木曜日

あなぐま

木曜日

「あ」


 しまった、と思う間もなく、真紀が躓いた拍子になみなみと注がれていたコーヒーがカップから飛び出し、前を歩いていた少年にブチ撒けられた。


 やらかした真紀は半ば茫然として立ち尽くし、すれ違う学生達は関わらないようにとメインストリートを歩いていく。少年がコーヒーを滴らせたままギシギシと真紀の方へ振り返った。幸いな事にコーヒーはほぼリュックに掛かり、少年自身に被害はないようだが、何が幸いだこのババアと少年の顔が言っていた。


「あ、じゃねぇ」


 少年が唸る。声変わりもしていないのに随分とドスが利いていた。それで真紀もはっとして動き出す。


「や、ごめんごめん悪かったよ。こんなつもりじゃなくてさ」

「どんなつもりだったんだよ」

「待ってね。今ハンカチを」

「いい」


 自分のバックを漁る真紀を放って、少年はその場を離れようとした。だが彼のリュックからはホカホカと湯気が立ったままだ。


「待ってってば。中まで濡れちゃうよ。ちゃんとあたしが拭くって」

「やめろ。いいから俺に……」

「どうしたんですか?」


 声を掛けられて二人同時に振り向く。真紀の顔がひきつった。そこに居たのは、大学で庶務と警備を兼任している男だ。名前も碌に憶えていないが、口うるさいのは知っている。警備員の視線が、首から学生証を下げた真紀から、入構証が見当たらない少年へと移る。


「君は見学の子かな? 親御さんはどこに?」


 丁寧ぶった口調だが、どこか人を威圧する凄みがあった。口を引き結んだ少年を見れば、正規の方法で入った訳ではないのはすぐ分かる。このまま話を進めても碌な事にはならない気がして、真紀が慌てて間に入った。


「この子、あたしの従兄弟の子供なんです。あいつ今トイレなんですけど、入構証この子の分も持って行っちゃって」

「貴女は、まだ一年目ですね。入構証はIDカードも兼ねている。子供でも持っていないと危ないですよ」

「そうですよね、あいつ馬鹿だから。とにかく私達行きますね。私コーヒー掛けちゃって、早く拭かないと」

「一緒に行きますよ。タオルか何か要るでしょう」

「いやいや大丈夫ですって。ほら、行くよ」


 真紀は咄嗟に少年の手を取ろうとして、ぐっと思い止まった。だが少年は正しく状況を理解し、さも当然のように隣に収まる。真紀は自分を見上げる少年に向かって軽く頷くと、警備員に「では」と言い捨てて足早に教養棟へと向かった。その間も後ろから視線を感じる気がして酷く落ち着かなかった。


 巡回バスが集まるタイミングだったのか、教養棟は学生で溢れていた。おかげで子供連れでも殆ど目立たず、真紀は少年が逸れていないか確認しつつ廊下を進む。


「どこまで?」

「もうちょい」


 脇目も振らずに歩き続け、三階のトイレまで来てようやく止まり、振り返った。辺りに人の気配はない。どうやら撒けたようだ。真紀はふうっと一息ついて、そしてコーヒーをぶっ掛けたまま拭かずに来ていた事を思い出した。


「あ、そうだ遅れてごめん。リュックの中身、大丈夫そう?」

「大丈夫じゃない、かも」

「だよね。今何か持って……、そうだ」


 真紀はトイレに駆け込もうとして、足を止めて自分の荷物を「持ってて」と少年に押し付け、再びトイレに駆け込む。そして個室のトイレットペーパーをガラガラと巻き取ると、やはり駆け足で戻ってきた。真紀の手にある物を見て少年は露骨に嫌そうな顔をした。


「おいマジかよ」

「無いよりマシでしょ。貸してよ」

「やめろ。自分でする」


 少年はトイレットペーパーを奪い取ると、溜息をついてトイレ脇にあった長椅子に座った。可愛くないと思いつつ真紀も少し離れて座る。途端、どっと疲労が押し寄せてきた。まったく、コミュ障の真紀に下手な演技などさせないで欲しい。


 下の階からは学生達がざわざわと教室を移動する音が聞こえる。隣の少年は押し付けるようにしてリュックを拭いていた。真紀は特にやる事もなく、そんな少年をまじまじと眺める。


 年齢は十歳前後、真紀より頭一つ分は小さいだろうか。冬用のコートを着ているせいか少し大人びた雰囲気だったが、顔はまだまだあどけない。見ず知らずの女について来る辺りは、度胸があるのか危なっかしいのか。真紀がこれくらいの頃は、どうだったろう。小学校では男子に混じってバスケばかりしていた気がする。


 いや。そう小学校。それが問題なのだ。


「君さ、サボり?」


 家出? と訊こうとしてやめた。木曜日、午前十時過ぎ。学校では道徳の時間とかやっているのだろうか。少年は何も答えず、バックから出した携帯を念入りに拭いている。


「サボりは駄目よ。冬休みまでまだ長いし、我慢できないのも分かるけど」

「これだよ」


 溜息を付かれた。小学生にかける言葉としては定番過ぎたかも知れない。


「なんでダメなんだよ。校則にもサボっちゃダメなんて書いてないじゃん」

「生徒手帳に書いてあると思うけどねぇ。とにかく駄目。サボり癖が付くからね」

「サボりぐせ?」

「そ。今日サボったから明日もサボろう、学校サボったから塾もサボろう、そんな感じで、どんどん逃げ続ける負け犬根性が染みつく。だから駄目なの。出来る限り行かなきゃ。行くのが嫌なら、なおさら」

