第二節

 ネイトが廃図書館の一階のソファに座って待っていると、やがてレーアが階段を降りてきた。

 いつもの赤い執行衣に、黒のロングスカートという出で立ちだ。

「いい」とレーアは無愛想に言った。出かける準備はよいという意味だろう。

 ネイトは青いジーンズの上に両手をついて勢いよく立ち上がり、ワイシャツの上にフラノ地のジャケットを羽織った。

 そして、腰の右側にできたジャケットの膨らみに手を乗せ、そこにある重みと存在感を確かめる。

 そこに携帯しているのは、一丁の拳銃だ。

 亡くなった父ネフティスが遺したものだった。レーアと共に法務に出るときには、必ず持ち歩くようにしている。もっとも、使い道はない。ただのお守りだ。

 そして、誓いの証でもある。

 ネイトは、ボディバッグを気合い十分に斜めにかけて、レーアと共に廃図書館を出る。

 扉の両隣には相変わらず、二体の陪席人形兵が立哨を務めている。

「じゃあ行ってくるね! 留守をよろしく、ウヌス、デュオ!」

 返事がないとわかっている挨拶を済ませて、廃図書館を後にした。


「うん、いい天気ですね」

 見上げれば、空は吹き抜けるように青く、子供がちぎってばらまいたような真っ白な綿雲が浮かんでいた。街路樹からは小鳥のさえずりが聞こえ、石畳の街道を撫でる風は肌に心地よい。

 清々しい朝だ。

 自分の斜め前を歩くレーア、その超然とした姿に、いつもネイトは見惚れてきた。

 人の姿をして我らにまみえているのだ──法が、正義が。

 自分がかつて、故郷に望んでも得られなかったものが。

「──レーアさん、」

 街道を歩く法官の姿は、尊敬や物珍しさのゆえに人目を引くか、そうでなければ畏怖されて視線を反らされるか。大筋その二択。

 法官は、自ら望もうとも、日常の風景に溶けて消えることは許されない。

 先日のウルプスの演台での事件のときもそうだ。結局自分たちは、休暇を休暇として過ごすことはできなかった。

「今日の事件、早く終わるといいですね」

 気がつけば、そんな無意味な言葉を投げかけていた。

「何か気がかりなことでもあるのか? ただの請負契約の履行請求事件に見えるが」

「あ、いえ。違うんです。ええと……そう、僕は請負って、細かいところが弱くて。早く終わって早く帰ってバッチリ復習したいなと、ええ、そんなところです」

 休んでほしい、自分の時間を過ごしてほしい。

 などと、言えるわけもなかった。あまりにも僭越、そして無責任というものだ。

 ──魔法を否定する者は……殺す!──

 あの日。

 弁士を殺害しようとした女性に執行を行う直前の、あのレーアの姿。

 レーアはもちろん、魔法を否定する者を、罪の軽重を問わずにその言葉どおり片端から殺していくような狂人ではない。それでは法官など務まっていない。

 それでもあのときのレーアには、魔法を執行するときの気概というには訳が違う、尋常ならざる明確な憎悪と殺意が感じられたのだ。

 きっと、レーアは何でもなさそうな顔を仮面にするのが得意なだけで、その下には激情を飼っている。いつ切れるともわからない、危うい手綱をつけて。

 その激情が彼女のどこに由来するものか、それはわからない。家族のことに関係しているという以上のことを自分は知らない。レーアからも話してくれないし、レーアの理解者であるはずのフォイエルバッハも触れたがらない。

 いつか、自分に話してくれる日が来るのだろうか。

「そういえば、今回の訴状の内容、ネイトはまだ知らなかったな」

 レーアが半面でこちらを振り返って言った。

「あ、はい。というか、民事事件自体、初めてですね。僕が立ち会えたレーアさんの事件って、刑事ばかりでしたよね。レーアさん、刑事特化の……それも凶悪罪特化の法官だし」

「これからは民事も増える。どこぞの酔っ払い大法官閣下のお取り計らいの結果でな」

「あはは……僕としては経験が広がって楽しみですけどね」

「今回の原告は、被告に対し、契約の強制履行を求めている。つまり、原告の債権を魔法に基づいて強制的に実現させる。それが訴えの内容だ」

 “債権”とは、人に対する法的な権利のことをいう。物に対する権利である“物権”と対比された概念だ。債権を持つ者すなわち債権者に対して果たすべき義務という方向から見れば、それは“債務”と呼ぶ。

