第四節


 レーアは予感していた。なんとなくではあったが、この男は今日来るのではないか、と。

 アムゼル・フォイエルバッハ。

 最高法院が擁する七名の大法官のうちの一人。民事、刑事、行政事件と幅広い魔法の運用に精通していることは、法官の最高位たる者としては理の当然として、彼はとりわけ外務に注力してきたことで知られている。ノウェイラとの戦争にあっては、六年前に休戦協定が結ばれる直前、レーアをはじめとした法官から成る部隊を統率し、直接ノウェイラ軍と対峙した。大法官の中でもとりわけ武人としての顔を色濃く持つ男だ。

 レーアの師匠でもある。

「うまいな。上質のネウェカン・グレープだ。懐かしい味がする。まだネウェカが帝国に併合されず、自由気ままなネウェカだった頃の」

 だが、しゃがれた声と共に大きく息をつく今の彼からは、その肩書きから想像されるような厳かさとはやや遠い姿だった。

 彼は、真っ二つにしたケヤキの大木の断面を磨いて作られたテーブルに片肘をつきながら、背を丸めて座っていた。

 暗い緑色のトレンチコートを着ている。前は留めておらず、黒のスーツにグレーのネクタイが覗いていた。

 ランプの灯に、細い目尻のしわが浮かび上がる。黄金色の瞳でグラスに入った紫色の液面を恋しげに見つめながら、ゆらゆらとそれを揺らしている。

 確か、今年で三十七歳のはず。だが、こうして酒を飲んでいるフォイエルバッハは、いつも実年齢よりいくらか老いて見える。生来の白銀である彼の髪も、加齢によって白んだもののようにさえ錯覚する。

「それって、そんなにおいしいんですか」

 テーブルの反対側にはネイトがいる。彼は両手にナイフとフォークをもって、行儀よく白身魚のムニエルを切っていた。

「ああ美味いとも。それにな、この夜空を拝みながら一杯やるには、ここに勝る場所はない」

 丸太のような筋肉のついたフォイエルバッハの腕が、塔のように天高く挙げられる。その先に握られたグラスの中で、いくつかの星々が葡萄酒に映って煌めいた。

 今やレーアの公邸の役割を果たしている廃図書館の、その屋上に三人はいる。

 この周辺は、建築統制魔法によって、一般臣民は比較的低層の建物しか建てられないよう規律されている。それゆえこの三階建ての建物は、このあたりでは最も高い建物になっている。星見酒と洒落こむには絶好の場所ではあるだろう。

「来るたびに長居されて大迷惑だ」

 冷たい言葉がネイトとフォイエルバッハの間を通り抜けていく。

 レーアの座っている位置は、ネイトやフォイエルバッハの所から三人分は空けたところだ。

「いいじゃないですかレーアさん。おかげで楽しいですし。毎回いろんな地域の材料持ってきていただけますから、僕も腕の振るい甲斐がありますし」

 おまえはいいヤツだなぁ、冷たいお師匠と違ってなぁ、とフォイエルバッハが太い腕でネイトの紫の髪をわしゃわしゃとやっている。それを尻目に、レーアは鼻を鳴らした。

 下らない話はしない。喋らない。そう決めていた。

 親睦を深める?

