第32話 聖皇后として
早朝。
新生ロンダリア皇国の治癒院にシリカはいた。
最低限の清掃と治癒場の準備を終えただけだ。
そのため治癒院内は雑多に置かれた長椅子や寝具があるだけだった。
治癒院の奥まった場所に治癒台が置かれている。
シリカは治癒台前に立ち、治癒の手伝いを志願してくれた女性や衛兵たちを見回した。
「それでは本日より治癒を始めます。みなさんよろしくお願いしますね」
「「「よろしくお願いいたします!」」」
手伝いの女性たちの年齢は様々であったが、それぞれ意欲に満ちた表情をしていた。
その中には興奮した様子のアリーナもいた。
(みんなが手伝ってくれて助かるわ……けれど、本当に人が来るのかしら)
シリカは元聖女ではあるが、聖神教団という後ろ盾はなく、治癒する場所も簡素だ。
失った聖女の力を取り戻した、と言ってもやはり信頼性に欠けるだろう。
ヴィルヘルムを蘇生した時にその場にいればまた違うだろうが。
しかし、やはり聖神教団の聖女に比べると圧倒的に信頼がないのは間違いない。
新生ロンダリア皇国においてシリカの役割は重大た。
シリカの働きが国力に直結していると言っても過言ではない。
新生ロンダリア皇国に聖皇后あり、と世界中に知らしめる必要があるのだ。
(最初は人が少なくて当然よね。まずは来てくれた人のために最善を尽くしましょう)
シリカは大きく頷き決意を新たにした。
一生懸命尽くしていれば、評価や信頼は後からついてくるはず。
まずは目の前の人たちのために全力を出すことが肝要だ。
「治癒を開始しましょう!」
シリカの号令を聞き、アリーナが忙しなく治癒院の扉を開いた。
徐々に開かれる視界を、その場にいた全員が注視する。
期待と不安の向けられたその先。
そこにいたのは――数人だけだった。
はぁ、と小さなため息が近くで聞こえた。
それも仕方のないことだと、シリカは苦笑する。
「救いを求める人たちの数は関係ありませんよ」
「あ! も、申し訳ございませんシリカ様!」
まだ若い手伝いの女性が慌てて頭を垂れる。
シリカは彼女の肩を優しく叩き、柔和に笑った。
「共に励みましょう」
「は、はい!」
シリカと若い女性のやり取りを見てか、手伝いの女性たちの表情は引き締まった。
アリーナは元々、人数は気にしていなかったのか落胆の気配すらなく、患者たちを奥に連れてきていた。
それぞれの配置は簡単だ。
治癒院の入り口とシリカの近くに一人ずつ衛兵が立っている。
手伝いの女性は等間隔で並び、患者に目を配らせ、アリーナは案内役と説明役を担っている。
ちなみに、事前にアリーナはシリカから聖女や治癒に関して最低限の知識を教えられている。
アリーナは勉強が得意ではなかったので多少苦労したようだが。
「ささ、どうぞ。こちらに横になってくださいねー」
アリーナが連れてきた最初の患者は、腰の曲がった老婆。
老婆は戸惑った様子で治癒台に横になったが、腰を曲げたままだった。
老婆は痛みに耐えるように顔をしかめ、声を漏らす。
「よ、よろしくお願いしますねぇ……いつつ……」
「腰ですか?」
「へ、へぇ。長年患ってましてねぇ」
シリカが老婆の腰に手をかざすと、手のひらから淡い光があふれ出した。
その場にいた人々はその光景に思わず目を奪われる。
老婆の表情は徐々に和らぎ、驚いたように目を見開くと起きあがり、背筋をピンと伸ばし腰を左右に動かした。
「い、痛みが……消えた!?」
たった数秒のことであった。
それだけで治癒を終えたのだ。
「これでもう大丈夫ですよ」
「な、長年痛かったというのに、こ、こんなに簡単に……!?」
「ふふん、それが聖女様の……いえ、聖皇后シリカ様の御力なんですよ!」
なぜかアリーナが自慢げに言い放った。
シリカは小さく笑うと老婆に話しかける。
「腰痛の原因は治癒しましたが、聖術では老化を止められません。あまり無理をせず、可能な限り運動をしてくださいね」
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます! 聖皇后様!」
「いえいえ、お大事に」
治癒をする前は腰を曲げ、よろよろと歩いていた老婆が、帰りには背筋を伸ばしてスタスタと立ち去って行った。
あまりの光景に、他の患者どころか手伝いをしていた女性たちや衛兵まで呆然としていた。
「次の方、どうぞ」
長椅子に座り、順番を待っていた初老の患者にシリカが声をかける。
患者は、はっと気づいて慌てて治癒台に横になった。
「よ、よろしくです。お、俺は腹が……数分ごとに痛んでしょうがなくて……仕事もまともにできねぇし」
