第16話 いともたやすく行われるえげつない行為 その4
目覚めは決して快適ではなかった。
夏に向けていよいよ力を増す太陽は朝早くから絶好調で、これからもっと暑くなるのかと思うとゾッとさせられる。
あと、重い。
いや、重くはない。
誰が何と言おうと重くない。
本能が『重い』という単語を拒否した。
口に出そうなんて、これっぽっちも考えなかった。
「……あれ、寝てた?」
ぼんやりした頭と定まらない視界に煩わしさを覚えた。
おまけに口の中は苦みが強くて、喉はカラカラ。
さらには記憶が微妙に曖昧だった。
――えっと……昨日、
夢のようなシチュエーションは、まったくもって夢ではなかった。
暖かくて、柔らかくて、そして男の本能を刺激する感触。
肌と肌が触れ合って、かすかな吐息を感じる。
夜通し
葵は今も、そこにいた。
蓮は――耐えた。
一晩中耐えた。
『もう我慢しなくてよくない?』なんて脳内悪魔の囁きに耳を貸すこともなく。
『据え膳食わぬは男の恥では?』なんて脳内天使の教えに耳を傾けることもなく。
徹夜することになるかと恐れていたのだが、どうやら途中で気絶していたらしい。
よく考えてみると別に耐えたわけではないのだが、結果良ければすべてよしとする。
「まぁ、いいや」
自力で夜を過ごしたとは言えなかったものの、結果に不満はなかった。
靄がかかっていた頭の中が次第にはっきりしてきて、枕元の眼鏡をかけて葵を見やった。
無防備すぎる、でも、幸せそうな寝顔。
この顔を守ることができてよかったと、心の底から思った。
「ん……んぁ」
言葉にならない声とともに、伏せられていた葵の目蓋が上がる。
焦点の合わない瞳が蓮を映す。蓮の瞳も葵が映った。
「おはよう、葵さん」
「……おはよう、蓮?」
起きたばかりの葵は状況を把握できていないようで、そんなところも微笑ましくて――
「ぐう」
蓮を枕に二度目を極めそうになった妻のこめかみを、握り締めた両の拳でぐりぐりと挟み込んだ。
早朝の古谷家に、何とも表現し難い悲鳴が響き渡った。
★
「酷くないか?」
「酷くないよ」
シャワーを浴びた葵は、憮然とした表情を隠そうともしない。
そんな葵を正面から見つめ返す蓮も一歩も引くつもりはない。
「いや、酷いだろう。私を酔わせて押し倒して、蓮がそんな男だったとは……」
「そのストーリーは無理があるんじゃないかな、あの体勢から考えるとさ」
「……」
謂れのない誹謗に反撃すると、葵はプイっと横を向いてしまった。
濡れた髪を下ろしている葵は、いつもより大人っぽい雰囲気が……なかった。
拗ねているし、耳まで真っ赤だし。頬を膨らませているあたりは、どうにも子どもっぽい。
「葵さん、どの辺まで覚えてる?」
「……そんなに飲んでないつもりだったんだが」
「あれ見ても、そう言える?」
蓮が指さした先は、昨晩ふたりで飲み明かした残骸が占拠するテーブルだった。
空のビール缶が建ち並んだり転がったりしている。
世紀末的な廃墟に見えなくもなかった。
「ふたりで分けたのだから、それほどは……」
「ちなみに僕は最初の一本しか飲んでない」
「え? でも……」
「途中からずっと麦茶だったし。あれ飲んだの、ほとんど葵さんだったよ」
「だ、騙したのか、蓮!?」
「人聞きが悪すぎる」
ため息を吐きながら、肩を竦めた。
よくよく考えてみれば、昨夜の流れは当然の帰結と言えなくもない。
もともと蓮と葵の夫婦生活は酒の失敗から始まっているのだ。
ちなみに蓮は昨夜それとなく葵を止めようとしていた。
……まったくもって聞き入れられなかったが。
「ほんと、ふたりっきりでよかった」
「蓮がいないところで、あんな真似はしないぞ」
信頼溢れるセリフに聞こえるが、このタイミングでほしい言葉ではなかった。
――後で小日向さんに頼んでおこうか。
『小日向 愛華』は葵の親友にして、今は蓮たちの婚姻届にまつわる一件の犯人捜しにおける協力者だ。
もともと彼女には葵のことを頼んではいる。
社会人である蓮と大学生である葵は生活を常に共にすることができない。
特に蓮が不安を覚える葵の大学がらみの部分においては、愛華の協力を仰ぐのが手っ取り早く安心感がある。
昨晩の葵の酒乱ぶりを目のあたりにして、念を入れておく必要性を感じた。
「とにかく、あれだね、あれ」
「あれ?」
「禁酒」
「……蓮が?」
「どう考えても葵さんが、です」
酒を控えて正気を維持した蓮。
盛大に酔っぱらった葵。
どちらが問題かなんて、火を見るより明らかなのに。
――葵さん、意外と往生際が悪いな。
