第二章 光と陰

第一節

***

私律ノ魔法

第二編

 (履行の強制)

第三九条

 債務者が任意にその債務を履行しないときは、債権者は、法官による魔法の執行を通してのみ、履行の強制をすることができる。

***


 ──おばあさんはアリーに言いました。「でも、夫を待つのはもうやめるわ。海の向こうからはもう何も帰ってこないと、本当はわかっていました。この畑の土ももはや死に、私ももう、土に帰ろうとしているの」──

 物語を紡ぐ、優しい声が聞こえた。

 いつだったか。

 どこだったか。

 自分はベッドの上にいた。ひんやりとしたシーツの冷たさと、ふわふわの羽毛とに挟まれて、なんとも言えない心地よさを全身に感じていた。

 見上げる天井には、ランプの光に照らされて、形のない橙色がゆらゆらと踊っている。

 ベッドの中から首だけを動かして、その声の主に目をやった。ベッドのすぐそばに置いた木の椅子に腰掛けた、一人の女性の姿がある。よく梳いたように流れる美しい銀髪だった。

 長い銀色の睫毛を伏せて、彼女は開いた本に目を落としていた。

 ──夜が明けました。窓から外を見たおばあさんは、驚きのあまり家から飛び出しました。そこには麦畑が、金色の海のように広がっていました。それだけではありません。おばあさんはそのすてきな海の向こうから、ずっと待っていた愛しい人が歩いてくるのを見つけました。おばあさんは、泣きながら、麦をかきわけ走っていきました──

 彼女はこちらの視線に気がついたようだった。彼女の瞳は本を離れ、その深い輝きをもってこちらを見た。

 宝石のような紅い目だった。

 自分だろうか、と思った。でも、自分ではない。

 彼女の口元が優しく微笑む。自分にはこんな穏やかな表情など作れはしない。

 ──それはもちろん、アリーのまほうでした。でも、アリーはまほうを使ったことをおばあさんに打ち明けようとは思いませんでした。アリーは黙って、その場を後にしました──

 彼女は物語の最後の段を読み上げると、そっと本を閉じた。それから身をベッドにのりだして、手を頭に載せてきた。

 おねえちゃん、と。

 自分の口が、そう動く。

 ──ねえ、おねえちゃんもまほうが使えるんでしょ。アリーみたいに──

 ──あなたにも、まほうが使えるようになるわ──

 ──わたしも?──

 ──もちろんよ。まほうが使えるようになったら、たくさんの人たちをたすけてあげてね──

 うん、

 と、そう答えたかどうかは、わからない。

 瞼を閉じて、闇が訪れた。

 頬に手が触れ、ぬくもりを感じた。そのぬくもりは全身に広がっていった。まるで親鳥に温められた卵の中にいるようだった。自分は生まれ変わろうとしているのかもしれない。お話に出てきたあのまほうつかいに、ついになれるのかもしれない。

 だが、そのぬくもりはやがて熱さを増していき、やがて、全身を切りつけるような痛みを伴う熱へと変わった。

 はっとして目を覚ませば、周囲は炎に囲まれていた。

 崩れていく家屋。転がる死体。ぱちぱちと木材が焼け落ちる音がけたたましい。強烈な焦げた匂いが鼻を突く。

 五メートルほど先に、火炎を逆光にして、黒い影が見えた。吹き付ける熱風に瞼を閉じそうになりながらも、なんとかこじ開けて、それをよく見ようとした。

 それは、人影だった。男のようだ。身の丈二メートルには及ぼうかという巨躯。こちらに斜めに背を向けている。

 火に照らされた顔は、上下の歯を剝き出しにして砕かんばかりに食いしばっている。

 彼は、丸太のような太い腕を左右とも天高く上げて、何かを持っていた。彼が唸りながら力んでいるのは、その両手に目一杯の力を込めて、その何かを掴んでいるからのようだ。周囲の炎と相まって、まるで天に供物を捧げようとする儀式のようだった。

 だが、その供物は、動いていた。生きて、あがいていた。

 なんだ?

 心臓が早鐘を打つ。

 それは、なんだ?

