第三節

 ネイトが家の中に招かれてから、もう三十分は経った。だが、この鋼製のドアが再び開く気配は一向にない。

「大丈夫なのか、あいつ」

 レーアは空に向かって嘆息する。

 ドアに背を向け、腕を組みながらずっとこうして待っている。執行対象者がすぐ近くにいるというのに何もせずに待つだけというのは、今までにあまりない経験だった。

 いつもはすぐに、罪人ならスティグマを、債務者ならシグネットを見る。そして、彼らの現在の状況と過去の経緯を即時に認識する。あとは適用される魔法について教戒を与え、最後に魔法を執行して完了、これだけだった。

 ネイトに事の成りゆきを任せるなど、初めてのことだ。

 おかしな心地だ。法務にあって何もせず、ただこうして流れる雲を見送ることしかしていないとは。

 心中はもどかしく、落ち着かない。この気持ちはなんだろう。

 別に、この法務の行く末に不安はない。ただ被告債務者を見つけ、魔法を執行すればよいだけだ。逆らうならば、淡々と処罰を与えてやるまでのこと。

 弟子がへまをして、自分が泥をかぶることが不安なのか。いや、自分のこととはいえど、正直なところあまり関心がない。

 そうとなれば、自分が案じているのは結局、その弟子自身のこと、ということだろう。

「法令順守の虐殺者が、まさか他人の心配とは」

 自嘲するような笑みが、つい、口角にかすかに浮かんだ。


  †


 ネイトの言葉に、ミアラが息を吞むのが伝わってきた。だが、こちらとしても冗談で言ったつもりはない。

「何を言って──」

「僕にとっても、ノウェイラは帰りたい場所です。でも、ノウェイラという“国”に帰りたいわけじゃない。ノウェイラ共和国は、この世から消えてしまっていいんです」

 ミアラはきっと、自分が陰の中に追いやられ、一方でネイトは光の当たる場所で安穏としているとでも思っているのだろう。

ならば、決してそうではないことを告げてやろう。

あの悪夢を告げ、いかにノウェイラが滅びの途を辿るべき場所であるか、説いてやろう。

「父さんは──」

 父ネフティス・クーヒェラルは、比較法学者だった。

 比較法学とは、自国のみならず諸外国の法制を比較し、その個々の法制の特質を抽出したり、逆に複数の法制に通じる共通点を暴き出したりすることを目指す学問分野だ。

ネフティスの研究には、ヴェルヘイル帝国の魔法も含まれていた。

魔法は、人智を超えた側面ばかりが注目される。たとえば、神の目から見た真実をも明らかにすることができるスティグマやシグネット。それから、強制的に人を従わせたり制圧したりすることができる、執行力と呼ばれる超人的な力もそうだ。

だが、ネフティスによる魔法への着眼点は、そうした魔的な面ではなかった。魔法として定められた、その規範の内容にあったのだ。

魔法の定める規律の内容は、世界の中でも極めて先進的とされる。公正・公平を希求する哲学の見地からも非常に理想的で、よく近代化された法制度だった。

その証拠に、帝国は皇帝の絶対的な権力により統治されながら──いや、その魔法の力が絶対的であるからこその余裕なのか──臣民の権利が十分に保障されていた。

たとえばそれは、国家から干渉されぬ自由の権利。一つ具体例を挙げれば、表現の自由だ。魔法を廃することを訴える主張ですら、手厚く魔法により保障される。その様をネイトは先日目の当たりにしたばかりだった。

帝国とノウェイラとの休戦から一年後、帝歴一二三一年のこと。

ネフティスは、魔法の定める規範をノウェイラに輸入しようとし、次のように述べた。

──たしかに、すべてのノウェイラの国民を帝国の魔法の力に服させることは、世論に鑑みれば性急だ。だが、帝国の中で魔法が生み出しているルールを、ノウェイラの立法に導入することはできる。帝国の覇権主義には反発もあろうが、しかしそれとは別に、魔法は魔法として、少なくともその内容については十分評価をするに値する──

腐敗が進み、国民への弾圧が横行したノウェイラである。ネフティスは帝国の魔法に理想を見出し、国家の屋台骨たる共和国憲法から抜本的に改めることを主張し、もって国民の権利を保障するよう政府に迫った。

 だが、領土の半分を失い、ノウェイラの主権の護持を悲願する残地の国民に、そのような合理的な発想を容れる余裕など、ありはしなかったのだ。

「父さんは、ノウェイラ中から嫌悪され、批判され、攻撃された。そして、いつからか、僕や母さんも。石を投げられる、殴られる、家に火をつけられる。そういうのが、日を追うごとに増えていった。母さんが銃で撃たれたことだってあった。だから──」

 逃げ隠れるしかなかった。

 ネフティスは、ネイトと妻を連れ、帝国とノウェイラとの間に引かれた休戦ライン間際の街に移り住んだ。そこで崩れずにいるのがやっとなくらいの小さな家を買い取って、三人で声を潜めながら暮らす日々が始まった。 

