第三節

 翌日は、休日だった。臣民は、客商売でもなければ仕事を忘れることができ、学徒もまた、学びの筆を置いて短い青春を謳歌する。

 太陽が中天を過ぎ、いざ傾ごうという時分、既に昼食を済ませたネイトは白いワイシャツの上にカーキのジャケットを羽織り、自室を出た。

 築百年にも及ぶ石造の学徒寮、その迷宮のように入り組んだ廊下を突破して見事に日の下に躍り出る。

 そこは“不敬の溜まり場”ファラナド学徒街だ。幅員三メートルもない狭めの道路がこの一帯には毛細血管のように張り巡らされ、それを挟むようにして、書店や食事処や学徒寮が軒を連ねている。

 このファラナド学徒街は、十歩も歩けば必ず誰かが狂ったようにまくしたてる声が聞こえてくる。それほど、けたたましく雑多な批判、論評、雑談猥談で昼夜を問わず満たされているのだ。

 たとえば、学院生活の愚痴、教授に対する鬱憤、仕送りを打ち切った家族に対する逆恨み。それから、魔法制度や帝政に対する建設的な批判から非建設的な罵詈雑言。さらには、あの時見た行政官の胸のサイズはでかすぎて違法だだの、俺を裁いたあの法官は俺の髪の薄さで判決を決めたに違いないだのと、恐れを知らぬ若い学徒たちが憚ることなくひっきりなしに叫んでいる。

“不敬の溜まり場”たる由縁でもある猥雑な言論の合間を縫うように歩き続けて、ようやくネイトは最低限度の気品を備えた帝都ヴェルアレスの大通りにまろびでることができた。

 それから二十分ほど歩いて辿り着いた、小さな廃図書館。

 石造りの三階建て。特徴的なのは、通りに接する面にこしらえられた古い神殿のような大柱だ。これのために、この廃図書館は周りの住家や店舗と比べて一際に迫力を放っている。

 建物の中心には、両開きの扉。光をほとんど照り返さない重厚な鋼鉄でできていて、その縁にはいくつもの丸い頭の鋲が打ち込まれていた。

 ただでさえ常人では入りがたい様相を呈するこの扉だが、その両脇には、さらにこの建物の異彩を引き立たせる二体の立哨の姿があるのだった。

“二人”ではなく“二体”であるのは、彼らが人型ではあっても、人間ではないからだ。

 人の姿を模したその人形は、頭には逆さにした黒い金属の鉢のようなものが被せられていて、その前部には鳥のくちばしを思わせる長大な鍔が取りつけられている。

 その下の顔には、太陽を模した帝国の国章を描かれた鉄仮面が取り付けられていた。そこには、古い騎士のプレートアーマーに見られるような、視界を確保するためのスリットが縦に六本並んでいる。そのスリットの間からは、青白い光が二つ見え、人の目のように横に並んでいる。

 首より下はホーバークと称される類の鎖帷子を着用していた。その両腕部は重厚感あふれる鉄甲に覆われており、もしも生身の人間が同じものを装着すれば、片腕を肩より上へ持ち上げることすらままならないだろう。だが彼らは、その重そうな腕にさらに小銃を携え、日光に閃く銃剣を天に突き立てたまま微動だにせずにいる。

 鎖帷子の上には、タバードという袖なしの上着を着込んでいる。そこに刺繍された紋章は、彼らが法官の警護任務を帯びていることを示すものだ。

“陪席人形兵”、それがこの人形たちの呼称だ。動力機関が備わっているわけではなく、魔法の執行によって稼働している。

 陪席人形兵の主任務は、街を警邏し、魔法が罪人の身に付するスティグマを検出して、法官への通報や最小限度の制圧を行うことだ。だが、その運用の可能性は幅広く、この二体のように特定の場所や人物を警護するための立哨に充てられることもある。

「お疲れ様、ウヌス! レーアさんは中にいる?」

 片手を挙げて気さくに話しかける。すると片方の陪席人形兵が、無言で、鎖帷子の擦れる金属音をわずかに立てて頷いた。人語は解するものの、人語を発する機能を持たない陪席人形兵には、この反応がせいぜいだ。

「まあ、いるだろうね。どうせ朝から本ばかり読んで、適当なものしか食べてないんでしょ? 本当、そういうところはしょうがないよなぁ。あぁ、ありがとウヌス。お邪魔するよ」