 そして債権または債務の関係は、基本的には“契約”、つまりは人と人との合意から生ずる。

 債権、債務といえば、金銭的なやりとりを連想する者も多かろう。確かに金銭を払わせる債権、払う債務、というのは一つの典型例ではあるが、しかし債権債務の内容はそれに限られない。

 たとえば、物を修理してもらう約束──つまりこれが契約だ──を結んだ二人がいれば、注文者が“物を直してもらう権利”を有する債権者であり、請負人が“物を直す義務”を有する債務者となる。

 もちろん、ここで代金を支払う約束もされたならば、注文者が金銭を支払うべき債務者であり、請負人が金銭を受け取ることのできる債権者、という構図も同時に生じている。

「“シグネット”。覚えているか」

 唐突に、レーアが試すように問うた。中空を見上げながら、ネイトは答える。

「ええ、もちろん。えっと……、人が他人に対して、魔法によって課せられた義務を負うときに、刻まれる呪印、ですよね」

「ちょうど、罪を負えばスティグマを刻まれるのと同じようにな」

「シグネット、人の体に……、たしか、青白く光って見えるんでしたよね」

 スティグマ同様、シグネットもまた法官だけが見ることができるものだ。だから、ネイトはやはり見たことがない。

 レーアは頷きながら、

「シグネットの刻まれた者の瞳を覗けば、法官は、裁判に必要な一切の事情を認識することができる」

「その事情に応じて執行、というわけですね。そうそう、前から疑問だったんですけど……スティグマと違って、シグネットってけっこう誰にでもつきますよね? 物を買ったけどまだお金を払っていないときとか。あと、雇われている労働者にとっては毎日仕事をしなきゃいけないってことも債務だから、いつもシグネットがつきっぱなしなんじゃないですか?」

「そう。臣民は魔法の下で何かしらのシグネットを負っているのが常」

「ということは、法官は会う人会う人、しょっちゅうシグネットが見えているんですか? なんだか、見えすぎて困りません? 債務者の人に会っても、訴えに関係するシグネットを負っているのか、すぐ識別できるものなんですか?」

「ネイトの言うとおり、すべてのシグネットが見えるのは無意味だし、邪魔だ。だから、私たちの目には普段、いわばフィルターがかけられている。自分以外のシグネットは見えないようになっているんだ。ここがスティグマと大きく違うところだな。だが、ある条件を満たすと、特定の人物のシグネットだけは見ることができるようになる」

「ある条件……。ああ、わかった。訴えが起こされること、ですね?」

 レーアが頷く。

「法院の書記法官が訴状を受理すると、そこに呪印を施す。すると、配当先の法官のフィルターを一部のみ外す魔法効果が発動する。その結果、法官は、訴えられた被告をはじめとして、訴えの関係当事者のシグネットだけは見ることができるようになる」

 レーアは訴状のスクロールを懐から出し、広げてみせた。なるほど、確かにスクロールの下方に青白く煌めく小さな式陣がある。これが、レーアが持つシグネット目視の権能を解放するための魔法効果を持っているのだろう。

「訴状というものの目的はほぼこれに尽きる。見てのとおり、ここには原告の主張が長々と書いてあるが、こんなものはせいぜい参考程度にすぎない。嘘を書いている可能性もあるからな。どうせ私たちにとっては、被告のシグネットを覗けば真実がわかる」

 ただ、とレーアは言い置いて、訴状の上の方に目をやった。

「名前だけはネイトにも伝えておくか。原告債権者はロンク・ルーベンス。被告債務者はミアラ・フォレスト」

「名前の響きからして、どちらも辺境出身という感じがします」

 片眉を上げながら顎に手を当て、

「ロンク・ルーベンス……ルーベンス……ああ、聞いたことがあります! この人、ノウェイラ人ですよ。あ、でも帝国に併合された北ノウェイラの人だから、“元”ノウェイラ人、が正しいですね」

「有名なのか」

「陪席人形兵の装備の調達事業を落札し続けている、ツァオバラーっていう大手企業の経営者です。辺境出身であるにもかかわらず、莫大な財産と地位を短期間の間に築きあげたんですよ。しかも、まだ二十代なんですって」

 へえ、とレーアは関心の薄そうな相槌を打った。

「そうだな、ネイトも凄いと思うぞ。なんというか……相変わらず、四方八方に好奇心をまき散らせて」

「なんですかそれ。世情に明るいとか言ってくださいよ」

 苦笑いを浮かべるネイトに構わず、レーアは淡々と続ける。

「今回の訴えでは、原告は請負契約の履行を求めている。契約では、技術者である被告ミアラが、陪席人形兵の新しい部品を開発して、そのテスト用を期日までに納品するはずだった」

「でも、納品はされなかった、と」

「そう。既に期日を一箇月以上は過ぎた。そればかりか、原告ルーベンスの前に姿も現さなくなった。そこで原告は、自らの債権に基づき、魔法による強制履行で被告に納品させるよう求めた」

「どちらも辺境出身、か。ルーベンスさんは例外としても、辺境出身の臣民のほとんどは、まだまだ経済的な豊かさとはほど遠いんですよね」

 ネイトの関心は被告債務者の方へと移り、その表情は暗くなった。

「ミアラさんも、そうなのかな。たとえば、不当に安い報酬で、それも過酷な条件で受注したけれど、生活のために引き受けざるを得なかった。でも結局はできなくて、逃げ出した、とか。だとすれば、当事者のどちらも同じく帝国に併合された国の人なのに、明暗が分かれているというか……」

「事情はすべてシグネットが見せてくれる。法官はそれに従って魔法を執行するだけだ」

「確かに、そうですけど。でも気になっちゃいませんか? こうして魔法の下に争いをしている二人には、いったいどんな背景があるんだろうって」

「余計な感情移入は避けたほうがいい。仇になる。たとえ一方当事者がどんなに哀れだったとしても、法官は公正にシグネットを見るしかない」

「……それは、そうですね」

 冷然としたレーアの表情からは、今回の事件について不安を感じているような顔色などまったく見えない。プロとはこういうものなのだろうか。

 いつか自分も、この人のようになれるだろうか。

 いや、ならなければならないのだ。

 そして、いつかは故国ノウェイラを──。


 それからいくつか汽車を乗り継ぎ、およそ一時間かけて目的地へと向かった。

 最寄りの駅から降り、再び街を歩く。しばらく歩いていると、同じ帝都ヴェルアレスの中であっても、レーアの公邸である廃図書館がある中心市街地近辺とは随分と異なる街並みだということに気が付いた。

 まず、連なる家々の高さが計画的に統一されている様子がうかがえず、ばらばらだ。家屋の構造も、木、鉄骨、コンクリート、簡素なプレハブと多種多様だし、その施工の巧拙にもばらつきが見られる。敷地の中も、立派な外構を備えたものから、植木の一本も植えられず庭土が剥き出しのものまで様々だ。

 道路は舗装されているが、美観を重視した石畳などではない。単純なコンクリート舗装で、路肩にはひびも多い。その上を歩く臣民たちの身なりも中心市街地とは違う。スーツを着込み、ネクタイを締めた人間はずっと少なくなり、ツナギ姿の現場系の人間が多く見られるようになった。

 子供たちが三人、向こうから走ってくる。きゃあきゃあと声を上げながらお互いに水鉄砲を撃ち合って遊んでいる。彼らが走り去っていくのを微笑ましく見送った。

 その直後、建物の間の路地に何かがあることに気がついた。その陰をよく注視してみると、人の姿が見える。禿頭の若い男がへたり込んでいる。目が据わっていて、何かをぶつぶつと呟き続けていた。薬か。いや、薬ならばすぐに法官に裁かれ常習者にはならないはず。では酒か。それとも精神を病んでいるのか。ともあれ、なるほど、ここはこういうタイプの手合いも安住しうる一帯ということなのだろう。

 およそ中流から、言葉は悪いが下流まで、といったところか。

 今回の民事訴訟の被告、ミアラ・フォレストの家はどうであったか。

 五十平方メートルくらいの、小さな木造の平家建てだった。

 やはり裕福な家庭がそこにあるようには見えない。モルタルを塗った外壁はひびも多く傷みが進み、オレンジ色の瓦も何枚か剥落したまま修繕されず放置されている。築何十年も経った中古の居宅を、北ノウェイラが併合されて移住してきた折に買い受けたのだろう。