「なんか知ったような口きくんだな。それとも経験談?」

「んだとこのガキ」


 拭いていた携帯が鳴ったが、少年はすぐに拒否を押してじっとりと真紀を見る。


「だってさっき、他の人はみんな授業受けてた。なのに、おば……」

「お姉さん」

「……さんはコーヒー飲んでブラブラしてたし。説教する資格なくない?」

「それがあるんだな。何故なら大学生は自分で時間割を決められるから」

「え、なにそれ卑怯だ。それなら俺だって午前中はずっと寝てたい」

「君も大学生になったらそうすれば? でもまずは入試、テストね。難しいよ? 志望した大学全部落ちたら、次の年まで無職だしね」

「偉そうに。そう言うお……」

「ねえさん」

「……こそ、落ちずに合格できたの?」

「うるっさいわね。最終的に合格すりゃ良いのよ」


 学校サボってる小学生のガキ如きに、なぜ大学生が言い負かされているのだろう。真紀はムキになって少年に詰め寄った。


「この際教えてあげるわ。本当に大事なのは……」


 そう説教を始めようとした所で、またしても着信が入った。今度は携帯の画面が見えた。「家」とだけある。少年はやはり拒否を押して、そのまま携帯の電源も切ってしまった。


「……しつこいね」


 言い掛けた説教が引っ込んで、代わりに当り障りのない言葉を選んだ。少年は答えず、携帯にコーヒーが沁みていない事を確認すると、無造作にリュックに詰め込んだ。


 真紀は次の言葉を選んでいた。抑えてはいたが「家」の詳細が知りたかった。詮索するまいと思っても、考えが止まらない。家という事は、恐らく固定電話だ。掛けてきたのは専業主婦な気がする。主夫かも知れない。または退職した年金受給者か。少なくとも扶養者にあたる人間だ。それを、この少年が呼ぶとすれば。


「……お母さん?」

「違う」


 すぐに返事が来た。少年の表情は硬い。


「なに、喧嘩中? それともお父さんだった?」

「……あれは、親じゃない」


 あれ。

 その冷たい表現に、真紀も押し黙る。

 答えるつもりはないという空気を感じた。


「ふーん、そう」


 真紀は適当に相槌を打って、再度離れた所に座り直した。

 

 確かに、家出少年の家庭事情を詮索するなど下世話も良い所だ。聞いた所で大人ぶって説教するくらいしか出来ないし、真紀は他人に人生を説けるほど偉くない。この子の問題は、きっと真紀の手の届かない所にあるのだ。


 それでも電話の相手が気になったのは、何故だろう。どんな生活をしているのか、学校では友達がいるのか、そんな事ばかり考えるのは自分のエゴなのだろうか。


 喋らなくなった少年の隣が居心地悪くなって、真紀はバックから時間割表を取り出した。何も気にしていない振りをしようと、今日の日程について考える。火曜水曜に目一杯取っていたので、木曜日は三限目だけだ。その後も時間があるし、図書館で宿題でもして、後は久々に教授の所にでも顔を出そうか。


 そう言えば、と勢いで少年に訊いた。


「君さ、今日はどうすんの? 学校サボって、どこか行く当てでもあるの?」


 気になっていたのはリュックだ。小学生のリュックと言えば教科書入れだろうに、少年のそれは遠出用に詰め替えたようにも見える。この少年に家出先などあるのだろうか。そう思ったのだが。


「別に」


 別に。

 この少年はこればかりだ。


「……あっそう。じゃあさ」


 真紀は時間割表をリュックに詰め込んで立ち上がった。何を訊いてもまともな返事が返って来ない少年に、そろそろうんざりしてきたのだ。


「あたしと来る? どうせ三限目始まるまで暇だし」

「は?」

「は、じゃなくて。別に行く所ないんでしょ? 折角だし、君の憧れる午前中フリーな学生生活って奴を味わわせてあげる」

「いや、いいって。別に知りたくないし」

「じゃあ一人でキャンパス内をうろつく? うちの大学はこことか除けば食堂も記念館もIDが要るし、君一人だと外にいるしかないよね。そこでもう一度さっきのオッサンに見つかったら、あぁ、面倒な事になるだろうなぁ」


 そこまで聞くと少年がうっと詰まった。人の話に「別に」ばかり返してきた報いだ。それにしても、クソ生意気なガキを理詰めで言い負かすというのは実に気分が良い。真紀はひらひらと学生証を少年に見せた。


「じゃあ行こっか。なーに大丈夫。オジサンは危ない人じゃないよ?」

「初対面の相手にコーヒー掛けといて、何がだよ」


 文句を言う少年を引き連れ、軽い調子で真紀は足を進めた。

 お気に入りのコースも頭に入っているし、少しは引きずり回してやろう。



 それにしても、コーヒーの件は返す返すも失敗だった。


 ここで引き留めなければ一生後悔すると思い、口より先に手が動き、それより先に躓いた。その結果、少しどころか全部をブチ撒け、警備員にも御用になった。咄嗟の行動とは言え、まったくドジが過ぎる。


