第四節

「あ……あの……ひょっとして、不審者さん……?」

 突如、レーアの前方からびくびくとした声がした。

 弾かれるように顔を上げると、そこには少女の姿。年頃にして十台後半といったところか。

 大きめの赤いハンチング帽の下で、さらさらと流れる紺色の長髪を背中の辺りまで伸ばしている。

 年頃の少女が着るには地味な茶色のコートを着ているが、レーアよりも頭一つ分以上は低いその背丈にはやや大きすぎる感がある。まるでコートを着ているというより、コートに食べられているかのようだ。

 コートの下は、ブラウスと黒のスラックスという出で立ちで、あまり着飾ろうという意思は窺えない。縁の細い眼鏡をかけていることも相まって、大人しそうな性格が見て取れる。

 眼鏡のレンズの奥にはくりくりとしたアーモンド型の目があって、綺麗な橙色の瞳がそこに輝いていた。まるで、人間のふりをした小動物と遭遇したような印象だ。

「……おまえは」

 そして、レーアの紅い目は驚きに見開かれた。その瞳に映る、この少女の何よりも特徴的なものが、そうさせたのだ。

 少女は明らかに臆した様子で、おずおずと口を開いた。

「こ……ここ、私のうちです。どうしてうちの前で、怖い顔して雑草を睨んでるのかな、って……。だから、不審者さんか、暇人さん……? いえ、暇人さんでも、不審者さんですけど……」

 レーアは黙って立ち上がり、少女をまっすぐ見据えたまま大股でずんずんと近づいていった。

「ひ、」肩をすくめて少女がのけぞる。「な、なんでしょう!?」

 突如として無言で迫りくる女に、それはそれは恐怖しただろう。少女はなんとか逃れようと煙が立つような勢いで後ずさり、レーアから距離を離そうとした。

 だが、その本懐は遂げられなかった。不幸の小石が彼女の踵を見事につまづかせ、結果として少女は後ろに倒れ、派手に尻餅をついてしまった。

「いったぁっ……!」

 少女が呻いているその隙に、レーアは完全に距離を詰めた。脚を肩幅に開いて少女の眼前に立つ。そして、見下ろす。その形相たるや背中から地鳴りでも聞こえてきそうで、少女は再び「ひぃぃ」と声にならない悲鳴を上げた。

 少女の恐怖などまるで無視して、レーアは両の手を小さな首元に伸ばした。むんずと胸倉を掴み、そのまま一気に自分と同じ目線の高さまで引き上げる。

「い、い、い、」いやー、とでも叫ぶつもりだったのかもしれないが、もはや少女は声を失って顔面蒼白だ。

 だが、レーアとて、いたずらに少女を恐れさせようとしているわけではない。

 少女には、法官であれば見逃しようがない、ある特徴があったのだ。

 少女の頬にある、その紋様。入れ墨ではない。青白い光をほのかに放ち、それは明らかに魔法の力の産物だった。

 その紋様は線となり円となり、幾何学的な印象を帯びながら、頬から首筋へと下る。そして首より下、着衣に肌が隠れた部分も、その紋様だけはレーアの目に克明に映っている。紋様は、小さな肩と緩やかな丸みを帯びた胸とをなぞるように、少女の体の表面に広く刻まれ、青白い光を妖しく灯らせていた。

 シグネット。法官の眼にのみ映る呪印だ。刻まれたシグネットは、スティグマもそうだが、その上にどれだけ服を着込まれようとも、法官の目には透視される。

 シグネットが刻まれているということは、とりもなおさず彼女がこの事件に関係する何らかの魔法上の義務者であるということ。例えば、債権者である誰かに対し、果たすべき債務を負った債務者ということだ。

 だが、この少女のシグネットはどこか特異なものを感じた。単純な日常生活上の取引のものではなく、職業ないし商売のものでもない。もっと胸をざわつかせる不穏な色合いを呈している。

 そもそも、妙だ。この娘のシグネットがなぜ見えるのだろう。

 先頃ネイトにも説明したように、シグネットはいちいちすべて見える必要がない。そのため、普段の法官の目にはシグネットが映らなくなるフィルターがかかっている。債権者から訴えが提起された場合に限り、債務者や、そのほか当該事件に密接な関係を持つ人物のシグネットが見られるようになる。

 被告ミアラ・フォレストは今、家の中でネイトと話している最中のはず。そうとなれば、いまシグネットが見えているこの少女は、今回の民事事件に密接な関係を持っている人間ということになるのか。

 しかも、この少女は、いま、ネイトがミアラ・フォレストと交渉している最中のこの家のことを“うち”と呼んだ。

 胸倉を掴んでいる両手をぐいと引き寄せて、吐息も混じりあう鼻先数センチの距離まで顔を近づける。紅い法官の双眸がカッと見開かれ、少女の眼を覗く。まさしく蛇に睨まれた蛙、少女は恐怖のあまりレーアから目をそらすこともできないでいた。

 少女の瞳から、影像が自分の頭の中に流れ込んでくる。シグネットが、その有する情報を影像に変換して、裁くべき資格者へ見せようとしてくるのだ。

 ──まず見えたのは、暗い部屋。

 それから、少女の姿。ベッドの中で、眠りにつこうとしている。

 そしてベッドの中にはもう一人、同じく紺色の髪をした女の姿。この少女より年上のように見える。どうやらいまレーアが覗いているシグネットをつけたこの少女は妹の方で、もう一人の女はその姉らしい。二人とも、横になっている。