 必要がないことだ。

 師匠は師匠らしく魔法の知識だけを教授しろ。弟子は弟子らしく、育ち、役に立て。私が求めるのはそれだけだ。

 天を見仰ぐ。

 子供がガラスの瓶を思い切り振り回した後のような、満天の糠星がそこにある。

 グラスに口をつけた。ネイトが用意した、どこぞの地域のなんとかという紅茶だった。酒はあまり飲まない。

「まずい」

 星の広がりは、あらゆるものを矮小化してくれる気がする。自分も。自分の体験さえも。口の中に広がるこの苦みも。

 昼間、娘を失ったあの母親を処刑して。そこで味わった、些細だが不快な苦みも。

 この煌めきの無限の広がりに思いを致せば、何かが甘く、何かが苦いなどということは、全て同じ一本の線の上のことにすぎない。どうでもよいことなのだと、そう思える。

 そう考えるうち、おのずと自分が整っていく気がする。自らの思考が整序されてくる。

 自分のやるべきことを、動かぬただ一点の極星のように見据えられる。

「よしネイト、おまえもやるか。この銘酒、ネウェカン・グレープを!」

「え、僕ですか?」

 背後で再び馬鹿げたやりとりが始まって、レーアは苛立ちながら瞑目する。

「やめろ。ネイトの年齢では一口飲めばスティグマがつく。くだらない罪を私に裁かせるな」

 やだな、ちゃんとわかってますよ、とネイトが苦笑した。

「でも、そうしたらフォイエルバッハさんもスティグマがつくんじゃ。ええと、教唆で?」

「先生のはただの冗談。教唆する故意なんてない。今だって、未成年飲酒教唆のスティグマなんてついていない」

「え、そうなんですか。いや、でも僕が真に受けて飲んじゃったりしたら? 先生にも、冗談とはいえ過失があるってことになるんじゃ」

「過失による教唆でスティグマが現れる例はまれだ。おまえの過失が認定されるだけだ」

「ええ、じゃあ真に受けた僕だけが悪いことになるわけですかぁ?」

「なあなあ、魔法の話はやめにしようじゃないか」フォイエルバッハが赤らんだ顔の眉間にしわを刻みながら、片側の口角を呆れた風に吊り上げた。「もっとこう、楽しい話題が要るだろう。たとえば……」

「たとえば?」

 ネイトが身を乗りだす。もったいぶったフォイエルバッハの口調にまんまと乗せられてしまっているのは明らかだ。

 レーアは鼻から短く溜息をついた。

「どうなんだ。二人は。組んで、もう一年は経っただろう」

「はい! 一年経ちました!」

 ネイトが背筋を伸ばし、紺色のフラノ地ジャケットがぴんと張る。子犬のような笑顔で、しっぽでもついていたら全力で振っていそうだ。

「おかげさまで、レーアさんにはすごく勉強させてもらってます。もちろん、フォイエルバッハさんやテネンバウム魔法学院にもですけど。魔法の理論とか、現場の実務とか、どうしてもノウェイラではわからなかったことばかりですから。やっぱり、こちらに来てよかったって思います。楽しいことも多いし。苦しいことも、たくさんある、けど……」

 すぐにお得意の喋りの勢いが翳るのがわかる。

 レーアは肩肘をつき、手の甲に尖った顎を乗せて聞いていた。いま、ネイトがどんな顔をしているか、確認しなくてもわかる。また余計なことを言ってしまった、みたいな顔をして、こちらの様子を伺ってきているのだ。

 おおかた日中の件のことだろう。

 察するに、この少年の心中はこのようなところだろうか。

 苦しいのは裁きを実際に下すレーアさんの方だ。執行力の分与を受けておらず、スティグマを見ることすらできない自分が、苦しいなんて言うべきじゃない──と。

 気を遣って言いよどむくらいなら、最初から話さなければいいのに。

「ふむ。どうだ。お前たちの間にも、色々あるんじゃないか。その、当初の予測とは幾分か違った方向性の勉強となった体験が」

「当初の予測と、違った方向の、ですか?」

「ああ、色々とな」

「はあ、色々と?」

「あるだろう。いや、んん、ないのかもしれん。おれはあると信じたい。願望だ。ネイト、どうなんだ実際は。どうなんだ、レーア?」

 面倒だ。

「ネイト。悪いが、先生に追加の酒を持ってきてやってくれないか。先生、ネウェカがあったらネウェカでいいな。ネウェカがなければ、適当に持ってきてくれ」

 レーアは立ち上がりながら言うと、ネイトは従順に返事をして席を立ち、階段を降りていった。

 フォイエルバッハに背を向けるようにしてテーブルの縁に腰をかける。

 胸の中に巣食う苛立ちが多少は散るような気がして、長い銀髪を片手で払った。

「なんで来た」

「お前にとって、久しぶりの殺人事件の裁判だったはずだからな」

「魔法の話はよすんじゃないのか」

 背中に、フォイエルバッハがグラスに残った最後の酒をあおるのを感じた。

「……人殺しくらい、いくらでも裁いている。今更気を遣われることなんてない」

「あるさ」酔いを感じさせない、断言的な口調だった。「ノウェイラと休戦になった後のお前は、殺人事件ばかりを好んで受任してきた。罪人を処刑する仕事ばかりをな。それが原因で、戦争の時についた“法令順守の虐殺者”なんてふざけた二つ名が、ますます広まった。だからこそ、なんだよ。久しぶりに人を死刑に処したお前の様子が気になるのは」