 だが、あの状況でもっと上手に立ち回れというのも無理な話だ。

 彼の顔を見た時は、本当に、心臓が止まるかと思ったのだから。



***



 十二月。大学名物のイチョウ並木も紅葉が終わりかけ、黄金の絨毯は掃除機のような機械で掻き分けられている。それでもメインストリートでは多くの観光客が行き交っていた。真紀が最初に少年を連れて来たのもここだ。


「銀杏くさい」

「分かる」


 大学御用達の焼き芋屋でもいればと思ったのだが、タイミングが悪かった。


 暫く歩けば大学創業者の銅像が見えてきた。元は長崎県出身の科学者だとかで、銅像の土台には研究成果や事業実績が彫り込まれている。その文面を少年に説明したが、正直な話、これを読んだのは真紀も初めてだ。


 体を動かせば腹も減る。時間は十二時前。二限目が終わった学生達が詰めかける前にと食堂に向かったが、そう考えたのは真紀だけではなかった。学生や観光客、大学提携先のサラリーマン等が詰めかけて、食堂は既に満席だったのだ。プリペイドカードも兼ねていた学生証で注文を済ませ、何とか空いた席を掠め取った時には、二人とも既にクタクタになっていた。


「どうしたの? 食べなよ」


 プリペイドの内容は日替わりメニューの一律で、今日は季節外れのトマト尽くしだ。だが少年は真っ赤な料理をスプーンで弄るばかりで、ちっとも食事が進まない。もしや、と思って真紀が訊いた。


「嘘でしょ。その歳になって、好き嫌いとか」

「うるせえババア」


 何だとクソガキ。


「まあ、気持ちは分からなくもないけど。でも不味いと思う物に限って栄養ってあるんだよ」

「ビタミンとか食物繊維とか? それトマトじゃなくても良いだろ」

「まあまあ、頑張れ男の子。大人になったら平気になるから、今だけよ」

「じゃああげる」


 そう言って皿に乗せられたのは特大サイズだった。真紀も言葉に詰まる。丁寧に煮込まれていても、黄色っぽい種はもちろん、中身のドロドロ柔らかい部分まで形を残したままで、トマトである事を隠すつもりもない。


「いや、駄目でしょ、自分で食べなきゃ」

「自分だって子供の頃、苦手な物を大人に食べてもらったりしたろ。順番が回ってきたんだって思えよ。それとも食べられないの?」

「はあ? 何言ってんのバッカじゃないの?」


 勘弁して欲しい。真紀だって自分の分だけで精一杯なのだ。しかし躊躇してはバレると思い、さっとスプーンで掬い、口に放り込み、これ見よがしに咀嚼してみせた。少年から注がれる視線は実に冷たい。


「平気って言ったよな」


 真紀は答えずに水を飲んだ。


 そうこうしている内に十二時が過ぎ、今度こそ腹を空かせた学生達が大挙してきた。二人もトレーを下げて食堂を出る。三限目まであと一時間。再びだらだらとメインストリートを歩いた。


 イチョウの葉の撤去作業はまだ続いていた。集められた落ち葉はまた別の機械で集められている。その駆動音が授業中に聞こえてきたとクレームが入った事もあったが、真紀としてはこれはこれで冬の風物詩だと思っていた。


 銅像、食堂、現代アート、武道館。最初に考えていたコースは順調に消化している。文句を言いつつ昼食も済んだせいか、少年の態度も解れてきたような気がした。


「なんか、緑が多いな」

「それは最初に来た時あたしも思った。と言うかあたしの場合、それが目当てでここにしたし」

「そんな理由?」


 少年はイチョウの落ち葉をバサバサと蹴り上げるように歩いている。真紀も面倒で注意はしなかった。


「受験、大変なんだろ? もっと大志を抱けみたいな目標とかなかったわけ?」

「それ別の大学ね。まあ、目標なんて人それぞれよ。何かの為に頑張れるなら、それが何だろうと目標って呼んで良いと思うけど」

「……じゃあ何がしたかったの?」

「何だろうね。でも、別に大志って訳じゃなかったかな」


 真紀は懐かしそうに上を見上げる。空の青、雲の白、枝の黒と、僅かな黄色。これが真新しかった頃は何枚も写真を取ったものだ。


「ふーん……、分かんね」

「分からないもんだよ、他人からはさ」


 この空の写真も、銅像の写真も、武道館の写真も、全て今でも取ってある。ただ風景を撮っただけのようだが、真紀にとってはそこに人間が一人も映っていない事に意味があった。


 あの頃の真紀は、一種の引き篭もりだった。高校を中退し、塾も辞めた。生きる気力もなくなったが死ぬのも怠い。時計の針だけが惰性で進む、何とも無為な日々を送っていた。それでも両親は進学という鉄のレールから外れる事を許さず、真紀は吐いて倒れるまで受験勉強をして、一年、二年と更に時間を無駄にした。