 ネイトが廃図書館の扉に近づけば、もう片方の陪席人形兵が代わりに開いてくれた。「ありがとう。デュオも、いつもごくろうさま」

 会釈してから、中に入る。もっとも、陪席人形兵に会釈の意味を解するような知性など与えられてはいないのだが、ネイトにとってはおかまいなしだ。

 小さな図書館で、しかも今は図書館の用に供されてはいないとはいえ、そこにはいまだに帝国の英知が蔵置されている。

 それもそのはず、この廃図書館はレーア・ゼーゼベルケ判事正の公邸であり、彼女が職務をする上で必要な知識の貯蔵庫になっているからだ。

 一階と二階は吹抜になっていて、その四方の壁には無数の書物が詰められている。

 階段を二階へ上がると、その北側、三匹の銀の蛇があしらわれた片開きの扉の前に立った。

 ノックをする。拳で三回。

 返事はない。

「ネイトです、こんにちは! レーアさん、います?」

 いても返事がないことは多い。ゆえに返事を待たずして、金のドアノブをつかんで回した。きい、と軋んだ音を立てて扉は開く。いないなら施錠されているはず。ゆえに、いるのだ。

「失礼しますねー……」

 何度部屋に入っても圧倒されるのが、執務室の両側にある天井までの高さをもった本棚だ。その全ての段を魔法に関する書籍が埋め尽くしている。

 執務室の奥には、外の景色を十字に切った窓枠。そこから、青々とした空が望める。そしてその手前に、一脚の執務机。そこには、扉越しの返事の手間ひとつさえ惜しんで、分厚い書物に熱い視線を注ぎ込み続ける銀髪の美女の姿がある。

 時を止めたような静寂に包まれたこの執務室にあって、今、頁をめくる音だけが静かに一定のリズムを刻み、頁をめくる白魚のような指だけが、この世界の全ての運動だった。

 ネイトは声をかけず、執務机のさらに手前にある応接スペースのソファに腰掛けた。しばらく、時間が静謐のうちに流れるままにする。

 頁をめくる音がさらに五回ほど繰り返されたとき。

 ん、と小さく喉を鳴らして、レーアは視線をネイトの方へよこした。かと思うと、

「なんだ。いつの間にいたんだ」

「声はかけましたよ?」

 口の両端をにっと釣り上げ、小首を傾げてみせるネイト。それに対し、レーアはいかにも面倒臭いという風に眉間にしわを寄せた。そして、その魅力的な紅い瞳は、『逐条・国憲ノ魔法 皇帝陛下の立法御意志御拝察』の中へと戻ってしまった。

「今日は法務はなかったはずだが。何か用か?」

 レーアがいう法務というのは、要するに、当事者の捜索や魔法の執行といった法官としての職務の遂行のことだ。ネイトには学徒としてのみならず、法官の弟子としての本分も果たさなければならない。そこで、学業の合間を縫ってレーアの法務に同行し、彼女を補佐している。

「はい。僕のオフとレーアさんのオフとが一致する珍しい日ですから。レーアさんの様子を見に来たんです。本とか論文とかに熱中してて、ろくに食べてないんじゃないかと思って」

「余計なお世話だ。下の陪席どもに何か作るよう指示してあるから、気にするな」

「だめですよ。前に僕が買い出しに行ってから一週間経って、作りたくてももう食材がないんです。ウヌスやデュオがそれを伝えに来ませんでした?」

「そうだな、来たかもしれないな。でも何も言ってこなかった。だから私も何も言わなかった。そうしたらまた出ていった。それきりだ」

「そりゃあ何も言えないですよ、陪席人形兵なんですから」思わず苦笑する。「この部屋に入ってきた時点で用事を察してあげないと。結局作りたくても作れないから本業に戻って、入口の脇に立ちながら途方に暮れてましたよ。かわいそうに」

「途方に暮れることなんてないし、かわいそうなこともないだろう。陪席人形兵なんだから」

「わあ、冷たい人。とにかく、僕は買い出しに行ってきます。大切なお師匠様に飢え死にされてはたまりません」

「そうか。いつもすまないな」

 全く感情のこもっていない謝意だ。そして彼女は再び、『逐条・国憲ノ魔法』の頁をめくり始めた。

 ネイトは密かに深呼吸をして、心の奥にしまっていた勇気を引っ張り出してから、言う。

「いっしょに、行きませんか? それでその、ついでに食事も外で済ませましょうよ」

「……ん」レーアは再び顔を上げ、ネイトを見た。かと思うと、また手元の『逐条・国憲ノ魔法』を見た。目をわずかに細めて何やら考え込んでいる。レーアの中で自分と魔法の書籍とが比較衡量されているのだろう。ネイトは顔では平静を装いながら、内心では祈るような気持ちでそれを見守っていた。

 ちょうどそのとき、どこからだろうか、ぐう、という音が静謐な気配を打ち破って。

「……仕方ないな」

 恥じ入るような、ごまかすような口調でレーアはそう言い、ぱたんと本を閉じた。

 ネイトは思わず拳を握った。



「じゃ、行ってきます。ウヌス、デュオ、後はよろしくね」

「人の陪席人形兵に勝手に名前を付けるな」

「だってレーアさんが付けないから。名前も呼ばずに、ただ使い倒すだけだから」

「犬猫じゃないんだぞ」

 扉の両脇に立つ二体の陪席人形兵に手を振って、ネイトはレーアと共に廃図書館を後にした。

 歩きながら、つい脇目で盗み見てしまうのは、レーアの貴重な私服姿だ。下は、長くしなやかな脚の形を明らかにする白のスラックス姿。上半身は、赤いセーターに黒いストールが合わせられている。ニット地に包まれた豊かで形の良い胸は、つい純朴な少年の目を惹きつけてしまう。慌てて視線を上に逃がせば、タートルネックに包まれた白くしなやかな首筋が目に入った。

 あこがれの師匠と楽しい買い物、楽しい食事。つい浮かれそうになる気持ちを理性で抑えながら、これからの算段を思い出す。何よりもまず食事だ。ネイトはレーアを導くように彼女の半歩先を歩き、一路、レストラン街を目指す。

 冷涼な季節に空気は澄み、頭上に広がるのは抜けるような青空。

 やがて二人は通りを抜け、視界に到底収まりきらない大広場へと出た。

“大臣民広場”と呼ばれるそこは、巨大な円形の広場で、その直径、優に八百メートルはあろう。青々とした空に負けず劣らずだだ広いその場所には、西へ東へと歩く臣民たちでごった返している。

「レーアさん、あそこ。なんでしょう? 人だかりができてますね」

 時化の海のような人の流れの中で、だまになったかのように停滞している箇所があった。 

 爪先立ちになると、人だかりの中でぽっかりと空間が開けられている箇所があった。そこに見えたのは、石の円盤を幾層も重ねていったような構造物だ。一番下の円盤は直径十メートルくらい。そこから上の段になるにつれ、直径が小さい円盤になっていく。一番上の円盤にもなると、ちょうど大人一人の頭の高さくらいにまでなっている。

 その一番上の円盤には、いくつもの黒いケーブルに巻きつかれたマイクが設置されていた。これは演台ということなのだろう。だが、演者はまだ現れていないようだった。

「ああ……あれが有名な“ウルプスの演台“ですか。ウルプスって、帝国ができる前、ここにあった国、でしたっけ」

「紀元前四十年ごろまで、な」レーアは淡々と説明した。「その国は民主制だった。つまり、国民が代表者を選挙し、その代表者が政治の方針や法律を決めた」

「あの演台は、その象徴ってことですか。でもそれって、その代表者たちが魔法を作り出せた、ってことですか?」

「まさか」レーアが小さく肩をすくめる。「代表者が議会の決議で法を決議する。すると、それが法として完成する。そうみなす」

「……裁判も、魔法に頼らずにしていた時代、なんですね」

「人が探し出した証拠、当事者同士の弁論、そして人の書いた書面でな」

 ウルプスの演台がネイトの青紫色の双眸に映る。

 その向こうに、かつての故郷の風景を見つめた。

 証拠、弁論、書面。

 人の作るもの。偽りようのあるもの。

 偽りは火を生む。

 火は、人を呑む。

「私たちは歴史のお勉強をしに来たわけじゃないだろう」

 ぽす、とレーアの拳がネイトの二の腕に軽く打ち込まれた。

「行くぞ。私をどこかおいしい所にでも連れていってくれるんじゃなかったのか」

 半面をこちらに振り返りながら歩み始めるレーア。

 ええもちろん、と明るく声を上げて、駆け足で彼女の横に追いつく。

 故郷の思い出も炎の記憶も、あとは雑踏のざわめきの中に掻き消されていった。

「この辺りはもう相当詳しくなりましたよ。毎日の買い出しのときによく見ておいたんです」

「それは悪かったな、それだけ詳しくなるほど使い走りにして」

「やだなあ、皮肉を言ったんじゃありませんって! ええとこの辺だと、海洋系、南方系、ああそれからティンダロス系ってとこですかね。今日は何が食べたい気分ですか?」

 久しぶりの休日の会話に、興奮が声色に滲むのを抑えられないでいた、

 ちょうどその時のことだった。


「──魔法を! 棄てよ!」


 拡声器越しの大音量が辺り一帯に殷々と響き渡った。

「これが私の意思です! 私は勇気をもって、もう一度叫びます! 皇帝よ、魔法を棄てよ! 法を立て、法を執り行い、法の下に人を裁くのは、我ら国民であるべきだ! 我が帝国の主権は、国民の手にこそふさわしい! およそ千三百年前、この地にあったはずの民主国家の息吹を、再びここに!」

“ウルプスの演台”に目をやると、いつの間にかそこに一人の男が立っていた。小綺麗なスーツを着込み、鼻と口の間には髭を蓄えている。右手にマイクを握りしめながら、左手で拳を振るって彼は持論をかき叫んでいる。

 演台の周りでは聴衆が、面白い見世物を見るような目で、あるいは世にも恐ろしいものを見るような目で男に見入っている。

 魔法の力の淵源たる皇帝と、魔法の支配を否定するべし。その政治的主張は、魔法の秩序を享受してきた帝国臣民にとってはあまりにも刺激的に聞こえるだろう。

「いいですか! 人は! 一人一人、与えられた生を全うしなければなりません! ではどうすれば“生ける人”になれるか! 自身の生を自身で決する、すなわち“自己決定”をすることです! 国家に置き換えてみればそれは、民主的であるということなのです!」

「ハハ、なに言い出すかと思いやあ」「ばかじゃねえのか」「帰ろう、聞く価値もない」──聴衆の中からそんな声が口々に聞かれ、足早に去る者がある。その一方で、新たに足を止めて聞き入ろうとする人間もまた、少なくはない。

 熱心に耳を傾けるのは“辺境”の臣民、差別的にいうところの“外民”と相場が決まっている。魔法の支配の恵沢を得させるためとはいえ、彼らや彼らの祖国は帝国に併合された歴史をもつ。その過程には戦争があったものも少なくない。男の演説を前にして、辺境民たちの心境には複雑なものがあるのだろう。

「あんなことを主張する人、いるんですね。魔法と法官のおかげで命や生活を助けられた人だって、たくさんいるはずなのに」

 魔法の執行者たる法官その人であるレーアを慮って、その顔に目を向ける。

 そして、ぎょっとした。

 レーアは、もはやネイトの言葉になど関心を向けていない。ただ、弁士の方をじっと見ていた。

 見開いた瞼の中、四方を白目に囲まれた紅い瞳は、人間らしい感情など映していない。

 強いていうならば、あまりにも人間離れした、透明で無機質な──一種の殺意。

「レーア、さん?」

 ネイトの呼びかけに、彼女は応えない。弁士の演説や群衆のどよめきにかき消されてしまっているのか、あるいは音が届いていても気がつかないのか。

「──ろす」

 唇が小さく動く。何か、言葉を発したようだ。

 ネイトは自分の顔から血の気が引くのを感じた。おそらく、聞き間違いではなかった。このままここにいるのは危険なのかもしれない。

「行きましょう、レーアさん」

 レーアの手首を掴む。レーアはなお反応せず、いまだ弁士の方を据わった目で射殺さんばかりの視線を向けている。こちらに反応してくれないなら、このまま強引に連れていこうと決め、レーアの手を引く。

 すると、そのまま彼女の足はよろよろと自分についてきた。よし、このままこの人混みから出てしまえば。

 とにかくここを離れよう。そうすれば、若干の倦怠感を帯びた先ほどの師匠が帰ってくる。

 ネイトはそう期待したが、すぐにその期待は裏切られた。レーアの手を引いて連れて歩けたのはほんの四、五メートルだけだった。それ以上は、彼女の白く細い手首をいくら引っ張っても、もはやびくともしなくなってしまった。

 息を呑みながら振り返ると、その紅い瞳は依然として演台の弁士の方に向けられていた。

 そして、その薄く桃色づいた唇は大きく動き、ついにその意志を宣明する。

「魔法を否定する者は……殺す!」

 その瞬間、透明だった殺意は峻烈な赤に染まり、レーアの気迫は質量を伴ってぶつかってくるようにさえ感じられた。

 立て続けて、レーアは唱える。

レジス・ヴィルタス執行器構成! ブルーティゲ・シュペーア!」

 レーアが、右手を何かを握り込むような形にして前にかざす。その手の周りに、虹色の細い光の筋がいくつも現れた。その光の筋は、虚空の一点に集中していく。それは光の塊となって、形を紡いでいった。棒のような形をした何か。まるで、糸が衣服を編むように、それは端から実体化していく。

 やがて姿を現したそれは、槍だった。

 赤黒い光沢を放つ柄。そしてその先に、長大な馬の頭骨を思わせる形をした装甲が取り付けられている。その頭骨めいた部位には、さながらとさかののように、刃渡り一メートルはあろう曲刃が備えられていた。頭骨の鼻先には、槍を槍たらしめる穂の刀身がある。

