第13話 いともたやすく行われるえげつない行為 その1

れん……これは何だ?」


 土曜日の昼であった。

 いつものように訪れたあおいを駅まで迎えに行って、一緒にスーパーで買い物をして、あれやこれやと話をしながら帰ってきた。

 結婚したての頃は週末ごとに妻がやってくる状況を上手く受け止めることができていなかったように思われたが、なんだかんだ言って蓮はこの特殊な状況に慣れ、適応できている。

 充実している。

 そんな自覚があった。

 まぁ……気になることはないでもない。

 例えば、そろそろ夏も近いのに葵の口から大学の試験に関する話題がまったく出てこない件とか。

 例えば、彼女の親友である『小岩井 愛華こいわい まなか』が葵の浮かれっぷりに辟易していることをどう伝えたものかなんて話とか。

 物事に100パーセントはない。

 だから、ひとつひとつ問題は解決していけばいい。

 マルチタスクは疲れるし、別に急ぎというわけではない。

 焦らず騒がず、ゆっくりゆっくり……心の中で言い聞かせている自分が問題を先送りしているだけという自覚はあった。


 閑話休題。


 やたらと蒸し暑い日だった。

 だから、新婚夫婦のごとく(実際新婚夫婦である)スーパーの店内を回っているうちに、『今日は肉がいいな』という話になった。

 肉はいい。パワーの源だ。

 決して魚が嫌いというわけではないが、無性に肉が食べたい気分だった。

 しかも、ちょうどいいタイミングで鶏肉が安かった。

 ならば『今日は唐揚げにしよう』と頷き合って、家に帰るや否や葵はキッチンに向かった。

『熱い日に熱い揚げ物は大変じゃないか?』と思いながらも、葵もまたノリノリだったので、『まぁ、いいか』ってな具合でパソコンを立ち上げて資格試験の勉強をしていた。

 古谷ふるや家にしばしの間、静謐な時が流れていた。

 葵の口から不穏な声が響いたのは、ちょうどそんなシチュエーションだった。

 リビングとキッチンを隔てるドアを開けて顔を見るまでもなく、葵が怒っていることは明白で。しかし蓮には妻を怒らせる心当たりはまったく……


――まさか、バレたか?


 心当たりはあった。

 蓮は葵に内緒で彼女の親友である『小岩井 愛華』と何度か会っている。

 目的は蓮たちを強引に結婚させた犯人捜しであり、別に後ろめたいことをしているわけではない。

 ただ――犯人捜しをする心づもりがない葵には、結論を確定させてから話そうと思っていたから……まぁ、愛華との共闘関係を含めて黙っていた。

 自分に内緒で夫が親友と会っていると知らされれば、いくら葵が鷹揚な人格――でもないような気がしなくもないが、最愛の妻であることに間違いはなくて――であろうとも、決していい感情を抱くことはないだろう。

 ここで観念してありのままの事実を伝えるべきか否か……結論が出ずに立ち尽くしていた蓮に再びドアの向こうから怨嗟交じりの声が飛ぶ。

 待たせるほどに状況が悪化すると察した蓮は、考えを纏めることなくドアを開けた。

 