 ここを見つけたのはそんな時だ。無駄に広く、緑が多く、道を選べば人と会わなくて良いのが気に入った。そんな不純な動機で受験に臨み、そして後期で滑り込んだのが今年の春。晴れてこの学生証を手に入れたのだ。


 思い返しても居心地の悪い入学式だった。希望に胸を膨らませる初々しさをウザいとしか感じられないような真紀には、顔見知りすら碌にできなかった。なにせ周りにいたのは、酒も飲まず煙草も吸わない未成年のガキばかり。


 結局レールから離れられなかった真紀だけが、その時二十五歳になっていた。


「うわ、古っ」


 少年の声に、真紀は現実に引き戻された。


 少年が見ていたのは蔦に覆われた煉瓦造りの建物だ。古めかしい建物が多い大学の中でも目立って古い。


「……やっぱそう思うよね。ここ、一応は理学部棟なの。あたし最初に見た時は記念館かと思った」

「理学部棟って、ここに教室とかあるの?」

「他にも研究室とか実験室とか、あとここに住んでる人もいたっけね」

「住んでる? 残業?」

「嫌な言葉知ってんのね。教授とかになると、家に帰るより大学で寝泊まりした方が楽って人もいるのよ。あたしもそんなに沢山知っている訳じゃないけど……」


 時計を確認すると三限目までまだ時間もある。これなら少し寄り道するくらいなら大丈夫そうだ。


「そうね、丁度良いし先に挨拶していくか。もしかしたら君も気に入るかも」


 そう言うと真紀は入り口前の階段を上り、慣れた様子で木製の扉を開いた。重苦しい雰囲気に圧倒されていた少年も、慌てて後に続く。外見に違わず、中も古めかしくカビ臭かった。


「確か教授の部屋は二階だったよね。三階だっけか? いや二階か」

「何が気に入るって? 授業間に合うのかよ」

「大丈夫、大丈夫。ほら、男の子って蜥蜴とか好きでしょ? もしかしたら君も未だにそうなのかなって思って」

「トカゲのホルマリン漬けとか? もう良いって、別に興味ねぇし」

「あれ、ここ前も通ったよね。という事は目印から右手に行って……、待って。この目印、前と位置変わってる? 変わってない?」


 理学部棟は光が入りにくい構造で、薄暗い照明が不気味に廊下を照らしている。真紀が迷うのも気にせず突き進んでいる間も、少年は落ち着かない様子を誤魔化すようにブツブツと文句を言っていた。こうしていると彼も年相応だ。


 だがそれも、目的の研究室に辿り着くと吹き飛んだようだった。



***



「すげぇ! え!? 本物!?」


 台の上に飾られたティラノサウルスの頭蓋骨を前にして、少年は期待通りのリアクションを取ってくれた。百点満点、真紀もまんざらではない。


「化石とかホタテくらいしか見た事ねぇよ! 触って良い!?」

「いや、良くはないでしょ。ねえ教授」

「良いよ良いよ、本物は奥の部屋にあって、ここにあるのはレプリカだし」

「教授?」


 あまり甘やかさないで、と真紀は椅子に座った初老の男を嗜める。だが当の教授は、自分の研究で喜ぶ子供を見ながらだらしない笑みを浮かべるばかりだった。


 少年は巨大な頭蓋骨をベタベタ触り、隣にあったアンモナイトの化石、その隣のタマゴの化石と、部屋一杯に押し込められたレプリカを堪能しまくっていた。


「すみませんね教授。まさかここまではしゃぐとは思ってなくて」

「いやいや眼福だよ。僕らは普段、論文書いたり顕微鏡を覗いたりしてるだけだからね。なんか全て報われたって感じが……、あれ。大丈夫かな僕。ひょっとして今日死んだりする?」

「しないんじゃないですか? 見た事ないくらい艶々してますよ」

「すげぇすげぇコンピーの全身骨格じゃん! マジでこのまま発掘されたの!?」


 二人を他所に、少年の興奮は止まらない。しかし、今何と言った?


「ほう。少年、それに目を付けるとは見どころあるねぇ」

「いやちょっと待って。コン……、何?」

「コンプソグナトゥス・ロンギペス。ジュラ紀にいた小型の肉食恐竜だよ」


 よっこらしょ、と教授が腰を上げて解説を始めた。


「あれ、ロンギペス? 俺クレテイシャスだと思ってたんだけど、別の奴?」

「いや、多分同じ恐竜だね。ふふ、君が何の映画を観てそう言ってるかも分かるよ。でもあれに登場したのは架空の名前なんだ」

「はぁ? 嘘つくなよ天下のスピルバーグ作品だろ? 架空の恐竜なんて」

「いやー分かるなー。でもあの映画に出てくるコンピー、元を辿れば存在しないキメラがモデルになってたかも知れないんだ。だから映画でもヤベェってなって、架空の名前を付けたって言われてる」