 やがて、姉が体を妹の方に向けて、静かに話しかけた。

 <ねえ、サアリ。私ね、夢があるのよ。ノウェイラのお家に帰る夢>

 <なあに、お姉ちゃん、いきなり>

 サアリと呼ばれた少女が苦笑いを浮かべる。

 <お金持ちになってね、誰も私たちのいうことに逆らえないの。私たちは堂々とこの国を出て、家に帰る。その後は、そうね、分厚いノウェイラン・ビーフのステーキとか、山盛りになってアルキア山みたいになったサラダとかを食べて暮らすの。毎日よ>

 <毎日? お姉ちゃん、ぶくぶく太っちゃうよ。痩せるのって大変なんだよ>

 サアリが笑う。それから、笑顔は保ったままに、やや面持ちを暗くして言った。

 <第一、どうやってお金持ちになんてなるの。わたしたちは外民なのに>

 <だから、夢なんだってば>

 そっか、とサアリは笑ってから、両目を閉じた。眠りに入ろうとしているのだろう。だが、姉が次に口にした言葉に、サアリは再び目を開くことになる。

 <あの男を、殺すの。それが、私の夢の筋書き>

 <……お姉ちゃん?>

 <あの男、見つけたの。会社を経営していたわ。陪席人形兵の武器とか部品とかを作ってて、帝国政府を相手に大儲けしてる。私たちと同じノウェイラの人間なのに、裕福で、成功してるのよ。私、夢見てるわ。そいつを殺して、お父さんの無念を晴らす。お金も奪って、私たちが幸せになる……>

 それはあまりに荒唐無稽な夢だった。そのようなことをすれば、スティグマがつき、すぐに法官や陪席人形兵に見つかり、魔法の執行によって処刑される顛末だ。サアリは天井を見つめながら、哀れむような悲しむような表情をして、姉の話を黙って聞いた。

 <冗談よ> 

 サアリの悲痛に満ちた表情に気がついたのか、妹の不安をなだめるように姉は言った。

 <……お姉ちゃん、約束して。そんなばかな考え、二度と口にしないって。たとえルーベンスを見つけても、私たちは、何もしちゃいけないの。ね?>

 <そうね。約束するわ。私たちにはもう、この場所しかないんだものね>

 影像は、そこで幕を引くように闇の中に消え、終わった。

「おまえはサアリ・フォレスト。ミアラ・フォレストの妹か。このシグネットは、姉のミアラと、ロンク・ルーベンスについて話したときのもの……」

 サアリは一段と表情を強ばらせた。自分が話してもいない情報を、目を覗き込んだだけで把握したレーアの正体について、サアリはたちどころに理解したようだ。

「あ……あなた、まさか……ほ、法官……!?」

「ロンク・ルーベンスに危害を加えてはならないという合意。合意の内容と合意の効果を欲する意思とに明確性があったために、魔法の規律力の下では契約として認められたのか」

 しかし、不穏な“夢”を語るミアラ自身は、冗談だとは言いつつも、その口調の中にどこか不気味な真剣さを帯びていた。

 そのミアラは、今、ネイトが交渉中だ。

 危険な香りがする。

 胸の内によぎる不安に、一瞬、レーアは家の方を振り返る。

 果たして、それが隙となってしまった。

 サアリは片足をレーアの脇腹にひっかけて、そのまま思い切り身をよじった。

 しまった。大人しそうな外観に油断した。そう思いながらも両手に力を込めて彼女を抑え込もうとする。

 だが、わずかに及ばなかった。サアリの身体はレーアを突き飛ばしながらぐるりと回転して地面に落ち、ついに拘束を脱した。

 そのまま少女はレーアの横をすり抜け、一目散に家の方へ走りだす。

 同時、少女はこう叫んだ。

「お姉ちゃん!」

 サアリは家の鋼製のドアの前に駆けつける否や、ドアを激しく拳で何度も叩き始めた。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん、大変! 逃げて! 法官だよ! 法官が来てるっ!」

「ネイト!」

 レーアも地を蹴り駆けだす。

 ネイトが今どういう状況か知らない。だが、とにかくその身が危ういと直感があった。

 サアリはレーアの方へと振り返った。

 そして、両手を大きく横に広げて立ちふさがった。

「行かせない!」

「どけ!」

「どかない!」

「レジス・アクティオ! “勾留”!」

 躊躇はない。立ち退くよう一度告げただけでも慈悲。

 サアリに向け右腕を突き出す。手首を赤い円形の式陣が囲み、そしてサアリの足元にもまた、半径一メートルはあろう赤い光の式陣が描画される。

「きゃあっ!」

 その足元の式陣から生えてきた、やはり赤い光の鎖。その数は一本、二本と増え、瞬く間に十本近くにまで急増した。

 執行魔法第三十六条──“法官は、魔法の執行のため障害となる者があると認めるときは、その者を勾留することができる。”