「つまり、こういうことか。私の昔の仕事ぶりが危うかったから、今もそうなのではないかと」

 苛立ちが募り、言葉に手振りが伴う。

「私はただ魔法を執行していた。そして魔法の秩序をこの街に根付かせようとしていた。それだけだ。そのために、魔法に基づき死ぬと定められた人間を死なせている。それ以上でも以下でもない。先生は私に何の問題があるっていうんだ」

 フォイエルバッハは瞼を閉じて俯く。そして、否定するように首を横に振ってから、

「 “魔法に反する者”に復讐したい。そうだろ。その復讐を遂げている実感が欲しくて、罪人の処刑ばかりを引き受けている。それは……法官の使命感なんかじゃない。私怨というべきものだ」

「私がッ!」

 瞬間、頭に血が上って振り返る。フォイエルバッハの黄金色の両目は、空になったグラスを見下ろしていた。

 私怨。私怨! 私怨だと!

 私が単なる虐殺者だと、おまえまでそう言いたいのか。

 そう言おうとした。

 だが、やめた。

 別にそれは、間違ってはいない。

 なぜなら、時折、夢に見た。

 殺人をした息子を庇い、必死に情状酌量を求める母を退けて、息子を母の眼前で真っ二つにした時のことを。

 自分が心臓を貫いた罪人の亡骸を、その妻が咽び泣きながら何度も揺する様を。

 振るったブルーティゲ・シュペーアが罪人の首を刎ねた時、それをすぐ近くで見ていたまだ六歳にも満たない罪人の娘が、父の血を浴びながら泣き喚くのを。

 魔法に従い続け、処刑を繰り返し続け。

 いつしか法官の中で自分だけが、正義の体現者として尊崇の眼差しで見られることは、なくなっていった。

 無情で無慈悲で、陪席人形兵と同じように感情のない、法令のみを遵守する冷徹な虐殺者であると評されるようになった。

 だが。

「仮に百歩譲って、私が魔法に名を借りて虐殺でもしていたとしよう。では、なぜそうなったのか? 原因は? ……先生、あなたは知っているんだ。姉さんのあの時、その場にいたんだ。ただ何もせずに見ていたんだ。あなたにとやかく言われる筋合いがあるというのか。いったいどの口で私に説教できるんだ?」

 フォイエルバッハが立ち上がり、まっすぐこちらを見て言う。

「おれは償わない。悔いもしない。それをすれば、リーベを侮辱することになる。……だが、必要な手当を講じることはできる」

「なんの話だ」

「ネイトをお前に充てて、良かったと思っている」

「ネイトだと」

 唐突に出たその名に、レーアの思考は追いつかない。

「ノウェイラであの子と出会った時、あの子がお前を救うと思った。お前があの子を弟子として育てていくことが、お前の中に存在するべきバランスをうまく取り戻してくれるとな」

「知った風な口を」ハッ、と喉の奥で笑う。「いったいどういう理屈なんだ」

「理屈か。はは、確かに理屈らしい理屈はないんだよな。だが、予感はあった。そして、その予感はうまいこと的中したのではないか、とおれは睨んでいる」

 フォイエルバッハは、ゆっくりと右手を上げ、人差し指を立ててみせた。レーアが怪訝な顔をしても、フォイエルバッハは意味深な笑みを絶やさないばかりで、何も言おうとしない。