「俺てっきり、いやマジか。でもコンピーっぽいのは実在したんだろ?」

「いたいた。因みにクレテイシャスってのは白亜紀って意味で……」


 あっという間に恐竜オタトークが始まった。二人は笑顔で語り合っているが、少年を連れて来た真紀は置いてけぼりだ。


「あの、ちょっと? そこの男子?」


 何度か声を掛けるが聞こえている様子もない。楽しそうで実に結構な事だが、もう良い。ちょうど真紀も疲れていた所だった。真紀は「ちょっとあたし外すから」と言い捨てると、二人を置いてさっさと研究室を後にした。


 教授の元には一時期入り浸っていた事もあり、方向音痴の真紀でもトイレまではすぐ着いた。鏡の前でバックを下ろし、中を漁って薬を探す。そして医者に指定された通りの順番で錠剤を口に放り込んだ。


 錠剤を次々放り込みながら、楽しそうに話す二人の姿を思い出す。少年を案内していた真紀としてはようやく正解を引き当てた事になるが、二時間近くかけて大学を彷徨った苦労が、蜥蜴の骨にも劣ると思うと何やら腹立たしい。


 しかし助かったような気もする。今日はもう体力的にも限界だったし、何よりあの年頃の少年がどこへ行けば喜ぶのか、その辺りは真紀にもさっぱり分からない。無理矢理上げた真紀のテンションも、少年からすれば空回りだったろう。


 清涼飲料で手早く薬を腹に収め、少し溜息を付いて真紀は研究室へ戻った。くさくさしながら、いっそ今日いっぱい教授の所に預けてしまおうかと考えつつ、扉を開けようと取っ手を握る。


 二人の声が聞こえたのは、そんな時だった。


「恐竜図鑑一つないって? どんな家だい、それ」

「ない訳じゃないんだろうけど、俺は見た事ない。もしかしたらオジサンの部屋かも知れないけど」


 手が止まった。

 そのままの体勢で体が固まり、息を殺し、耳を澄ませる。


「そもそも、俺の他に二人いるからな、本当の子供がさ。あいつらは義理で俺を養ってくれるけど、それ以上に自分の子供に『悪影響』がないか心配なんだ」


 少年の静かな声が、やけにはっきり聞こえた。物音からするに、教授は何か事務作業の片手間にその話を聞いているようだ。ぽつり、ぽつりと、話は続く。


「あとは目が気になるんだろ。俺みたいな奴と一緒に暮らしてると知られれば、周りの連中から二人の子供まで変な目で見られる」

「変な目? 虐めって事かい?」

「そんな露骨な行動に出なくてもさ、あるじゃん。目を合わせなかったり、誰も組みたがらなかったり、昼も一人だったり、陰口叩かれたり……、まあ色々」


 本当はもっとあるのだろう。

 二人にではなく。少年自身に。


「面倒くさいよねぇ学校って。本当の親御さんはどうしたんだい?」

「知らねぇよ。覚えてない。でも母親も父親も、まともな人間じゃなかったんだってさ。だから爺ちゃんと婆ちゃんが、俺を親戚に家に預けた。俺に『悪影響』がないように」

「君の言う、周囲の目の事もあったのかも知れないね。まったく失礼なもんだよ。人をバイキンみたいに」

「それな。しかも結局意味なかったし。親と引き離せば、俺が新天地でやり直せるとか思ってたんだろうけど、到着した頃には俺の噂は広まってた。可哀そうに、大丈夫かしら、心配だねってな。はは、死ねよ」


 その気持ちは分かる。真紀の高校生活がそうだった。真紀の目の前で陰口を叩いておいて、すぐさま問い質しても、別に何でもないと白を切る。何マジになってんの、と。


 あれで陰口のつもりだったのか。

 いったいどういう神経をしていたのだろう。

 それとも、おかしかったのは、やはり真紀の方なのだろうか。


「あ!」


 中から唐突に教授の声が聞こえて、直後、理学部棟に鐘の音が響く。

 休み時間が終わったのだ。


「や、やばい、もう時間だな! おーい真紀君! いるかい!?」

「は、はい!」


 咄嗟に扉を押し開ける。

 すぐにやらかした事に気付いた。

 こちらを見る二人とばっちり目が合った。鐘の音が響く中、なんとも言えない空気が漂う。


「……お、おぉ、また随分と早かったね」

「いえ、あたしも、そろそろ時間かなって思ってて」


 白々しく言い訳をするが、少年は気にもしていない様子だった。座っていた机から飛び降りて、素知らぬ様子で真紀の隣に収まる。


「じゃあな教授、約束だぞ」

「ああ、待っててくれ。終わったらすぐ取り掛かるからね」

「え? ちょっと何の話?」

「すまない、僕これから講義の準備をしなくちゃ。真紀君、また後でね」


 狼狽える真紀を置いて、少年はさっさと研究室を出て行き、教授もバタバタと奥の部屋に引っ込んだ。取り残された真紀は教授に詳しく話を聞こうかと迷ったが、結局は声を掛けそびれたまま少年の後を追った。三限目は教養棟だ。走っても間に合うかギリギリだろう。



***



 実に気まずい空気のまま、二人は教養棟で数学史の講義を受ける事になった。講義の内容は真紀の頭にさっぱり入って来ず、隣で眠そうにしている少年も一言も喋らない。結局講義が終わり、二人で中央図書館に来てからも、少年の様子は変わらなかった。