 それらの光の鎖は、すべて執行者の命じたままに役割をこなした。鎖はサアリの脚に巻きつき、腰に巻きつき、胸、肩と巻きついて、たちまち全身を拘束、さらに下方へと引っ張る。サアリは重みに耐えかね膝を屈し、膝と両の掌を地面に突いた格好となった。

「どうしました! いったい何の騒ぎですか!」

 ドアが開け放たれ、ネイトが驚愕の表情を浮かべながら姿を現した。

 随分と久方ぶりに顔を見たような気がした。淡い紫色の髪を見て、その下の童顔に視線を落とし、そのまま胴、脚と見て、再び顔に目を戻す。どうやら、無傷のようだ。

「レーアさん、この子は!」

 ネイトは足元で呻く見知らぬ少女の存在を認めて、なお一層の驚愕を映した。

「話は後だ。ネイト、私のそばに戻れ。“債務者”との交渉はもういい」

「いいえ。ネイトさん、あなたは動かないで」

 低く据わった女の声がした。もちろん拘束されているサアリの声ではない。ネイトの向こう側、家の奥の方からだった。

 ドアの奥、闇の中から、陽光を反射して、金属質の何かが現れた。

 拳銃だった。銃口は、ネイトの後頭部に突きつけられている。

 続いて見えたのは、濡れたように艶めく紺色をした、癖のついたボブヘア。やや落ちくぼんだ、感情のない橙色の瞳。あまり健康的には見えない白んだ頬。ひとつ風が吹いて揺れた彼女の白色のワンピースは、彼女の存在を儚げに仕立てる。

 そして、そのワンピースを透過して、彼女の身体の表面をなぞるように広がる、それ。青白く光る幾何学的な紋様。シグネットだ。

 契約時の具体的な状況や会話の内容などは、彼女の瞳を覗きこんでシグネットを精査しない限りわからない。だが、そのシグネットが訴状にあるとおりの請負契約に関するものであることは間違いないだろう。

 そして、もうひとつ。青白い紋様に重なって、赤い光を禍々しく放つ呪印もまた、彼女の身体にべったりと貼りついていた。

 それこそは、魔法に反し、罪を犯した者に刻印される証。

 すなわち、スティグマだった。

「くそ」

 この状況と自分の迂闊さに、レーアは悪態をつかずにはいられなかった。

 ネイトが背後の女を振り返る。自分に突きつけられているものにそこで初めて気がつき、彼は大きく息を呑んだ。

「ミアラさん、あなた、どうして……!」

 しかし、ミアラはネイトの問いに答えることはなく、

「サアリを……私の妹を解放して」

 今度はレーアに対し、端的に要求を突きつけてきた。レーアは冷涼な口調で告げる。

「法官相手に人質を取って、成功したためしがあると思うか?」

「知るもんですか。でもね、成功しないってことは……いい? この子が死ぬってことなのよ」

「ミアラさん」ネイトが悲痛な声で訴える。「どうして、こんな」

「ネイトさん、あなたと同じよ。私も復讐するの。仲間を売って、父を帝国に殺させた裏切り者を、この手で殺すのよッ!」

「ロンク・ルーベンスか」

 レーアが言うと、ミアラは鼻で笑って、

「さすがは法官閣下、もうご存知なんですね。あの男、私を訴えたんでしょう? それであなたは私に契約を履行させに来たのね。安心してください。お手を煩わせずとも自分で行きますよ。約束の物を納めに、ね」

「納めるふりをしに、だろう。おまえはルーベンスを恨み、元より殺すつもりだった。陪席人形兵から拳銃を奪い、あとは新しく開発した部品を納品するふりをして近づく。ルーベンスが隙を見せれば撃つ。そんなところか?」

 それはスティグマから読み取った真実ではなく、推理に過ぎない。スティグマを精査するにはミアラの瞳を覗きこむ必要がある。だが、この距離からではそれはできない。

 しかし、推理はきっと正解だろう。

 サアリのシグネットから聞こえたミアラの言葉。そして、先ほどのミアラの言動。ミアラがルーベンスの謀殺を企図していることは明らかだ。

「ご明察だけれど、ひとつ手順が抜けてるわ。ルーベンスの前にあなたよ、レーア・ゼーゼベルケ!」

 噴きあがる憎悪にミアラの顔はいびつに歪み、黒い銃口はレーアの方に向けられた。

「法令順守の虐殺者とはよく言ったものね! 六年前、あなたは魔法を忠実に守りながら何人ものノウェイラ人を殺した! 私の父も、あなたに殺された! 私から見ればあなたもルーベンスと共犯みたいなもの! こんなところで会えるなんて、運命の神様は私たちに償ったつもりかしらね!」

 言われ、記憶の片隅にしまわれた戦場の風景が今再びに蘇る。

 六年前、自分は確かにノウェイラと戦った。ノウェイラ軍の三個突撃旅団を全滅させた。それが両国を休戦に導く決定的戦闘となった。

 血肉で溢れかえったあの光景の中に、さらにいくつか思いだせるものがある。命乞いをする兵士。ロケットペンダント。その中で微笑む二人の娘と、その父──。

「だめだッ!」

 その時、遮るように叫びを上げたのはネイトだ。ネイトは振り返り、両手を広げてミアラの前に立ちふさがり、レーアを庇う格好となった。

「ネイト、よせ!」

 レーアがネイトの言動を制止しようと声をかけても、ネイトの背中から滲み出る決意は薄まる気配がない。

「ミアラさん、やめてください! これ以上罪を重ねたって無意味ですよ! 謀殺罪の刑は死刑だけしかないんです! それに、絶対に逃げられない! でも、でも今だったら、まだ引き返せます!」