「なっ!? そ、それは……蓮、お前がそんなに酷い奴だなんて」
「そのくだりは昨日もやったけど、別にそこまで酷くなくない?」
「だって、私に飲ませずに自分だけ飲むんだろう? 私の前で。そんな悪魔じみた所業を……私は悲しい」
「……」
葵の言葉にも一理あると思ってしまった。
酒を断っている妻の前でビールを呷るなんて……それは夫以前に人としてどうかという気がしなくもない。
昨日はちょっとやり過ぎた。猛烈に反省している。
だから――
「わかった」
「わかってくれたか。さすがは蓮」
「僕も付き合うから」
「む?」
「禁酒。僕も……もう飲まない」
毅然と言い放ったつもりではあったが、内心では断腸の思いだった。
今日(6月)の段階ですでに十二分にクソ暑いわけだが、日本はこれから7月8月と太陽の勢力はいや増しに増す一方。
毎日の仕事を終えて帰ってきて、そこにビールがあれば幸せを感じる。
夏というのは、そんな季節なのだ。
このタイミングで酒を断つなど、想像するだけでゲンナリする。
――仕方ないよな。葵さんだけ飲ませないってのは、さすがに可哀そうだし。
「な、何でそうなる!? ふたりで一緒に飲めばいいじゃないか」
「それで毎回毎回さっきみたいになるわけ? さすがに勘弁してほしいんですが」
「……蓮は、私と寝るのが嫌なのか?」
上目遣いがワザとらしかった。
可愛いと思ってしまうから始末に負えなくて、だからと言って何でもかんでも許してしまってはいけないと心を戒める。
「拗ねてもダメだから。そういうことは順序だててやろうって話し合ったでしょ」
「それは、そうだけど……でも……」
「とにかく酒はダメ。僕も我慢するから、葵さんも我慢しよう?」
「どうしても?」
「どうしても。たったあれだけのビールで正体を失うとか、怖くないの?」
「え? いや、私が言うのも何だが結構飲んでないか?」
「……そうかな。あれぐらいで意識を飛ばすとか……葵さん、かなり弱いと思うんだけど」
「はぁ~~~~~~?」
葵の反応に首を傾げた。
どうにも話が噛み合わない。
――お酒に弱いのに好きってのは構わないけど、さすがに危ないよなぁ。
蓮は好んで酒をガバガバ呷ることはしない。
ビールなら一本あれば満足できるくらい。
だからと言って飲めないわけではない。
たかがビール数本で記憶が定かでなくなるなんてことはない。
同窓会の時は参加費の元を取るために相応の量を口にしたし、酒の種類もちゃんぽん気味だったから悪酔いしただけ。
あの日以来、あんな質の悪い飲み方はしていない。
「とにかく、ダメなものはダメ。これは譲れません」
――僕だって、いつまでも耐えられるわけじゃないし。
酒は我慢できるだろうが、きっと葵を我慢できない。
前回と今回は耐えられたが、次も耐えられるとは限らない。
失敗しようが反省しようが、どうにもならないことはあるのだ。
ここを退くわけにはいかないと葵と真剣に向かい合う。
正念場だと思った。
せめて、もう少しマシな正念場だったら……と思わなくもなかった。
「……わかった。私も蓮に負担をかけることを望んではいない」
あまりにも悄然とした葵を見ていると、胸が苦しくなる。
擬態に見えなくもなかったが、それはきっと邪推に違いない。
だから――つい口が滑った。悲しむ葵を見ていられなかったから。
「ま、まぁ……僕とふたりの時に、ビール一本ぐらいなら」
「ほんと?」
「……完全に酒を断つよりも、自分の酒量を弁えた方がいいという考え方もなくはないし」
ぱーっと葵の顔が明るくなった。
しゅんとしているよりは、そっちの方がいいと思った。
嬉しそうな葵を見ていると、口元が緩む。
ついでに気も緩んできた。
「うんうん。話がまとまったところで……そろそろ、おやすみ」
「蓮!?」
「いや、なんか寝足りなくて……かなり意識が危ない」
目をつむっていたから時計なんて見ていないし、どのあたりで気を失ったのかは覚えていなかった。
どうやら睡眠時間そのものは決して長くはなかったらしい。
さっきから色々とヤバかった。
「せっかく来てくれたのに、ごめん。もうダメ」
眼鏡を外す間もなくベッドに倒れ込んで、目蓋を閉じるなり意識は闇に溶けた。
遠くから葵の声が聞こえてはいたのだが、返事をする気力は残ってなかった。
私たち、結婚し(テ)ました! ~ふたりで始める幸せ生活~ 鈴木えんぺら@『ガリ勉くんと裏アカさん』 @hid
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