 執行器第七九号。“ブルーティゲ・シュペーア”と呼ばれるレーアの得物は、だが、ここで呼び出すべき代物ではない。それくらいのことは、判事補ですらないとはいえ法官の弟子であるネイトにならわかる。

 執行器とは、魔法を執行するために罪人を制圧する必要があるときなどに、執行器を定める魔法に基づき法官が召喚し、使用することができる武具だ。だが、レーアが明らかな殺意を向けている相手、四十メートルほど先にいるあの弁士は、明らかに罪人などではない。

 彼はただ、公衆の面前で主張をしていただけだ。何人も自由な表現をし得ることは、国憲ノ魔法で保障された臣民の基本権である。たとえそれが魔法を否定するような主張であろうとも、だ。

 虹色の光の筋も消え、この空間に物質化して定着したその魔槍を、レーアの右手は力強く握り込んだ。

 掴んでいたネイトの手は一顧だにさえされず振り払われ、ともすると、レーアの姿は乱暴に脱ぎ捨てられた黒いストールの向こうに消えた。宙を舞ったストールをネイトが慌てて掴み取る。

 再び目にしたレーアの姿は、魔槍を握り法官としての存在を誇示しつつ、演台に向かって既に駆け出していた。

「ちょっと、嘘でしょう!? レーアさんっ!」

 魔法を否定する者は殺す──それはレーアの口から幾度となく聞いてきた、法官として決して褒められたものではない危険な口癖だった。

 レーアがこの言葉と共に、魔法を犯す者、すなわち否定する者に対して見せてきた怒りの情は、法官ゆえの義憤とは毛色が異なる。それをネイトは、約一年前にレーアと共に活動するようになってから早々に察していた。その怒りはもっと個人的で、そして倒錯的な、“私怨”ともいうべきものだ。

 魔法の否定が、彼女をこうも変質させるその原因までは、ネイトは知らない。家族のことに絡んでいるらしいが、レーアは自分の家族の話をしてくれない。

 だが、まさか単なる弁士の演説にこうも憎しみをあらわにし、あろうことか、執行器まで引き出すとは。このような峻烈な殺意は、謀殺犯を処刑するときくらいにしか見せないのに。いったいなぜ、今なのだろう。

「その槍で何をするつもりですか! あの人は別に、自分の考えを喋ってただけで! 魔法に反するようなことはしてませんよ!?」

 喧騒に負けじと声を張り上げるが、レーアの背は振り返る気配を見せず遠ざかっていく。

 突如として巨大な槍を生み出したその女に対し、周りの聴衆にも気づく者が現れ始めた。

「おい……なんだあれ」「あれって、法官の武器じゃない?」「法官?」「法官?」「おい法官だ! 執行だぞ!」「おい見ろ、魔法の執行だ!」

 皇帝の名代ともいえる法官の姿に、その任務を妨害すまいと引き下がる者、歓声を上げる者、開いた口を両手で隠しながら事態の推移を見守る者、魔法の執行を一目見ようと身を乗り出す者。レーアの姿に気がついた人々の反応は様々だが、誰もその姿に疑問を持つ者はない。

 それもそのはずだ。この国で魔法は絶対の正義。それを執行しようとする法官が、魔法に反する行為を行う可能性など、誰も考えつかない。殺意に我を忘れた狂気の法官など、何人たりとも想定さえできまい。

