第15話 いともたやすく行われるえげつない行為 その3

「それじゃ改めて、かんぱ~い!」


 ふたりでビールの缶を打ち鳴らす。

 鈍い音。プルタブを開ける音。しゅわしゅわ。喉を鳴らす音。


「くぅ~~~~~」


「はぁ、最高」


 蒸し暑い中をコンビニまで足を延ばしたれん

 買い物に行った夫(と自分)のために台所でつまみを用意していたあおい

 どちらの肌にも汗が滲んでいて、冷房が効いた部屋とビールの組み合わせが、ことのほか効いた。


 食卓の上は――割と雑多なことになっている。

 蓮がコンビニでついでに買ってきたおつまみやら駄菓子と、葵の料理がごちゃまぜ状態。

『これはこれで悪くないけど、酒が入ったときにコンビニに行くのは考え物だな』と蓮は心の中で呻いた。ついついあれこれ買い込んでしまって、レジに表示された金額を見たら割とガチ目に酔いが醒めた。

 ……まぁ、それはそれとして。


「すまないな。あまり大したものは作れなかった」


「いや、それは僕が用意を怠ったからだし……唐揚げ、まだたくさんあるし」


「でも……その……」


 悄然と俯いた葵の手に握られたビールの缶に、蓮はそっと自分の缶を当てた。


「おいしく飲もうよ。僕は別に葵さんが悪いとは思ってないけど……申し訳なく思ってるのなら、次に頑張ってくれればいいじゃない」


「次……そうだな、次があるか」


 葵の瞳に輝きが戻ってきた。

 そう、ふたりには次がある。

 何と言っても結婚しているし、仲もいい。

 こんな日はこれから何度だって訪れる。


「そうそう、次に期待ってことで」


「……来週もまた飲む気なのか、蓮?」


「……」


 しれっと言質を取ろうとしたが、そんなにうまい話はなかった。

 暑い夏、週末にふたりで酒を飲む。

 そのままなし崩し的に平日も……


「あは、あはははは……」


――無理か~


 勢いあまって『次』を連呼しすぎた。

 ごまかしの言葉が思い浮かばなくなると、笑うしかなくなる。

 葵はチョロいところがあると思っていただけに……半眼で睨まれている現状は割と誤算だった。


「ま、かまわんが」


 上品にビールを啜りながら、葵は微笑んだ。

 ちょっと罪悪感を覚えていただけに、許されたことに感動した。

 感極まって口が勝手に言葉を紡ぐ。


「葵さん……僕、葵さんと結婚できてよかった!」


「それはまた別のタイミングで言ってほしい」


「あ、はい」


 声が平たかった。さっきよりも機嫌が悪くなった。

 よくよく考えるまでもなく、今ここで口にするべき言葉ではなかった。

 どうやらアルコールのせいで箍が外れているらしいと思い知らされた。


「ま、言われて悪い気はしないがな」


 そんなことを言われてしまうと、『今度はもっとムードがあるところで……』などと真顔で考えさせられてしまう。

 何だかんだで、やはり夫婦仲は良好だった。





「だ~か~ら~、わかるか、蓮?」


「うんうん、わかるよ葵さん」


 横合いから肩を掴んで揺らされると、頭はぐわんぐわんするし視界がヤバい。

 リバースする様子はないのが救いと言えば救いだった。

 

――どうしてこうなった……


 同年代の男性の中では、やや華奢な印象がある蓮の肩をがっしり掴んでいるのは葵だった。顔は真っ赤で息は酒臭い。テーブルには空になったビール缶が並んでいる。

 買ってきたおつまみも葵自身が作ったおつまみも、乱雑に食い散らかされて無残な様相を呈している。

 時計を見ると――ふたりが酒盛りを始めてから、まだ一時間ほどしか経過していない。


「わかってくれるか、蓮」


「うんうん、わかるよ葵さん」


 まったく同じセリフを返したが、葵は気付いた様子はなかった。

 ビールを口に運び、残っていた最後の唐揚げを豪快に齧る。

 ちなみに……蓮は何もわかっていなかった。

『ろれつが回ってない酔っ払いの言ってることなんてわかるわけないだろ』と言うのが夫の本音だったが、さすがにそれを当の酔っぱらった妻にぶちまけるほど分別がつかないわけではなかった。

 蓮はコップに口をつけた。

 氷が浮いた茶色の液体は――ただの麦茶だった。

 あれだけ渋っていたにもかかわらず葵の飲酒ペースはかなり早かったので、同じペースで飲んでいたらふたりまとめて潰れるかもしれないと思い、途中から蓮は酒を口にしていない。