「無意味? 無意味ですって?」

 ミアラは再び銃口をネイトに向けた。やり場のない怒気をいよいよ銃弾に込めて放とうかという勢いですらある。

 見たことか。挑発して逆上させただけだ。またおまえは余計なことを。ネイトの頬をつねり、そのまま引きちぎりたいくらいの思いになった。だが、下手をすればその機会すら永久に失われかねない。冷静を保とうと心中で暗示に努める一方、無意識に奥歯を強く噛むのを抑えられなかった。

 ともすると、ミアラは突然表情を緩め、風船から空気が抜けるようにひとつ吐息をついて、上がった肩をふっと落とした。突きつけた銃はそのままに、ネイトにすがるような声色で話しかけた。

「ねえ、ネイトさん。あなたの言うとおりよ。私はノウェイラで幸せだった。確かにひどい国かもしれない。でも私にとってはね、家族と一緒にいられた、素敵で幸せな暮らしがそこにあったの」

「……違う。違うんだよ、ミアラさん」ミアラの言葉を払うようにネイトは首を横に強く振った。「ノウェイラは悪だ! ノウェイラが、悪なんです! あの国の指導者たちは、自分たちの保身のために無駄な戦争を長引かせた! ミアラさんのお父さんもその被害者なんです! レーアさんや帝国は、あなたの敵じゃないんです!」

「それでも、私の父が命をかけて戦って、守ろうとした国なのよ! 父が守ろうとした国は、私にとっても守るべき、そして帰るべき国なのっ! そこに帝国が一方的に攻撃してきた! 自分たちの法を押しつけてきた! それは罪ではないというの!?」

「六年前の時点で、ノウェイラに法なんてあってないようなものだったんですよ! 帝国はただ、法を与えようとしただけです!」

「あなたにとってどれだけ帝国が正しく輝いて見えても関係ない! ノウェイラに“陰”があっても、私たち姉妹にはちゃんと“光”があった! それを一方的に奪われた事実は変わらない! あなたの師匠がたくさんの苦しみを私たちに振りまいたことは、あなたの信じる魔法が裁いてくれる? 裁いてくれないわ、だから私がやるッ!」

「ミアラさんッ!」

「さあ、レーア・ゼーゼベルケ! 三つ数えるうちにサアリを解放しなさい! でないと、おまえの弟子も殺す!」

 それを言われた瞬間、異様な感覚がレーアを襲った。

 目の焦点がどこにも合わなくなり、脚の力ががくりと抜けた。すぐに脚に力を込めて立ちなおすが、うまくミアラの顔を見ることができない。自分の顔の半面を手で押さえ、レーアはこの不可解な感覚の正体を探ろうとした。

 なんだ?

 これは、なんだ?

 そうだ、似ている。六年前のあの時と、似ている。

 フォイエルバッハと、姉のリーベと戦線に出たあの時。リーベがノウェイラ兵の人質となった、あの時。敵がフォイエルバッハに、選択を強いた、あの時──。

 フォイエルバッハは皇帝と帝国、そして魔法に忠良なる法官として、魔法を優先したのだ。

 リーベの生命を賭して。

「三!」

 そうか。そういうことか。

 私もまた、問われようというのか。答えを出せというのか。あの時の先生のように。

「殺す……」

 殺す。殺す。殺してやる。

 やつのスティグマが見せる光景がどうであろうと、罪がなんであろうと関係ない。ネイトを保護するための正当防衛として、合法に殺す。魔法を否定する者は、殺す!

 私は魔法を守る。そして必ず守らせる。

 魔法を否定する者の言葉など、聞く価値もない。

 でなければ、姉さんの死は何にも殉じたことにならなくなってしまうのだから。

 姉さんの命の意味が、消えてしまうのだから。

「二!」

 ああ、けれど。

 魔法を守り、そのためにネイトを死なせたならば。

 私は私を、許せるだろうか。

 それは正しいこと。きっと、魔法の下にあって、どこまでも正しいこと。

 しかし、だからといって、許せるのか?

 私は、私を許せるのか?

「一!」

 私は、

 魔法を否定する者を、

 私は、姉さん、私は──

「お……ねえ、ちゃ……」

 突如割り込んだ声。ミアラは素肌露わな両肩を弾かれるように跳ねさせて、その声の主に目を落とした。

 式陣に体を縛りつけられているサアリは、四つん這いの姿勢を保つことすらもはやできず、地面に完全に組み伏せられていた。赤い光の鎖が肌に食い込み、痛々しい。

 それでもサアリは、必死にミアラの方を振り向いて、懸命に声を発し、何かを訴えようとしていた。

「お姉ちゃ……わたしは……お姉ちゃん、と……二人で……生き……」

「サアリ! 待ってて、今すぐ法官を殺して、あなたを……!」

 その一瞬、ミアラに隙が生じた。呼吸もままならないほどの状態に陥っているサアリに、ミアラは気を取られ、手に持つ銃の向く先がネイトから外れたのだ。

 即時、レーアは唱える。

「レジス・ヴィルタス! ブルーティゲ・シュペーア!」

 同時、レーアは地を蹴って前へ飛んだ。

 虹色の光線が開いた右手に収束し、瞬間のうちに槍の姿へと結実する。それを右手で握りこむ。ブルーティゲ・シュペーアの柄の確かな感触がレーアの手に冷たい重みを与える。

「この!」

 気づき、ミアラも銃を構え直した。さらに両手でグリップを握りこみ、迫りくる魔女を狩ろうと銃口を差し向けてくる。

 だが、無駄だ。ひとたびレーアが執行器武器を手にしたこの期に及んでは。

 さらに一歩、地を踏み込む。

 同時にブルーティゲ・シュペーアを握った右腕の手首を、わずか捻る。

 太陽は中天の位置。

 降り注ぐ日光を穂の刃が強く跳ね返し、

「うっ──」

 その反射した光は形なき暗器となって、ミアラの橙色の瞳を刺してみせた。

 ミアラは目を硬く瞑ってひるみ、銃を持った片手で自分の顔を覆った。その瞬間が決定打となった。もはや、レーアがミアラに至るまで、何の障害もない。血塗られた赤が地を駆け、流れる髪の銀が閃く。

「レーアさん!」「お姉ちゃんッ!」

 ネイトとサアリの横を通過したとき、二人はそれぞれに名を呼んだ。

 ミアラに死を与えることのできる距離まで踏み込む。

 レーアの精神は先ほどまでとは打って変わって水のように澄み、刃のように研がれ。

 自身に漲る魔法の執行力を全身に駆け巡らせて力をアシストさせ、両の脚に重心をかけ、そして、迷いなく魔槍の一撃を繰り出した。

 彼女の橙色の双眸は恐怖と絶望に染まり、もはや反撃することなど不可能な状態。

 その時、ミアラの瞳の奥から影像がレーアの網膜をかすめていった。

 それは、紺色の髪の姉妹が、台所で二人、ケーキを作っている光景。温かな記憶だった。

 <おねえちゃん──>

 ──仲の良い姉妹だったようだ。

 突き出したブルーティゲ・シュペーアの先端で、極度に集中した執行力を全て解放した。激烈なエネルギーが発散する──落雷が直撃したかのような瞬発的な轟音が炸裂し、ともに網膜を焦がさんばかりの赤い光が閃く。地が揺れる。

 ミアラの身体は、吹き飛んでいった。まるで玩具のように、家の中、その奥の方へと。

 家のドアから周辺の外壁にかけて、放射状に裂け目が入った。かと思うと、そのドアを中心にして、外壁の一面がクレーターのように円状に圧壊してしまった。

 数秒も経つと、家は荷重に耐えられなくなり、外壁の全周ががらがらと崩れ始めた。窓のサッシュはひしゃげ、ガラスは砕け、しまいには屋根も雪崩のように崩壊する。

 砂と埃が濛々と舞い、周辺一帯は一気に薄茶色のもやに包まれた。レーアとミアラの姿は、その中へと消えた。

「いやあぁっ! お姉ちゃん! お姉ちゃんっ!」

「レーアさん! ミアラさん! た、大変だ! 人か人形兵、呼ばないとっ!」

 礫が散るぱらぱらとした音に紛れて、大騒ぎする二人の素っ頓狂な声が響きわたる。

「うるさいな……」

 レーアはといえば、もちろん、自分の行った所為の結果で圧死するような抜け目など持たない。埃に喉を痛めて一つ咳きこみ、ただそれだけだ。レーアは屈んだ状態からゆっくりと体を起こし、肩を払いながら背後の瓦礫の山の方へと声を上げる。

「ここにいる!」

「レーアさん! ひょっとしていま、生き埋めですか!?」

「問題ない。……被告もな」

 潰れた家から数メートル離れた地面の上に、ミアラは仰向けに倒れていた。苦しげに呻いている。髪が埃を巻き込んで汚れ、白いワンピースは土と泥とでより汚れていた。だが、一目見たところ命に別状はない。

 無論、別状のないようにしたのだ。ブルーティゲ・シュペーアはミアラの体を貫いてはいなかった。ブルーティゲ・シュペーアを媒介して執行力を炸裂させ、その圧でミアラを吹き飛ばしただけだ。

 おまけに、レーアがミアラを吹き飛ばした方向は、家の出入口の反対側にある、居間の大窓に向けてだった。結果、ミアラの身体は大窓を突き破り、家の反対側へ出るよう吹き飛んでいた。家が崩れたのは、その後のことだ。だから、彼女は生き埋めにならずに済んだ。

 済んだ、とはいっても、ミアラの腕には無数の切り傷、擦り傷。痛々しく血が滲んでいるし、全身に打撲もあるだろう。だが、その程度で済ませてやったのである。

 レーアはすたすたとミアラの頭の横に歩み寄る。

 ミアラの瞳を、覗きこむ。

 すると、ミアラもゆっくりと瞼を開き、焦点の合っていない様子の目でレーアを見つめ返した。

 肺から絞り出したような声で、彼女は言う。

「ひどい、こと……するのね、法官閣下。これも、魔法の下では……許される行為なのかしら……?」

「ミアラに対しては “正当防衛”。この家に対しては“緊急避難”。傷害の罪も建造物損壊の罪も違法性は阻却される。私の体には今もスティグマは刻まれていないぞ」

「ハッ……ああそう……それは、勉強になったわね……」

 ネイトやサアリも瓦礫の山を迂回して、ここに駆けつけた。

 サアリに施していた“勾留”の執行は、ミアラを家の反対側へと突き飛ばしたのと時を同じくして解除していた。あとは期待したとおり、ネイトはサアリを連れて、家の倒壊からうまく避難してくれていたらしい。おかげでこの二人は無傷だ。