 錆びついた鋼製のドアの前に立つ。ベルを探したが見当たらず、ドアを叩いて呼ぶことにした。

「こんにちはー」

 反応はない。ネイトは一つ咳払いして、

「こんにちはー! フォレストさーん! いらっしゃいますかー!」

 変わらず、反応はない。

「ネイト、」とレーアに小さく呼びかけられると同時、袖を指先でつままれた。

 レーアを見ると、その視線はある一点を見つめていた。視線を追うと、

「あ」

 家の窓が数センチだけ小さく開いて、そこから一つの三白眼が、こちらを見ていた。

 目が合った、と思ったのも束の間、窓はぱしんと音を立てて閉じられてしまう。一瞬見えた家の主の姿は、擦りガラスの向こうに消えてしまった。

 歩みが床を軋ませる音が少しした。

 それから鋼製のドアが、きい、と泣くような音を立てて開いた。

 だが、ドアはやはり数センチしか開けられず、その暗い隙間からでは家の主の姿も見ることはできなかった。

「だれ」

 ドアの隙間から人の声がした。技術者というイメージからは幾分遠い、若い女の声だ。

 レーアと、言葉ではなく視線だけを交わす。ネイトは、任せてください、というつもりで力強く一回頷いた。レーアは特に反応を示さず、ドアの方に目を戻す。これは肯定してくれたということだろう。ネイトはできるだけ声を高くして話しかけた。

「こちら、第五高等法院所属のレーア・ゼーゼベルケ判事正です。僕はその弟子のネイト・クーヒェラル」

「……なに? 法官ってこと?」

「そうです。あなたは、フォレストさん……ですよね?」

「消えて。法官とは会わない」

 明確な拒絶の意思表示だった。

 法官と会いたがらない人間は珍しくはない。スティグマやシグネットを見られてしまえば、最終的には一切の抵抗の余地もなく魔法の執行を受けるのだから。仮にそうでないとしても、帝国に併合されてから歴史が浅い国家の臣民──つまり辺境地域の出身者であれば、未だに帝国の官吏に反抗心を持つ者も少なくはない。法官は、帝国の圧倒的かつ一方的な支配の象徴でもある。

「そうはいかない」ここでレーアも口を開く。「執行魔法は、法官に受任事件の被告との強制接見の権限を与えている。姿を見せろ。さもなくば──」

「まあまあ、レーアさん」

 ネイトはレーアを制止して、いったんドアから後ろに距離を取った。

「姿を見なければシグネットも見ようがない。執行できないんだぞ」

 苛立ちを見せるレーアに、ネイトはあくまで制止をかける。

「わかってます。でも、ちょっと待ってください。執行する前に、債務を自分で履行するよう説得してみた方がいいと思いませんか?」

「説得?」

 その反応は、理解できない外国語でも聞いたかのようなものだった。

「そう。法官が魔法の力で強制的に履行させたんじゃ、やっぱり遺恨を残しますし」

「今更、誰から恨まれようと構うものか」

「僕は構います。レーアさんは、恨まれるよりも感謝されたり尊敬されたりする対象でいてほしいですから」

「そんなことのために法官をやっているわけじゃない。大きなお世話だ」

「魔法の秩序がこの街に浸透するためには、こういうアプローチもいいと思うんです」

 赤い瞳が半目に伏せられ、ネイトをしばらく見つめた。

 そののち、レーアは大きなため息をつくとともに、両肩を上下させる。それ以上、特に反論は呈されなかった。もう勝手にしろ、とでも言いたげだ。

「大丈夫、僕に任せて」

 師匠の無言の承諾も得て満足したところで、ネイトは再びドアの隙間に近づく。いまだ姿を見せない被告へと話しかけた。

「あの、法官って言ったけど、実は法官はこちらのレーア・ゼーゼベルケの方だけです。僕は法官じゃないんです。法官に会いたくないなら、まず僕とお話しませんか」

「あなたたちと話すことなんてなんにもないわ。傲慢な帝国人ども」

 帝国人、という言い回しもたまに聞く。

 ヴェルヘイル帝国の臣民という意味では、彼女も帝国人だ。だがこの場合の帝国人という言い方は、一方的に母国を併合され、臣民とされた者が、帝国の従来の臣民に対して非難するときの呼び方だろう。

 しかし、ネイトもこの程度の反発で臆するような人間ではない。

「フォレストさん。確かに僕も臣民ですけど、ほんの数年前まではノウェイラ人だったんです。だから、フォレストさんの話もわかってあげられると思います」

「ノウェイラ人、ですって?」抉るような疑念の声。「南? それとも北?」

「南部の出身です。リイドの生まれです」

「ノウェイラの、南部……」

 ミアラの声色が明らかに変わった。ネイトの出身地にどうやら思うところがあるらしかった。もっともそれが、対話の途を開くにあたって吉と出たか凶と出たかはわからない。

 ここで強制的な手段にわたることなくネイトがミアラを説得することができればしめたもの。レーアに、弟子の力をアピールすることもできようというものだ。ネイトはさらにもう一押しすることにした。