「どう? 良い本見つかった?」

「別に」


 少年が持ってきたのは大判の恐竜図鑑だ。宿題を進める真紀の隣に座ると、何故かラテン語だらけの索引から目を通していく。そして一通りなぞった後で、ようやく本文を読み始めた。


「あのさ。さっきは教授と何の約束したの?」

「コンピー、化石のレプリカ俺にくれないかって。いくつも複製を作ってて、余っている物もあるって言ってたから」

「はぁ? 駄目でしょそんなの。教授、また甘やかしやがって」

「ちょうど今日、新しいレプリカが完成する所だったんだって。講義が終わったら仕上げに取り掛かるから、そしたら飾ってあった古い分は俺にくれるって。だから今日の五時には、またあそこに寄るから」


 図鑑から顔も上げずに、少年は淡々と事情を説明する。

 真紀はもう一歩踏み込んだ。


「……他には、どんな事を話したの?」

「別に」


 淡白な反応だ。少年は変わらず、眠そうに図鑑を眺めるばかりだった。


 今の「別に」は、どういう意味だろう。真紀の盗み聞きはバレていたが、聞かなかった事にしろという意味なのか。それとも必要な事は話し終えたという意味なのか。この少年と話していると、考える事がいちいち多い。


 だが折角話してくれたなら、そのまま口を滑らせて欲しかった。もし少年が敢えて教えてくれたのなら、真紀も少しは口を挟みたい。家庭の事なら尚更だ。


 研究室での話を聞いている限り、少年はもっと自己主張して良いと思う。親というのは割と鈍感な生き物だ。はっきり言わないと分からないし、何ならはっきり言っても分かってくれない。真紀の場合もそうだった。


「……」


 少年は相変わらず眠そうにページをめくっている。真紀は衝動的に失言をしないようにと、誤魔化すように遠く眺めた。


 授業中の時間だからか、生徒も少なく静かなものだ。いるのは新聞を読みに来た高齢者、真紀のような自習組、後はオープンキャンパスで来ている女子高生くらいだ。友人数人で来ているのか、静かにしようとはしていたが、楽しそうで、少し眩しい。


 あんな頃が自分にもあったっけ、とぼんやりノートに視線を戻した。そう言えば、真紀が妊娠したのもあれくらいの歳だった気がする。


 別に、珍しい事でもなかったと思っている。


 確かに計画的にやった事ではなかった。妊娠検査薬で陽性反応が出た時は、それこそ二人して大いに慌てたものだ。しかしそれでも真紀は子供を産むと決め、悠斗はそれを喜んでくれた。色々あるだろうけれど、これからは二人で頑張っていこうと。


 だが、その若い決意は「気の迷い」であると断定された。気付いた時にはハメられ、外堀を埋められ、そして大人達に袋叩きにされた悠斗は、二度と真紀の前に姿を現す事はなかった。


 真紀に残されたのは子供だけだった。他の全てを犠牲にしてまで産んだ子だ。これだけは護らなければと思った。実際、他の全てが敵になっても、子供と過ごす時間は真紀にとって安らぎだった。それも当然だ。この子を産む為だけに、他の全てを、犠牲にしたのだから。


 そんな風に考え始めた時点で、真紀は既に限界だったのだろう。


 今となっては記憶も朧気だ。それでもはっきり覚えているのは、悪魔にでも会ったかのような目で真紀を見る、自分の子供の怯え切った表情。そんな顔を向けられた事が、そんな顔をさせてしまった事が、悲しくて悔しくて、どうしようもなかった。


「……ん?」


 いつしか、少年は恐竜図鑑を枕にして、静かに寝息を立てていた。流石に疲れてしまったのだろう。思えば慣れない場所を随分と歩き回せてしまった。


「お疲れ様……」


 自分のコートでも掛けてやろうかと思ったが、再び、ぐっと思い止まった。手は動いてくれない。少年に触れるのが、怖かった。


 真紀は自分で決めて子供を産んだし、傷つける事など考えもしなかった。だが、実際に傷つけてしまった。それ見た事かと両親に引き離され、真紀はあれから子供に会った事がない。


 真紀は激怒した。だがそれと同時に、悔しかった。自分がそんな人間だとは思いもしなかったのだ。だからこそ始末が悪い。つまり真紀は、自分の行動を制御できていないのだ。


 もし、万が一、偶然にでも、自分の子供と再会できたとしても、真紀は本当にその子を傷つけずにいられるだろうか。


 頭を撫でて、抱きしめて、大好きだと伝えたい。だが同時にひどく恐ろしい。もし傷つけたら、もし拒絶されたら。きっと真紀は、二度と立ち直れないだろう。



***



 声が聞こえる。


 扉の向こうから聞こえてくるのは、母と祖母が言い争う声だ。母といってもその声は若い。二人で歩いていると、よく年の離れた姉弟と見間違えられるくらいだ。


 母は毎日、夕方頃に帰ってきた。いつも疲れ切った状態で帰って来るが、それでも直人が駆け寄れば笑顔を見せてくれて、抱きしめたまま頭をグシャグシャにしてくれる。休みの日は二人でゲームをして、ヒーロー番組のテーマソングを歌って、公園で取っ組み合いをして、そんな母との時間が直人には堪らなく幸せだった。