 ミアラの目に宿る感情は、先ほどまでとは打って変わって、激しさを失っている。

 諦念か、絶望か、そのどちらもか。様々な感情が混淆して、そのすべてが水で薄められてしまったかのようだった。地面の上に花のように放射した彼女の髪は、さながらしおれた花弁のようだった。

 その橙色の瞳を、レーアは、自分でも不思議なくらいに穏やかに見つめていた。罪を犯した者、魔法を否定した者。死をもって処遇したい衝動にも一時駆られたはずなのに。

 だが、そうした殺意めいた激情も、今はない。

 ミアラのスティグマとシグネットが、姉妹のあらゆる影像をレーアに見せ続けている。仲睦まじい姉妹のやり取り、優しき姉の姿。

 レーアが失ったものが、そこにはあった。

 サアリは愛する姉に抱きつき、泣きじゃくりながらその存在と生とを噛みしめている。

 今のサアリのように家族を抱きしめることは、今のレーアにはもうできないのだ。

「お姉ちゃん、もうやめよう。帰る家なんて、もうないんだよ。あんな国になんて、もう帰れない。悔しいけど、ここが世界で一番安全なんだ。もう、ここで生きていくしかないんだよ」

 ミアラは片手を重たそうに挙げて、胸に顔を埋める妹の頭をそっと撫でながら、問う。

「私は……捕まるのかしら。地下深くの監獄で、何年も、何十年も……?」

 そうなることを覚悟しているのは、口調から明らかだった。

「レーアさん」

 ネイトはレーアを見た。青紫色の眼差しは、悲哀の混じった切実さに揺れている。だが一方で、どこか一貫した意志のようなものをも、そこに感じられる。

 きっとそれは、彼なりの覚悟。

 ネイトはおそらく、姉妹に同情してレーアに寛大な処分を求めているわけでは、ない。

 むしろ、レーアが下す厳正な裁きが姉妹の命運を引き裂くこととなろうとも、ネイトはそれを受け止めるつもりなのだ。

 それが、ネイトの覚悟。それが、ネイトが求める世界の在り方だから。

 ──余計な感情移入は避けたほうがいい。仇になる──

 あのような助言など、もうネイトにはいらなかったのかもしれない。

「ミアラ・フォレストへの判決・執行に先立ち、執行魔法第四四条に基づき、教戒する」

 レーアは立ち上がり、まっすぐとミアラを見下ろした。

「まず、事案の経緯を説く。ミアラの父アグナ・フォレストは、ノウェイラ共和国においてロンク・ルーベンスと友人同士であった。しかし、ルーベンスは、ノウェイラ及びその兵士であったアグナ・フォレストを裏切った。すなわち、父の所属する部隊の所在に係る情報を、ヴェルヘイル帝国に対し、対価を得て漏洩した。

 六年前、アグナの所属する部隊は帝国に対する作戦行動の中で、帝国の法官に発見された。既に当時、その地は魔法の効力が及ぶ皇領となっていた。このゆえに、アグナは、断罪ノ魔法第二編第六条が定める内乱の罪によって処断され、法官により死刑を執行された」

 その法官こそは自分なのだ。数奇な因果が時を経て蜘蛛の巣のように絡みついてくることに、皮肉を感じずにはいられない。

「ルーベンスの裏切りとアグナの死との因果関係は、本件の処断の帰趨を左右しない。ゆえに措く。ともかくもミアラは、ルーベンスが父アグナの死の一因であるとの認識、そしてこれに基づく帝国に対する強い復讐心を併せ有した。一方で、自己及び妹サアリの生活を維持するため、帝国臣民の身分を得、サアリと共に帝都ヴェルアレスに在住した。その後四年余りにわたり、帝都のとある機械工場で勤務した。やがて、ミアラは陪席人形兵の新しい補助器具を開発し、“間接アシスタ”と名付けた」

 スティグマから読み取るところによると、間接アシスタとは陪席人形兵の間接に用いる部品のようだ。

 街中を警邏する陪席人形兵は、どうやって動いているか。それは、すなわちこうだ。まず皇帝が、陪席人形兵の任務と活動を規定した魔法を定めている。そしてその魔法を、七名いる大法官、そのうちの“人形担当”たる一人が執行し続けることによって稼働している。

