第33話 皇帝であり夫であり

 数日後のこと。

 ロンダリア城、謁見の間。

 部屋の入り口には衛兵が二人立っている。

 すでにヴィルヘルムとシリカは着座して待っていた。

 謁見の間と名付けられてはいるが、そこは手狭な一室にやや豪奢な椅子を並べているだけにも見える。

 もとよりロンダリアは一都市であり王都――現在は皇都だが――として建立しておらず、城もまた同様だった。

 その様相は、明らかに他国に比べ見劣りしていた。

 数少ない礼装を二人は身にまとっているためか、何とか体裁を保ててはいる。


 シリカは隣の王座に座るヴィルヘルムを横目で覗き見る。

 彼はいつも通りの鉄面皮でありながら、以前とは違うどこか温かさのある横顔をしていた。

 シリカは俯き、そして人知れず小さくため息を漏らした。

 シリカの胸中は複雑だった。

 自らを聖ファルムス国から追放したバルトルト枢機卿がやってくる。

 理由はまだわからないが、吉報ではないだろう。

 彼とは色々とあった。

 だが今は前を向き進もうとしている時だ。

 顔を合わせるのは本意ではないのだが。


(……そうも言っていられないのよね。だって内情はどうあれ聖神教団との対立を宣言したみたいなものなんだから)