 だが祖母は顔をしかめるばかりだった。一日の大半を学校に行っている母に代わり、直人の世話を焼いてくれたのは祖母だった。その祖母が言い聞かせるのだ。これは異常だ。間違っていると。


 何が間違っているのかは分からない。直人は気にもしなかった。だが母は気にしていた。家でも、学校でも、公園でも、皆が母を悪く言う。辛そうな母を見て、僕はお母さんが大好きだよ、なんて子供ながらに何度も励ました。母の笑顔は、どこか寂しそうだった。


 声が聞こえる。直人が寝たフリをすると、毎晩のように声が聞こえる。いつからか母から笑顔が消えていき、抱きしめても頭をグシャグシャにしてくれなくなった。直人がいくら励ましても、か弱く頷くばかりだった。


 そして、その夜は声が聞こえなかった。


 妙な重みを感じて直人は目を覚ます。暗がりの中で、大きな影が自分に覆い被さっていた。意識は何故かはっきりせず、体も痺れて動かせない。ただ怖くて、恐ろしくて、声にならない悲鳴が喉から洩れるばかりだった。


 影から生えた細い腕が、直人に向かって伸びてくる。頬を伝い、喉をなぞり、直人は息が出来なくなった。


 そして、遂に直人は恐怖を押しのけた。

 大声で叫んで意識をはっきりさせ、のしかかる影を突き飛ばす。

 その直後、誰かが電気を付けたのか、ばっと光が目の前を埋め尽くした。



「………!!」



 その見開かれた目を、直人は覚えていた。


 あの時はそんな母の目すら恐ろしかった。だが今ははっきり分かる。これはまるで、怯え切った子供の顔だ。


 冷水でも浴びせられたかのように意識がはっきりした。大学の中央図書館。恐竜図鑑を枕にして、直人は居眠りをしてしまったらしい。


 そして、起き抜けに、いったい何をした。真紀の手を振り払ったのか。それともまた叫んだのか。絶望したような彼女の顔を見ていると悪い想像が止まらない。そんな顔を向けられた事が、そんな顔をさせてしまった事が、悲しくて悔しくて、どうしようもなかった。


 直人はどんな言葉を掛ければ良いか分からない。だがそれよりも先に真紀が落ち着いた様子だった。少なくとも、一瞬そう見えた。


「大丈夫? うなされてたみたいだけど、悪い夢でも見た?」


 茶化すように真紀は言う。だが、何も落ち着いてなどいなかった。


「さ。あたしの宿題も終わったし、そろそろ教授の所に戻ろうか。ああ、図鑑は自分で戻してね。あたしも自分の本を返してこなきゃ」


 口調は変わっていないが、何故か空気が冷え切っている。真紀はさりげなくやっているつもりでも、直人にはすぐに分かった。さっきまで開きかけていた扉が、いつの間にか閉じていた。もう二度と開かない。手の届く所にさえ来ないだろう。


 図書館を出て、二人は再び理学部棟へと向かう。だが真紀は心なしか早めに歩き、直人は遅れ気味に追い掛けた。真紀は殆ど喋らない、こちらを見る素振りも見せない。直人は今になって、ずっと気を使われていたのだと気付いた。


「少し時間あるけど、もう行こうか。帰りが遅くなったらまずいよね」


 取ってつけたように真紀が言う。直人が帰るという事をはっきりさせる為の念押しだ。言葉の一つ、仕草の一つ取っても、念入りに保険を掛けていくような臆病さが見えた。だが、それでは困るのだ。


 脇目も振らずに理学部棟に着いて、真紀はさっさと木製の扉を開いて中に入る。直人も無言で後に続いた。


 真紀の背中を見ながら、直人は焦った。このまま用事だけ済ませて帰るなど出来ない。家に黙って飛び出した、その全ての苦労が水の泡だ。


 いるかどうかも分からない母親の情報を探して、直人は深夜に叔父の書斎を何度も漁った。パソコンの起動パスワードを知る為に、大嫌いな従兄弟に対して下手に出続けた。準備を整え、学校に連絡し、根回しも済ませ、そしてやっとの思いで辿り着いたのだ。


「確か教授の部屋は二階だったよね。三階だっけか? いや二階か」


 本当なら、あの夜に突き飛ばした事を謝りたかった。祖父母に縋り付いた事を謝りたかった。そうでなくても、一目で良いから顔が見たい、その一心で来た筈だ。


「あれ、ここ前も通ったよね。という事は目印から右手に行って……、待って。この目印、前と位置変わってる? 変わってない?」


 まさか初手でコーヒーをぶっ掛けられるとは思わなかったが、おかげで普通に話す事も出来たし、直人の現状も報告できたし、向こうの話だって少しは聞けた。ここまで来れたのだ。今更、何もなかった事にして帰る事など……。