「僕だったら、あなたの状況も他の人よりはわかるんじゃないかなって思うんです。どうでしょう? ちょっとだけ、お話してみませんか?」

 再び、返事は途絶える。

 沈黙は、随分と長かった。

 やはり駄目なのだろうか。

 レーアは目を据わらせ、右手を何度か開閉して準備運動をしている。このまま反応のない状況が続けば強引にでも執行するつもりなのか。もちろん最終手段としてはそれしかない。しかしそれでも、話ができるのであれば話をすることから始めたいのだが。

 あるいは、レーアが強制的にでもミアラと接見するのも、説得の入口としてはあり得るのだろうか、とも悩み始める。いったんシグネットを見てしまいさえすれば、裁判に必要な全事情が明らかになる。ここから説得がしやすくなるということもあるだろう。

 いやいや。そうはいえども、法官に会うこと自体を拒否しているミアラに無理やり接見すれば、少なくともその時点でミアラの意思を抑圧していることに違いはない。そうすれば、やはりレーアは非難されるだろう。

 むむむ、と眉を逆八の字にして考え込む。

 法官が非難され恨まれるのは、法官の使命に照らしてやむを得ない。

 それでも法官は、感謝され、尊敬される人物であってほしい。

 いや、違うか。法官というより、もしかすればレーアだからこそ、できるだけ多くの人から愛されてほしいと思うのかもしれない。

 ああ、これは私情を法務に持ち込んでいるのかもしれない。いや、それでも……。

「──話しても、いいわ」

 やがて、ネイトの懊悩と祈りとが通じたのか。

「ネイトさんとだけなら、話してもいい」

 きい、という甲高い音とともに、ドアが再び開かれた。


 中は、薄暗かった。

 昼前だというのに窓という窓のカーテンを閉めきっている。もっとも、カーテンは日の光をある程度透過するタイプのもので、日光がうっすらと部屋の足元を照らしてくれはした。

 天井からぶら下がっている電灯は、今はつけられていない。小さなテーブル、重ねられたノート、綺麗にたたまれて積まれた衣服、その上にたくさん置かれた医薬品のビン。本棚には、技術者らしく工学系の本がぎっしりと詰め込まれている。

 狭さを感じる部屋ではあるが、その中にあって、多くの物が秩序だって整理されていた。

「適当に」

 か細い声でそう言って、ミアラ・フォレストはベッドの端に腰かけた。

 適当に座ってくれということだと解釈して、ネイトは言うとおりにした。小さなテーブルを挟んでミアラと直角の位置になるように、カーペットに腰を下ろす。

 幽かな人、とでもいうのだろうか。それが、ミアラを見た最初の印象だ。

 この暗さで色合いや柄は判然としないが、おそらくは白い色のワンピースを着ていて、その上にニット地の上着を袖を通さず羽織っている。垂れた前髪に目元は隠れ、この暗さも相まって表情はうかがえない。

 年齢を推し量るに、おそらくは二十前後、といったところだろうか。レーアと同じくらいの歳だろう。

 カーテン越しの光が彼女の後頭部をとりわけ明るく照らしている。首下ほどまで伸ばしたそのボブヘアは、毛先の方ほど癖がついて波打っていた。濡れたような艶めきを帯びた、紺色の髪だ。

「あ、」その髪の色に気がついたとき、ネイトは思わず声を上げた。

「あなたも……ノウェイラの、人?」

「わかるのね」

「その髪の色の人、ノウェイラに多いですから」

 彼女をはじめとした暗色系の髪はノウェイラ人には多い。そして、ノウェイラ人で紺色の髪とくれば、ノウェイラの中部から北部にかけての人間と相場は決まっている。

 いや、ノウェイラ中部から北部というのは不適当な表現か。そこはもう皇領、帝国の一部なのだから。

「ずいぶんと準備がいいのねぇ、ネイトさん」

 逆光で暗くなった彼女の表情を読み取るのは難しかったが、目をわずかに細めたのはわかる。声色も、かすかに微笑むような調子だ。

 だが、そこに滲ませている感情は、同胞に対する親しみではなかった。

 もっと別の、黒い何かだ。

「準備、ですか?」

「六年前、ノウェイラの北側は帝国に併合されたけど、南側は独立を保ったわ。それでもあなたはわざわざ自分から臣民になって、帝国の法官の仕事を手伝ってるんでしょう? いずれ南も併合されると思ってるから、今のうちから取り入ろうって魂胆よね? 準備、いいじゃない」