 機体にはコアと呼ばれる部分があり、そこで大法官の執行力を受信する。そしてその執行力を、四肢の各部に動力として伝え、動く。

 だが、いくら大法官に膨大な執行力があるといえども、数万機の規模で配備されている陪席人形兵をたった一人で稼働させているのだから、そのコストは莫大なものだ。

 それに、魔法の執行に費やされるのはその大法官の執行力だけではない。皇帝のみが有する魔法制定の力、すなわち規律力も圧迫される。

 強大に、あるいは大規模に魔法の執行が行われれば、皇帝の行使できる規律力の余剰は狭くなる。それはすなわち、新たな魔法の制定改廃にも制約がかかるということだ。

 そこで最高法院は、かねてより人形に関する魔法執行の省力化を模索していたわけである。

 そんな中、ミアラは思いついた。電動モーターの力で人形の四肢の動きを補助し、人形が活動するのに必要な執行力を節約することを。それが、間接アシスタと呼ばれる部品の眼目というわけだ。

「半年前、ミアラは、帝都で陪席人形兵の装備調達を担っているツァオバラー社の代表がルーベンスであることを知った。父に対する罪を自白させ、謝罪させるために、何度か面会を試みている。たが、いずれも本社建物のエントランスで門前払いを受け、奏功しなかった。

 そこで、ミアラはルーベンスとの面会をどうにか果たすため、一計を案じた。すなわち、元々は帝政府と直接契約交渉をするつもりであった間接アシスタを、ツァオバラー社に売り込むことにした。間接アシスタについては、ツァオバラー社の工場で何度か試験を経た結果、試作品の納入契約にまでこぎ着けた。社の幹部からも好評を得、納品の当日には社の代表であるルーベンスと直接に面会する約束も取りつけることができた」

 そして、ミアラは犯行に着手する。

「ミアラは、ツァオバラー社の工場に陪席人形兵の実戦テスト用の実機模擬敵アグレッサーを見つけたのを機縁として、犯行に着手している。すなわち、この実機の休眠中、これに装備されていた拳銃一丁を窃取した。

 その行為は、納品を偽装してルーベンスに接近した上、近距離から射殺する意図に出でたものであった。

 そして、納品期日、つまりルーベンスと面会に及ぶ日が到来した」

 だが、と言い置いて、レーアは続ける。

「ミアラはルーベンスの居所を尋ねることがなかった。その日は、本社のルーベンスを訪問する段取りだったが、実際にはミアラは行かなかった。そしてそのまま、現在に至るまでの一箇月間、ミアラは家に引きこもり続けた」

 その心情的な理由もまた、スティグマは酌量すべき情状としてレーアにつまびらかにしていた。

「ミアラは、サアリとの生活及びその将来を危惧した。復讐を果たした後、処刑されるであろう自分の身を憂い、そして何より、その後のサアリをひどく案じた。結局、ミアラは凶器を手にしながらも、これを供用しての殺害自体には踏み切ることができなかった。

 他方、拳銃一丁についての窃盗の罪がスティグマ検出により発覚することを恐れ、家から出ることもできなくなった」

「お見事ね」ミアラが笑う。「ネイトさんの言ったとおり、本当に凄いわ。こんなことまで目をみただけでわかるなんて。これなら確かに、誤判なんて起きようがない」

「わ……わたしも知っていたの! 知ってて、止めなかった!」

 サアリが割り込んで叫んだ。レーアに向き直り、懇願する。

「ねえ、お願いです! お姉ちゃんの罪を軽くしてあげてください! わたしも共犯です! 一人より二人の方が、罪は“薄まる”はずでしょう!」

「そんな法理はない。だが、おまえは罰しない」

「え……な、なんで……?」

「サアリ・フォレスト。おまえはミアラが拳銃を隠し持っていることまでは知らなかったはずだ。いや、正確には、知ろうとしなかった」

「それは」

 サアリの目が泳ぐ。

「癪ではあるが、魔法の目をかいくぐられたというわけだ」

「どういうことです?」

 ネイトが聞いた。レーアが答える。

「サアリは、ミアラが引きこもり始めたことを受け、おそらく何か後ろめたいことをやったのだろうとまでは感づいたんじゃないか。ルーベンス絡みだということもな。

 しかし、サアリはあえてミアラを追及しなかっただろう。ミアラが何をしたのかを知ることも避けたはずだ。なぜなら、ミアラが罪人だと知ってしまえば、それを匿い続けることで自分にもスティグマがつくからだ」

 これは推測。そう、推測しかできなかった。なぜなら、サアリにはスティグマがないからだ。

 だが、サアリは何も言い返そうとはしない。その沈黙は、レーアの言葉に是と答えているようなものだ。

 ネイトは得心が行ったという顔で、手を叩いた。

「そうか! 罪人と知って匿えば、犯人蔵匿の罪が成立する。そうなれば、捕まるのを恐れる限り二人とも家から出られなくなって、生活なんてできなくなる。サアリさんはミアラさんと暮らし続けるために、あえてミアラさんのこと、何も知ろうとしなかったってことですね?」

「そうだ。“何かやったのだろう”くらいに感づいた程度では、犯人蔵匿の故意があったとはいえず、罪は成立しない。実際、最初にサアリと会ったとき、スティグマなどなかった。あったのは……姉と交わした、契約のシグネットだけだった」

 その契約というのは、ミアラとサアリとがかつてベッドの中で交わした、“ロンク・ルーベンスに危害を加えない”という旨の約束のことだ。

「ああ……覚えてるわ……」

 レーアの言葉を聞いて、ミアラはサアリとの約束を思い出したようだった。

「私は……約束を、破った、わね……ごめんね、サアリ……」

「お姉ちゃん」

 ミアラの手を強く握りながら瞳を揺らすサアリ。

 ミアラは、妹の不安を解くようにそっと微笑みかけた。

「復讐したって、何も戻らない。サアリの方が早くわかってた。やっぱりサアリは賢いわ。昔からそうなの。この子、ちゃんと周りが見えて、何をするべきか、すぐ理解できるのよ。私と違ってね」