 新生ロンダリア皇国は宗教を興すつもりはない。

 聖皇后とはあくまで人々への癒しを与えるという、新生ロンダリア皇国の象徴であり、宗教的な側面を持たない。

 寄付を募らず、教団を持たず、聖皇后の持つ権限も王妃であった以前と変わりはないのだから。

 ただそれは内情であり、外部からの印象は全く違うだろう。

 敵対宣言と捉えれば、聖神教団側が黙っているはずもない。

 もちろんそれはシリカやヴィルヘルムも理解してのことだったが。


「シリカ」


 思考に耽っていたシリカは、ヴィルヘルムの声に気づくのが遅れた。


「え? は、はい! な、なんでしょう?」

「案ずるな。すべて問題ない。そなたが聖皇后となったことが、自国へ被害を与えることはない」


 ヴィルヘルムはほんの少し口角を上げる。

 それは自信の表れとも見え、シリカは小さな安堵を得た。


「信じております」


 そう、シリカはヴィルヘルムを信じるしかない。

 信じると決めたから、聖皇后として名乗ったのだ。

 今のヴィルヘルムは過去のヴィルヘルムではない。

 精悍で、頼りがいのある男へと成長しつつあった。

 それを支え、信じ、頼り、そして共に歩くことこそシリカの本分である。

 そうシリカは信じていた。

 シリカが胸中で覚悟を決めつつあった時、不意に扉が開かれる。


「これはこれは……何とも些末な部屋ですね」


 そこにいたのはバルトルトと付き人らしき男二人。

 久しぶりに見たバルトルトは、シリカの知っている質素な男ではなかった。

 聖職者にあるまじき豪奢な服装と不遜さは、まるで強欲な貴族のようであった。

 バルトルトは横柄な態度で王座へと歩み寄り、跪くことなくシリカたちと向かい合った。


「久しぶりですね、シリカ……いえ、今は聖皇后、とやらでしたか?」

「……お久しぶりです。バルトルト枢機卿」


 バルトルトは無遠慮にシリカの蒼髪や手の聖印をじろじろと眺める。


「ふむ。噂は間違いなく、聖女の力に再び目覚めたようですね。まさかこの世に二人も聖女が存在するとは! これはまさかに聖神様の御力です!」


 仰々しく両手を広げ、バルトルトは歪んだ笑みを浮かべた。

 シリカは僅かに眉をしかめ、込み上げる感情を抑えつける。

 一国の主であるヴィルヘルムを無視して、シリカに話しかけること自体、不敬だ。

 そんなことはバルトルトも理解しているだろうが、敢えてしている。

 無礼な態度に憤ってもおかしくない。

 だがヴィルヘルムは冷静な様子だった。


「余は新生ロンダリア皇国……初代皇帝ヴィルヘルム・フォルク・アンガーミュラーだ」

「……おかしいですね。ロンダリアの王は、醜く愚かであるとそう聞いていたのですが」


 じろじろとヴィルヘルムを品定めするバルトルト。

 怪訝そうにしていたが、大して興味がなかったのか、肩を竦めるにとどめた。


「それにしても新生ですか。その上、初代皇帝を名乗るとは。改名だけで新国家建立とみなすと。しかも連合国を無視しての所業。これは見過ごせませんな?」


 バルトルトは笑顔のままだが明確な威圧が言葉の端々に含まれていた。

 しかしヴィルヘルムは微塵も動揺しない。


「そも我が国は連合国に所属していない。『表立っては』無関係であり、そのように仕向けたのはそちら側だと記憶しているが?」

「なるほど、そう出ましたか。つまり聖ファルムス国を含めた連合国とは一切関与しておらず、そして今後もそうであると。それがどういう意味かおわかりで?」

「理解している」


 それは連合国との決別を意味する。

 連合国に所属せず、且つ関わりを否定する上で、聖術を扱うシリカを聖皇后として擁立するのだ。

 最早、決別を通り越して、敵対と受け止められるだろう。


「どのようなことになっても知りませんよ? 恩恵も庇護もなくなるのですからね」

「言うに事欠いて恩恵とは。冗談で言っているのか? それらは自国を取り巻くただのしがらみ以外の何物でもない」

「若造が、調子に乗るなよ」


 ギラリと目を光らせ、バルトルトはヴィルヘルムを睥睨する。

 先程までの好々爺っぷりはどこへ行ったのか。

 笑顔もなく、そこにあるのは殺意と敵意だけだった。


「聖神教団は連合国への強権を持つ。その気になればこのような木っ端国家は一瞬で淘汰できるのだぞ!!」


 連合国軍は数十万の兵力を持っている。

 参画している諸外国の数は数十。今も属する国家は増えている。

 当然、小国であり貧国の新生ロンダリア皇国が対抗できるはずもない。

 表面上は平静を保つシリカだったが、内心では恐怖で打ち震えていた。

 己のせいだと思ったのだ。

 この国に来たから、そのせいで国が危機に晒されている。

 自分が来なければ、そんなことにはならなかった。


 ロンダリアに来て、まだそんなに時間は経っていない。

 けれど、色々な人に会って、人を、国を好きになった。

 今では大切な、自分の居場所になっている。

 なのに、そんな大切な場所を、人を、国を自分のせいで壊されてしまうかもしれない。

 それが怖くて仕方がなかった。

 健気にも冷静に努めるシリカだったが、手は僅かに震えていた。

 バルトルトはシリカの様子を見て、ニィと笑う。


「しかし聖神教団は肝要な組織です。条件を呑んでいただければ、不問と致しましょう」


 シリカは思わず縋るようにバルトルトの顔を見た。

 それは過去に見た誰よりも陰湿で醜悪な、我欲に塗れた悪人の顔だった。


「シリカを返しなさい」


 それはシリカを追い詰めるに十分な言葉だった。

 予想はしていた。

 しかし、現実になるとより重くシリカにのしかかってきた。

 確かにそうなのだ。

 結局、シリカがすべての鍵を握っている。

 聖神教団は、象徴である聖女を他国が握ることを許さない。

 争いの種はシリカであり、シリカがいなくなればロンダリアを淘汰する必要はなくなる。


 それはシリカにもわかっていた。

 自分さえいなければロンダリアは『元のロンダリアに戻るのだ』と。

 貧しくとも、希望はなくとも、淘汰されることはない。

 殺されることも、蹂躙されることもないはずだ。


「さあ、シリカ。戻ってきなさい。あなたを追放したのは私の間違いでした。今後は、きちんとあなたを守護し、聖女として生きていけるようにしましょう。幸せな日々が待っていますよ」


 幸せなどない。

 あるわけがないのだ。

 人々を癒す、救うことは忌避しない。

 だが、あの場所はもうイヤだ。

 ただの道具とみなし、役立たずだと思えば切り捨てるような場所だ。

 あそこに居場所はない。

 ただの牢獄だ。


(イヤ……イヤよ。戻りたくない。あんなところに、もう……)


 シリカは以前のシリカとは違う。

 ただ求められ、利用されても、そこが居場所だと思い込むような寂しい生き方しか知らなかった、過去の自分とは違うのだ。

 もうシリカは知っている。

 本当の幸せを、居場所を……そして、淡く苦しく、幸せな感情を。

 知っているからこそ、シリカは立ち上がった。


「そうです、さあこちらへ」


 誘われるようにバルトルトの方へと歩を進める。

 行きたくなどない。

 けれど行かなければ……きっと、この国は殺される。

 だから、行くのだ。

 行くしかない。

 気づくとシリカは泣いていた。

 手足は震え、心は冷たく淀んでいた。

 踏み出す足の感覚はなくなり、前後不覚に陥っていた。

 それでもシリカは、一歩前に進んだ。


 と。

 不意のことだった。

 大きな影が視界を覆った。

 大きな背中が。

 あの時と……命を守ってくれた時と同じように。

 ヴィルヘルムがシリカをかばう様に立っていた。


「ふざけるなッッ!!!!!」


 鋭く叫んだ。

 それはいつも冷静なヴィルヘルムの声とは思えないほどに、怒りに打ち震えていた。

 感情が溢れ、我慢できないと言っているかのように。


「な、なな、なんだと!? す、枢機卿であるこの私に、なんという物言いだ!」

「黙れ下郎が! 貴様の身勝手でシリカを追放し、愚醜王と噂の余のもとへ嫁がせたのは誰だッッ!!! そのような仕打ちをして、また役立ちそうだからと手のひらを反すなど言語道断! 貴様には人の心がない、ただの畜生だ! 失せろ!! 貴様のような屑は我が国に踏み入ることさえ腹立たしい!!! 余の妻を馬鹿にするなッッ!!!!!」