 レーアが大きな歩幅で弁士に迫る。その道を開けようと人だかりが割れていく。

「レーアさん! 待ってってば!」

 慌ててネイトが追いつき、引き留めようとレーアの背に手を伸ばすと、

「おいお前! いったい何をしてる!」

 突然、脇から臣民の男が間に割り込んできて、筋肉質な腕で押しとどめられた。

「ちょっと、離してくださいよ! いったいなんですか!」

「お前こそなんだ! 法官閣下の職務は皇帝陛下の神聖な御意志の表れだぞ! お前はそれを妨害しようとしているだろう!」

「レーアさんっ!」

 誤解している男の肩越しに腕を伸ばして叫んだが、既にその背中は遠く小さく、この雑然とした空間にあってはもはや声の届く距離ではない。

 レーアが地を蹴り、跳び、演台の上に軽やかに乗った。

 弁士はそこで初めて、巨大な槍を携えたただならぬ様子の法官の姿に気がついたようだ。驚声が拡声器越しに響き渡り、うるさくハウリングが生じて何人かが耳をふさいだ。

 だめだ。いけない。

 魔法を否定するからといって、罪なきあの弁士を本当に殺すのであれば、罪人になるのはレーアの方だ。

 罪人の身体にはスティグマが刻まれる。そのスティグマを陪席人形兵が検知して通報すれば、直ちに法官が駆けつける。そうなれば、レーアは魔法の執行を受けざるを得ない。

 殺人の罪は、ふつうは極刑だ。

 レーアの魔槍が弁士を貫く時は、レーアの死が決する時だ。

 大衆の眼差しは、演台の上一点に集中し、もはや声を発することも忘れ、事の推移を固唾を呑んで見守っている。

 レーアの銀髪がひとたび風になびく。レーアは両の足を大きく前後に広げ、ブルーティゲ・シュペーアを両手に持ち、高く掲げてそれを構えた。今に弁士の身体を貫こうとするその漆黒の穂先は、陽光を受けながら、しかしいくらも光を反射せず、ただ人の臓腑を引き貫くその瞬間を待ちわびて垂涎しているかのようだ。

「レーアさんっ!」

 ネイトの叫びも空しく、果たして、その瞬間はもたらされた。

 レーアは一瞬身体を手前に引いたかと思うと、すぐに全身の体重をかけて前にのめり、ブルーティゲ・シュペーアを突き出した。

 群青の空を背景に、赤い飛沫が高く吹き上がるのが見えた。

 同時、恐ろしい絶叫をマイクが拾う。音は割れ、この世のものとは思えない響きだった。

 大衆は、もはや一言も発せない状態だった。レーアを称える者も、皇帝陛下の御意に賛意を叫ぶ者も、弁士に同情の声を上げる者もない。ただ皆一様に、石のように固まることしかできない。やむを得ないだろう。この上なく痛ましい悲鳴が、周囲に響き続けているのだから。

 ネイトは絶望し、瞑目した。

 まさかこんなことになるなんて。

 法官が、狂気に我を忘れて人を殺すなんて、そんなことが。

 だが、思考をほぼ失ったネイトの頭の中には、何か一つ、整合しないものがあった。何か、妙だ。何かがおかしい。

 もちろん、決定的におかしいのはレーアの異常な殺意と行動だが、そういうことではない。

 魚の骨が喉につかえているかのような違和感が、脳の奥に感じられるのだ。

 ──そうだ、わかった。

 今の絶叫は、“女性”の声だったではないか。

 あの弁士の男の声ではない。

 ネイトはおそるおそる視線を上げると、二つの暗いシルエットが見えた。手前側にレーアの姿。その奥に、弁士の姿。弁士は、いまだ立っていた。あの大槍の一撃を受けてなお立っていられるのだとすれば、絶命した彼が槍に貫かれたまま、その場に崩れ落ちることも許されず立たされているだけだろう。

 だが、よく見れば、事実はそうではない。

 そもそも、弁士は無傷だった。

 ブルーティゲ・シュペーアの一突きは、弁士の左肩のすぐ上を通過していたのだ。

 レーアが、突き出した槍の柄を再び両手で握り込み、ぐいと右に倒す。つられて、その穂先が突き刺していた“それ”が、弁士の隣に倒れ込むのがわかった。

 それは、ネイトの方からではレーアと弁士の陰に隠れて見えなかった、第三のシルエット。どうやら、一人の女のようだった。

『う、ぅぅうっ……! ほ……法官……閣下……! な……にを……!』

 スピーカーから聞こえてくる呻きの中に、意味のある言葉が混じり始める。

『どう……して……? わたし……は……ただ……魔法を……守ろうと……!』

『魔法を守る? そのナイフでこの男を刺し殺すことがか』

 レーアが無造作に女からブルーティゲ・シュペーアを引き抜くと、再び女は悲鳴を上げ、鮮血が宙に散るのが見えた。

 ネイトが壁のような人混みを必死にかき分けて近づいてみると、もう少し状況がよくわかった。演台の上には既に血だまりが広がっていて、その中に女性が倒れている。右手で左の肩を押さえており、そこから血液がどくどくと溢れ続けていた。プラチナブロンドの髪も白いワンピースも、彼女自身の血でどす赤く染まっている。

 その姿を、レーアはさながら害虫を見下ろすようにして下目に睨みつけている。筋肉がついているようには決して見えないその白く美しい右手は、自身の身長をも超える長大さを有する巨槍を軽々と一振りして、穂先についた血を払ってみせた。