「しかしサアリ、おまえは先ほど私の邪魔をしたな。執行妨害の罪が一個成立している。おまえも罪人だ」

 冷厳に告げるレーア。

 ミアラの手を握り締めるサアリの手が震えている。だが、何の反論ももうない。覚悟を決めた、ということなのだろうか。

「……しかし、罪の態様は軽微であり、またその動機にも鑑みて、執行魔法第四四条第二項を適用し、教戒は略すこととする」

 この妹に魔法の規律を説くことに、これ以上の意味は見出せなかった。

 自分はこの姉妹の父の命を奪っている。サアリもまた姉同様にレーアに復讐心を抱いてよいはずだ。それなのに、少なくとも外面にはレーアに対する憎しみを出さない。

 憎悪を内に押し殺して、姉のためにと法官に懇願しているのだとしたら。

 そう考えれば、もはやレーアは教戒をする気にはなれなかった。

「さて。魔法に基づき、判決する。──レジス・アクティオ。“判決”」

 レーアは厳正に告げ、右手をミアラにかざした。赤い光の式陣が掌の前に瞬時に描画される。そしてまた、ミアラの直下にも、人の背丈をゆうに超える巨大な式陣が現れた。罪人に刑罰という魔法効果を付すべく、空間を震わせるような重低音を放ちながら鳴動を始める。

 ネイトもサアリも、固唾を呑んでそれを見守る様子だ。

 だが当のミアラは、うっすらとした笑みさえ浮かべていた。覚悟を決めたのか、あるいは自棄か。

「第一に、罪人ミアラ・フォレストを禁獄十年に処する。その執行を三年猶予する。

 第二に、罪人サアリ・フォレストの刑を免除する」

 式陣はその輪郭を崩し、薄赤い霧となってミアラを包み、彼女の体に吸収されるようにして、消えた。後に、静寂が残される。

 やや遅れて、ミアラがいくらか力を戻した目つきをレーアに向け、問う。

「どういう、こと……?」

「三年間、じっとしていろ」

 そう端的に要約してみせてから、仕事が一区切りついたことに合わせてひとつ溜息をついた。

「執行猶予の魔法効果がおまえについた。これから三年の間、もし禁獄刑相当の罪を犯したときは、おまえの体は瞬時に監獄に飛ぶ。妹と一緒に暮らしたければ、諦めて善良な帝国臣民としての暮らしを送ることだ」

 ミアラは、もう何も言葉を返さなかった。彼女は仰向けのまま空を見る。

 その目から、雫が頬を落ちていった。

 涙の意味は、何だろう。

 妹との暮らしを続けられることへの安堵。

 ルーベンスにもレーアにも憎しみを晴らすことが叶わなかったことへの悲痛か。

 その心中を推し量ることなどできない。

 もう、これ以上の言葉はない。

「ネイト、もう行こう」レーアが踵を返す。「事情が変わった。訴えの件で原告のルーベンスに会う」

 立ち去ろうと数歩歩いて、しかし弟子の足音が自分についてこないことに気がつく。返事もない。

 奇妙に思い、立ち止まって振り返る。すると、どうしたことか、ネイトはまだ倒れた姉と介抱する妹のそばに立ったままだ。

「ネイト、何して──」

「僕は!」

 レーアの呼ぶ声が、ネイトの叩きつけるような言葉に遮られる。

 レーアからはネイトの横顔が見えた。俯き、歯を食いしばりながら、放つべき言葉を必死に探しているようだ。その強く握りしめた拳は、言い知れぬ決意に満ちていた。フォレスト姉妹もまたネイトの顔を見上げ、驚いた様子で次の言葉を待つ。

 ネイトは一つ深呼吸をしてから、今度は一転、いくらか晴れやかな笑みをすら浮かべて言った。

「僕は、変わりません。ううん、変われません。ミアラさん。サアリさん。あなたたち二人の話を聞いた今も、です」

 静かに、だが力強く、ネイトは続けた。

「魔法を信じてノウェイラに殺された両親の炭を、この手でかき集めて、拾いました。僕のこの手からは、今でもあの炭の匂いがします。だから、僕も魔法を信じる。魔法を守り、執行するレーアさんを信じる。それによって人々が救われることを、信じていく」

 そう言い切ってから浮かべられた少年の笑顔は、明るく清々しく、この晴天の青に最もふさわしいものだった。

「だから、二人にも、そんな僕をいつかは信じてほしい。そのために、僕はがんばれます。ありがとう。二人に会えて……良かったです」

 数秒、三人は呆気にとられて。

 それから、堰を切ったかのようなミアラの大笑いが、天に上った。

「あははっ! ねえ、ゼーゼベルケ! あなたの弟子、ふふっ……、あなたの弟子ったら!」

 レーアは鼻から薄く息を抜いて、再び踵を返す。

 風になびく銀髪に、今度は力強い弟子の足音がしっかりとついてきた。

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