 ヴィルヘルムは激情を止めもせず、叫び続けた。

 その様子はあまりに必死で、純粋で、何よりもシリカへの愛情に溢れていた。


(妻だって……言ってくれた……)


 恐怖や悲哀は消え去っていた。

 今はただ喜びが体中を巡っていた。

 懸命に歩み寄り、知ろうとし、それでも近づけなかった人。

 それが今では、こんなにも自分を想ってくれている。

 嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。

 泣きながらヴィルヘルムの背中に体重を預ける。

 僅かに伝わる熱は、彼の感情を表しているようだった。


(……ヴィル……ヘルム……ありが……とう……)


 シリカは声を漏らさず泣き続けた。

 自身の妻を泣かせた張本人が目の前にいる。

 夫たるヴィルヘルムの心情は、その顔を見れば明白だろう。

 威厳と威圧が、そこには同居していた。

 彼はまさに皇帝であり、そしてシリカの夫だった。


「ひ、貧国の雑魚がよくも言いおったなああ!!! 貴様は終わりだ!!! この国もな!!!」

「やれるものならやってみるがよい! 連合国軍は、聖ファルムス国の聖神教団を礎にしている。それはつまり、武力行使は聖神教団の意向であると同義!! 救済や癒しの象徴である聖女を祭り上げる聖神教団が、そのような愚行をしようものならどうなるであろうな!!」

「ぐっ……そ、それは」


 バルトルトの顔が恥と怒りで赤く染まっていく。


「現在の聖女がどのように見られているか、余が知らないとでも思っているのかッ!? その状況で武力行使なぞしようものなら、聖神教団の権威は失墜するであろう! 当然、その覚悟あっての発言であろうなッッ!!?」

「ぐ、ぐぬっ! ぐ、ぐぐ、ぐぅっ!!!」


 見事に真っ赤に染まった顔のまま、バルトルトは呻いた。

 反論する余裕もないらしく、地団太を何度も踏み、そして踵を返す。


「お、覚えていろッッ!!!」


 わかりやすい捨て台詞と共に、従者と共に部屋を後にしていった。

 しんと静まり返った室内で、シリカはヴィルヘルムの鼓動を聞いていた。

 初めて聞く鼓動は早鐘を打っていた。

 ヴィルヘルムが振り返る気配を感じ、やんわりと身体を放すシリカ。

 ヴィルヘルムはシリカを真っ直ぐ見つめる。

 その穏やかな視線と共に、ヴィルヘルムの唇が動いた。


「大丈夫か?」


 初めの言葉が、あまりに優しかったから、シリカの涙腺は更に緩んだ。

 そんなことを言われたらどうしようもない。

 我慢なんてできるはずがなかった。

 必死でせき止めていた感情は、堰を切ったようにあふれ出した。


「う、うえぇ……えぐっ……ら、らいじょうぶ……れすぅ……」

「も、もう大丈夫だ。も、問題ない。気にするな」


 あわあわするヴィルヘルムを前に、号泣するシリカ。

 傍から見れば微笑ましいのだが、双方の感情はぐちゃぐちゃだった。


「あ、あの男の言葉はただの脅しだ。彼奴に連合軍を動かす覚悟はないからな。や、奴が講じるのは精々、内部侵略……つまり聖神教団員を潜入させ、布教するくらいだが、それも問題ない。そなた以上の聖女はいない。聖神教団に入団するよりも、我が国に住みたいと思うはずだ。そなたはいつも通り、民を癒せばよいのだ」

「え、えぐ……は、はい……が、がんばります」

「あ、ああ。そ、そら。涙をこれで拭え」


 泣いた子供をあやすように、ヴィルヘルムは懐からハンカチを出してシリカに渡した。

 シリカは涙を拭い、何とか涙を止めようとした。

 だが。


「もう大丈夫だ。そなたを決して渡しはしない。そなたは大事な……余の……つ、妻なのだからな」

「ううっ……!」


 再びシリカの涙は溢れ出す。

 止めようと思ったのに、これでは一生泣き続けてしまう。


「ど、どうした!? な、なんだ? ど、どうすればいい!?」


 おろおろするヴィルヘルムを前に、シリカはただ泣き続けた。

 悲しくて、苦しかった過去を思い出してではなく。

 今ある幸せを噛みしめて。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

捨てられた元聖女ですが、なぜか蘇生聖術【リザレクション】が使えます ~婚約破棄のち追放のち力を奪われ『愚醜王』に嫁がされましたが幸せです~ 鏑木カヅキ @kanae_kaburagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