 葵が、妻が仁王立ちしていた。


 薄手のブラウスにジーンズというラフな格好は、引き締まったスタイルと長い脚を強調していて素敵だったが、残念なことに首から上の表情が怖かった。

 目の錯覚かもしれないが、後ろにどこぞの有名な仏師がこしらえた仏像が見えた。

 きっと仕事のしすぎだろう。蓮は咄嗟に現実から逃避した。

 もちろん逃げられるはずもなかった。最初からわかっていたことだった。


「蓮……これは何だ?」


 唸る葵の手に握られているものを目にして『これはマズい』と悟った。

 油断していた。

 否、すべては仕事が悪い。

 働かなければ飯が食えないとは言え、ここ数日は酷かった。

 窓口対応が、積み上がる書類が、唐突に飛び込んでくる案件が。

 あれやこれやで疲れていたから、片付けるのを忘れていたのだ。億劫だったのだ。

 ……などと葵に口上を捧げれば、火に油を注ぐことは明白であった。

 さりとて開き直ることも妙手とは言えない。


「いや、それは、その……」


「なぁ、蓮。私は蓮と結婚できたことを後悔なんてしていない。いや、蓮と結婚できたことを感謝すらしている。それはわかってくれるな?」


 口ごもる蓮の身体を撫でまわすような声だった。

 あるいは猫がネズミをいたぶるような。

 愛する妻がこんな声を出すことができる事実に驚きを覚える。

 声には出さなかったが、これはこれで変な趣味に目覚めそう。

 ……ではなくて、蓮は釈明の必要性を理解した。言うべきことは言っておかねばならない。


「いや、それはちょっと違うと思うな。ハッキリ言って僕の方が葵さんよりもずっと感謝してる自信があるよ」


「そういう嬉しいことを言っても、ごまかそうとしているとハッキリわかってしまうほど、私たちは夫婦になったな。うんうん」


 怒りながら笑う。

『感情表現が豊かになったなぁ』と心の中で呟いた。

 ついでに狙いもしっかり見透かされたと気づかされて、冷や汗が背筋を伝った。


「でも……それとこれとは話が違う。たとえ結婚できて幸せでも、私たちは酒で失敗した。そこを履き違えてはならないと思うのだが……蓮、どう思う?」


 葵の手に握られていたのは――ビールの缶だった。





古谷 蓮ふるや れん』と『新堂 葵しんどう あおい』の結婚は、高校三年生の同窓会で泥酔している間に誰かの手によって成立させられてしまったものだ。

 紆余曲折を経てふたりは手に手を取って幸せな未来に向かって歩み始めることができているわけだが……それはそれとして、意識を失うほどに酒を飲んだという事実に対する後悔はあった。

 要反省。

 だから、結婚して以来、蓮と葵は酒を口にしていない――ことになっていた。

 ふたりで買い物に行く時でも、酒類コーナーはいつもスルーしていた。

 しかして今、蓮の家の冷蔵庫の中にあってはならないビールの缶を見つけて、葵は激怒した。そういう状況だった。

 

「いや、それはですね葵さん。その、最近暑くなってきたと思わない?」


「そうだな。暑いな」


「そう。そうなんだよ。暑いんだ。地球温暖化は年々ひどくなっていて、それで……だから、仕事から帰ってきたら、この……それ、最高なんだ」


 こそあど言葉が多すぎる。

 蓮は心の中で自分の答弁に赤を入れた。

 控えめに言っても真っ赤っ赤で、もう一度最初からやり直したくなる。

 案の定、葵の怒りは収まってなどくれない。


「蓮、何が言いたいんだ? いや、言わなくてもわかる。気持ちはわかるぞ、蓮」


「でしょ、でしょ?」


「で、これ……いつから飲んでいたのだ? 初めてではなさそうだ。いや、どうだろうな? 今日まで私はまったく気が付かなかったのだが」


――そっちか。


 蓮は己の失態を悟った。

 いや、今の今まで勘違いしていた。

 葵が怒りを覚えているのは、単純に酒を口にしていたからというだけではなかった。


「……」


「今までにも飲んでいたのなら、もっと早く発見できていたはずなのだが……どうして今日の今日まで私の目に入らなかったのだろうなぁ、これ」


 隠していたからである。

 その事実を自分に伝えていなかったことこそが、彼女の勘気に触れているのだ。

 もう少し早く気づいていればなぁ。

 今さら嘆いても、もう遅かった。


 日曜日に葵を駅まで送って、その帰りにビールを買う。

 一週間の平日な夜に飲む。以前は金曜日の夜までに飲み切って、土曜日に葵を迎えるまでに空き缶を隠すルーティーンだった。

 だから……つい先日、金曜日に姿を現した葵の姿に心底慄かされた。

 偶然木曜日に飲みほしていなければ、あの日のうちにバレていた。

 以来、木曜の夜までに飲むようにしている。

 一週間の仕事を終えて帰宅して口にする金曜の夜ビールは最高に美味いのだが……葵にバレるリスクとは比較できない。

 そのせせこましい努力が、今日を持って水泡に帰した。


「葵さん……これだけは信じてほしいんだけど」


「蓮?」


「外では……外では一滴も飲んでないから!」


「蓮!」


 葵がキレた。

『そういえば、結婚して初めてキレたなぁ、葵さん』

 怒髪天を衝く妻を前に、蓮は肩を竦めてため息をついた。

 勝手に婚姻届を提出されていたことが発覚した時よりも、葵は本気で怒っていた。

 

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