「あ、ごめん間違えた。待って、落ち着いて、ちょっと戻るよ」


 ……。

 …………。

 いつまでやってんだこのババア。


「ああ、もう! こっちだよ!」


 勢いに任せて直人は前を歩く真紀の手を握った。

 だがその途端、ばっと振り向いた真紀が力づくで直人の手を振り払った。


「っ、触るな!!!!!!」


 叩き付けるような叫びが、廊下一杯に響き渡った。

 飛び退いた真紀は、息を荒くしながら壁際に張り付いている。

 直人の手は虚しく空を掴んだままだった。


 息が詰まって、涙が溢れそうで、声が出なかった。あの夜と同じだ。傷つけて、傷ついた。真紀も直人もそんな顔をしているのだろう。


 だが、直人はもう子供ではない。たかが十歳でも、力も付いて背も伸びた。ただ泣き叫ぶ事しか出来なかったあの頃とは違う。わななく口をぎゅっと引き結ぶ。


「何が触るなだ、この方向音痴」


 一気に歩を進めて、追い詰められたような顔をした真紀の手をもう一度握った。真紀はびくりと痙攣するが、今度は力強く握られて振り払えない。全身から汗が噴き出て手汗も凄い。当然、直人にもバレている。


「俺は道覚えてるから。ほら、行くぞ」


 ぐいと引っ張られて、真紀は脚をもつれさせながら直人に続いた。


 直人は来た道を戻って、階段も一つ降りる。さっきは気が動転して周囲も見えていなかったが、何を間違えたのか四階にまで来ていたらしい。踊り場で切り返して三階まで下りた所で、直人は壁に掛かっていた布を取る。そこには古びた図面が掛かっていた。


「……そんなもの、あったんだ。よく気付いたわね」

「あるだろ普通、こういう所に。というか道も覚えられないのに地図なしで行こうって方がどうかしてんだよ」


 年上に向かって散々な言いようだ。そして直人は一通り図面を確認すると、軽く頷き、踵を返して更に階段を降り始める。


 真紀も少しずつ落ち着いてきた。気分としてはまな板の上の鯉だ。もうどう調理してくれても構わない。少なくともこうして握られている間は、真紀には何も出来ないのだから。


「酷いな、さっきから。方向音痴とか、どうかしてるとか」


 ……ああ。

 それにしても、子供の手というのは、どうしてこうも温かい。


「じゃあ、エスコート頼むよ、男の子」


 真紀はぎゅっと直人の手を握り返した。一瞬直人の手が強張るが、すぐに今まで通り真紀の手を引き始める。身長差のある二人では手を繋いでいるのも一苦労で、えっちらおっちら歩きにくそうに廊下を進む。それでも何だか楽しくなってきて、自然と足取りも軽くなった。


 真紀は結局何もできなかった。ここぞという所で勇気が出せず、その場の勢いで動くばかりだ。だが、何故だか満たされていた。自分という小さな女が欲しかったのは、本当に些細でつまらない物だったらしい。これで別れても、明日も生きていけそうだ。そんな風に思えていた。しかし。


「や、悪いね。本当にごめん」


 パンと教授が手を合わせて謝った。

 二人は茫然として立ち尽くす。


「今日の講義だったんだが、何故だか思いの外伸びてね。個別何だかとか、特別何某とかが追加で組まれて全然終わらなかったんだ。申し訳ない」

「え? じゃあコンピーは? レプリカは?」

「まだなんだ」


 直人はがっくりと肩を落とした。がっくりと肩を落とす、なんて物を真紀がリアルで見るのは始めてだ。いや、いやいや、そうではない。


「そいつはまずいよ教授。家に郵送する訳にも行かないし、というか複製作業はいつ頃終わりそうなの?」

「それがね、急にあれこれゼミのスケジュールが入れられて結構遅れそうなんだよ。そうだねぇ、多分、あと一週間くらいは掛かるかな」

「そりゃないよ。今日には終わるって言ったじゃんか……」

「僕も悪いと思ってるよ。この通りだ。だからさ」


 教授は手を合わせたまま、少し気まずそうに言った。


「また来てくれないかな」


 その言葉に、真紀も直人も呆気に取られた。また、来る。そんな選択肢があるとは思っていなかったのだ。直人が迷っていると、握っていた手が少し強張る。それで直人も心を決めた。


「分かったよ、また来る」

「そう言って貰えると助かるよ。ああ、今度は土日に来て欲しいな。その方が僕も時間が取れるしさ。入構証は……」

「はいはい、あたしが申請しておく。今度は駅についたら連絡してよ。構外まで伸びてる連絡バスはあるんだけど、一応さ」

「そう言えば僕、君の連絡先も知らないな。っと携帯も忘れた。悪いけど、先に交換しておいてくれるかい? それで僕にも教えてくれよ」

「あー、連絡先ね……。そっか、うん、そう言えばそうよね……」


 真紀が気まずそうに携帯を起動させる。直人も少し迷った後、リュックから携帯を取り出した。そして改めて向き合う。何故だろう、今更ながら緊張してきた。


「良い?」

「別に」


 教授の手前、何でもない体を装って連絡先を交換した。


『小鳥遊 真紀』

『小鳥遊 直人』


 登録された互いの名前を見て、二人は何とも言えない顔をした。これを教授に見せようものなら流石に隠し切れなくなるだろう。だが仕方がない。きっと、いずれは解決しなければならない問題なのだ。


 その時は、そう。

 白々しく、自己紹介からでも始めてみるとしよう。

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木曜日 あなぐま @anaguma2748895

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