弁えるべきところ弁えてもらわないと困ります。
気障な微笑を崩さないルーベンス。目をぱちくりしているレーア。
ネイトはいてもたってもいられず立ち上がり、
「は、離れて離れてー!」
と二人の間に強引に割りこみ、レーアを庇うような格好でルーベンスの前に立ちふさがった。
「あまり簡単に近寄らないでくれますか? 法官の安全上、問題がありますので」
「いえ、私はただ敬慕の情を示したかっただけなのですが」
いったい何をばかなことをおっしゃるので? とでも続きそうな語尾に、ネイトはますます血が顔の方に熱く逆流してくるのを感じた。
「いや、でもっ……! そう! それに、あなたにはやっぱり聞いてほしいんです! ミアラさんとサアリさんの事情を!」
噴き出るルーベンスへの怒気に押され、つい、心の中に感じていた不満感も転がり出てしまった。
「おい、ネイト」とレーアがたしなめてくる。だが、もう引けない。構わずルーベンスを見据え、言う。
「ミアラさんたちのお父さんは、ノウェイラであなたに裏切られた。お父さんの部隊の所在を、ルーベンスさん、あなたが帝国に売った。そして亡くなったんです」
ルーベンスはソファに戻り、再びゆっくりと腰かけた。その後を追うようにネイトが言葉を続ける。
「僕は“魔法の支配”が世界に広がることを望んでる。だから、僕はルーベンスさんの行為を非難するつもりはない。でもそれはそれとして……どうして、と思ったんです。ミアラさんたちのお父さんは、あなたと友人同士だったと聞きました。どうして、友達を裏切るようなことをしたんです?」
「ネイト、口を慎め。そのことは今は関係がない」
「でもレーアさん。ミアラさんやサアリさんはきっと知りたがってます。強硬にではなく、穏やかに紛争の解決を待つことが魔法の秩序のためだというなら、真実を明らかにして、当事者の疑問は解決しておくべきじゃないですか?」
「それは法官として私が判断する。いい加減にしろ、差し出がましいぞ」
「いえ、よいのです」
ルーベンスはレーアを制止する。口元に薄く笑みを浮かべたまま、ネイトの目を見つめた。
それから、優しく語りかけるように彼は言う。
「君は、元ノウェイラ人だ。私とも、今回の訴えの被告やその妹とも故郷を同じくする。だが君の生まれは南部の出身だったね。まだ独立を保つその場所で、ノウェイラ人として生きる道もあった。しかし、自らそれを捨て、晴れて帝国臣民となっている」
会って最初に自己紹介をしたとき、ネイトは出自を問われ、確かにそう答えていた。
「逆に問おう。君はどうして、法官の弟子なのかな? いや、もちろん、法官を志しているのだろう。では、それは何のために? そしてその理由が何であれ、君もまた、ノウェイラを裏切っていることにはなる。違うかな?」
ネイトは瞼を閉じ、心の中に質問を咀嚼した。
それから目を開け、淀みなく答える。
「それは、否定できません。僕は、帝国がノウェイラを滅ぼすことを望んでいるから」
ルーベンスは満足げに頷く。
「うん、質問を質問で返して悪かったね。しかし、では、私も君と同じということだ。皇帝陛下が目指す、世界全土への“魔法の支配”。これを私は夢見ている。世界中すべての人々が、平等で公正な経済生活を営むことができる。人種、国籍、性差、出自、何も関係なく、ね。それを実現させるものこそ魔法だ。だからこそ、ノウェイラもまた魔法に服し、皇領となるべきだと考えた。そのために、私は私にできることをした」
「でもルーベンスさんは、ノウェイラを裏切ったというだけじゃない。一人の友人を、友人として裏切った。そして、死なせましたよね」
「そうだ。私はアグナ・フォレストを裏切った。そして、彼は死んだ」
ルーベンスは丁寧に確認するように言った。
「君の腰にあるもの……銃、だろう? それを使わなくていい世界が来るといい。君もそう考えてノウェイラを出たんじゃないかな。私も同じだ。
だが、君はいつか、その銃に弾を込め、罪のない人を撃つことになるんだよ。