 ミアラがまとうか弱げな雰囲気とは裏腹に、それは冷厳な物言いだった。

 要するに、裏切り者、と罵声を浴びせたいのだ。

 違う。

 僕はノウェイラを裏切ったんじゃない。

 ノウェイラに、裏切られたんだ。

 反駁の叫びが喉まで出かかったが、呑みこむ。彼女にかけるための別の言葉を内心で探すうち、悲しみとか哀れみがないまぜになって、自然と苦笑するような表情になった。

「帝国を、恨んでいるんですね」

「当たり前でしょう。あなたは違うみたいだけれど」

 いくらか口調を厳しくして、ミアラは続ける。

「私はね、あなたに教えてほしくてこうして話してるの。どうして帝国と、それも法官なんかと同じ空気が吸えるのか。あいつらは魔法を一方的に私たちに押しつけてきた。私の生まれ育った町は焼かれてしまった。南部出身者だって大勢死んだはずなのに、あなたは平気でいられるの?」

 ミアラはそこまで言い切ったところで、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。だが、彼女はまだ言い足りない様子だ。ネイトは沈黙を守ることで、次の言葉を促す。

「父はね、ノウェイラ軍の兵士だった。母さんが妹を生んですぐに死んでしまったから、私たちを男手一つで育てた。最後はここにいる侵略者どもと闇雲に戦って、無様に死んだわ」

 小物を入れる棚の上に、写真が立てかけてあるのが見えた。にこやかに笑う軍服の男と、彼に肩を組まれて二人の少女があどけない笑顔を見せている。

「無惨な死に方だった。父は売られたのよ。味方の士官で、しかも古くからの友人だったはずの男から、父のいる部隊の居場所を帝国に渡された。そこに法官が来て……。最期は、人の形すら留めてなかったって聞いた。人として真っ当な死に方もできなかったのよ」

 味方と思っていた者から裏切られる──ノウェイラではよくある話だ。

 当時のノウェイラは、国論が真っ二つに割れていた。あくまで独立を護持しようとする保守派。逆に、ヴェルヘイル帝国の併合を受け入れ、魔法による秩序を享受しようとする和平派ないし親帝国派。

 ノウェイラは、民主政の国家だ。多様な意見や価値観を討論という形で衝突させ、止揚を積み重ねた上で国としての意思決定を下す。その大きな利益の一つは、自らの意見が国家意思の決定過程において加味された、という“擬制”が可能なところ──要するに自己決定という理念を国民の間において最大限確保することができる点にある。

 ──と、されてきた。少なくとも、ノウェイラにいた時に読まされた教科書では。

 現実は、そうではなかった。少なくともノウェイラでは、民主政の善の面は機能していなかった。

 政党の間で繰り広げられるのは、言論ばかりではなく、暴力の応酬でもあった。異なる意見の国民同士で抗争する社会でもあった。官僚の腐敗が多く報じられる中、大統領府は求心力を失っていった。省庁ごとに帝国に対する態度が硬軟真逆に異なる始末でさえあった。

 親帝国派が我先に帝国で良き地位、良き待遇を得ようと、保守派の政治家や軍事機密を帝国に売りつける──そうした事件は、六年前の休戦協定が締結される直前には日常的に見られたと聞いている。

「ひとつ、聞いてもいいですか」重い空気を破って、ネイトは口を開いた。「帰りたい、ですか。ノウェイラに」

「帰りたいわ。当然よ」

 ミアラは即答した。

「でも、帰れない。私の生まれ育った町はもうないし、ノウェイラの南側の残地は帝国の敵。自由に行き来なんてできないわ。私には妹もいるし、嫌でもここでやっていくしかない」

 帰りたい、か。

 そうか、帰りたいのか。ノウェイラに。

「フォレストさんは……ノウェイラで、幸せだったんですね」

 フォレスト一家の写真を見つめながら、柔和な笑みを浮かべて言った。

「幸せだった、ですって?」ミアラが険を深くする。「どういう意味」

 ネイトは一度目を閉じた。瞼の裏に、過去を描く。

「あなたは言いましたね。僕が、“南”が併合されることを見込んで、法官に取り入ろうとしてるって。まったく外れてはいないけど、でも正確じゃない」

 青紫色の瞳をもってミアラの目をまっすぐ見つめ、そして言った。

「僕は、ノウェイラを消したい。法官になって、ノウェイラという国を滅ぼしたいんです」

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