 もともと量を飲むタイプでもない。

 毎日の晩酌だってビールひと缶が精々で、それも半分ほどで持て余し気味。

 クソ暑い夏限定で、仕事の帰りにちょっとだけ欲しくなる。そういう人種なのだ。


「さすがは蓮」


「うんうん、葵さんの旦那だからね」


 何が『さすが』なのかは理解不能だった。脈絡がなさすぎた。

 大学の講義の話から始まって同級生の話になって、蓮の仕事の話になって、夏季休暇の話になったあたりまでは覚えていたのだが……この時点で色々とメチャクチャだったので、まともに考えるのはやめていた。


「そんな蓮にはご褒美だ!」


「はぁ……それはどうもお気遣いッ」


『お気遣いなく』と最後まで口にすることはできなかった。

 身体の半分が、いきなり熱くなる。

 暖かくて、柔らかいものが――葵がしがみついてきたから。

 筋肉が主張しないしなやかな葵の腕が巻き付いてくると引きはがせなくなる。

 酔っぱらっているくせに、あるいは酔っぱらっているからこそ腕力がえげつなかった。


「葵さん、ちょっと……苦しいんだけど」


「そう、蓮に会えなくて毎日が苦しいんだ」


 相変わらず会話が噛み合わない。

 それを笑って許してあげられないほど唐突に訪れた窮地だった。

 ふたりは同い年で蓮は男で葵は女……なのだが、物理的な力に限定するならば蓮は葵に勝てない。

 剣道の道場を実家に持ち、幼い頃から竹刀を振ってきた葵。

 一般家庭に生まれ、これと言って特技を持たない蓮。

 鍛え方が根本的に違っているのだ。

 夫として男として情けないと思うし、筋トレぐらいはした方がいいのではないかとも思うのだが……実行に移されることなく現在に至っている。


「あ、葵さん、お願いだから……」


「蓮~蓮~」


 ぎゅっと抱きしめられたまま押し倒された。

 鍛えられているとは言え、葵は年頃の女性でありスタイルは抜群で、しかもとある部分は強烈にその存在感を主張している。

 密着すると否応なくその感触を味合わされるわけで……しかも、酒が入って程よく体が暖まっているときたら……


――これ、天国なんだけどなぁ……


 蓮だって男だ。20歳の健康な男だ。

 年若く美しい妻に抱き付かれて嬉しくないわけがない。

 ……わけはないのだが、残念なことに素直に喜べない事情もある。


「葵さん、寝るならそっち」


 どうにかこうにか引きはがしながらベッドに追いやる。

 もちろん上手く行かない。迂闊に身体を動かすととてもヤバい。

 悲しいことにもともとの腕力差があるし、蓮もアルコールが入っている。

 途中から麦茶で誤魔化しているとはいっても、完全に素面と言うわけでもない。


「そうはいかない~」


 語尾がだらしなくなった葵は、蓮を抱きしめたままベッドにダイブ。

 あまりスプリングのきかない背中の感触に眉を顰めている暇はなかった。

 上に、葵が、圧し掛かっている。思いっきり迫ってくる。


「あ、葵さん!?」


「ふふ~」


 言語野が崩壊している妻が満面の笑みを浮かべながら顔を寄せてくる。

 距離が、近い。

 

「そ、そういうことはしないって言っただろ」


「そういうこととはどんなことなのだ?」


 問われて返答に窮する。

 そういうこととはえっちなことだ。

 結婚当初、ふたりで話し合って決めたことだ。

 葵が蓮に恋するまで、蓮が葵を惚れさせるまで、そういうことはナシにしようと。

 どうやれば葵を惚れさせることができるのかと言う問題には一向に答えを見出すことはできておらず、その方面については猛省しながら対策を模索している最中なのだが……


「蓮」


 間近に迫った葵の眼差しは、いつになく真剣だった。

 ……頬が赤く染まっているのはアルコールのせいで、顔に吹きかけられるのはビール交じりの吐息だったから、雰囲気も何もあったものではなかった。


「葵さん……酒の勢いってのは、ダメだと思うッ!」


「……」


 焦れた葵がしびれを切らしたか、ついに実力行使に出たか。

 ぎゅっと目を閉じたまま最後まで抵抗してみたが……返事がない。

 恐る恐る目を開けてみると、先ほどまで蕩けていた葵の目じりは閉じてしまっていた。

 しかもそのまま崩れ落ち、蓮の胸にほおずりしながらすやすやと寝息を立て始めたではないか。


――た、助かった……のか?


 ギリギリのところで助かった感があり、天井を見つめてため息ひとつ。

 夫婦で晩酌と言うのはなかなか憧れるシチュエーションではあったが、こんなことになるのなら禁酒も已む無し。葵を巻き込んで毎日の飲酒を認めさせる案は却下せざるを得ない。

 物事には優先順位があり、蓮は酒の力を借りて葵との関係を進めようとは考えていなかった。

 それはきっと、ふたりの間に大きなしこりを残すことになると考えているから。

 ……などとめんどくさいことを悩んでいたから、蓮は気付いていなかったのだ。

 ここからが、本当の地獄の始まりだということに。


 夜はまだ、長いのだ。

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