撃つ必要のない世界を望むがために、撃つことになる。罪なき誰もが犠牲にならなくて済むように、罪なき誰かを犠牲にせざるを得なくなるのさ。
僕は、ただ、君の一つ先を行く“先輩”だったというだけさ。これが君への答えだよ」
ビルを出る。夜空の下、冷たい空気と街灯の光の群れがネイトたちを包んだ。
「事件はこれで結了だな。いつもどおり、法院への報告書は頼む」
レーアはそう言いながらマントを羽織り直し、歩き出す。ネイトもそれに並んで歩く。
息を吐けば、白いもやが生まれ、すぐに消える。
しかし、心の中に置き去りにされた明確な輪郭のないもやのようなこの感情は、しばらくそこに残りそうだった。
「ネイトは、ルーベンスが罰を受けるべきだったと思っているのか」
その質問は少し意外だった。なんとなく、その問答はレーアが嫌う“余計なこと”のような気がしたからだ。
ネイトはしばらくの間考えこんだ。それから結局、首を横に振った。
「わかりません。どのみち、ルーベンスさんの行為は、魔法では裁けないんでしょう?」
「魔法には、限界がある。皇領の外に魔法の規律は及ばない。唯一の例外は、“国外犯”のときだけだ」
「国外犯、ですか?」
聞き慣れない言葉だ。まだ、自分の学びが及んでいない分野の言葉なのだろう。
「皇領の外でいくら罪を犯しても、魔法の規律が及ばない以上、スティグマはつかない。その後に皇領に戻っても同じことだ。だが、罪に当たるべき行為をした者の身柄を、皇領の中で法官の面前に差し置きつつ、“告発”することができれば、その者は罪人とみなされる。つまり、スティグマがつく。それが断罪ノ魔法における“国外犯”の法理だ」
「罪に当たるべき行為……でも、ルーベンスさんのしたことって、帝国の利益になることですよね」
「そう。ノウェイラ軍の機密を帝国に漏洩したことは、魔法の下では法益として保護されない。だから、魔法はこれを罪と見ないだろう。確かに道徳的ではなかったかもしれないが、魔法は必ずしも道徳を保護するものではないからな」
「魔法の限界、か」
夜空を見上げれば、いつかと同じ満天の星空が今日もそこにあった。このわだかまりを捨てるには、たとえばフォイエルバッハがそうするように、酒でも飲めればよいのだろうか。
「僕は、法官になったらノウェイラと戦うことがあるのかもしれない。そうなったら、ノウェイラの人ともきっと戦う。でも、僕が手にかけるのは、僕にとって罪人だと思っていた人たち。そういう風にばかり考えてた」
レーアは白い吐息とともに、夜空に言葉を落とす。
「ネイトは、私を信じると言った」
「言いました」ネイトは頷く。「僕はレーアさんを信じています」
その自分の言葉が、気づきをさらに促す。
自分が信じる正しさのために、殺す。その一点だけを見れば、かつてノウェイラ軍兵士を数多く死に追いやったレーアも、友を裏切り帝国へと我先に下ったルーベンスも、変わらないのかもしれなかった。
レーアのことは、信じ、正しいと思っている。その一方で、ルーベンスは道徳的でないと非難する。説得力があるだろうか。それとも、矛盾しているだろうか。
「あの言葉は、嬉しかった」
「え?」
無意識に俯いていたネイトの顔が上がる。
「“え”って、だから……私を信じるって言い切った、あれだよ」
レーアの口からそんな言葉が出るなんて、まったく予想もしていなかった。
レーアは歩みを早めてネイトの少し先を歩く。照れ隠しか何なのか知らないが、なお足早だ。
しかしやがてレーアは、ネイトの斜め前から横顔で振り返ってきた。
「ネイトがこれから何をしでかすのか知らないけれど。とにかく、まあ、見届けるくらいはしてあげる」
そう言って彼女は、桃色の唇を薄く延ばして柔らかく笑った。手のかかる弟に呆れるような苦笑いにも思えたし、頼り甲斐のある姉のような強い笑顔にも思えた。
ネイトは息を呑んで、胸にこみあげる温かさに思わず顔が崩れる。
何も言えない。ただ足早にレーアの横に並んで、一緒に歩くことしかできなかった。
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