「なぜ、帝国に移らなかったの。親帝国派なら簡単に亡命できたでしょうに」

「そうですね。しかも、ちょうどその時援助してくれた人がいて、その人は帝国人でしたから。確かに、帝国に逃げようと思えば簡単に逃げられたかも」

 隠遁生活の中、食料や衣類の世話から世情の報告まで、あらゆる援助を尽くしてくれた帝国人がいた。

アムゼル・フォイエルバッハだ。

当時の階級は判事監で、第五高等法院長だったと聞いている。ノウェイラが自主的に魔法を受容する余地ありとのことで、休戦協定締結を皇帝に上奏したともいわれている。

親帝国派とされるネフティスとは旧知の間柄で、戦争が始まる前から交友が深かったという。フォイエルバッハは何度も、ネフティスに亡命を打診したようだ。

「でも、父さんは拒み続けた。たぶん、意地、なんじゃないかな」

「意地?」

「ノウェイラを何とかしないとっていう使命感があったんだと思います。だから、負けたくなかった。中に踏みとどまりたかったんでしょう」

 そして、その意地こそが仇になる。

 隠遁生活を始めてから一年ほどしたある日のこと。

ノウェイラの兵士が、怒号を上げながら扉を蹴破って入ってきた。

 名を変え顔を隠しながら耐え忍んできた生活は、その日、一瞬のうちに崩れ去った。

 ネフティスは捕まり、母も、そして自分も。

「それから、裁判になった。でも、それは裁判と呼べるようなものじゃなかった。陰謀罪と内乱罪、それから政治家に対する殺人罪二件。これが父さんと母さんの“共犯”の内容でした。当然、否認したけど、証拠が山ほど出てきた。凶器とか、内乱の計画を書いたメモとかね」

 乾いた笑いが、喉の奥から漏れる。

「でもね、完全にでっち上げだったんです。メモなんて、父さんの筆跡とは似ても似つかなかった。誰が見ても証拠になんてならないってわかった。わかるはずだったのに」

 父の背中を思い出す。

証言台を何度も拳で叩き、悔し涙で顔を汚しながら、喉を嗄らすほど裁判の不正義を糾弾する父の姿を。

 すべては無駄だった。

 裁判官が、紙一枚に書かれた、たった一行の文言を読み上げる。

直後、二人は連行されていった。ネフティスは怒号を上げながら、母は咽び泣きながら。

そこからの記憶は、コマ送りのように飛び飛びだ。

円形の処刑場。

何かを口々に叫ぶ人々。

地面に突き立てられた、何本もの錆びた鉄骨。

その中の二本。磔にされた、父と母。

数十メートルほど離れて、両親を見つめる自分。

誰かの手が、自分の両肩を痛く押さえつけていた。

赤々とした炎を先端に灯したトーチ。それを持つ、黒いローブを着た執行者。

父と母の足元から腰の高さまで積まれた薪炭に、トーチの炎が近づいて。

 母の絶叫。

 ──見ないでネイト! お願いだから、見ちゃだめぇっ!──

 それでも少年は直視した。

 このノウェイラという国で、人という生き物が、何をするのかを。

 そして鼓膜の底に刻み付けた。

 放たれた火の燃え盛る音を、空を割るほどの父と母の断末魔を。

 ──“正しさ”をッ!──

 絶叫の中で、いまだに意味のある言葉が叫ばれる。

自らの言葉のために身を焼かれ、身体が炭となって崩れていくというのに、それでも父は、あくまで言葉をこそ息子に遺そうとする。

 ──世界に、“正しさ”を見つけろ! 生きて、それを見つけるんだ!── 

二人の身体が轟々と燃え盛る様を、目を見開き、網膜に焼き付けた。

父の眼球が溶け落ちる。母の顎が崩れていく。そうして両親の全身は、その皮膚が黒い炭へと化していく。

叫びは止み、火は消え、熱さも引いて、やがて全てが終わっていった。

周囲を取り囲んでいた民衆は、まるで舞台演劇を見終わった観客のように、足早に処刑場という劇場を後にする。

自分一人が、そこに残された。

ネイトは、ただそこに立っていた。

何分か、何十分か、あるいは何時間か、そうして立ち尽くしていた。

やがて、高温でぐにゃりと歪んだ二つの鉄骨に歩み寄る。

そこに溜まった炭を、両手で必死にかき集めた。

──けしてやる──

気がつけば、そんな言葉が口から出ていた。

消してやる。ノウェイラの裁判官も、法律も。この国にある国としてのカタチ、その隅から隅まで、ぜんぶこの大地から消し去ってやる。

ノウェイラを滅ぼす。

いいや。この世界のぜんぶの国を、滅ぼすんだ。

魔法が正しいなら、その正しさに世界を征服させるんだ。

「僕が魔法を学ぶのは、間違わないからです。罪を犯せば必ずスティグマがつき、魔法上の義務を負った者はシグネットがつく。それらが法官に見せる情景は、絶対の真実。だから絶対に、誤判がない。だから……」

 ジャケットの右の裾をめくり、腰の右側に下げていたそれを引き抜いた。

「こんなものを使わずに済む世界も、いつか本当に来るんじゃないかって」

 黒光りする鋼の銃身は、六発装填のリボルバー式だった。

「それは?」ミアラが聞く。

「フォイエルバッハさんが……僕たち家族の恩人が、父さんにくれたものです。もし何かあったら、これで身を守るようにって。でも、父さんは最後まで使わなかった。言葉と理性の力で何とかなるんだって、最後まで信じてたんですね」

 銃をじっと見つめるミアラの視線に気がついた。

「ああ、弾はないんですよ。銃砲規制魔法っていうのがありますからね。弾を手に入れればスティグマがついて、すぐにレーアさんに監獄に飛ばされちゃいます。この銃は、美術品登録してるから持てているだけの……まあ、いわばお守りってところです」

 でも、とネイトは続ける。

「それでいいんです。この銃が何の役にも立てられないこの魔法の国が、僕はすばらしいって思うんです。ヴェルヘイル帝国による世界征服。これが、僕の夢なんです」

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