 不審に思いながら、彼が指さす上の方を見る。その、満天の星空を。

「お前も考えただろ。あの純真無垢な少年のことを。あいつに、何を教え込んでいこうかってな。法官の師匠として、都会の先輩として、あるいは女としてか……」

「もう帰れ。今すぐに」

 待てよ、とフォイエルバッハは両の手を広げて一笑してから、

「真面目な話、いくらお前が冷たくても、自分があいつの師匠としてどう振る舞うべきか、全く省みないわけじゃないだろう。違うか?」

 不愉快だった。

 言い当てられているからだ。

 結局、先ほどからこの星空を眺めていたところで、自分の中で整序されない引っかかりが残っているのは確かだった。

 フォイエルバッハの言うとおり、ネイトのことだ。

 ネイトは、故国ノウェイラの政争に巻き込まれて家族を失ったと聞いた。そして故国に絶望し、ヴェルヘイル帝国の魔法に正しさを見いだそうとして法官の道を志したのだ、と。

 魔法に、法官に、希望と理想を見出しているのだ。

 あの少年は、罪人の命を刈り取る自分の姿をどう見ているのだろうか。

 気には、なった。他人の目、というものが気になったことなど、今までにそれほどありはしなかったのに。

「要するに、いい傾向ということだ。お前は優秀だからな。そうして自省を経て、変わっていけるヤツだ」

「知った風な口を利くな」

「とにかく、お前の死刑相当事件の配当率はこのまま下げておく。民事の配当率は上げるからな。その中で、ネイトの面倒を見てやってくれ。それでいいよな、レーア」

「よくはない。だが大法官の官命には従わざるを得ないというのが官制魔法の定めだ」

「官命じゃないさ。“お願い”だよ、あくまでな。仲良くやれよ、と……おれが言いたいのは、とどのつまり、それだけだ。今日のところは、それだけ言いに来たわけだ」

 ふん、とレーアは腕を組み、俯く。

「結局私は、こうして先生の掌の上で転がされるのか」

 その時、階下から、木戸が開き、そして閉じる軋んだ音。続いて足音が聞こえた。「お、戻ってきたか」と、さらなる酒に与れるフォイエルバッハは嬉しそうだ。

「仮におれがお前を転がしているとして、だ。それでお前たちの話もうまく転がって進展があるなら、万々歳だろう。違うか。違うまい」

 楽しげな口調で語るフォイエルバッハに、しかしレーアは見当がつかず眉間のしわを深くした。

 ネイトの足音が近づいてくる。フォイエルバッハはその方向をちらりと確認してから、口元をレーアの耳に近づけて、

「いいか、よく聞け。ネイトはお前に惚れている。あとは、お前次第じゃないか?」

「は?」

 いよいよレーアは目を見開き、絶句した。

 いったいこの男は、何を言っているのだろう。

 やはり彼の話は、非論理的で、理解不能で、意味不明。最高法院の一翼を担う大法官らしからぬ言動。

 実は、意外と泥酔してしまっているのではないだろうか。ネイトに追加の酒を持ってこさせて、さっさと酔い潰してしまおうと思ったが、いっそご帰宅願った方がよかったか。

 顔が一気に熱くなるのを感じた。なんだろうか、この反応は。自分自身がよくわからない。怒りのあまり頭に一気に血が上ったのだろうか。きっとそうだ。そうに違いない。

「なぁんてな」と、フォイエルバッハはのけぞりながら笑うときた。

「おいおい、そんな顔をするなよ。おれの言葉を真に受けるなと言ったのはお前自身じゃないか。いつもの冗談と思ってくれればそれまでだろう。それとも何か、心当たりアリなのか」

「あなたに依然としてスティグマがつかないのが残念だよ先生。“わけのわからないことを言って他人を不愉快にする罪”が魔法に定まっていれば、すぐに刑に処してやるのに!」

 拳を握って憤慨するレーアに対し、フォイルバッハはおどけて肩をすくめるだけだった。そのような態度に対し、さらに物申そうとした矢先だった。階下から屋上へ、ひょっこりと紫色の頭が現れた。続いて現れたのは、満面の笑顔を浮かべた童顔と、手に掲げられた三本の酒瓶だ。

「いやあ、遅くなりました。ネウェカ切れちゃってまして、他に何がいいのかなって探しててー」

「遅い! なんでこういう時に限って、首を突っ込んでこない!」

 ネイトは、彼にとってみれば理不尽な叱責に目をしばたくばかりだ。

 夜空に、フォイエルバッハの大笑いが響き渡る。

 まったく不愉快だ。

 こういう手合いを捌くだけの技量をレーアは育んではこなかった。だから今は、せいぜい腕を組んで二人に背を向け、思い切り拗ねた態度を見せつけるくらいが関の山。

 だが、あまりの不愉快さに、夕方の処刑の際から感じていた胸のつかえもすっかりと洗い流されていたことに気がつくのには、そう時間はかからなかった。

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