 自分は知っている。忘れたくても、覚えている。

 ──あああ、うう、がっ、がは……あああ……!──

 それは、首を絞められている、人間。

 白目を剥き、口角から泡を垂らして喘ぐ、その女性は、

 ──姉さんッ!──

 巨体の男の猛獣のように釣り上がった目尻の間から、瞳がこちらを見た。

 ──できないわけはないな、フォイエルバッハ! 法官どもが魔法の力で監獄に転移させた、オレたちの仲間! 貴様の力ならこの場ですぐに呼び戻せる! 知っているぞ!──

 男の瞳が突き刺していたのは、自分ではなかった。自分の隣にいる男。

 先生。

 ──選べッ! オレたちの言うとおり、仲間を解放するか! それとも、この女の首がへし折られるのをそこからただ眺めているかだッ!──

 恐怖で脚が震え、立つことさえできなかった。ただ、叫んだ。声を何度も裏返しながら、必死に叫んでいた。自分の隣で、耐えるように沈黙を守っているその人物に向かって。

 ──先生お願いです! 言われたとおりにして! でないと! 姉さんが! 姉さんがッ!──

 先生は何も喋ろうとしない。太ももの脇で拳を震わせ、下唇を噛んで、ただそれだけだ。

 ──三つだ! いいか、三つ数える間に決めろ! 三ッ!──

 男の指にますます力がこもるのがわかる。男の手を引きはがそうとしていた女性の腕はだらんと落ちた。口の端からは泡を吹き、身体はびくびくと痙攣を始めた。

 ──いやぁぁっ! 先生早く! 早く解放して! 姉さんが死んでしまうッ!──

 ──二ィ!──

 先生は──自分たち姉妹の師匠は、何もしない。ただ立ち尽くしているだけだ。なぜ。どうして。

 先生の口元が動くのが見える。炎が轟々と燃える音で、言葉は聞き取れなかった。だが、なんと言ったかは口の形でわかった。彼は、こう言ったのだ。

 リーベ、

 すまない。

 ──……ふざ、け、──

 ふざけるな。

 いったい何のつもりだ。おまえだけが姉さんを救える。ほかの誰にもできない。それなのに。目の前でおまえの恋人が死のうとしているのに、いったい何だというのだ。

 ──……アムゼル・フォイエルバッハ!──

 叫ぶ。

 ── 一ッ!──

 最後のカウント。

 ──姉さんを助けろ! でないと私はッ! おまえを……おまえをッ……!──


「……アさん!」


 ねえ、先生。私は、ちゃんと覚えておくから。

 あなたはあの時、その場にいたんだ。

 ただ何もせずに、見ていたんだ。


「レーアさん! レーアさんってば!」


 弾かれたようにレーアが瞼を開いたとき、まず知覚したのは、荒い呼吸を繰り返す自分と、それに応じて胸が上下している様だった。

 次に、ゆっくりと目の焦点が、自分の顔を覗き込むネイトの不安げな青紫色の瞳に合っていった。

「大丈夫ですか!? 凄くうなされてたんですよ!」

 ネイトは両手をレーアの両の二の腕に置いたまま言った。目を覚ますまで揺さぶっていたのだろう。

「起きれますか」

 ゆっくりと上体を起こす。体中にシャツが貼りついて気持ちが悪い。脚を少し動かしただけで掛けシーツが不快にまとわりつく。

「……起き、た」

「うん、そうですね」ネイトが困ったように笑う。「大丈夫ですか?」

 少し、頭が重いか。片手で顔の半面を覆った。指の間から銀の前髪が漏れ落ちる。

 最低の気分だ。

「昨晩みたいに先生が来るとこうして翌朝まで調子を狂わされるんだよ。私はそういう特異体質でな。いいか? 今度から先生が飲みに来ても、中に入れるな、口を利くな、おまえが追い払え」

 ネイトに突きつけた人差し指を、言葉に合わせて三度振って、厳命する。

 ネイトは目を丸くしたが、すぐにくすりと笑みを零した。そして右の拳を胸に当てて瞑目し、「魔法に基づく義務ならば」とおどけてきた。

 レーアは、チッと舌打ちして、陽光差し込む窓の外へと視線を逃がす。

「あは。それだけ悪態がつけるようなら、元気はあるってことですよね」

 良かった、と笑うネイトと、しかしまだ目を合わせてはやらず。

「いったい何の用? ああ……手紙なんて、もういらないから」

「ああ、ええ」昨日の事件を思い出してばつを悪くしたのか、ネイトは曖昧な返事をした。

 彼は自分のバッグから一つのスクロール巻物を取り出し、

「訴状です。民事事件で、第五高等法院に訴えが提起されたんです。それで、事件はレーアさんに配当されました」

 重い頭を引きずるようにネイトの方に向けてから、スクロールを受け取る。丸められたそれを、平たく戻す。

 確かに、これは訴状だ。

 上質の紙にタイプされた活字をざっと追ってみた。請求の趣旨は、魔法に基づき、ある請負契約を強制履行させること。続いて請求の原因がつらつらと書いてある。最後に、レーア・ゼーゼベルケ判事正にこの事件を配当する旨が記され、第五高等法院の担当官のサインがあった。

 そしてそのサインの末尾に、小さく青白い円状の式陣が描かれている。この訴状自体が、とある魔法効果を付与されている証だ。

 民事か。

 ──とにかく、お前の死刑相当事件の配当率はこのまま下げておく。民事の配当率は上げるからな。その中で、ネイトの面倒を見てやってくれ──

 こうしてこれから配当される事件という事件が、全てはフォイエルバッハの采配によるものなのかもと連想すると、たちまち不愉快さがこみあげてくるものだ。

「もう用は済んだだろう。出ていけ」

「僕はいつでも出発できるように準備できていますから。朝食も用意してあります。ゆっくり降りてきてくださいね」

 酷い寝覚めのこの不快感を剥き出しにして、ありったけ邪見にしてやった、というのに。

 この少年は結局最後まで屈託のない笑顔を見せたまま、ドアの向こうに消えていった。

 それがどうにも悔しくて、自分のことも恥ずかしくなった。

「おまえは私の、なんなんだ」

 手近なメモ用紙を丸めて、ネイトの消えたドアに投げつける。


 ──ただ、ネイトには感謝しなければならない。それもわかってはいる。

 もう少しあの悪夢が続けば、愛しい姉の頸椎が砕ける音を、再び耳にするところだったのだから。

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