 そして、二人からやや離れた位置に、へっぴり腰で立っているのが、つい先ほどまで力説を披露していた弁士だ。

 女は喘ぎながら言う。

「この男は……魔法を、否定しました……! あなたたちの行いを……皇帝陛下の御恩寵を……否定したの……! ゆる、せない……でしょう……? なの、に……なぜ……」

「執行法第三一条第一項。“罪を現に犯している者、犯そうとする者及び犯した直後に逃走する者は、現行罪人とし、法官が裁判なく制圧することができる”。本条に基づき、謀殺の罪を犯そうとしたおまえを制圧した」

「罪……つみ、ですって……?」女は俯き、血まみれの髪が演台の石畳の上に垂れる。そして再び面を上げたとき、彼女は幽鬼のように笑っていた。「罪人は、その男よ! わたしたちは、魔法の恩恵にあずかってる! 今も、これからもそうでなくちゃいけないのよ!」

「今現に魔法に反したのは、おまえ自身だ。その男ではない」

「なのに、その男は……魔法を、棄てろだなんて……! 法を人が決める、人が人を裁く、野蛮な国に戻れなんて!」

「口を閉じろ。私は魔法に反し魔法を否定した者の言葉は聞かない」

 女はもう自らを弁護しようとはしなかった。

 ただ、「おねがい」とか細い声で訴えた。

「法官閣下……、わたしの……、スティグマを、見て……」

 レーアは何も言わなかった。しばらく何もせず、女を見ているだけだ。その乞いを聞き届けてやるか、または聞かずに首を刎ねるべきか、算段しているのかもしれない。

 だがやがて、レーアは女に一歩を歩み寄り、片膝を立ててしゃがんだ。右手で女の顎下を鷲掴みにし、ぐいと強引に持ち上げる。ネイトの方向からはその表情が窺えないが、苦しみに呻く声が聞こえる。だが、そうした様相に配慮する気配を一切見せないまま、レーアは、女の目を覗き込むべく顔を近づけた。

 レーアの目には、女の体にスティグマが見えているに違いない。

 スティグマとは、罪人の身体に浮かび上がる赤い光の紋様であるという。それは、魔法を執行せんとする法官に、その罪人の犯した罪の処断に必用な一切の真実を見せてくれるとか。

 犯行の状況、経緯、前科。そして故意や過失といった心理的状態から、動機に至るまで──あらゆる犯情を。

「おまえは……」

「思い出した、かしら……? わたしの、こと……」

 レーアはマイクを横目でちらりと見た。それがいまだ音を拾い続けていることに気がついたのだろう。彼女は片手を伸ばしてスイッチを切ってから、

「あの、殺された娘の、母親」

「そう……そう!」自分を記憶してもらっていたことが心底嬉しいというような笑みを浮かべて、女は言う。「犯されて、ばらばらにされて、食べられた、かわいいアニカの、母親なんです」

 レーアは表情を変えず、ただ女を見下ろし続けるのみ。

「あのとき、わたしは……復讐しようと、したわ……。でもすぐ、犯人を、法官閣下が……あなたが、見つけてくれて……」

 女は、血まみれの手で、自分の顔を支えるレーアの右手を握った。

「今度はその犯人を、八つ裂きに、してくれたわ。あなたが、やってくれたのよ……ゼーゼベルケ閣下……“法令遵守の虐殺者”……」

「私はそのとき、おまえを殺人予備の罪に問責し、情状を汲み執行を猶予した。だが、それだけではない。真新しいスティグマがある。これは……」

 レーアは、女の手を払い、立ち上がった。

「私がおまえを止めたとき、おまえの服は既に他人の血で汚れていた。これが理由か。ここに来る直前、別の場所で演説をしていた弁士を手にかけてきたか」

「な……! ま、まさか、ニキータが!」

 弁士が叫ぶ。

 女が最後の力をすべて振り絞るかのような勢いで、ひとしきり叫ぶ。

「皇帝陛下は……! それに、その御遣いである、法官閣下は……! わたしの、救い……! あなたは……わたしの、英雄! 救世主! それを否定する人間なんて、ゆるせない……ゆるせるはずが、ない……!」

「だから、“自分にできること”をしたというのか」

 ネイトは気づき、息を呑む。

 レーアは“英雄”であり“救世主”。“自分にできること”をする──。

「そんな、まさか」この女の正体に思い当たり、ネイトは愕然とした。顔が見えず、格好も異なり、声は呻き混じりだったために、今の今まで気がつかなかった。だが、一度思い当たってしまえば確かに、髪の長さや色合い、体の線の細さの具合は同じと見える。

 レーアを賛美したあの手紙。それを自分に預けた、あの女だ。

「死刑だ!」弁士が割りこむように叫ぶ。「何をしているんだ、法官! そいつは殺人犯だ! 死刑だろう、こんなのは! おまえたちが崇拝している魔法では、そうなっているはずだ!」