「ここですね。わかりました」
腹部を癒し始め、数秒で終えた。
あまりに簡単な出来事だったが、実際にそれほどに迅速かつ効率的な治癒だったのだ。
歴代の聖女の中でも、これほどの治癒速度を出せるのはシリカだけだろう。
「な、治った!? 治ったのか!?」
「ええ。もう綺麗に治癒しました。原因はお酒みたいなので、今後は控えてくださいね。そのままだと恐らく数週間後にお亡くなりになってましたよ」
「え!? し、死んでた!? そ、そうだったのか、そ、そりゃ……あ、ありがとうございます」
「お大事に。では次の方」
あまりにてきぱきとした治癒に、人々の心はついていっていない。
初老の男性は呆気にとられたせいか、実感が薄いようだった。
彼はシリカに頭を下げ、治癒院を出ていこうとした。
その時、不意に立ち止まり腹部を触った。
そして、それはそれは嬉しそうに笑みを浮かべると、瞳には涙が浮かばせた。
初老の男性は衝動を抑えきれないよう走り出し、治癒院を飛び出した。
●〇●〇●〇●〇
夕方前。
治癒院に足を運んだ執事長クラウスは驚嘆の表情を浮かべていた。
「こ、これは……何とも」
喧騒が耳朶を震わせる中、クラウスの視界には大勢の国民たちの姿が映し出されていた。
長椅子に座り自分の番を待つ患者たちの間を、忙しなく手伝いの女性やアリーナが走り回っていた。
彼女たちは患者に話しかけ、症状を聞いている様子だった。
治癒院の奥ではシリカが患者の治療をしている。
淡い光を患者に当て、治癒を終えると笑顔で何かを話し、手を振っていた。
治癒を終えた患者の表情は晴れやかで、幸福感に満ちていた。
(まさか癒しの力がこれほどとは……)
蘇生の瞬間を目の当たりにしていたクラウスだったが、あまりに非現実的で実感は未だに薄かった。
だが目の前で繰り広げられる奇跡の数々に、強制的に理解させられた。
シリカは聖女であると。
(しかし、初日にしてこの状況。一体、何があった? すぐに国民たちが足を運んでくるとは思わなかったが)
先ほど治癒が済んだ患者の様子がふと気になった。
治癒院を出て、通りから患者の姿を認める。
遠目でも何とか見える。
どうやら誰かと話している様子だった。
患者と話している友人らしき人物は、最初は困ったようにしていたが、患者が治癒院を指さすと怪訝そうにしながらもこちらに歩いてきた。
(なるほど。そういうことか)
わかりやすい構図だ。
しかし最も効果的な人の流れとも言える。
それほどにシリカの力は凄まじいものだった。
クラウスは再び治癒院に戻りシリカの様子を見守った。
シリカは患者に対して優しく、丁寧で、無駄がなく、それでいて常に笑顔を絶やさなかった。
(早朝から十時間ほど働いているにもかかわらず、疲れを微塵も見せない、か……あれが聖女というものなのか)
クラウスは不意に自分の感情に気づいて、自嘲気味に笑った。
多くを体験してきた老骨である己だ。
そんな自分が、まさか感動しているとは。
過去にそんな思いを抱いたのは我が主に対してだけだったのだが。
まさか人生で二人もそのような思いを抱くことになろうとは。
老いさらばえる身でありながらも、心は熱いままだった。
シリカたちの仕事を邪魔しないようにクラウスは治癒院の端に佇む。
幸いにも患者の列は徐々に途絶えつつあった。
時間も時間だ。
すぐに患者たちもいなくなるだろう。
自分の用はもう少し後にしよう。
●〇●〇●〇●〇
しばらくして長蛇の患者の列はなくなった。
初日から忙しく働いたせいか、アリーナや手伝いの女性たちも疲弊した様子だった。
しかしシリカは疲れを見せず、笑顔のままだった。
「さて、今日はこれくらいにしましょうか。急患が来た時だけ対応するようにしますので、みなさんは帰宅して休んでくださいね。明日もよろしくお願いしますね」
「「「お、お疲れ様でした」」」
手伝いの女性たちはぞろぞろと治癒院を出て行った。
アリーナはふらふらとしながら扉を閉める。
「お疲れ様でした、シリカ様」
「あら、ありがとうクラウス。陛下のお傍に居なくてよいのですか?」
「シリカ様にご報告がありまして」
「報告、ですか?」
クラウスには珍しく逡巡していた。
その様子にシリカは僅かに戸惑う。
数秒の間隔。
その後に、クラウスは口を開いた。
「数日の内に、聖ファルムス教団特別行政区、枢機卿バルトルト閣下がお見えになります」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます