第14話 いともたやすく行われるえげつない行為 その2

 さて、夕食時である。

 古谷ふるや家の今晩の献立は、スーパーで話し合ったとおり唐揚げだ。

 大量の唐揚げが大皿にでんと乗っている。揚げたてアツアツ。

 つやつやの白米と豆腐のみそ汁。付け合わせにサラダ。

 そしてあおいの手元には麦茶が満たされたコップがあり、れんの手元には銀色のビール缶があった。


「はぁ、これで最後か……」


 キンキンに冷えたビール缶に目を向けて、蓮は憂鬱なため息を吐いた。

 ここ最近記憶にある限り、これほどに心が沈んだことはなかった。

 葵に会えない日々よりも、机に積み上がる仕事よりも、押し付けられる残業よりも深い悲しみに包まれる。


「私が帰る時より切なそうな眼差しを向けるのはどうかと思うが」


「ビールに嫉妬しないでほしいなぁ」


 冷ややかな視線の葵に返す言葉に力がない。

 葵は冷酷な女性ではなかった。

 決して裕福とは言えない古谷家の事情を鑑み、家計をやりくりして捻出した金で蓮が購入したビールを無情に廃棄するような、そんな非情な妻ではなかった。

 しかし、お互いに酒で失敗した身であることは彼女に暗い影を落としていて。

『この一本だけは認める』と渋々頷いてくれたのは、きっと彼女なりの妥協点なのだろう。


「ま、それはそうとして熱いうちに食べよう」


「そうだね」


 ふたり揃って手を合わせて『いただきます』と唱和して。

 さっそく葵の箸が唐揚げの山に伸びた。

 彼女は食事時に遠慮なんてしない。


 カシュ


 その音と同時に、葵の箸が止まった。

 何の音かと問われれば、これは言うまでもなくビールの缶を開けた音だった。

 蓮は妻の異変に気付くことなく、少し遅れて箸を伸ばした。


「あれ、葵さん食べないの?」


「いや、そんなことはないが……」


「そう、それじゃ遠慮なくお先に」


 蓮の箸が唐揚げを掴み、口へ運ぶ。

 噛み千切ると、しっかり味が染みた鶏肉と肉汁そして油が口中に広がった。

 肉の良し悪しはわからなかったが、別に気にすることはなかった。

 唐揚げは美味い。それが愛する妻の手によるものと思えばなおさらで。

 アツアツの旨味が爆発する口の中に、すかさずビールを流し込んだ。


「くぅぅぅ~~~~~、最高!」


 蓮は人目を気にすることなく感動を露わにした。

 これまでの晩酌は葵に対する後ろめたさもあり、ひとりでチビチビと飲んでいるだけのしみったれた酒だったのだが、この一本に関してはちゃんと許可が出ている。

 しかも最後の一本なのだ。

 心置きなく堪能しなければ申し訳が立たない。

 美味の感激冷めやらぬうちに、もう一度唐揚げを齧る。

 さらにビールを追加。唐揚げ、ビール、唐揚げ、ビール。

 これはもう永久機関である。止めようと思って止められるものではない。


「はぁ~~~~、葵さん、暑い中ワザワザ唐揚げ作ってくれてありがとう」


「……」


 感謝の言葉に反応がなかった。

 葵の目は……じっと蓮を見つめている。


「葵さん?」


「蓮……お前は、お前は……酒を禁じている私の前で酷いことをする……そんなに薄情な奴だったなんて思わなかったぞ!」


「ええ~」


 わなわなと身体を震わせて熱弁する葵。

 その瞳の端には(勘違いでなければ)煌めく雫が滲んでいる。

 よくよく目を凝らしてみると、彼女の視線は蓮ではなくビールを捉えていた。


「私は、あれから一度も飲んでないのに!」


――飲みたいって素直に言えばいいのに。


 絶叫する葵を前に、蓮は心の中に思い浮かんだ言葉をそのまま口にするほど迂闊ではなかった。


「大学で誘われたりしないの?」


「……ダイエットしていると言って断っている」


「ダイエットって……その言い訳はおかしくない?」


 しげしげと葵を見やる。

 胸元をはじめ女性的な柔らかさを感じさせる曲線を描いてはいるが、贅肉の類は見当たらない。

 これでダイエットを理由に酒を断るのは説得力がなさすぎる。

 周りの人間がどう思っているのか、今度愛華に確認しておいた方がいいかもしれない。

 愛想が悪いとか評判が広がっていたら、葵の大学生活に影を落とすことになりかねない。

 気の回しすぎかもしれないが……取り越し苦労で終われば、それはそれで別に構わない。

 

「飲み会とか普通にあるだろうし、口実は別に用意しておいた方が良くない?」


「蓮はどうしているのだ?」


「僕? 同窓会で酔っ払って吐きまくって迷惑かけまくったから反省してるって」


 吐きまくってはいないが、半分くらいは間違っていない。

『そんなことはよくあるから』と一笑に付されるわけだが。

 それでも、酒を強要されることはなくなった。

 昔は酷かったらしいと聞いているだけに、ホッとしている。

 最近はアルハラやらパワハラなんて言葉も出てきたから、年長者たちも軽々と若輩者に酒を勧めることはできなくなっている。

 

「あ、でも女の子的にゲロ吐いてるって言うの難しい?」


「正直に言えば勘弁願いたい……」


「だよねぇ」


 男と女。

 差別するわけではないが男なら笑って許されるのに、女だとシャレにならないなんてことは意外とある。

 もちろん逆もあるのだろうが……


「そんなことはどうでもいいんだ! 蓮!」


「あ、はい」


 咄嗟に反応して背筋を伸ばしたものの、葵の口から言葉は続かなかった。

 しばしの沈黙が食卓に降りる。葵はモジモジしながら蓮を見やる。

 正確にはビールにチラチラと視線を送ってくる。

 ややあって――


「その……私にも一滴でいいので、その……」


「一滴って、たったそれだけでいいの?」


「ひと口、いや……ううん、ひと口」


――意思弱ッ!


 もちろん本人には言わない。

 代わりにビールの缶をプレゼントする。

 酒を断っている妻の前でビールを堪能した罪悪感もあった。


「はいはい。意地張らなきゃいいのに」


「しかしなぁ……」


 ビールを受け取ったくせに、葵は煮え切らない。

 両手でギュッと缶をホールドしているので、手放すつもりもないらしい。

 ここは自分が背中を押すべきだろうと思い至って、それっぽいセリフを吟味してみる。


「ここには僕と葵さんのふたりしかいないんだから、何かあっても大丈夫だよ」


「そうだな……うん、その、すまなかった」


『ふたりしかいない』『何があっても大丈夫』のフレーズに、葵は相好を崩した。

 相変わらずチョロいなとは思いはしたものの、余計なことは口にしない。

 せっかく機嫌を直してくれたのだから。


「いいっていいって、はい、どうぞ」


 缶を左手に掴み、葵は唐揚げを口に放り込むなりビールを流し込む。

 豪快な食べっぷり飲みっぷりだが、決して下品に見えない。

 ある種の才能だと思った。


「くぅ~~~~~~~、こ、これは……犯罪的だ。なまじ禁酒してただけに堪らんッ!」


「ご飯はおいしく食べるのが一番だよね。あ、僕も欲しい」


「ほら」

 

 アツアツの唐揚げと、妻から受け取ったビール。

 いまだ夏は本番ではないにしても、ここには確かに幸せがあった。

 ……のだが。

 

「あ、なくなった」


「何だとッ!?」


 缶ビール一本を回し飲みしていたら、すぐになくなるのは当たり前だった。

 ふたりの目の前には依然として唐揚げが積み重なっていて。

 冷房が入っているとは言え、蒸し暑い日だった。

 なお、雨は降っていない。外は明るい。


「それじゃ、僕が買ってくるから」


「……私も行く」


 さんざん文句を垂れてきたせいか、とてもとても言いづらそうだった。

 そんな葵も可愛らしいと思う。いわゆるギャップ萌え。

 しかし、これには素直に頷けない。


「ダメ」


「何でだ!?」


 速攻で否定すると、葵は食卓に手をついて激高した。

 そこまで怒ることかと呆れはしたが、理由の説明は必要かもしれないと思い直した。

 ……あまり言いたくはなかったのだが。


「蓮!」


「いや、その……酔ってる葵さんを外に連れ出したくないって言うか」


「みっともないからか?」


「そうじゃなくって、その……可愛いし、無防備だし」


「……」


「えっと、ただの独占欲と言うか、人に見せたくないな~って言う感じ、です」


「……」


 思うところを素直に口にしたら、葵は黙りこくってしまった。

 頬が真っ赤に染まっているのは、きっとアルコールのせいだけではない。


「そういうわけで、僕が買ってきます」


「うん。私、その……適当に何か作っておくから」


「僕も何かおつまみを見繕ってくるよ」


「はい。いってらっしゃい」


「いってきます」


 ふにゃふにゃになってしまった妻を置いて家を出る。

 湿り気と熱気を帯びた空気が纏わりついてくるものの、葵が待っていると思えばどうということもなかった。

 アルコールが回ってる中で料理と言うのは危険ではないか。

 コンビニに向かう途中で注意喚起のメッセージを送ったら、即座に反応があった。


『蓮、私のことを子ども扱いしすぎじゃないか?』

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