 身じろぎ一つせずに立つレーアの表情は、ネイトからは見えない。

 レーアは目を細めて、女を見る。ただ、じっと見つめている。

 その目には今、先ほどまでのような罪人に対する怒り憎しみのみならず、もっと別の、複雑で様々な感情が入り交じっているように思われた。呆れか、悲しみか、哀れみか。あるいはこれも純真な殺意で、処刑することを心に決め、決意にその瞳を澄ませているだけなのか。

 わからなかった。法官がスティグマから罪人の心までをも暴き出すのとは違う。ネイトには、レーアの澄んだ紅い瞳の奥に眠る感情に、手が届かない。

 その事実に自分の未熟さを思い知らされるようで。自分とレーアとの距離の開きを痛感させられるようで。

 ネイトはただ、その強く握った拳の中で、爪が掌に深く食い込むだけだった。

 ネイトは、レーアさん、と呼びかけようと口を開いた。呼びかけて、それで何をどうするつもりなのか、まったく心算はない。ただそれでも、自分が声をかけてあげなければならないと感じたのだ。

 だが、そうしたネイトの心づもりを先んじて振り払うように、レーアは右手に力を込め、ブルーティゲ・シュペーアの穂先を切り上げた。そして両手で柄を握り、風を切る音を伴ってその魔槍を一度回転させると、穂を下に向けた状態で構え直す。

 その穂の先には、罪人たる女の横たわった身体がある。

レジス・ジュディカ魔法的確定。眼前罪人を死刑に処する」

 レーアは、温度を一切感じさせない冷徹な声音で、判決を言い渡した。

 そして、教戒を始めた。

「おまえのスティグマからは、高度の計画性を読み取ることができる。陪席人形兵に自身のスティグマを検出されないよう、陪席人形兵の挙動を調べ尽くし、移動の計画をよく立てた上で凶器を持ち歩き、明確な故意の下に臣民一名を殺害した。そしてそれに留まらず、更なる謀殺に及ぼうとした。情状は重い。

 断罪ノ魔法第三編第一条。“あらかじめ謀って人を殺した者は、謀殺の罪とし、死刑に処する”。極刑は免れない」

 ネイトは瞼を固く瞑り、俯くことしかできなかった。

 こんな皮肉があるだろうか。魔法に救われた者が、魔法を守りたいがために、魔法に反する。しかも、自分に代わって復讐を遂げてくれた、英雄と称える法官の手で、自分が裁かれるなど。

「おまえは、罪を犯すことをもって魔法を否定した。私はおまえを許さない」

「あなたは……すばらしい人」

 女は自らの運命の行く先を確信したのか、もはや自身の正当性を主張しない。ただ柔らかな笑みを浮かべて、眼前に立つ正義の体現者を賛美するだけだ。

「やっぱり、わたしの……英雄。それに、何より……今度は、早く来てくれた」

 それが、最期の言葉だった。

 魔槍の穂先が細い身体を貫く瞬間、ネイトは目を伏せた。一帯に肉を貫く音がして、それが彼女の絶命を知らせた。

 群衆からは、歓声もなければ、賛美もない。

 顔を青白くした者、口を半開きにしたまま閉じる様子を見せない者、ずっと目を瞑り続けている者。誰も彼も、何も言わない。

 魔法の定めに反した者が、魔法の執行を受けた。それだけの、しかし圧倒的な光景を伴った事実が、群衆から丸ごと言葉を奪うほどに厳然とそこに存している。

 死刑執行の役目を果たし終えたブルーティゲ・シュペーアは、放り捨てられるように空中で柄を手放された。するとたちまち虹色の光の粒子に分解して、その姿を消した。

 レーアが段を一歩一歩ゆっくりと踏んで、演台から降りてくる。

 下にいるネイトは、いま一度目を閉じ、息を深く吸い、吐く。そして目を開くと同時、笑顔を咲かせ、

「おつかれさまでした、レーアさん! 事件報告は僕が作っておきます。法院には明日、書面を届けておきますね」

 なるべく明るい声音になるよう努めて、そう言った。

 人一人を絶命させた返り血だらけの法官と、彼女を明るく労う弟子。周囲の臣民たちの目から見れば異様な光景だろう。わかっている。無論、わかってはいる。

 だが、血にまみれたレーアの姿に、自分だけは決して臆してはならない。そのようなことは、絶対にあってはならないのだ。

 レーア・ゼーゼベルケのこの姿こそが、自分の信じ目指す正義の姿、そのものなのだから。

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